3章 小春日和
庭木の枯葉もほとんどが散り、やけにまぶしい朝日に今年も秋の終わりが見える。汲み上げたばかりの井戸水で顔を洗うと嫌が上にも目は覚める。朝一番の水はやはり汲み置きは避けたい。
顔を拭きながら家の中に戻ると、女中のしをりさんが書状を手渡してくれた。最近は飛脚も早朝から働いていて大変ですね、と言った。我が家で一番若いのに一番の働き者である彼女に言われたら、飛脚も立つ瀬は無いんじゃないだろうか。
書状の表には、僕と伊藤さんの名前が連名で記されている。差出人は‥‥姫路の一刀流道場の溝口さんからだった。一度だけ、一刀流本家での集会でお会いしたことがある。内容は、恐らく‥‥。
廊下を歩きながら封を開き、軽く目を通しながら伊藤さんの部屋へと向かう。もう起きてるだろうか。
一階の廊下から一番奥、突き当たりが伊藤さんの部屋だ。その一つ手前を善鬼ちゃんの部屋にしている。いや、本人たっての希望でそうさせられた。中からイビキが聞こえる。‥‥ウソだけど。いや善鬼ちゃんならなんか、イビキかきそうな気がする。それは無いか。
と、つまらないことを考えながら僕は伊藤さんの部屋の前に立ち、コンコンと戸を叩く。
伊藤さんは深く眠らない人だ。例え夜中でも僕が戸を叩けばすぐに返事が返ってくる。その伊藤さんの部屋からは沈黙が返って来た。‥‥もう起きてどこかへ行ったのか。
僕は来た道を引き返す。隣の部屋からはまだやかましいイビキが聞こえる。もちろんウソだけど。こっちの戸は叩いても起きないような気もする。今度試してみようか。
二階に上がり、廊下を歩くと僕が探していた人の姿はすぐに見つかった。
いつものお気に入りの場所。町全体が見渡せる窓辺の長椅子にゆったりと体を預けていた。その長椅子は二年前に舶来商から買った南蛮の品で、くすんだ朱色をした皮張りのそれはまるで伊藤さんのためにあつらえたように馴染んでいた。
朝の白い光の中で‥‥。長椅子に座った伊藤さんは、窓際に寄りかかるように外を眺めていた。力を抜いて、ゆったりと――何か物思いにふけっている。思わず、僕は見とれる。よくよく見かける彼女のそんな姿。小春日和にまどろむすらりと上品な黒猫。細めた瞳が知的で、事実彼女は思慮深く、いつだって僕にはわからない世界を見ているようで‥‥。
「見つめすぎよ、典膳」
「あ‥‥、すいません‥‥」
彼女と僕の距離は数メートル。さらに僕は彼女にとって見えない位置の筈だったけど、そんなことは関係ない。それがどんな状況で、僕が不意打ちじみた事をしたところで彼女に気付かれずに近づけるとは思えない。
それでどうしたの?と目で尋ねる彼女に、僕は折りたたまれた書状を静かに差し出す。
「伊藤さんへの招待の書状です。――今度のは姫路の道場からですよ」
「はぁ‥‥。またそれか‥‥」
一刀流の支部道場は、先代である鐘撒自斎様が廻国修行した折、各地に建てた道場がある。僕が修行した養父の道場もその一つだった。かつては本部である伊藤さんの道場から師範が派遣され、また時折先代の自斎様自らが出向いて稽古をつけ、一刀流の型を広めていたんだけど‥‥。
「はぁ‥‥。あのね、思うのよ私。彼らは――こう、強さを与えてもらえるとでも思っているのかしら。私が技を教えることで、自分もその強さが得られるとでも思ってるのかしらね‥‥。そもそも人の強さの本質というものは――
ふぅ‥‥。まぁ、いいわ‥‥」
言うのも面倒になったように、気だるそうに、伊藤さんはゆっくりと立ち上がる。
長いまつげを伏せ気味にしてちらりと僕に視線をやり、伊藤さんはそのまま僕の横をすれ違い去って行く。せっかく気持ちよく風を受けて寝ていたのに邪魔なニンゲンに声をかけられた――黒猫はそんな表情を見せてするりと僕の横をすり抜けて行った‥‥。
――これも、いつものことだ。適当に返事をしておけ、ということだろう。
一刀流宗家である伊藤一刀斎景子が僕の小田原道場に逗留していることは、全国に点在する一刀流道場主たちの知るところだ。だから彼らからの連絡は全て僕の道場へと届く。再三の誘いがあるが‥‥伊藤さんは一度も色よい返答をしない。ただゆるりと、彼らの願いをそもそも聞かされていないかのようにかわし続けている。
それについこの前にも伊藤さんは藩邸に呼ばれていた。おそらく小田原の殿様に藩の武術指南役にと誘われていたんだろう。これもまたいつもの誘い話。国中の大名から同じ言葉を伝えに使者もやってくる。
武を以って名を成す。拳術の強さこそが最も大切だというこの世の中において、拳術勝負で強者を打ち破ることに誰もが‥‥僕も含めて誰もが血道を上げるような世の中において――それは全ての拳術家の願いと言ってもいいだろうこと。‥‥恐らく、朝廷武術指南役に誘われても伊藤さんは言うだろう。たった一言、面倒だと。
