3章 小春日和 (6/6)
4
善鬼ちゃんも追い出され、伊藤さんと二人になった部屋。僕は椅子の破片を手に、どう直したものかと考えていた。
「‥‥典膳」
伊藤さんはいつものように体の前で腕を重ね、窓の外を眺めている。
「私ね、あの子にあんなキラキラした目で見られたくないの」
「‥‥どうしてです、あんなにかわいがってたじゃないですか」
「‥‥そうね‥‥。でもあの子、なんであそこまで懐くのかしら。程ほどでいいのに」
「‥‥優しさに、餓えてるんでしょうかね」
僕は手を止め、伊藤さんの背に目をやる。
「私は優しくないわ」
「そんなことは無いですよ。だって彼女のことを認めてあげたじゃないですか」
「‥‥‥私は、強さに嘘を吐けないだけ。――それを優しさと言われたら‥‥たまらないわ」
寂しそうにそう言って、伊藤さんはそれきり何も言わなかった。
それから間もなく、夕飯の用意も整い隣の部屋へと移動したが、善鬼ちゃんの姿は見えないままだった。
‥‥まぁそんな自由奔放な事自体はいつものことだけど‥‥。
天井を見上げて屋根の上を気にする僕に伊藤さんは「お腹が空けば降りてくるからほっておきなさい」と言う。
‥‥そうは言うものの‥‥さすがに気になる。
伊藤さんと二人、食事を済ませてもなお善鬼ちゃんの姿は見えない。何を拗ねているんだ。
しをりさんにはしごの場所を聞き、僕は二階の窓から屋根へと登った。今日は雲ひとつない夜空で月光が屋根を明るく照らしていた。ビュウと音を立て、風が吹いている。‥‥もう、耳が冷たい。あいつはいつもこんな所をひょいひょい登ってるのか。‥‥危ないなぁ。
きょろきょろと見回せば探すまでもなく彼女の姿が目に入る。足元に気をつけながら、ガシャガシャと音を立てて僕は善鬼ちゃんの元へと歩いていった。――善鬼ちゃんは屋根の端に膝を抱えてうずくまるように座っている。僕の方を見ることなく、じっと街を見つめている。
彼女の視線を追い、街の方を見やるとちらほらと灯りが見える。空の真上には昇りきった青い月明かり、地上には黄色い町灯り。
「たしかに見晴らしはいいけど‥‥寒くないのか?」
「‥‥‥‥。寒いに決まっとろう」
「寒い思いしてまで‥‥。なんで屋根がお気に入りなんだ?」
「ここがこの家で一番高い場所じゃからに決まっとろう。ちょっとぐらい寒くてもへいちゃらじゃわ」
‥‥ここで「やっぱりお前猿だろ」とか言おうモンならまた暴れて瓦割るんだろうな。
恐る恐る屋根の端から下を覗き込んでみた。二階の廊下の窓――いつも伊藤さんがいる窓が見える。伊藤さんの姿は見えない。
「おお‥‥こりゃ高いなぁ‥‥。自分ちなのにこんな所に来るなんて‥‥。なんか新鮮だな」
「‥‥ここはワシの場所じゃ。出てけ」
「いや‥‥今言っただろ、ここ僕んちだって」
「知らん、出てけ。ワシの場所じゃ」
「‥‥‥‥」
むっつりとした善鬼ちゃんの横に腰を下ろす。街に向かって並んで座ってみた。‥‥瓦が冷たい。当然なんだけど。体温が移るまでガマンだな、こりゃ。――それにしても、もういい時間なのにまだ起きてる人もいるんだなぁ。――街明かりを眺めながらそんなことを考える。
はたはたと風になびく善鬼ちゃんのマフラーが目の端に入る。‥‥僕も襟巻きを持ってくればよかったか。
特に何を言うでもなく、何をするでもなく。しばらく黙って座っていると、善鬼ちゃんがぽつりと話し始めた――。
「‥‥‥‥いよいよお師さんに嫌われたのかのう‥‥」
思った以上に堪えてるようだ。
「ワシは‥‥もっとお師さんと一緒に遊びたいのに」
「遊ぶだけかよ」
「‥‥稽古は付けてくれんではないか‥‥」
