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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
15/38

3章 小春日和 (3/6)

   2

 板張りの道場に、若い道場生の気合いがこだまする。授業も終わっての放課後の部道場だ。

 最初のうちはどうしてもおっかなびっくりで善鬼ちゃんに接していた部員達も、今ではすっかりと肩を並べている。朝と夜の我が家での道場稽古の時は僕が直接善鬼ちゃんの指導をしているが、学部道場では他の道場生と混ざって体を動かしている。

 ここに来るまでの善鬼ちゃんがどうだったのか、僕は何も知らない。どこで生まれ、どうやって育ち、どうしてあんなに強くなれたのか。――何も知らない。別段知ろうとは思わない。でも、ここでの彼女を見ていて一つだけわかる。

 ――彼女にも今まで友達が居なかっただろうということ。

 同年代の道場生に囲まれた善鬼ちゃんは最初のうちは何かあれば誰にでも噛み付きそうな空気があった。級友や道場生ら、周りが示す興味に、特別だと言う視線に善鬼ちゃんは苛立っていた。強さに興味があるのなら自分で勝手に強くなればいいではないかと怒っていた。しかし沙鈴のそれに対しては善鬼ちゃんが心を開くのに時間はかからなかった。彼女と正反対の沙鈴からの視線だからこそ、善鬼ちゃんは気がつくことができたんだと思う。強くなりたくても人それぞれ限界があるという事に。その代わりに彼女より優れた点を持つ、彼女とは違う人が居るんだという、そんなごく当たり前の事に気づけたんじゃないかと思う。あれほどの強さを持つ善鬼ちゃんだ。恐らくずっと、誰彼構わず戦い続ける旅路にあったんだろう。自分と敵。そんな生き方でこの小田原までやってきたんだろう。

 この地で僕と戦い、伊藤さんに敗れ、友達を作り。他の道場生たちにも敵意が無いことに気付くと打ち解けるのは実に早かった。むっつり顔以外の表情もよく覚えてくれた。いくら強くてもまだまだ子供ということか。

 ‥‥と、いくら角が取れたとは言え、さすがに本気の組手は誰も相手になりたがらない。四、五人掛りでも善鬼ちゃんの動きを捉えることが出来ない。仕方の無いことだけど。だからだろうか。善鬼ちゃんは時々、じゃれる相手のいない仔猫のように退屈そうな顔になる。誉めてもらいたい親猫も滅多に顔を出さない。‥‥伊藤さんは、ここしばらくは本当に顔を見せなくなった。

 ‥‥しょうがない。また僕が相手してやるしかないか。もちろん僕の修行にもなるけど‥‥あいつは手加減を知らないから。

「おい善鬼ちゃん、組手しないか?」

「!!――仕方ないのう!相手してやらんとすぐ泣くからのう、典膳は!」

 目をキラキラ光らせて、本当の猫だったらきっと耳をピンと立てていただろう顔でずかずかとこっちへと来る‥‥と思ったらいきなり飛び掛かってくる。‥‥本当にいい修行になるよ。

 それにしても――ほんの半月程この道場に居ただけで、強くなった。驚くことはないか。そりゃあそうだよな。ここに来た時は素であんなに強かったんだから。

 ただ強かっただけの人間に正しい形を仕込む。腕力で振り回していた拳に、正しい道を教えてやる。それだけで威力も速度も倍ほどに跳ね上がる。それこそが型だ。拳術をやっている人間とやっていない人間ではズルいぐらいに強さが変わる。そういうものだ。たとえるなら水泳法を知っている者と知らない者が泳ぎで勝負するようなもんだ。‥‥以前の善鬼ちゃんが洗練された技術を何も知らずにあんなに速く泳いでいたのは例外中の例外なんだ。

「‥‥まいった、まいった」

「もう終いか典膳!また団子おごりじゃのう!八連勝じゃ!」

「‥‥どうせ僕が勝ってもおごる金は僕が出すんじゃないか、居候」

「うはは、泣き言か典膳」

 最初のうちは僕も三、四本に一本は勝っていたが最近は連敗が続いている。そこからも彼女の上達が感じられる。‥‥それは同時に‥‥僕の腕が上がっていないということでも、ある。

