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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼退治は、ランチタイムの前に

作者: 橘 珠水

 初・短編投稿です。よろしくお願いします。

 気配が、ついてくる。

 足音は聞こえない。通りを一つ隔てた幹線道路を走る車の音が近づいては通り過ぎていく。その音が途切れた一瞬の静寂の中で、亜結子はふと足を止めた。

 やはり、足音は聞こえない。けれど何なのだろう、この恐怖は。

 亜結子は正面を見据えたまま、再び歩き始めた。

振り向いて後ろを確認することなど簡単なことだ。歩きながらでも、腰と首にほんの少し力を入れて捻るだけでいい。それなのに、そうすることができないのは、ただ単に怖いからだ。

 振り返ってみて、そこに何かがいたらどうしよう。

 いや、誰か、ではなく、何か。

 悪意のある人間も確かに恐ろしい。だが、多分それは人間ではない。人間なら、足音なり息遣いなり、生きている人間が発するはずの何かしらを感じ取れるはずだ。

 お願い、ついてこないで。

 自分に霊感などなかったはずだ、と亜結子は生唾を飲み込んだ。自然と駆け足のような歩調になり、必死で前方に点る街路灯の元に駆け込む。

 ホッとするには心許ないほのかな街路灯の明かりの下で、亜結子はふと足を止めた。

 どうして……?

 その気配はいつの間にか、背後ではなく前方の闇から亜結子をひたと見つめている。

 憎悪に満ちた、二つの赤い目。

 どうして私なの?

 声にはならなかったはずなのに、その悲痛な問いに、闇の中から答えが返ってきた。

 お前だけは、絶対に許さない……!



 はあ……。

 相手の疲れたような溜息に、進藤亜結子は全身から冷たい汗が吹き出すのを感じた。

「すみません、本当に……」

 必死で頭を下げる。身も縮む思いというのはこういうことをいうのだろう。

「仕方ないじゃないか。怪我をしたのは、君のせいじゃないんだし。災難だったな」

 事務机に、白衣に薄汚れた白い前掛という井出達で向かっている店長の木元が、広げたシフト表から立っている亜結子に視線を移した。こけた頬の上で、パッチリとしたその目が苛立たしげな光を帯びているのを見て、亜結子は肩を竦めた。

 そうだ。確かにそうだ。この怪我は私のせいじゃない。

 亜結子は、ギプスに包まれ、三角巾で首から胸の前で吊るされている右腕を、左手でそっと押さえた。数あるコンプレックスの中でも最も気にしている一重の細い目、その上の右の額から右眉を覆うように包帯が巻かれている。

「少しキツイが、仕事は何とかするから。パートさんやアルバイトにも目一杯頑張ってもらえば、何とかなるだろう。とにかく、その怪我じゃ仕事は無理だ。ゆっくり休んで、早く怪我を治すこと。それが一番だ」

 木元は亜結子を励ましているつもりなのだ。だが、余裕のなさが態度と口調にもろに出てしまっていて、余計に亜結子は追い詰められたような気分になった。

 私のせいじゃないのに。

 ギプスを握る左手に力がこもる。

 人件費を抑えるため、ただでさえギリギリの人数で稼動している和風レストランのチェーン店だ。正社員は店長の木元の他に亜結子と、もう一人澤山という大学出の暢気な男だけ。あとはパートタイマーの主婦達と、夕方からは近くの高校や大学にかよう学生アルバイトでシフトを組んでいる。

 開店前の午前九時から、閉店後の売り上げ処理が終わる午後十一時まで、正社員は働き詰めだ。客の多い土日祝日を除く平日に交代で休みを取るが、週に二日休みが取れるのは隔週ごとで、連休がほしい場合は他の正社員に頼んでシフトを調整してもらわなければならない。

 それほど大変な職場なのに、自分が怪我をしてしまったせいで木元や澤山に更なる負担をかけることになってしまった。自分のせいではない、という思いと、それでも迷惑をかけることには代わりがないという事実が、亜結子の中で交錯している。

