第三章
第三章
1
溜息を吐いて見上げた天井は真っ白だった。
――あの後すぐに市警の特殊部隊が突入し、マリアは身柄を連行され、恭也たちは保護された。恭也の怪我は、事前の応急処置がよかったのか、それほど重い怪我にもならず、数針縫う程度で済んだ。治癒魔法による新陳代謝促進の副作用もまったくなくて、帰っても良いということになった。保健なしの治療費の高さには舌を巻いたが、こちらに来るときにかなりの金額をふんだくって来たのでそれほど問題はなかった。
目下の問題は目の前で、ベッドの上で眠っている少女だった。
肩に負った傷はそれほど深いものではなかったらしい。その他、体の数箇所に打撲を負っていたがそれも大事に至るようなものではない。
だが目を覚まさない。
頭部を打ち付けたあとも見られず、医師の話を聞いたボーナムがいうには、「なんらかの心因性のショックによるもの」だそうだ。
一体何を見たのか聞いたのか。嫌な予感しか頭を過ぎらないが、それでも目覚めた彼女が以前のままであってほしいと、自分のせいでこんないざこざに巻き込んでしまったが故の顛末である以上、そう願わずにはいられなかった。
それに考えなければならないことが沢山ある。どうして、あの場所にマリア・サザーランドがいたのか。魔導書を奪った人物は一体誰で、どうやって古代魔法でノーライフキングを呼び出すのか。あるいは別のなにかをやろうとしているのか。
溜息をついた。思考が乱雑なときに結論を導き出そうとしても、何も出てこない。それに、材料もまだ足りていない。
腕時計を見た。
ちょうど昼を少し回ったところだった。運び込まれたのが昨日だから、もう一日も寝ているということになる。
スツールから立ち上がった。ちょうど小腹が空いてきた頃だったので、どこかに食べに行こうと思い、部屋を出た。次に戻ってきたときには、目を覚ましていたらいいな、と切実に願いながら。
廊下を歩いていると見知った顔を見つけた。
「鈴香?」
少し前を歩いていた少女は、こちらの声に振り返ると「あ」といって駆け寄ってきた。首から吊るした三角巾に左腕をかけている。
「恭也さん。えっと、怪我ですか?」小首をかしげる鈴香。
「まあ、そんなところ。あと友達のお見舞い。そういう鈴香こそ、なんか凄いことになってるけど」
「これですか?」そういうと恥ずかしそうに笑って視線を俯けた。「なんといいますか、飛行訓練を兼ねた模擬戦中に見事に撃墜されちゃいまして。それで墜落したんです。そんなに高さはなかったんですけど、落ち方が悪くて、見事に有り得ない方向に腕が曲がってました」
「それは痛そうだな」想像してみようと思ったが、ぞわりと鳥肌が立ったのですぐにやめた。「鈴香はこれから?」
「診察も終わっておなかも減りましたし、もう帰ろうかな、と。恭也さんはどうするんですか?」
「どこかに食べに行こうかなって思って」
「じゃあいいお店案内します。とってもおいしいパスタをだすお店がこの近くにあるんです」
「でも、いいの? 学校に戻らなきゃいけないんじゃないか?」
「午後から休校になったらしくて。だからいいんです」
「なるほど。じゃあ、お願い」
「はい」
鈴香と並んで病院を出た。外は晴れていて、穏やかな日差しがゆったりと降り注いでいた。昨日の天気が嘘のようだ。
当たり障りのないことを話しながら、歩いていると魔女の泉が見えてきた。もしかしたら、と思っていると「ここです」といって鈴香が立ち止まった。店の看板を見て、無性に溜息がつきたくなった。
『ブリッジズ・トゥ・バビロン』
あの店だった。
鈴香のあとに続いて店内に入ると、カウンタの向こうにいた、あの少女と目が合った。相変わらず無愛想なままで「いらっしゃい」というとすぐに厨房の奥に姿を消してしまった。店内は、昼時にしては閑静としていて、今日はミック・ジャガーの歌声が響いていた。なんの歌か思い出そうとしたけれど、時間が掛かりそうだったので頭の隅に追いやった。
窓際の席に座ってメニューを見ていると、さっきの少女が注文を聞きにやってきた。
「お決まりですか?」口調は丁寧だが、表情には愛想の欠片も見えない。
「ぺペロンチーノを一つ」注文して、鈴香はこちらをみた。「ここのペペロンチーノがとってもおいしいんです」
「じゃあ、同じの」恭也はいった。
「あ、それとアップルティーも」
「紅茶の方は食事とご一緒に? それとも食後にお持ち致しましょうか?」
「食後にお願いします」
最後に営業スマイルを見せて少女はカウンタの向こうに戻っていった。何故かその表情を見た瞬間に寒気が走った。たぶん、目が全然笑っていなかったからだろう。
「そういえば、なんで休校になったの?」少し気になっていたので訊ねてみた。料理が運ばれてくるまでの暇つぶしだ。