「まぁ‥‥伊藤さんは元々そーゆう人だから。僕なんて今まで一度も見てもらったことないんだよ?」
「ヌシのことなど知らんわ」
「ぐ‥‥」
「ヌシのことなど知ったことではないわ」
「‥‥なんで言い直した。しかも同じだろ」
まったくコイツは‥‥。でもいつもの元気が出てきたみたいだ。
「もっと強くならんと‥‥。こんなでは、お師さんは誉めてくれんわ」
もう十分に強いだろうに。伊藤さんだってそれは間違いなく認めているはずだ。‥‥さっき伊藤さんが話していた事だって間違いなくその現れだろう。
「‥‥伊藤さんの姿を見て、あこがれて、追いかける。――弟子と師匠なんだから、それでいいじゃないか」
「典膳‥‥」
「僕にしてみたら贅沢な話だ。――君は僕よりもずっと強くて、伊藤さんに認められて。‥‥正直羨ましい」
「ヌシがワシをか。羨ましいと言うのか」
「意外か?」
「意外じゃ」
「だって、君はあの伊藤一刀斎のたった一人の直弟子なんだよ?」
「いや、そうではなかろ。――ヌシがおる。ヌシこそ紛うことなきお師の一番弟子じゃ」
「‥‥‥そう言ってくれるんだ」
「ヌシが弟子じゃなければ誰も弟子にはなれんわ。ワシがお師さんに何か言うにつれ、いつもいつも典膳に聞きなさいって言われる程じゃしの」
「‥‥それはもしかして、伊藤さんめんどくさがってるだけなんじゃ‥‥
げふっ!!」
喉に手刀だ。
「お師さんをバカにしとるのか!」
「おま‥‥やり、すぎ‥‥」
「それにしても、まさかヌシに慰められようとはな」
善鬼ちゃんがうれしそうに笑う。僕も、喉をさすりながら笑う。
「そう思うなら虫とか言わないでくれよ」
「クワガタ虫に格上げしてやるわ」
「はは。なんだそれ」
「じゃあ、次はヌシの番じゃな。典膳」
「‥‥何がだよ?」
「ヌシも最近、時折表情が蔭るではないか」
「そうか?――そうだな。善鬼ちゃんに隠し事は出来ないよな」
「話してみい」
えらそうに言う善鬼ちゃんがおかしくもあったけど、笑うべき場面ではないとも思った。
「‥‥まぁ、なんてことない悩みさ。――僕は、僕には一刀流しかない。拳術しか知らない。これだけは、誰にも負けたくない」
「うむ」
「伊藤さんはいいんだ。あの人は‥‥僕の、目標だから。一刀流宗家だから‥‥。
――でも、君は」
「うむ」
「君は、強い。僕では手も足も出なかった。しかも‥‥どんどん強くなる。――とても僕では君を超えられるとは、思えない‥‥。天下無双には、僕は成れない。それなら何を目指せばいいか‥‥。僕には解からなくなった」
「うむ‥‥」
「ま、本当にそんな‥‥よくある悩みだよ」
‥‥そうだ。本当によくある、ごくごく一握りの天才以外の、何十万何百万という全ての拳士が持つ悩みだ。
背中からの風を受けながら、善鬼ちゃんはうぬぬと唸っている。別に僕は答えが欲しいわけじゃなかった。ただ、彼女に‥‥少し甘えてみたくなっただけだ。泣き言を言ってみたくなっただけだ。
善鬼ちゃんは安っぽく「なんとかなるぞ」とは言わない。そんなことは言って欲しくないし、彼女はそれほど僕を軽んじてないはずだ。だから、僕は‥‥。
「例えば、じゃ」
善鬼ちゃんが口を開く。
「ワシが思うに、ヌシは拳術というよりは一刀流が大好きなんじゃろう。でなきゃ道場ふたつ分も弟子の面倒を見んわな」
‥‥流石、拳術のこととなるとよく見ている。
「‥‥そうかもしれない」
「なら、一刀流のために生きればよかろう。――そう、例えば、じゃ。アメリカ国へ渡るのはどうじゃな」
「‥‥アメリカ国?」
善鬼ちゃんからそんな提案。さすがに驚いた。