 ふと、シフト表を睨み付けながら思案にふけっていた木元が顔を上げた。亜結子を見上げる目がすうっと細くなる。

「いつまでもそこに立ってたって、怪我は治らんし、手助けにもならんぞ」

 突き刺さるような口調に、亜結子はいたたまれない気分になった。

「……はい。じゃあ、失礼します」

 常温保存の在庫棚と事務机の間の僅かなスペースに立っていた亜結子は、ぺこりと頭を下げて裏口へ向かった。

 と、その背後から、木元の容赦ない声が追いかけてきた。

「おい。これからしばらく迷惑かけるんだ。パートさん達に一言、詫びでも言っていったらどうだ」

 迷惑かける……?

 亜結子は立ち止まり、込み上げてきた腹立たしさに奥歯を噛み締めた。自分の中で、何かが頭をもたげたように、抑えようのない何かが膨らんでいる。

 君のせいじゃないとか言いながら、結局迷惑だと思ってるんじゃないか。

 亜結子は大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。鼻の奥から、自分の中に溢れた怒りを溶かしだすように。

 厨房を横切り、カウンターを挟んで反対側のバックヤードに回り込んだ。作務衣に前掛け、といった格好で漬物を並べている接客係のパート達に、込み上げてくる苦いものを飲み込みながら声をかける。

「みなさん、ご迷惑をおかけします。すみません」

 感情を抑えようと努力しているのに、どうしても声が震える。

どうして私がこんなことを言わなければならないんだろう。私のせいじゃないのに。

 予想していた通り、パートの中でもリーダー格の房江が口元を歪めた。

「進藤さん、頼むよ~。そんな怪我しちゃって、困るじゃない」

 亜結子はグッと息を飲み込んだ。

「すみません」

「嘘よ、冗談だって。通り魔だって? 酷い目に遭ったわねぇ。早く怪我、治して。お大事に。店のことは私達で何とかするから。ね、店長?」

 房江の口調はカラッとしている。五十手前だが溌溂としていて身のこなしも軽く、仕事の早さと丁寧な接客で木元の信頼も厚い。この店でパートタイマーとして働き始めて七年、五年前に入社した亜結子よりも経験は長い。

「すみません。よろしくお願いします、房江さん」

 でも、たかがパートじゃない。

 亜結子はすまなそうな笑みを浮かべて謝辞を述べながら、内心そう吐き捨てていた。

 何が、ねえ、店長? だ。正社員でもないくせに。

「お大事に。早く良くなってね。進藤さんの分も、私たちが頑張るから」

 フロアを掃除していたパート達がにこやかに微笑んで手を振ってくれる。申し訳なさげに頭を下げながら、亜結子は心の内で呟いた。

 あんた達に、私の代わりが勤まるわけないじゃない。

 一日に大体四時間、長くても八時間、週三~四日しか働かないパートのおばさんと一緒にしないでよ、と亜結子は内心毒づいた。

 厨房の奥で黙々と仕込みを続けている学生アルバイト君は、亜結子の声にほんの少し顔を上げ、目で頷いただけだった。平日だというのに、今日は朝九時から午後三時まで働くことになっている。大学というところは、授業に出席しなくても進級させてくれる、かなり適当なところらしい。

 裏口から外に出た亜結子は、太陽の日差しを浴びて、一瞬呆然と立ち尽くした。

五年ぶりの仕事からの解放。これから約一ヶ月、怪我をしている不便さと引き換えに得た自由な時間を、どう過ごすべきか。

 大っぴらに遊びまわるわけにはいかないわね。怪我で仕事を休んでいるんだし。

 木元やパート達の反応を思い返せば、すぐに自宅に戻って静養するのが賢明だ、と足を踏み出した亜結子は、ふと昨夜の出来事を思い出して、その場に凍りついたように立ち止まった。