 ‥‥ふう‥‥。

 僕の思考は、突然の道場生らの起立と挨拶に遮られる。‥‥伊藤さんだった。

「お師さーん!」

 僕が挨拶をする前に、予想通りすぎるけど善鬼ちゃんがとびつかんばかりに駆け出していく。

「見とったか、お師!ワシはかっこよかったか?!」

「ちょっと善鬼、うるさい‥‥。落ち着きなさいあなたは」

「お師さん、見とったか!典膳に波返を決めたぞ!」

「そうね、よく機を掴んでいたわ。えらいえらい。

 典膳、あなたはもっとしっかりなさい。善鬼の波返の二段目、あそこには隙があったはずよ」

「‥‥はい」

 手厳しい一言に、またため息が出そうになる。‥‥が、見ると善鬼ちゃんが「もう終わりか?」と僕以上にがっかりしている。どんだけ誉めて欲しいんだ。気持ちはわかるけど。

「――それはそうと典膳。ちょっと見てたんだけど、あの子、何って言ったかしら」

 つい、と伊藤さんが目で示す方向には金髪の少女がいた。ちょうど組手を一つ終え、壁際に下がっている所だった。見るからに息が上がっている沙鈴は呼吸と道着の乱れを正している。

「お鈴か?お師さん」

 と、僕の代わりに善鬼ちゃんが答える。

「上瑠守屋の娘です。普段から真面目に稽古している子ですよ」

「ほれ、さすが典膳はおなごの事だけはよく覚えとるじゃろお師さん」

「いちいちうるさいなお前はホントに。男だって全員覚え」

「おーい、おりーん!」

「聞けよおい。

 ‥‥ていうか呼ぶ必要ありましたか?伊藤さん」

「‥‥そうね、せっかくだから」

 善鬼ちゃんの辺りを憚らない呼び声に慣れてるらしく、手の開いていた沙鈴は何気ない様子でこちらに向かいかける。が、すぐに伊藤さんも一緒だと気づいて全身に緊張の色が浮かんだ。そう、同じ道場にいるとは言えそれでも一般道場生にとって伊藤さんは雲上人だろう。機会でもない限りは自分から話しかけることすら憚られる存在だ。ましてあの沙鈴だ。

 ぎくしゃくと善鬼ちゃんの前にやってきた沙鈴に、ほれ、と善鬼ちゃんは伊藤さんを顔で指すだけだ。

「さっきあなた、最後の組手で派手に転んでいたわね」

 いつもの笑顔で伊藤さんが言う。

「‥‥あっ」

 無様な所を伊藤さんに見られていた。それだけで彼女の緊張は倍化し、猫を前にしたヒナ鳥のように小刻みに体を震わせる。

「あれだけの力量差があるんですもの。――勝てるとは、思ってなかったわよね?」

「はい――」

 消え入るような声で、でもしっかりと顔を上げたまま、彼女は一刀流宗家に返事をした。そんな姿がけなげで、なんとか彼女に助け舟を出してやりたいと思ったが伊藤さんの話に口ばしを挟むわけにも行かず‥‥。横にいる善鬼ちゃんをチラリと見るが、彼女はいつものように腕を組んでむっつりしているだけだった。友達だろうに。

「勝てるとは思ってなかったけど、あなたは全力で向かっていた。――いいこと?強くなりたいならその気持ちを忘れないように。決して忘れないようにね」

「え――」

「強者が戦いに向かうことに勇気はいらない。――勝てるから勝負する。それは打算というのよ。

 自分より強い相手にでも全力を尽くす。あなたのあの姿こそが本当の勇気なの。‥‥見ていて昔を思い出せたわ。良かったわよ」

「あ‥‥」

 呆然と伊藤さんを見上げる沙鈴は、次第に青い瞳をうるませる。

 ――そうだ。僕はこの空気がたまらなく大好きで、一刀流の道場に居るんだ。さっきとは違う意味でふるふると震える彼女の横顔を見ながら、僕は自分の顔が崩れてしまうのが抑えられない。