「ああはい。なんか学校の敷地内で異常な濃度の魔力が観測されたらしくって、その調査で今日の午後と明日一日休校になったらしいんです」
「異常な濃度の魔力?」
「そうなんです。なんだか判らないんですけど、午前中の授業が終わってすぐくらいに校内放送でそんなことが流れて、それで全校集会で午後から明日一杯の授業は休止、ってなったらしいんです。朝一で病院に運ばれてきたからわたしは実際に立ち会ったわけじゃないんですけどね」
料理が運ばれてきて話は一時中断した。目の前にパスタの盛られた皿が置かれる。食欲をそそるガーリックの香りに誘われてじわりと唾液があふれ出す。フォークに巻きつけてパスタを口に運ぶ。スパイシーで芳ばしい。うまくニンニクの香りと旨み、唐辛子の風味が油にうつってそれが、アルデンテに茹でられたパスタに絡み合っていた。
「うまいな、これ」顔を上げて恭也はいった。
「でしょ?」と鈴香は幸せそうに微笑んだ。よっぽどここのパスタが好きなのだろう。それを見ているとなんだか無性に微笑ましくなってきて、気がついたら食べる手が止まっていた。そういえば昔、佐奈とこうして一緒に同じものを食べていたことがあった。そのときの彼女は目の前の少女のように、やっぱり幸せそうに食べていて、自分はそれを見守りながら、それだけでどこか満たされた気持ちになっていた。だが、これは似ているようでまったく違うのだとすぐに気がつくと、途端に潮が満ちるように虚しさが押し寄せてきた。
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
「なんでもない、って顔じゃなかったですよ。なんだか泣きそうに見えました」
「そんな顔してた?」笑ってみせようとしたが、逆に本当に泣きそうになったので、正直に話すことにした。「妹のことを思い出してた」
「そうなんですか」鈴香がいった。フォークを皿の上において、興味津々といった眼差しを向けてくる。「じゃあ、本当にお兄ちゃんなんですね」
「まあ、一応は」恭也はいった。それから躊躇うように「正確には、だった、だけど」となるべく自然な口調でいうと、「え?」と鈴香が声を漏らした。その顔には「やってしまった」という後悔の色が浮かんでいて、やっぱりこうなったか、と恭也は内心溜息をつきながら「謝らなくてもいいよ。もう自分のなかでは折り合いはついているから」と出任せをいった。本当に折り合いがついていればこんな感傷に浸ることなんてない。馬鹿らしくて急に笑いたくなってきた。
「そう……ですか」少し納得はいかな気だったが、「恭也さんがいうなら、そうなんですね」とぎこちない笑みを浮かべてそういった。それから遠慮がちに「あの」と訊ねてきた。
「どうしたの?」
「こんなこと訊いていいのか判らないんですけど、本当に失礼なこと……かもしれないんですけど」
「とりあえずいってみて。じゃないと判らない」
「恭也さんって、ネクロマンサーじゃないですか。だから、大事なひとを、死んでから、自分のアンデッドとして使役してでもずっと一緒にいたいとかって思うんですか?」
「そりゃまあね」予想の範囲内の質問で、少しほっとした。「実際そうだから」
「やっぱり、そんな風に思うんですね」
「まあ、ただ流派とかそういうのによっては、ずっとひとつの死体を継承し続けるっていうタイプもあったりするらしいけど。でも、家族を使役することは歴史が長いネクロマンサーであればあるほど、それほど珍しいことじゃないんだ」
「あ、それアンドリュー先生もいってました」鈴香がいった。「先生も二年前まで双子のお兄さんを使役していたそうです」
「……双子?」
かちり、と歯車が合わさる音がどこかで聞こえた。
「はい、一卵性双生児だったそうですよ。一度写真を見せてもらったことがあるんですけど、どっちがどっちか判りませんでした」
そのときだった。
急に肩を叩かれて驚いて振り返ると、無愛想な少女がそこに立っていた。
「ちょっといい?」彼女はそう尋ねてから、鈴香にも視線を向けた。強制的に従えという目だ。
「お知り合いなんですか?」鈴香は首を傾げた。
「それほどでもないけど、知らないってほどでもない……と思う」
席を立って彼女についていく。厨房の方まで案内された。
「これ」そういって少女はポケットからなにかを取り出した。シャツのボタンほどの大きさで、厚さも殆どない物体それが彼女の掌に乗っていた。なんだろうと思っていると「盗聴器」と彼女は答えた。
「盗聴器? どうして?」
「昨日、下で見つけた。あなたのいた部屋だった」
下、というと地下室のことだろう。
「ってことは」
彼女は黙って頷いた。
昨日のボーナムとの会話がすべて聞かれていたことになる。
一体誰が?
