1章 迷い込んだケモノ 1/3
彼女との‥‥善鬼ちゃんとの出会いの日。最初に僕の目へと飛び込んできたのは、残念ながらおっさんだった。
その日、僕が道場に顔を出した時にはその事件はもう始まっていた。そこは西洋造で総板張りの、モダンな一刀流拳術部道場。‥‥二つある僕の道場の二つ目の方だ。
終わりに近づいた秋に、学舎の中庭もすっかり落ち葉に覆い尽くされている。いつものように学部での授業を終えた僕は、ゆっくりと道場へと向かった。枯葉を踏みしめて乾いた音を立てながら道場へと歩く。‥‥あの人は、今日は来てないかな。久しぶりに顔を出してくれるような気がするんだけど‥‥。そんなことを考えてるうちに道場へと着く。
――なぜか全ての戸板が閉まっている。たしかにもうそろそろ空気も冷たいとは言え、武道場にそんなことは関係ない。雨の日以外は入り口も武者窓も開放させている。そこが全て閉まっているということは‥‥まさか道場破りだろうか。こちらは道場と言っても学部道場だ。ほとんどの道場生は学生で、武者修行の者がここに来ることは少ない。
「‥‥‥‥」
中からはいつもの稽古の声音すら聞こえてこない。疑問に思いながら戸を開けた僕の目の前に、だ。ここでおっさんが飛び込んでくる。
まさに面食らったという状況だが、とっさに両手を広げてはっしと抱きとめる。
「‥‥おい古藤田!」
「う‥‥」
気絶はしていない。が、鳩尾に打撃を喰らったらしく、呼吸困難に陥っている。古藤田を入り口の脇に横たえながら僕は、油断なく道場の中を見回す。
「みっ、神子上先輩!」
「神子上先生!!」
不安そうな顔で道場生達が口々に僕の名前を呼ぶ。
古藤田相手に意識を失わせるなんてことはこの道場で僕以外にはあの人しか出来ない事だ。出来ない事だが、みんなの様子からもこれは道場破りの仕業だと丸分かりだった。
――だが、その道場破りらしい男はどこにも‥‥、どこにも見当たらない。
‥‥まさか、こいつか?!
道場の中央に仁王立ちしている、見たことのない細く小柄な少女。ブレザーの上にマフラーを巻いたその姿。まさかと思いながらその子を見る僕の視線に、道場の左右に広がり立っている道場生達がうんうん、と必死にうなづく。
‥‥そうか、こいつか。
僕の視線を受け、その道場破りはヘの字口の仏頂面のまま僕を睨み返している。
「誰じゃ、ヌシは」
「‥‥それはこっちのセリフだ。
一刀流拳術部に乗り込んで、まさか古藤田も倒すとはね。‥‥彼はここの師範代だ」
「ふん、弱いやつに興味なぞ持たんわ」
その生意気極まりない目つきにぴったりな不遜な態度。
‥‥いいだろう。
「小田原無双、神子上典膳!
道場破り、ここは僕の道場だ。相手になってやるっ!」
道場破りに向かい、僕は一ツ勝の構えを取る。相手の出方に対し合わせ技を出す、一刀流拳術の基本ともなる構え。
こんな小柄な女拳士が強いわけが、とは思わない。仮にも師範代が倒されたんだ。油断なんて見せてやるもんか。
「‥‥‥‥?」
そう油断なく構えた僕の前で道場破りはまだ、ただ突っ立っていた。うれしそうに笑って突っ立っていた。
「‥‥構えろよ、道場破り」
「うれしくての。ヌシはなかなか強そうじゃ。
せっかく道場を見つけたのに弱いやつばかりでどうしようかと思うとったわ」
「‥‥‥‥お前‥‥」
舐めやがって‥‥。この僕を、一刀流を。
「どうした?始まっとるんじゃないのか?」
「何を‥‥っ!」
ダンッ!!と、床を踏み抜こうとしたような蹴音を立て、道場破りが突っ込んできた。床を蹴り込んだ右足をそのまま僕に投げ出してくる。かわせない、流せない、かろうじて防ぐ。受けた左腕がガンと自分の顔に当たる。たった一発が受けきれない。肘がきしむ。蹴り足をドンと床に踏みつけたかと思うと、道場破りの両拳が真正面から降り注ぐ。横殴りの豪雨だ。六段、七段、いや八連打だった。
‥‥殴りながら、うれしそうに笑っていた。
連撃の後にヤツは、後ろ蹴りのようなものを放つ。大振りな、彼女の攻撃の中では比較的隙の見えたその蹴りだけはなんとか流すことが出来た‥‥が、反撃する隙は無く間合いを取るので精いっぱいだった。
――見えなかった。僕にはヤツの両手がほとんど見えていなかった。ただ十数年の稽古が僕を守ってくれただけだった。油断してない、だと?僕は何を思い上がっていたんだ。
離れた場所に立つ道場破り。その後ろ向きの背中を、僕はあらためて目にした。小柄な‥‥ほんの150センチ前後の身長。その背丈に見合った細身の体躯。拳に至っては僕でも握りつぶせそうなほどに小さい。‥‥ヤツの、やはり小さな背中に目が吸い寄せられる。
短い髪を、体の前にたらしたマフラーをくるりと廻して、道場破りは僕に向き直った。‥‥そうだ、この少女は間違いなく――強者だ。
あらためて僕をねめつけた道場破りは――構えては、いなかった。
構えていない、わけじゃない。でも‥‥こんなのは拳術の構えじゃない‥‥。
「‥‥‥‥」
自然体に、やや前傾姿勢で両手をゆったりさせたその構えは――あえて言うなら猫のものだった。猫科動物が見せる、あの飛び掛る前の姿勢だ。ただ獲物に飛び掛る、獲物を逃がさない‥‥獲物からの反撃など毛ほども考えていない、そんな狩人の構え。
見たことも無い。これまで読んだ無数の技術書でも見たことさえ無い。そりゃあそうだ、こんなもの構えでも何でもない。ただの野性動物だ‥‥。