「部道場の道場生に聞いた話じゃがの。南蛮人はやたらと拳術を習いたがっとるそうじゃ。とくにアメリカ国という新しい国の連中はそうらしい」
「僕も聞いたことはある」
「じゃから、あっちの国へ行って一刀流を広めるんじゃ」
‥‥‥‥あまりに、大胆な。
いや、そうでもない。事実武術師範として南蛮の国々に渡る拳士は少なくない。
異国では色々な技術文化が発展している。この日ノ本はそれら全てにおいて遅れていると言ってもいい。徒手空拳の強さこそに重きを置き、拳術を発展させ、気が付けば他の事での発展が滞っていたらしい。――逆に、異国の――ことに南蛮では武術の錬度が僕らから見ればあまりにも稚拙なため、武術大国日ノ本への憧れは並々のものではないという。だからって‥‥海のはるか向こうの異国に。誰にでも出来ることではないし、僕が異国へ移住などと‥‥考えられないことのはずなのに、そう、無茶な話のはずなのに。
「のう」
僕が目を上げると、どうだと笑う善鬼ちゃんの瞳に捕らえられる。
「これも聞いた話じゃがの。南蛮の文化、道具、衣服とかいろいろもろうて、その代わりに日ノ本からは拳術師範が渡っとるらしいわ。ぼうえきと言う。ワシもよく勉強したもんじゃの。
‥‥典膳、ヌシなら行けるじゃろう。ヌシなら南蛮人をなぎ倒し、尊敬される師範になれよう」
「‥‥なんでだよ。僕は伊藤さんどころか君にも軽くあしらわれる程度で‥‥」
「ヌシごときをお師さんと並べるなっ!!」
「へいへい‥‥」
「へいは一回!」
「‥‥‥‥」
「そもそもの、典膳。ヌシはお師でもなければワシでもない。ワシの持っとる技はワシは誰にも教えられん。教え方すらわからん。だが典膳、ヌシなら絶対に大丈夫じゃ。例え相手が言葉も通じん紅毛の南蛮人が相手でも、のう」
いつもはアホだと思ってた善鬼ちゃんだけど。やっぱり本当に拳術が好きなんだ。目を輝かせて話している。道場生に聞いた話からぼんやり想像していた事が、僕に当てはめてみたらしっくり来た、という様子らしい。
「南蛮人は皆デカいでな。技は無くとも強いらしいぞ!――そやつらに一刀流を叩き込むとなれば――さぞかし面白いことじゃろうの」
「確かに。想像するとそれは面白そうだな。――善鬼ちゃんは、興味ないのか?アメリカ国は」
「ワシか?‥‥ワシは行かん。ワシはここでお師に鍛えてもらう。天下無双の拳豪を目指す」
「‥‥だよね」
「‥‥‥‥。
でも、お師さんがいいって言うなら‥‥一緒に付いてってやらんでも、ない」
胸がドキリと鳴った。
思わず隣の少女に目をやる。
抱えた膝に乗せたあごはマフラーで隠れている。俯いた前髪で目元も隠れている。表情はわからない。
「‥‥善鬼ちゃん?」
「ウソじゃ、アホ上典膳」
「ウソか」
「当たり前じゃ、ウソじゃ‥‥。誰がヌシなんかと‥‥」
小さくなる声。北風にかき消されるような小さな呟き。僕らを照らす月明かりにも負けないように星は光り、頭上を覆っている。
「アホ典膳‥‥」
彼女はもう一度呟き、丸まった猫が自分の体に顔をうずめるように、マフラーに顔を隠してしまう。
「‥‥なぁ。聞いてもいいか」
「‥‥なんじゃ」
「そのマフラーだよ。いつもつけてるマフラー」
「‥‥これか」
「ああ、それにその学生服。最初に会った時からそれしか着てないだろう。それに、何か大事そうだ」
「‥‥なんでもないと言うたろうに‥‥」
「教えたくなければ無理にはいいけど」
「‥‥ズルい言い方じゃ」
善鬼ちゃんはちょっと怒ったようにぷいっと前を向く。
「‥‥‥‥そうじゃの。ワシがまだ小さかったころじゃ。――ヌシ、今でもまだ小さいじゃんとか思うたか?」