 振り下ろされた鋭い凶器。焼けるような額の痛み。丸太を振り下ろされたような衝撃で砕けた右腕の骨。

 全ては闇の中から繰り出された攻撃だった。亜結子の悲鳴を聞きつけて、近くの人家から住人が飛び出してくる気配を察して、犯人はそのまま闇に溶けるように消え去った。

 足音は、やはりしなかった。ただ、気配だけが去っていった。

 亜結子はブルッと身震いした。

 救急車で病院に運ばれ、手当てを受けると同時に警察からも事情を聞かれた。亜結子は自分が体験したことを全てありのままに話した。

 人間だとは思えなかった。

 その言葉を、警察は額面どおりには受け取ってくれなかった。恐怖で気が動転していたのだと亜結子を慰め、襲われたことについて身に覚えはないかと問い質された。

 私は被害者よ。

 亜結子は憤然として、首を横に振った。

 勿論、身に覚えなどない。恨みを買うほど深い人間関係を築く暇もないほど、仕事仕事の日々を送っていたのだ。

 警察は、通り魔の犯行も視野に入れて捜査する、と言い残して病院を去った。念のために一晩入院した亜結子は、早朝に一度帰宅し、木元に今後のことを相談すべくすぐに勤務先のレストランへと出勤したのだった。

 もっと優しい言葉をかけてくれると思っていたのに。

 そう思うと涙が出そうになって、亜結子は唇を噛んだ。見上げた空がぼやけて、瞬きと同時に暖かい粒が頬を伝って流れ落ちた。


 暇になったら見ようと買ったまま封も開けてないDVDも、一ページも読んでいない帯のついた文庫本も、亜結子の欲求を満たす存在には思えない。長年住み慣れているはずなのに、ここ五年は寝るだけに戻ってくるだけの自分の部屋は、昼間の白い光の中で、何だかとてもよそよそしい空気に包まれていた。

「……あー、駄目だぁ」

 亜結子は手に取った文庫本を手にとって、二、三ページ繰ってみたが、すぐに放り出してため息を吐いた。いつの間にか、暇を持て余す人間になってしまったらしい。どちらかと言えば内向的で、一人で何時間でも過ごせる人間だったはずなのに。

 ベッドに倒れこみ、目を閉じると、昨夜の光景がまざまざとよみがえってくる。

 闇の中に光る、黄色い二つの目。振り下ろされた、鋭い爪。

 カリ、カリカリ……

 不意に、壁を引っ掻くような音がして、亜結子はハッと目を開けた。

 何? この音……。

 嫌な予感がして、亜結子はガバッと起き上がった。

 その正面、小学生の時から使っている学習机の横の壁に、大人の人間ほどの大きさの黒々しい塊がへばり付いている。それは、鋭い爪で壁を捉えながら、ゆっくりと上に登っていく。

 目を見開き、恐怖の余り声も出ない亜結子の目の前で、壁からゆっくりと天井へ移った。やがて、亜結子の頭上で天井から逆さにぶら下がった塊は、頭部をぐるりと回転させた。黒いスイカ大の大きさの頭部に、二つの黄色の目が爛々と光っている。その下に、真っ赤な口がパックリと開くと、まるで亜結子を嘲笑うかのように笑った。

 ……殺される!

 そう思った瞬間、亜結子の意識は闇の中に落ちていった。


「……で、どうすんの?」

 誰かが、亜結子のすぐ近くで、何か喋っている。どうすんの? と聞かれても、亜結子には何を訊かれているのかさっぱり分からない。

「このまま、こっちだけ消して、はい、御仕舞い、じゃあ、可哀想な気もするわ。根本的に解決しなきゃ、また同じことの繰り返しよ」

 どうすんの? と訊いたのとは別の声が、亜結子からやや離れたところで答えた。先ほどの声は、どうやら亜結子にではなく、今答えた人物に質問したらしい。

 こっちだけ消してって、一体何のことだろう。根本的にって、何を解決するの?