 善鬼ちゃんもにっかり笑って沙鈴に声をかける。

「わかったか?お鈴。ワシのお師さんじゃ。よっく見てくれとるじゃろ」

「‥‥‥‥」

 彼女はうつむいてコクコクと頷くばかりで、表情なんかは全く見えない。が、赤く染まった首筋が可愛らしい。

「ワシにはよくわからんかったがの。お師さんの言うことはいつも難しいわ」

 ‥‥善鬼ちゃんはケラケラと笑いながら続ける。

「典膳もお鈴のケツばっかり見とらんでちゃんと面倒も見てやれよ」

「――どうせ何か言うと思ったよ」

 沙鈴はうれしそうに、赤らめた顔のままくすくすと笑っていた。


「じゃあ伊藤さん、今日はもう切りもいいんで締めますが大丈夫ですか?」

「ええ、私も帰るつもりで寄ってみただけだから」

「わかりました。

 ――よし、じゃあ今日はここまで!」

「全員整列!」

 僕の合図。そして古藤田の号令。全員を整列させた上での挨拶。その後の道場清掃。僕も道場生にまじって道場の床に雑巾がけをする。――これもまた、ほとんど毎日欠かすことのない風景だ。変わらない日常には安心感がある。ちらりと沙鈴を見ると、先輩に何か話しかけられながらうれしそうに照れ笑いしていた。


「お師さんと典膳の手にぶら下がってもいいか?」

「‥‥はあ?いい訳無いでしょう、この子はホント‥‥」

 当たり前だろ‥‥。善鬼ちゃんは本当に伊藤さんのことを師匠と解かってるのか?

 学舎からの帰り道。しばらくは道場生に囲まれていたが、うちが近くなるこの堤の道に差し掛かると僕ら三人だけになっていた。――そういや、善鬼ちゃんが来てから伊藤さんと一緒に帰るのは初めてだな。それだけ善鬼ちゃんは手がかかるってことだ。

「伊藤さん、何か買ったんですか?」

 伊藤さんが手にしている本に目をやりながら、僕は声をかける。

「これは――日ノ本に住む異人の描いた図鑑ね。鳥に小動物、虫なんかが載ってるやつ」

 善鬼ちゃんが見せてくれ、と言って伊藤さんから本を受け取り、ぱらぱらとめくりながら歩く。僕も横から中を覗くと、横文字の文章の中に美しく彩色された図案が目立っていた。

 本を広げながらてくてくと歩く善鬼ちゃんを見下ろしながら、伊藤さんは優しく微笑む。

「‥‥色々と細かく観察するだけなら解るんだけどね。よくこれだけ上手く統計立てて纏められるものね、南蛮人は。尊敬するわ。絵もお上手」

 伊藤さんは舶来の小物もしばしば買っているが、特にこういった洋書をよく買っている。以前聞いた話では、横文字もそれなりには読めるらしい。‥‥すごい人だ。

 異国では書物を大量に刷る技術を持っている。僕らの国の木版とは全く違うらしい。伊藤さんに言わせると、それは知識の共有であり技術の拡散であり、知を武器にする奥義のようなものと言える――そうだ。知っているという事がすごい時代から、知識を皆で共有しそこからいかに活用するかという、そんな次の段階へと進む革新――と言っていたが‥‥。

「‥‥カワツグミって虫がいるでしょう。ここよりも北の方に多い虫なんだけど。

 冬が荒れる年になるとメスは自分で産んだ千匹もの子供を食べて栄養にしてしまうんですって」

「へえ‥‥」

「‥‥でも、本当に彼女はそんなことをしたいのかしら。我が子を食べてまで生き残る必要があるのかしら。‥‥本能に動かされるって怖いわね」

「‥‥‥うん?お師の言うことはさっぱりわからん」

 善鬼ちゃんは、うれしそうにけらけらと笑う。

「‥‥そうね。私も自分で何を言ってるのかわからないわ」

 そう言って伊藤さんもくすりと笑った。伊藤さんが善鬼ちゃんの頭をなでる。善鬼ちゃんは気持ちよさそうに目を細め、くすぐったいと笑い、本を閉じるとそのまま両手で抱える。

