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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
22/38

4章 それぞれの修行 (4/8)

   3

 ゆうべ一晩中激しく屋根を叩いていた雨は朝には止んだが、どんよりとした空と凍えるほどの冷たい空気を残して行った。

「嫌じゃ!ワシはここで修行する!」

 ‥‥善鬼ちゃんが、叫ぶ。

 昨日の伊藤さんの呟きは本気だった。

 朝一番で伊藤さんは善鬼ちゃんと僕を居間に呼び、善鬼ちゃんに武者修行に出ることを命じた。起きたばかりの善鬼ちゃんには、まさに寝耳に水だったろう。――伊藤さんの命令でもこればかりは、と血相を変えている。それはそうだろう‥‥。

「駄目よ善鬼。‥‥私もね、15の時に家を出てるのよ」

 僕はそれを知っている。伊藤さんは父の自斎様を15で倒し、一刀流を自分のものとしてそのまま武者修行の旅に出ている。その時に真っ先に向かったのが、よりにもよって鹿島の地だった。拳術最古の地にして天下無双と名高い最強の拳豪のいる土地へと、単身乗り込んだ――。

 その伊藤さんに武者修行は必要だと言われれば――返す言葉などあるはずもない。

 でも‥‥。

「でも‥‥」

 と、善鬼ちゃんは僕と同じ気持ちを口にする。

「――善鬼。あなたどうしてここに居るの?どうして私の弟子になったの?」

「‥‥知らん」

「知らんじゃないでしょう。強くなりたいからでしょ?」

「そう‥‥、じゃからお師さんに鍛えてもろうて‥‥」

「ダメよ善鬼。本当に強くなりたいならここを出なさい。あなたに基本はもう十分よ。――奥義は私でも伝えられない。あとは自得しなさい。――拳は教わるものじゃない。殺しなさい善鬼。拳は使って覚えるものよ」

「‥‥お師さん‥‥」

「そう、なるべく一杯倒してきなさい。百でも二百でも」

「そうしたらワシは強くなれるのか?」

「なれるわ」

「‥‥強くなったら、また、‥‥その、お師‥‥。――ここに、居てもいいのか?」

「そうね」

 いつもの優しい微笑みの中にある、いつになく真剣な伊藤さんの瞳の光。今にも本当に泣き出しそうだった善鬼ちゃんも真面目に話を聞いている。

 ――でも、僕はこんなことを‥‥言われたことはない。拳は教わるものじゃない‥‥。そんなの、天才の理屈だ。天才が天才に教える時にだけ許される言葉だ。所詮僕ごときには及ばない世界ということなのか‥‥。僕だって、僕だって曲がりなりにも‥‥‥‥。

「典膳」

「あ、え、はい」

「典膳、次の御前仕合っていつだったかしら」

「あ‥‥それは、来年の二月に」

「そう。――じゃあ善鬼。その時に会いましょう。来年の二月、ここに帰っておいでなさい。

 神槍白塔の前にて落ち合いましょう」

「来年二月‥‥。一年以上も‥‥」

「たった一年よ。いいこと善鬼。励みなさい。楽しみにしてるわよ」

 伊藤さんは、笑顔を見せた。それは善鬼ちゃんの大好きな、優しい笑顔だった。


「‥‥典膳‥‥。ワシはお師さんに嫌われたんじゃろか。ワシが弱いから見捨てられたんじゃろか‥‥」

「まさか‥‥。伊藤さんの言葉の通りさ。基本は身についた。後は‥‥君なら‥‥‥‥」

「うん‥‥」

 かける言葉が見つからなかった。

 ――急なことだった。級友らも――沙鈴にすら声を掛けていないらしく、誰も見送りには来ていない。でも拳士である彼女にそんなものは必要ないのかもしれない、が‥‥。

「典膳‥‥」

「‥‥なんだ、善鬼ちゃん」

「‥‥なんでもない」

 元々が身ひとつで歩いてきた善鬼ちゃんだ。旅立ちにも準備は何も要らなかった。朝食を食べるとすぐに旅立つことになった。

 僕一人を見送りに付け、とぼとぼと歩く。どんよりと曇った空はまだ湿気を残していたらしい。二人で歩くにつれ、雪は舞い散り続ける。今年の初雪だ。普段より早い冬の到来だった。

 善鬼ちゃんにとってあまりにも急だったように、僕にとっても突然のお別れだ。寂しくないわけは、無い。

 ‥‥でも僕は少しだけうらやましいと思っていた。獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすのはその強さを信じるが故だから。僕には‥‥弟子とすら認めてもらえない僕には、とても‥‥。

「典膳‥‥」

「‥‥なんだ、善鬼ちゃん」

「今度会う時までに、寝小便は治しておけよ」

「‥‥したことねえよ」

「3歳の時にもか?」

「いや‥‥そのころはしてたと思うけど」

「典膳‥‥」

「なんだ、善鬼ちゃん」

「次に会う時には‥‥ワシは、もっと強くなっておくから」

「‥‥うん」

「お師さんの一刀流にかけて‥‥もっと強くなってくる」

「‥‥うん。

 ――善鬼ちゃん。今後はただの善鬼とかじゃなく、小野善鬼と名乗るといい」

「‥‥小野?」

「神子上典膳になる前、僕は小野典膳だった。

 小野を、君にあげるよ。もう、君は一刀流だ。一刀流小野善鬼だ」

「――小野、善鬼‥‥。小野善鬼。小野善鬼‥‥。

 ‥‥嫌いでは、ない」

 寒さにほほを赤らめ、善鬼ちゃんが笑う。

「悪くないな!――ワシは小野善鬼じゃ!」

 僕にそう言って、善鬼ちゃんは橋を渡って行く。街を出るための橋を渡って歩いて行く。神槍白塔に背を向け、一人で旅立って行く‥‥。

 一年後まで‥‥か。

 いよいよ本格的に降り積もり始めた雪が、僕の町から色を奪っていた。


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