「いや思ってないから。‥‥茶化さないから、話せよ」
「むう‥‥。――これはの。そう、友達にもろうたんじゃ。ワシのうちの隣におった兄ちゃんの話じゃ。兄ちゃんは村一番の拳術使いでの。‥‥と言うてもしょせん自己流じゃが」
「うん」
「――その兄ちゃんが、ある日拳士になる言うて村を出て行きおった。――じゃが‥‥三年後、夢破れて、ぼろぼろになっての。村へと戻ってきた」
「‥‥そうか‥‥」
「それでの。ワシに夢を継いで欲しいと言ってこれを託してきたんじゃ。
――うん。‥‥どうじゃ、泣けるじゃろ」
「そうだな‥‥」
「それでワシはこんなにがんばっとるんぞ。どうじゃ、泣いていいぞ?」
「いや、まぁいい話だけど泣くほどじゃ‥‥、‥‥あれ?いや、待てって‥‥。あれ?そのマフラーはそれでいいけど‥‥。ブレザーは?」
「お」
「マフラーと一緒にブレザーも貰ったんじゃないのか?」
「そういやそーゆう設定じゃったの」
「ちょ、設定‥‥!おい!」
「あはははは。今話したのは全部思いつきの出任せじゃ」
「いや、おい!!」
「あははは。それっぽかったろ?いい話っぽかったろ?‥‥ワシもやるもんじゃわ。あはははは」
「やるもんじゃねえよ!‥‥なんだよ、真面目に聞いて損した!女子のブレザー着て武者修行かよその兄ちゃん!どこがいい話だよ。村の恥部だよ。道場に来て欲しくない道場破り堂々一位だよそんなヤツ‥‥」
「まぁ、別にそんな盛り上がる話でもなんでもないでな。本当にただ身内にもろうただけじゃ。気に入っとるから着とるだけじゃて」
「ほんとかよ‥‥」
「ああ。まぁ、いい人じゃった。ワシとは歩く道も行く先も違うで、二度とは会えんがの。
――ま、ヌシにはいずれ話してやろうかの」
「もういいよ‥‥」
「ホントか?」
「‥‥‥‥。いや、聞きたい」
「聞きたいか?」
「聞きたい」
「‥‥うん。――また、いずれの」
マフラーに顔をうずめたまま、善鬼ちゃんは僕を見てうれしそうに眼を細める。
‥‥そして、風の音に負ける程の小声でこう言い足す。
「ヌシには‥‥ぜんきと呼んで欲しい」
「‥‥え?」
「なんでも無いわ」
「善鬼って呼べって言ったか?‥‥そう呼んでるじゃないか」
「言っとらんわアホ膳」
「じゃあ何って言ったんだ?」
「‥‥何も言っとらんわ」
結局、何も教えてはくれないのか。
なんだか急にそんなやり取りがおかしくて‥‥。僕らは二人してくすくすと笑った。
「おい、あんまくっつくなよ。押されて落っこちたらどうしてくれるんだよ。君みたいなサ‥‥いや、うん」
「‥‥ヌシ、今サルって言おうとしたな?
そもそもヌシがくっついて来てるんじゃろうが。この寒がりめ」
「いや実際寒いけどさ。ていうか、そろそろ中に入ろうぜ。すっかり話し込んで、マジで風邪ひきかねない」
「そんなこと言うて、ワシと一緒に風呂入ろうとか考えとるんじゃろうが」
「‥‥入ってくれるなら」
「ヌシは虫か。テンゼンキモムシか。新種か。南蛮人に調査されろ」
「お前こそさっそく虫とか言ってんじゃねえよ」
「おっと。‥‥いや、これはワシにそう言わせたヌシの責任じゃな。間違いない」
「‥‥さすがに無理がある言い訳だろ、それは」
「あはははは」
善鬼ちゃんが変わったのは戦い方やその強さだけじゃない。‥‥この笑顔。何よりもそれが一番の変化だと、僕は思う。二人の笑い声は冬の夜空によく響く。雲ひとつかかっていない三日月は、僕らを明るく暖かく照らしていた――。
‥‥でも、善鬼ちゃんのマフラーをなびかせる風は冷たくて、僕らの吐く息は白くて‥‥。それは本格的な冬の到来を告げていた。