 ゆっくり目を開けると、見慣れた形の蛍光灯が目に入った。気を失う前に、その蛍光灯の横に不気味な黒い生物が自分を見て嗤っていたことを思い出した瞬間、亜結子はガバッと跳ね起きた。

「あ、気がついた」

 背の高い女性が、亜結子を見下ろしていた。さっき、どうすんの? と訊いたのと同じ声だ。亜結子は、面識もない人が自分の部屋に土足で立っているという事実よりも、まず、その女性の格好に驚いて目を瞬かせた。

 その女性は、器用なアニメオタクが時間をかけて忠実に再現したアニメキャラのような格好をしていた。大きく開いた胸元に、派手な肩当から伸びた腕には肘よりやや上まで光沢のある手袋をはめている。飛び出しそうな胸を覆う胸当てと、体にぴったりフィットしているウェアの上から、袈裟懸けにラメが入った薄手の布を垂らし、左右の股関節を守るような腰当からは、長い脚がすらりと伸び、膝上までのブーツに吸い込まれている。

 何、この格好。

 茶髪というより金髪に近い髪と、目の周りを強調したどぎついメイクは、一昔前のビジュアル系ロックバンドのメンバーのようだ。手には、孫悟空が持っているような朱塗りの棒を持っている。

「……ちょっと。あなた達、何なんですか?」

 亜結子は、唾を飲み込んでカラカラに乾いた喉を湿らせると、できる限り冷静を装った。

 あなた達、と言ったのは、学習机の横に、やや背の低い別の女性がいたからだ。こちらも、背の高い女性と似たり寄ったりの格好をしていたが、こちらのほうは、やや露出が少なく、髪の色は紺色に赤のメッシュを入れていた。

 どちらにしても、まともな感性を持った人間ではない。

 二人は、他人の家に勝手に上がりこんでいるくせに、何食わぬ顔をして亜結子を見下ろしている。そのふてぶてしさに、亜結子は怒りよりも恐怖を覚えた。

「何なの? 一体。他人の家に勝手に上がり込んで。警察呼ぶわよ」

 亜結子は、震える声を必死に抑えながら女性たちを睨みつけると、手探りで携帯電話を掴んだ。

 金髪女性の方が、呆れたように肩でため息を吐いた。

「あのねぇ。あたし達、あんたを助けてあげたんだけど。つまり、命の恩人」

「はあっ?」

 亜結子は眉をひそめた。なぜ、見ず知らずの住居侵入者に、恩きせがましいことを言われなければならないのだろう。

「あなた、昨夜、化け物に襲われて、怪我をしたでしょ」

 今度は赤メッシュの女性に言われて、亜結子はぎゅっと右腕のギブスを左手で押さえた。

「……何で、あんた達が知ってるの?」

 化け物に襲われた、なんて言ったら、精神異常者扱いされるかも知れない。亜結子はそう思って、警察にも、襲ってきたのは人間のようには見えなかった、としか言っていない。それに、木元をはじめ職場の人たちには、通り魔の犯行らしいとしか伝えなかった。それなのに、どうしてこの人たちは、亜結子を襲った犯人について詳しく知っているのだろう。

 まさか、こいつら、あの化け物と何か関係があるんじゃ……。

 身構えた亜結子に、赤メッシュの女性は体をずらして、その陰にうずくまっていたものを見せた。

「昨夜、あなたを襲ったのは、こいつよ」

 一瞬、亜結子は小さな悲鳴を上げた。それは確かに、亜結子を天井から見下ろして嗤った黒い怪物だったのだ。

「そ、そいつ……」

 震えながらベッドの上に這い上がった亜結子だったが、それがどんな姿をしているのかが分かるにつれて、亜結子は目を見開き、表情を次第に強張らせた。

「こいつは、思念鬼って言ってね……」

「朝倉さん!」

 亜結子は、赤メッシュの女性の言葉を無視して叫んだ。その声に反応して、うずくまっていた怪物がビクリと肩を震わせた。

 それは、人間とは明らかに異なる、黒い毛に覆われた獣に近い身体をしていた。だが、頭部の形状は人間のものに近く、特に目は人間そのものだった。その特徴のある、腫れぼったい奥二重の目に、亜結子は確かに見覚えがあった。