「‥‥ここからじゃと丸見えじゃの」

 伊藤さんの横を歩く善鬼ちゃんが、川向こうを眺めながらぽつりと言った。‥‥ああ、あれか。

 僕らの町には塔がある。それは、白くて高く、とても美しい塔だった。

「なんなんじゃろうの、あれは。昔っからあるんじゃろ?不可思議じゃ」

「余所から来た人はよく言うんだけど‥‥。まぁあれはあれだよ。ずっと昔からある、それだけだ」

 町の中心近くにそびえたつその塔――神槍(しんそう)白塔(つくものとう)。千年も前からずっとそこに立っていると言われる、一切の繋ぎ目もひび割れも無い一本作りの白い塔だ。石のような、卵のような材質。昔の人は斧で打ったり岩をぶつけたりしたらしいが、欠けることさえなかったと言う。今では神の塔として周囲300メートルは朝廷の管轄する、誰も近づくことを許されていない聖域となっている。

 その神の塔の由来は諸説さまざまだ。古の竜の背骨という者もいれば古代人の住居だと言う者、中には天人の船と言い張る者もいる。

 朝廷の見解としても流布され定着しているのは、戦神の毘沙門天が天より僕ら人間に投げつけた挑戦の槍だと言う。この槍を抜いてみろ、という挑戦だ。空を真っ二つに切り裂く美しい出で立ちは、僕には槍よりも刀に見える。

 その昔に南蛮人が測量したところ99メートルの高さがあったことから、またその外観から百から一を引いた白の字を当てて白塔と書いてつくもの塔、神槍白塔―シンソウツクモノトウ―と呼ばれるようになった。

 ――と。大仰に言ってみた所で生まれてこの方ずっと見ている僕にしては、ごく普通の風景だ。

「典膳のうちからはよく見えるよのう」

「そうだね。

 ――そう言えば伊藤さんがいつもいる窓からは特によく見えるでしょう」

「‥‥見えるわね」

「いやワシの屋上のがもっと見えるぞ。お師さんもあがるといい」

「‥‥あそこはうちの中に入らないし、屋上じゃない。ただの屋根だ」

 やっぱり善鬼ちゃんにとっても珍しいようで、言われてみるとよく神槍白塔を見上げてる姿を見かけたな。

「でも僕に言わせれば、例えば霊峰富士。あっちの方がよっぽど奇跡的だと思うけどね。

 この町からでも、どこからでも拝める上にどこから見ても完全な美しさ。あれこそ神の成された所行だよ」

「お師さんのがきれいじゃ」

 こいつ、こんなことは臆面も無く言えるんだよな。伊藤さんは何も言わない。呆れてるんだろう。

「‥‥善鬼ちゃんはさ、伊藤さんのどこがそんなに好きなんだ?」

「べ、別に好きとか言うとらんぞ」

「そーゆうのはいいから」

「典膳、下らないこと聞かなくていいわよ」

「まぁいいじゃないですか」

「バカね、あなたは」

「お師さんは‥‥強いのう」

「そうだね」

「強いし、美人じゃし、頭がいいし、強いし、手足がすとーんと長いし、強いし」

 強いが多い。

「しかも、あんなに強いのに全く気取らん。どっかのアホみたいに道場主だなんだと肩書きを求めんところがまたかっこいいのう」

「‥‥‥‥」

「部長とか道場主とか僕んちだぞとか、細かいこと言わんのがしびれるのう」

「‥‥うるさいなぁコイツ。聞くんじゃなかった。いつの間にか僕の悪口に移行してるじゃないか」

「本当に聞くんじゃないわよ、そんなこと。――善鬼、あと「空気が読めない」も入れておきなさい」

「え?‥‥僕、空気読めてないですか?」

「あら、読めてるつもりだったんだ?」

 さっくりと胸に刺さった。

 夕暮れのいつもの堤防。河原には夜釣りの仕度をする人がいた。彼からは僕ら三人はどう見えるんだろう。仲のいいただの学生のように見えているだろうか。

 なんとなく、そう見えていて欲しいと思った。


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