3章 小春日和 (5/6)
その日の稽古を終えた夜。自宅へと戻った僕は静かに二階へと上がる。いつも伊藤さんがくつろぐ二階廊下の長椅子。やはり伊藤さんはそこにいた。気だるげに椅子へと寄りかかり、緩やかな空気をかもし出している。
「‥‥‥‥」
窓から差し込む水色の星明かり。蒼く浮かぶ長く艶やかな黒髪の後ろ姿。今夜の風はとても静かで、その美しい髪を乱すこともなく、そっと伊藤さんを包んでいた。
「――何、典膳」
「あっ!い、え、‥‥なんでもないです」
「何も無い割にはずっと見てたじゃない」
「‥‥‥‥」
やはり見透かされていた。伊藤さんの背中にそう言われると恥ずかしくて、みっともなくて僕は返事すら出来ないままだった。そんな僕に伊藤さんは椅子にもたれかかったままで体をこちらに向ける。――窓からの明かりは本当にほのかで、こちらを向いても表情はわからないままだ。
「ぼーっと見てちゃ駄目よ、典膳」
「‥‥はぁ」
何を、間の抜けた声を出してるんだ僕は。
「善鬼ならきっと私の隙を窺ってたはずよ」
「‥‥まさか。そんな事しませんよ、彼女は」
「あるいは弱点を探していたでしょうね」
何を言い出すんだ伊藤さんは、突然。‥‥そんな訳は無い。
「そんな訳は無いですよ、伊藤さん」
思った通りのことを口にした。
「善鬼ちゃんは本当に伊藤さんのことを‥‥」
僕は少し考え、言葉を選ぶ。
「‥‥尊敬してるんですから。僕よりもっと、‥‥憧れの目で見てますよ」
最後の言葉も、僕は乏しい語彙から選び出すようにして口に出した。
伊藤さんが長椅子から身を起こす。
「それは当たり前じゃない」
「‥‥」
伊藤さんは廊下の向かい、洋間へと入っていく。僕は黙って後に付き従う。
「あの子は私に憧れの目を向けると同時に隙を窺っているわ」
「‥‥そうですか‥‥?」
ギシリと、洋間の壁際に置かれた買ったばかりの椅子へと身を預けた。
灯りの入っていない暗い部屋。黒ずくめの伊藤さんの姿は闇へと溶け込む。窓から差し込む月明かりがその端整な輪郭だけを浮かび上がらせている。
「あの子は‥‥善鬼は、強くなる為に生まれてきた一人よ。他のことなんて何もしない、出来ない。私に巡り合うまでは一度も敗北なんてしてないでしょうね。私だけがあの子に勝った。それならあの子は確実に、私を倒せる腕を、戦術を身につけるでしょう。当然の話だわ。
‥‥もちろん、実際に其れを――実行に移すかどうかは別の問題だけれど」
暗闇の中、ふいっと伊藤さんは窓の外を――月を見上げるように外を見やる。整った鼻筋が月光に照らされる。
「あなたも強くなりたいなら一時たりとも無駄にしないことね。勝てない相手ならば観察し、そして壊し倒せる目を見つけなければいけないわ」
「はい」
伊藤さんの言う通りだ。僕は強くなりたかったんじゃないのか?誰よりも強くなりたかったはずなんだ。一刀流を最強の拳術として世に知らしめる。その為には‥‥そう、その為には一刀流宗家にすら勝つつもりでいた。
でも‥‥今の僕は‥‥。伊藤さんは元より善鬼ちゃんにも‥‥。
「ふふ‥‥。そうは言っても――。強くなければ意味がない‥‥ね」
彼女の空気が変わった気がした。
「そういえば私、この間あなたの前で話したわよね。勝てる相手に挑むのは意味がない。自分より強い相手に立ち向かうことが勇気だって」
どこかおどけた様子にすら思える口調。伊藤さんにしては珍しい。
「――ええ。いいお話だと思いました」
「‥‥でも、自分より強い相手が居ない人はどうすればいいのかしらね?」
「それは‥‥」
そんなことは考えたこともなかった。
「ま、答えは簡単なんだけど。強い人がいないなら鬼を探せばいいのよ。人より強い鬼ならば、倒せば誰でも勇者と呼ばれるでしょう」
「そりゃあ‥‥。でも、」
「鬼が居ないなら鬼を作ってしまえばいい」
――雲が晴れたらしい。窓からの月明かりがすっと部屋を明るくする。月光と共に吹き込んだ静かな風が、伊藤さんの髪をゆらした。
「作る、ですか?」
「そ。作るの」
「‥‥‥‥」
善鬼ちゃんじゃなくても、伊藤さんの言葉はその意味を図りかねる時がある。鬼を作る‥‥。
「方法はいくつもあるわよ」
僕の困惑を見てとって、伊藤さんは優しい声で続ける。
「そうね、例えば‥‥私が誰かに殺されたとするわ。――あなた、どうする?」
「え?!」
伊藤さんが‥‥誰かに。
「あなた、私のために鬼になってくれる?」
‥‥僕の師匠は頬を上げていたずらっぽく笑う。細めたその目に見つめられ、僕は自分が赤面していることに気がつく。
「‥‥からかわないで下さい」
「つまらない答えね」
伊藤さんはまたくすくすと笑った。
そこに、階段を駆け上がる音が聞こえてきた。まだ廊下の先の階段からなのに、この部屋でもはっきりとわかる音。
‥‥こんな足音を立てるのは、僕に恨みを持つチンピラが五,六人ぐらいで駆け込んで来る時ぐらいだろう。でも僕はそんな恨みを買うほど目立つことはしていない。となるとあとはあいつしかいない。