 それだけで、人間とは似ても似つかない化け物を、知り合いと結びつけるなんておかしいと思いつつも、亜結子の中で確信的な何かが自分を突き動かしていた。

「朝倉さん。……朝倉さんでしょ?」

 亜結子の声に怯えるように、生物はブルブルと震えながら、首を左右に振った。

 だが、亜結子の中でそれはもう完全なる確信へと変わっていた。

 あの目は、朝倉さんだ。同じ職場のパート主婦、朝倉澄子に間違いない。

 奇妙な格好をした二人の女性と、不気味な生物と化したパート主婦を前に、亜結子はなぜか非現実的なこの状況を現実のものだと受け止めていた。

「どうして? どうしてこんなことするのよ。ねえ、朝倉さん。答えてよ」

 亜結子は激しい口調で、朝倉と思しき生物を詰った。

「こんな怪我をさせられて、私がどれだけ大変な思いをしたか。どれだけみんなに迷惑をかけたか、分かる?」

 亜結子がきつい口調で詰れば詰るほど、朝倉は恐縮したように身を縮めていく。まるで、虐待されている子が親の攻撃にただひたすら耐えているように。

「ちょっと、あんた」

 不意に肩を掴まれて、亜結子は我に返った。金髪女性が、強い光を湛えた目で、真っ直ぐに亜結子の目を見つめている。

「こいつは、正確に言えば、朝倉さんじゃない。朝倉さんの思念鬼だ」

「思念鬼……?」

 聞いたこともない言葉に、亜結子はやや呆然としつつも、眉をひそめた。

「そう。人間が誰かに対して強い怒りや恨みを抱いた時、その思念が鬼の形をとって具現化し、憎い相手を襲ったりする。あたし達は、その鬼退治を……」

「だったら」

 金髪女性の言葉を打ち消すように、亜結子は鼻息も荒く言い放った。

「朝倉さんは、私に強い怒りや恨みを抱いてたってこと? だから、朝倉さんの思念鬼が、私を襲ったっていうのね?」

「そういうことになるわね」

 赤メッシュの女性が、落ち着きはらった声で答えた。

 亜結子は喉の奥の辺りに、苦いものが広がるのを感じた。

 冗談じゃない。パートのおばさん連中より若いせいで、虐められていたのは私の方だ。正社員は私なのに、パートのくせに勤続年数が長いからって、偉そうなことを言って私を馬鹿にしているくせに。それなのに、どうして私が襲われて、欠勤しなきゃいけないほどの怪我を負わされた挙句、加害者扱いされなければいけないの?

「心当たりはない?」

 赤メッシュの女性の落ち着いた声が、亜結子の気分を逆撫でした。

「ないわよ、ぜんっぜん!」

 亜結子がそう叫んだ時だった。

 朝倉の思念鬼が不意に床を蹴り、牙を剥いて飛び掛ってきた。

 光の筋が宙に煌き、金髪女性が振り回した朱色の棒が、朝倉の思念鬼を空中で一撃した。思念鬼は腹部を横一閃に殴られて、口から泡を吹きながら床に落ちた。

「……な、何なの?」

 脚を震わせ、ストンとベッドに座り込んだ亜結子の足元で、金髪女性に棒で背中を押さえつけられたまま、思念鬼が呻いた。

「……あんた、……私を、虐めてたくせに」

 その声は、苦しげに擦れていたが、間違いなく朝倉澄子の声だった。

「私が、……虐めていた?」

 冗談じゃない、被害者は私の方だ、と一瞬昂ぶった気持ちが、思念鬼の憎しみに燃える瞳を見た瞬間、まるで氷塊を抱えたかのように冷えていった。

「あんたは、パートの中でも新参者の私を、散々虐めたじゃないか。仕事が遅い、何にもできないって、他の従業員にも言いふらして。そのくせ、面倒くさい仕事とか、力仕事とか、全部こっちに振ってさ。正社員のくせに、私らよりもずっといい給料貰ってるくせに、もっとちゃんと仕事しろってんだ!」

