2章 小さな手 7/8
いつもと同じだけの時間のはずなのに妙に長かった、半日の学問の授業が終わった。
彼女にとって基本から何まで初めてのことだらけで、奔放に質問をぶつけてくる――投げてくる、じゃない。まさにぶつけてくる、だ――善鬼の相手で級長や教師はもちろん僕もぐったりだ。間違いなく本人以上に。
そんな今日の様子を見て、今後彼女が選択する授業を決める。教員室でそれぞれを担当する他の教師に相談を済ませた後、僕は教室へと戻る。なんであいつのためにここまでやってるんだろ、僕は。
教室へと近づくとそれだけで中がにぎやかな空気に満たされているのが伝わってきた。「いちいち覚えとらんわ!」という善鬼の高い声が聞こえる。他の生徒らが口々に「でも有名な拳豪ぐらいは覚えてるだろ?」とか「人数も覚えてないの?」といった声から察するに恐らく善鬼の武勇伝を聞きだそうとしているんだろう。
そりゃあ誰だって聞きたくもなるだろうな、と、特に気にも留めずに僕は戸に手を伸ばすが。
「神子上さんはどうだった?」
‥‥思わず僕の手がぴたりと止まる。教室の中も一瞬しんとする。――が、すぐに教室ははじけたように騒々しくなった。
「そうだよ、神子上さんに勝ったって?ウソだろ?」
「神子上さんのことだから手加減してたんじゃないの?」
「神子上先生は負けてなんかいない!」
道場生の怒った声も聞こえてくる。‥‥かばってくれてありがとう。でも負けだよ、アレは。
そしてまたもう一度、戸の向こうがしんと静まり返る。今度のは善鬼の言葉を待つ沈黙だ。
「典膳か‥‥。
典膳は――面白いのう」
実に落ち着いた声だった。
「あんな戦い方があるとは思わなんだ。‥‥うん。典膳は面白い」
――そんな、善鬼の静かな声。‥‥そうか。
ほっとしたような気持ちで僕は自然と微笑んでいた。少しの間を空けて僕は善鬼を迎えに教室へと入った。
「なんでじゃ?自分でやればいいではないか」
「だから、自分ではとても体験できないからだろ」
「何を言う。武者修行ごとき誰でもできるじゃろうて」
「誰にでもは出来ないさ。普通は‥‥そうだな、自分じゃ外の拳士には勝てないって思ったり、あるいは負けた時のことも考えるし」
教室を出、校舎を後にして僕ら二人は並んで歩いている。僕は普段より少し歩を遅らせる。
善鬼はさっき、級友らに質問攻めを受けたことに納得が行かないらしい。この辺りでは負け知らずで鳴らした僕を倒し、そして伊藤一刀斎の最初の弟子になった少女。興味を持つなというのが無理な話だ。‥‥‥でもまぁ確かに善鬼がうんざりはするのもわかる。若い道場生は指導の時間が終われば僕にもそういった話をよく聞いてくる。
誰もが強い拳術家に憧れる世の中で。年を重ねるごとに挫折と諦めが皆の上へと積み重なっていく。丁度僕らのように十代も後半になる頃には、拳豪に憧れ目指す者とその夢を諦める者の数が逆転し始める。憧れるからこそ、強い拳士の話を聞いて想像する。諦めたからこそ、強い拳士の話を聞いて自分を慰める。――どちらにせよ、彼らは彼らなりに拳士の話を夢中で聞きたがる。
「自分で出来ないと思うからこそ体験記の書物を読んだり、実行者である君の話を聞いたりして想像して楽しむんだよ」
僕の言葉を聞いた善鬼ちゃんは少しだけ眉をひそめて小さくうなった。
「典膳、ヌシもそうなのか?」
「僕は‥‥。
いや――そうだな。例えば、やっぱり伊藤さんの話なんかは聞いてみたいとは思う」
「ふーん‥‥。しかし、人の話を聞いて満足する連中なぞワシらに関係あるのか?」
「それは‥‥」
その言い方が伊藤さんと似てると思った。ゼンゼン違うんだけど――自分より弱い、武者修行に興味があっても実行に移せない人達を理解すら出来ないという‥‥そう、拳士としての強烈な自我というか、本質的なところが似てる、と。でも僕は――彼女達と違って僕にはどちら側の気持ちもわかるような気がした。
――そんなことを聞いてどうする、武者修行に興味があるなら自分でやれ――と。彼女の言葉は直球で、そして正論だ。だけど‥‥いや、だからこそ、人にぶつかるとそれは相手に深手を与える。と同時に、その速球を投げる彼女の姿は優柔不断な僕にはかっこよく見えて‥‥。
‥‥いやいや、まさかまさか。コイツはただの猿だし。どこがかっこいいんだか。笑わせるよまったく。
「‥‥典膳。悪い顔になっとるぞ」
「‥‥。さすが一流の拳士ともなると勘も鋭いなと考えてたんだよ、野性の猿にも劣らない。尊敬するよ」
「一発蹴っとくか?」
「蹴らなくていい。――ほら、ここだよ。って知ってるよな」
学舎と同時期に建てられた板張りの簡素ながらモダンな建物。一刀流の部道場だ。開け放された入り口からは威勢のいい声と活気が溢れている。
「悪い、遅くなった」
「神子上先輩、お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
「うん」
「‥‥皆の気持ちがわからんのう。さっぱりわからんわ」
「いちいちうるっさいなぁ‥‥。なんで僕が挨拶されるだけで気に入らないんだよ」
突っ込みというか、ぼやきというか。これはぼやきだよな。
「おっ!古藤田がおる!古藤田じゃ!」
「黙れよバカ」
「なんでじゃ、覚えろと言うたのはヌシじゃろうが。のう古藤田!」
僕の方へと歩いてきていた古藤田は、さすがに苦笑いを浮かべる。昨日の勝負の相手にこの驚異的なまでの馴れ馴れしさ。なんなのこいつ。‥‥そういや僕も勝負したんだった。やばい、僕まで馴染みはじめてた。
部道場での稽古を中断させ、部員達に善鬼の紹介や今後の説明をする。みんな大方の予想はついていたらしく、彼女が道場生としてここで稽古をすることに驚いた様子は無かった。ま、これぐらいは拳術の世界じゃ珍しい出来事じゃないし。
部道場は基本は学生だけなので、僕の道場と比べて若い道場生が多い。古藤田は例外だけど。
昨日は道場破りとして現れた善鬼に、今はどうしてもみんな様子を見るような目つきになっている。‥‥でもま、慣れるだろう。歳も近いし。それに善鬼は‥‥
「いい意味でもバカだから、善鬼は」
「なんじゃと?!」
「あれ、うっかり心の声が洩れてたよ」
「わざとじゃ!絶対わざとじゃ!」
「うん、まあ」
善鬼の飛び蹴り。吹き飛ぶ僕。みんなが笑う。‥‥なんだこれ。