‥‥せっかくの一刀流を、伊藤さんは広める気すらないんだろうか。
「おったか?典膳!!」
「え?何?」
「おったかと聞いとるんじゃ神子上アホ膳!」
‥‥こいつは‥‥。
伊藤さんの座っていた長椅子の脇でひとり考え事をしていた僕。見つける善鬼ちゃん。挨拶も何もなく、これだ。起き抜けだろうに、これだ。
「‥‥主語がないけど‥‥伊藤さん、だよね」
「他に誰がおるか!神子上アホアホ!」
「‥‥‥‥。居た、けど」
「そうかでかした!で、お師さんはどこ行った神子上アホ膳!」
一個回復した。
「いや‥‥。君さ、馴染むのはいいんだけどさ。伊藤さんにまとわりつくのも程ほどにしなよ。伊藤さんは静かなのが――」
「いいからどこ行ったか!アホ上アホアホ!」
もはや誰だそれ。
「そっちの階段から一階に‥‥。――もう居やしねえ、あの野生児」
残響のような足音を遠ざけて走っていった。――思わず僕は苦笑いをする。でもそれは善鬼ちゃんにじゃなく、どこかで彼女の行動を楽しんでいる自分に対してだ。彼女は本当にいつも元気で‥‥こう、正直言って見ているだけでも楽しい。あれほどの拳士だということをつい忘れてしまう。いくら才能に溢れているとはいえ、なんであの性格で拳士になったんだろう。大拳豪を目指すんだろう。ま、楽しそうに戦うからきっと好きなんだろうけど。
僕が二人の後を追うように、のんびりと廊下を歩いていると。
ドタドタドタ‥‥と、階段を響かせる音が駆け上ってくる。突風のようにさっきの野生児が僕の隣を通り過ぎた。
何やってんだアイツは。
振り返ると、長椅子の窓からぽーんと飛び出していく瞬間だった。
「おおおおい!!」
あわてて駆け寄ろうとする僕を嘲笑うように、軒先に手をかけ飛び出した勢いのままぐるんと屋根の上へと姿を消す。
「‥‥猿だろやっぱり!!」
硬直したまま変な格好で叫んでてもしょうがない。我に返った僕はもう一度、今度こそ窓へと駆け寄る。身を乗り出して屋根の上を見上げる‥‥。
ガシャガシャと激しい音を立てて走り回る善鬼ちゃん。
「やめろバカ!その屋根瓦いくらすると思ってんだ!美濃から取り寄せたやつなんだぞ!高いんだぞ!」
「やかましい!ヌシが悪いんじゃろが!お師さんおらんぞ!」
「当たり前だ!下だっつったろ!なんで屋根に登ってんだよ!」
「アホウ!下に行って見つからんから屋根から探すんじゃろうが。そんなこともわからんのか」
「いいから止まれ!ガシャガシャ走るなーーっ!」
「伊藤さんからも叱ってやって下さいよ!こいつ僕が何言っても聞きやしない!」
「そうね‥‥」
「結局瓦20枚も駄目にしたんですよ?!ひどくないですか?」
「お、お師さん!ワシは悪くないんじゃ!典膳が悪いんじゃ!」
「どんな言い訳だよ!屋根走ってんのお前だけだし!バカか!バカだろ!」
「バカと言うやつが典膳じゃ!」
「おま‥‥!典膳を悪口に使うな!」
「――なんだか、アレよね‥‥」
「は?」
「「お父さんからも叱ってやってくださいよ、この子ったら」よね、コレ」
「‥‥ぬう‥‥」
「それじゃ僕がお母さん役になるじゃないですか!」
「嫌なの?」
「嫌ですよ!」
「嫌というやつが典膳じゃ!」
「わかんねえよ!」
「‥‥あなたたち二人、ホント仲のいいこと」
「良くない!」
「良くないですよ」
「‥‥ま。――何にせよ、善鬼が来てからというもの。典膳もすっかり元気な子になりましたとさ」
「伊藤さぁん!」
どんなオチだよと、僕の口からは大きな大きなため息がふき出した。
そんな締めくくりを待っていたかのように、伊藤さんの部屋の扉を叩く音がした。僕がどうしたと声をかけると開かれた戸口には道場生が一人、立っている。
「神子上先生、道場破りです」
その一言に今までがのんきな夢を見ていたような、道場にいる自分こそが現実だと思い出したような、そんな気分になる。
「あぁ、そうか。――ちなみにどんな拳士だ?」
「無怨流と名乗る大男です。弟子らしいのを3人連れていました」
「無怨流‥‥。聞かないな。わかった、すぐ行くから待たせておいてくれ」
道場生を下がらせ、僕は伊藤さんに話しかける。
「――どうします?伊藤さん」
「そうね、丁度いいわ。典膳、これから道場破りが来たら善鬼に相手させなさい」
「善鬼ちゃんにですか?」
「ワシのかっこいいところが見たいのかお師さん!」
「‥‥うるさいよお前は。
わかりました、じゃあさっそく今からでも」
準備は必要無いよな、と善鬼ちゃんに声をかけて僕はそのまま道場へと向かう。別に待たせておいてもいいけど丁度切りもいいし、さっさと済ませてしまおう。――でも善鬼ちゃんは椅子に座ったままの伊藤さんを見て眉をひそめる。
「どうしたんじゃ、お師さんも一緒に行かんのか」
それを受けて伊藤さんはふっと笑い、ひらひらと手を振った。
「始まった頃にでも見に行くわ。適当に始めておきなさい」