 右腕を折られた時よりも、亜結子が被った衝撃は大きかった。これまで亜結子を構築していた全ての価値観が、音を立てて崩れ去っていった。

 確かに、亜結子は房江らパート主婦たちに陰口をたたかれる度に、彼女らは所詮たかがパートだと思うことで溜飲を下げてきた。特に、おっとりしていて、自分とさほど勤務年数の変わらない朝倉に対しては、多少遠慮なく接してきたかも知れない。

「私は……」

 そんなつもりはなかった、と言い訳をしようと思うのに、言葉が出てこない。ただひたすら、亜結子の中を自分の声だけがグルグル回っている。

 でも、私は虐めなんてしていない。被害者は私なんだ。

「私は、悪くない。私は、間違ってなんかない」

 亜結子は、自分に言い聞かせるように呟くと、グルリと奇妙な女性たちを見回した。

「ねえ、あんた達、こいつを退治しに来たんでしょう? だったら早く、こいつを私の目の前から消してよ」

 亜結子が冷たく言い放つと、金髪女性の足元で、朝倉の思念鬼は悔しげに呻き、爪で床のカーペットを引き裂いた。

「あんたねぇ!」

 息巻いて亜結子に詰め寄ろうとした金髪女性を制するように、赤メッシュの女性がその腕を押さえると、困ったように深くため息を吐いた。

「あなたが一言、謝ってくれれば、この思念鬼も納得して消えてくれるのだけれど」

 亜結子は即座に首を横に振った。その口元に、抑えようもなく笑みが浮かんでくる。

「どうして、私が謝らなければいけないの? 意味がわからないわ」

 亜結子は突然、襟元を掴まれた。眼前に迫った金髪女性の、濃すぎるメイクの奥から、驚くほど強くて綺麗な眼差しが、亜結子を射るように見つめている。

「いいか? あたしらが思念鬼を退治するってことは、朝倉さんのあんたへの恨みを消すってことだ」

「それのどこに問題があるの」

 絞り出すように問い返した亜結子は、金髪女性の瞳に映る自分の笑った顔を、まるで幽鬼のようだと思った。

「あんた、自分が他人から殺したいほど憎まれているって分かっても、何とも思わないのかよ」

 亜結子の胸の奥に、何か重いものがズン、と落ちたような気がした。

 小さい頃から、亜結子は外見的なコンプレックスに悩まされてきた。誰も、亜結子を可愛がってはくれなかったし、好きになってくれなかった。だから、いつもある言葉を胸に刻み、崩れそうになる心を支えて生きてきたのだ。

 美人は性格ブス、ブスは性格美人。

 亜結子はいつも、正しい道を選んできたつもりだった。控えめに、他人を傷つけないように節度を守り、世間の常識を守って生きてきたつもりだった。

 そのガチガチに凝り固まった考えが、正社員とパートという雇用形態の違いを、まるで江戸時代の士農工商のように絶対的な身分制度のごとく思い込ませていたのだ。

 パートのくせに。

 ことあるごとにそう毒づく亜結子の心の声は、声に出さずとも周囲に伝わっていたのだろう。特に、朝倉のような繊細な性格の人には。

「私は……」

 けれど、亜結子は認めたくなかった。ブスな上に、殺されそうになるほど性格まで悪いことを認めてしまったら、もう自分は生きていけない。

 ……認めない、認めない、……絶対に、認めない!

