2章 小さな手 8/8
今日は早めに切り上げたつもりだったが、すっかり、とっぷりと日は沈んでいた。‥‥この季節は夕方が短かすぎる。登りはじめた丸い月が照らす堤防の道を、僕は善鬼と並んで歩く。やっぱり部道場から提灯を持ってくればよかったか。
やれやれ‥‥。なんとも長い一日だった‥‥。びゅうと北風が吹き抜ける道で僕はうちの湯船を恋しく思い出していた。
「はぁ~‥‥はぁ~‥‥」
「‥‥?」
見ると、善鬼が手に息を吹きかけている。小さい手を広げ口を包み込むようにして、肩を丸くしている。
「‥‥今日、三度目の意外だ」
「‥‥あ?何ぞ言うたか?」
「別に」
なんてことのない仕草。ごくごく当たり前の、木枯らしが吹く季節の光景。
‥‥僕と、彼女の足音がジャリ、ジャリと響く、そんな晩秋の光景。
そうだよな‥‥。この子がいくら強くても、あくまでただの女の子なんだ。ただバカみたいに強いだけの、ただの女の子なんだ。
「‥‥だから、何をニヤニヤしとるか」
「別に」
「きっとまた何かよからぬ目でワシを見とるんじゃろ」
ヘの字口だ。僕が今までに見てきた人で尤もヘの字口が似合う顔だ。
初めて道場で会った時と変わらない、生意気で不敵な態度。小さな足を振り上げるみたいに大またで歩く。そのたびに揺れる、大きく飛び出した頭のくせ毛。
さっきの仕草でよくわかった。今日一日一緒にいてよくわかった。彼女は人ならざる人でも鬼でも虎でもない。本当に――ただの女の子なんだ。
「‥‥これから、よろしくな。善鬼ちゃん」
「ちゃ!!!!
ちゃん?!?!」
「殿とか付けろというのか?」
「付けろ!!」
「お前なんか善鬼ちゃんだよどの」
「どこに付けとる!語尾か!」
「あ、そういや善鬼ちゃんは肉と魚だとどっちが好きだ?今後の献立の参考に聞いておかないとな」
「牛じゃ!でも牛はよだれ垂れまくりよるから牛タンは食わん!気をつけろ!殿をつけろ!」
「なるほど、牛肉なんだど――」
「語尾につけるな!」
「あははは‥‥。――じゃ、ホントによろしくな、善鬼ちゃん」
「むう‥‥‥」
怒ってぶんぶん振り回していた両手をピタリと止め。やがて降ろし。そして開き。
「‥‥よろしくの‥‥」
善鬼ちゃんは僕が差し出した右手をぎゅっと握り返した。
昨日の仕合で殴られて、今日の道端でどつき合い、それ以外での最初のふれあい。
さっき見て思った以上に、彼女の手は冷たくて、本当に小さくて、そして柔らかかった。‥‥四つ目の、意外だ。
その時僕は、やっとこいつに会えた、と思ったんだ。
‥‥何故かはわからないけど、そう思った。