「お師さん!すごいぞこれ!」
「何よ善鬼、うるさいわねぇ」
早い。もう部屋まで飛び込んできた。しかも灯りを消しているというのに、どんな嗅覚だ。
「学舎でもろうた!お鈴にもろうた!シューっちゅうお菓子じゃ!」
そう言いながら、淡い黄色のふわふわした菓子をひとつ手に走ってくる。
「あら、シューなんてもらったの?珍しい」
「みっつ貰った!ふたつ食った!お師さんにひとつ‥‥」
そこでつまづき、ものの見事に倒れる善鬼ちゃん。
「あら」
「‥‥‥‥シュー‥‥」
倒れ込んだ彼女の下で菓子はつぶれ、中の白いあんこがべったりと胸についてしまっている。
「シューが‥‥お師さんのシュー‥‥」
「暗い部屋ではしゃぎすぎだ、バカ。――あと、3つもらっておいてなんで僕のが無いんだ」
「善鬼、泣かないの。‥‥典膳もいじめない」
ていうか善鬼ちゃんが本当に泣きそうになっている。そんなにおいしかったのか、それ。
「お師さんーー!」
「ちょ、何よ‥‥!」
善鬼ちゃんがいきなり飛び上がり、真正面から伊藤さんしがみつく。
何やってんだこいつは‥‥。
ていうかどこかで見たような‥‥。そうだ、山の中でだ。母親に必死にしがみつく小猿だよ。‥‥ってまた蹴られるな。じゃあアレだ、木の枝にしがみつくセミの幼虫とかどうだろう。
――いや、例えなんてどっちでもいい。どっちにしても伊藤さんが大変そうだ。
「ちょ、重たい‥‥」
「甘えすぎだろ、善鬼ちゃん」
「甘えとらんわ」
「それを甘えと呼ばずにどうするんだよ」
「甘えとらん。ワシは子供じゃないんぞ」
「わかったから、ちょっと、放しなさい‥‥。あと顔もこすりつけないの。もう、ホントに重たい」
「お師さーーん」
「‥‥降りなさいと言うのに‥‥この子ったら‥‥。――服も、これ、汚い‥‥!ちょっと!」
「‥‥‥‥」
「‥‥やだ何この子、とれないわ。――典膳、何見てるの。はがしてよコレ」
「えあ、は、はい」
善鬼ちゃんのあまりのアホっぷりに僕までアホみたいに口を開けて見てしまっていた。
「いや、ほら、離れろって」
とりあえず後ろからぐいぐいと引っ張ってみる。
「‥‥‥‥」
「何で黙ってんだコイツ。放せって」
「‥‥‥‥」
「怖いなおい、黙るなよ‥‥てか放せってば!」
「典膳‥‥はやく。重いわよ本当に」
「すいません、こう、指一本ずつ外そうとしてるんですけど‥‥」
「‥‥‥‥」
「何よ善鬼、何甘えてるの。いい子だから放しなさいってば。
‥‥やだ、何見てるのよ、しをり。見ないで頂戴」
後ろが明るい。善鬼ちゃんを羽交い絞めにしたまま廊下を振り返ると、ランプを手に提げた女中のしをりさんがあきれたようにこっちを見ていた。隣の部屋へと夕食を運んでいる途中らしい。
「善鬼さんにかかってはお二人も形無しですね」
笑いながらお盆とランプをテーブルに置く。
「伊藤様、こんな時はこうすれば簡単でございますよ」
そう言うと、両手の人差し指でガラ空きの善鬼ちゃんの両脇を突いた。
「おみひゃああ!!」
「何だその声‥‥暴れるなバカ!」
突然はがれた上に両手両足を振り回す善鬼ちゃん。
‥‥見事に、じゃない、無様に後ろに倒れ、そこにはもう一脚の椅子が‥‥。
ぐったりした拳士三人。バラバラの南蛮椅子。あきれる女中。‥‥なんだこの絵は。
「‥‥善鬼‥‥。あなたね、本当にいい加減にしなさい!あなたが居ると私は何もできないじゃないの」
「で、でも‥‥」
「でもじゃない!この椅子だって今日典膳に買ってもら‥‥、
今日買ったばかりなのよ?!」
「‥‥‥すまぬ」
声を荒げて説教する伊藤さん。何事にも我関せずな伊藤さんでも、さすがに堪忍袋の緒も切れたらしい。叱られる善鬼ちゃんは完全にしょげかえり、雨に打たれたむく犬さながらだ。
「‥‥伊藤さん、もうさすがに反省してるみたいだから‥‥」
「何よ典膳、この子をかばう気?この子は何度言ってもこれなのよ?」
「‥‥そうですね」
「部屋に居てもいちいちこの子の走る足音が聞こえてくるんだから!私が開けるまで戸を叩くんだから!これじゃあ本も読めないでしょう!」
「‥‥まったくです。後で僕からもきつく言っておきますから。‥‥椅子もなんとかします」
「‥‥‥‥はぁ‥‥」
伊藤さんは細い眉をひそめて、深く長いため息をついた。
「久しぶりに伊藤さんに優しくされたのがうれしくて、おかしくなってたんですよきっと。ほら、犬ってはしゃぎ過ぎるとウレションを‥‥」
「ウっ!!ウレっ‥‥!!何を抜かすか典膳!」
「‥‥はぁ‥‥。あなた達、本当に仲がいいのね」
「良くないぞ」
「良くないですって」
「とてもよろしいですよ」
壊れた椅子の破片を集めながら、しをりさんが笑う。
善鬼ちゃんにキっと睨まれ、しをりさんは退散退散と笑いながら部屋を出て行った。
‥‥良くないよな、僕ら。