 込み上げてくる怒りに突き動かされるように、亜結子は右手を突き出した。

「ハナ!」

 赤メッシュの女性が叫び、金髪女性の襟首を掴んで後ろに引いた。仰け反った金髪女性の白い喉元に、うっすらと赤い線が走り、血が滲み出す。

 亜結子は、自分の爪がつけたその傷を眺めながら、なぜか沸々と言い知れない喜びが湧き上がってくるのを感じた。怒りとは、憎しみとは、これほど熱くて快感なものだったとは!

 亜結子は、自分を包み込む怒りに身を委ねると、体勢を崩した金髪女性の身体に体当たりをした。

「……こいつ!」

 吹っ飛んで壁に激突した金髪女性に代わって、赤メッシュの女性が弓のようなものを構えた。それを視界の隅で捉えながら、亜結子は渾身の力を込めて、床に伏したままの朝倉の思念鬼の頭部を踏み潰した。

 骨とその中身が砕ける音がして、亜結子は自分の足に伝わる感触と共に、言い知れない満足感を覚えた。

「……ざまぁ見ろ」

 亜結子は、呆然とその光景を眺めている二人の女性を見て笑った。

 これまで、自分を虐める者達を、こんなふうに踏み潰してしまいたいと何度思ったか知れない。今、亜結子にはそれができる。

 ……次は、あいつらだ。

 亜結子は身を翻すと、窓に飛びついた。

「逃がすか!」

 声と共に、何かが背後から飛んできた。とっさに身をかわした亜結子の脇腹を掠めるように、窓枠に淡く光を放つ矢が突き刺さった。

 亜結子は振り返り、悔しげに唇を噛む赤メッシュの女性にニヤリと笑うと、窓ガラスを突き破って外に身を躍らせた。

 まずは、あの生意気な房江。その次は、私に冷たい態度を取った木元だ!

 そう思った次の瞬間、亜結子の視界に稲妻が走り、醜い獣と化した亜結子の身体は、割れたガラスの破片と共に一階の庭に落下していった。


 薄っすらと目を開けた亜結子は、自分の部屋の天井を見上げていた。再び、恐ろしいほど強い力で眠りに引き込まれようとしながら、亜結子はその力に抗って記憶を辿った。

 ……一体、何がどうなったんだっけ?

 金髪女性に詰め寄られたところまでは、比較的ハッキリと覚えている。その後は、まるで靄がかかったように記憶が定かではない。

「全く、二人揃って、この様か」

 聞いたことのない男の声が、ぼんやりと聞こえた。

「チッ。いつもいつも、いいところばっかり掻っ攫いやがって」

 これは、金髪女性の声だ。

「仕方がないわ。こっちが油断していたせいだもの。それにしても、まさか被害者があんな形で思念鬼化するなんて」

 赤メッシュの女性の声は、少し沈んでいるように聞こえた。

「その原因は、追い詰めた君らにあると思わないか?」

 男にそう言われて、抗議の声を上げる金髪女性を、赤メッシュの女性が宥めた。

「確かにハヤテの言うとおり、私達、朝倉の思念鬼に同情して、本来の役目を疎かにしすぎたかもしれない」

「ツキコ!」

「その、朝倉の思念鬼はどうなったんだ?」

 問う男の声に、亜結子はハッとした。自分が、朝倉の思念鬼を踏み潰した記憶が、おぼろげながらよみがえってきたのだ。闇に沈もうとする意識を奮い立たせて、亜結子はじっと耳を澄ませた。

 やや間をおいて、赤メッシュの女性が答えた。

「辛うじて、息はあったわ。で、被害者が思念鬼を発したのを見て、何だかもう、どうでもよくなったって言い残して、消えていったわ」

「結局のところ、朝倉とこいつは、似たもの同士だったんだよ。周りに不満があっても、自分の中に抱え込んで押さえ込んで。自分の中に、人を憎む気持ちや、弱いもの虐めをするような醜い心があることも許せなかった。二人とも、本当はすごく純粋な人達だったんだよ。だから……」

 金髪女性は、鼻声で呟いた。

「だから、二人には分かり合ってほしかったんだ」

 亜結子は、閉じた自分の眦から、熱い涙が流れ落ちていくのを感じていた。

 

 一ヵ月後――。

 亜結子は、職場に復帰した。

「ご迷惑をおかけしました。今日からまた、初心に帰って頑張ります」

 バックヤードに集合した厨房・フロアの各スタッフは、復帰の挨拶をする亜結子を拍手で迎えてくれた。その中には、パート仲間の後ろに遠慮がちに立っている朝倉澄子の姿もあった。

「初心に帰るって、仕事内容まで新人に戻られちゃ、困るけどね」

 そう言って笑い飛ばす房江に、亜結子は微笑んだ。

「そうですね。でも、その分、ベテランの皆さんにフォローしていただけるので、安心してますよ、房江さん」

 ま、と口を開けた房江に、店長の木元が笑った。

「まあまあ。さすがに一ヶ月もブランクがあれば、抜けてることもあるだろう。それは、みんなでカバーしていけばいいことだ。進藤だけじゃない。誰にどんな災難が降りかかっても、スタッフ全員が一致団結して乗り切ればいい。みんな、仲間なんだから」

 スタッフ全員はしんみりとその言葉に聞き入った。

 亜結子は、休職した翌日から、不思議と自分の気持ちがスッキリしたことに気付いていた。休職した日に、何かがあったらしい。けれど、窓ガラスの割れた自分の部屋で目を覚ました時には、職場から家に戻ってきてから後の記憶がスッポリ抜け落ちていた。その記憶と共に、これまで自分の中で蟠っていたモヤモヤが、綺麗サッパリ消えてしまったようだ。

「進藤さん」

 業務用冷蔵庫の中で在庫チェックをしていた亜結子は、背後から恐る恐るといった口調で声をかけられて振り向いた。

「なあに? 朝倉さん」

 そこには、朝倉澄子が所在なげに立っていた。

「あの、……私、変に思われるかも知れないんですけど」

 亜結子は、朝倉の唐突な言葉に首を傾げた。

「どうしたの?」

「何だか、進藤さんに、謝らなければならないような気がして」

 朝倉の言葉が、亜結子の心をワサワサと揺らした。

「ふうん。……実は私も、朝倉さんに謝らなきゃって思ってたの。それが何か、思い出せないんだけど。何だか、変ね」

「私もそうなんです。……本当に、おかしいですね」

 二人はそう言うと、顔を見合わせて笑った。


 営業時間となり、一時間後にはランチタイムのお客で店内はほぼ満席となった。

「ありがとうございました」

 てんてこ舞いのフロア係に代わって、手の空いた厨房から亜結子が出てレジに立った。

「えっ、何? 奢ってくれるんじゃなかったの?」

「そんなこと、一言も言ってないわよ」

 どこかの会社の同僚だろうか。亜結子と同年代の女性二人が、レジの前で財布を片手に言い合っている。

「うっそぉ。ツキコ、この間、お給料日だったじゃん」

「そんなの関係ないの。ハナだって、お給料が入ったからって、奢ってくれたことないじゃない」

 そう言うと、やや背の低い、整っているが地味な顔立ちの女性が、亜結子に伝票を差し出した。

「会計、別々でお願いします」

 その後ろで、スラリと背の高い今どきメイクの女性が舌打ちをした。

 亜結子はなぜか、その二人をどこかで見たような気がしていた。けれど、食事を終えて会計に並ぶ人々が二人の後に列を作ると、目の前の仕事をこなすこと以外には頭が回らなくなってしまった。

 そして、ランチタイムが終わり、店内に客の姿がほとんどなくなる頃には、亜結子の頭の中から二人の存在は完全に消え去っていた。

 最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] バットエンドかと思った~! 一気に読んじゃいました。 面白かったです(*´ω`*)
[一言] 誰もが一度は抱える感情であるが故に、吐き出し方を間違えると怖いモノだなとこの話で改めて再認識しました。 短いながらもスッキリ纏まっていて、とても読みやすかったです(o^∀^o)
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