いわれるでもない、制裁人としてこの街にやってきた自分を疎ましく思っている人物だ。その彼ないし彼女は、ジェームス・マッケンリーを殺害し、魔導書を奪った人間である可能性が非常に高い。
「気をつけて、彼女に」彼女はいった。
「いや、なんというか」恭也は苦笑する。「もう、昨日刺されたよ。正直死にかけた」
「…………」なにか釈然としない面持ちでじっとこちらを見詰めている。
昨日、間違いなくマリア・サザーランドは自分を待ち伏せていた。どうしてそんなことが出来たのか。それは昨日のあの会話を聞いていたからに他ならないのだろう。
「なあ、もしかして君は何か知っているんじゃないのか?」ふとそんな予感がして恭也は少女の顔を見た。
彼女は無言で首を横に振る。
「じゃあ、昨日、あの時間あの地下室に俺たち以外に誰か使用してたのか?」
また無言で少女は首を横に振った。
「一応、突き止めた」少女はいった。「でも何にもはかなかった」
「そいつはいまどこに?」
「…………」少女は答えない。ただ、無言で見詰める瞳が聞かないほうが身のためだといっているような気がして、それ以上の追求はしないことに決めた。
盗聴器を受け取って、テーブルに戻ろうとしたところで「待って」と声を掛けられ振り返った。「なにかあったら、店まで電話してきて。多分、力になれる」
「判った」恭也はうなずいた。
鈴香の所へ戻ると、彼女のパスタはもうほとんど食べつくされてしまっていた。
「なんだったんですか?」と鈴香が尋ねてきた。
「悪い。ちょっと用事が出来た」これからボーナムに会いに行くつもりだった。この話をしなければならない。
「そうなんですか」少し残念そうに鈴香はいった。「あ、じゃあそれもらえます?」
「ああ」頷いて、自分の分の皿を差し出した。それから財布から二人分の代金を取り出してテーブルの上に置いた。
「え、悪いですよ」
「いいから。せっかくのランチを台無しににしたお詫び」
「んー……ならしかたありませんね。じゃあ、絶対、今度埋め合わせしてくださいね」
「ああ」頷いた。だがその今度があるのだろうか、と考えると少し寂しくなった。この事件が終わったらそのまま日本に帰るかもしれないから、これで鈴香と会うのが最後になる可能性もある。
「大丈夫ですよ」
はっとして顔を上げた。
どこか楽しげな眼差しで鈴香がこちらを見ていた。
「きっとまたすぐ会えます」
「本当に?」
「はい」
別れの挨拶を交わしてから店を出てタクシーを捜したが、なかなか見当たらない。しばらく歩いていると背後で「なにをやってるんだ」と声が聞こえて振り返ると不機嫌そうな表情でタバコをくわえているボーナムがいた。
「あの、少し話したいことがあるんですけど」
「こっちもだ」ボーナムはいった。タバコを携帯用灰皿に押し込んで、溜息をつくように、「雪乃が目を覚ました」と吐き捨てた。「お前に会いたいそうだ」
2
病室の前で一度立ち止まって深呼吸をしてからなかに入った。個室の窓際にあるベッドの上で、上半身を起こした雪乃はぼんやりと窓の外を見ていた。その瞳になにか昏い悲しみを見て取った恭也は、掛けようとした声を飲み込んで、なんとも決まりが悪いまま中途半端な位置に立ち尽くしてしまった。
「……恭也」ゆっくりとこちらを見た彼女はそう呟くと、儚げな微笑を浮かべて「おはよ」といった。
「おは、よう……」とりあえず挨拶を返すと、ベッドの側のスツールに腰を下ろした。「ごめん」
「どうして?」不思議そうにこちらを見る。「恭也なんかしたっけ?」
「たぶん、俺と出会ってなかったらこんなことにはならなかった。だから――」
「…………」雪乃はじっとこちらを見つめながら、何も語らない。しばらくそんな沈黙が続いてから急に「実はね」と彼女が口を開いた。「全部思い出したの」
え? と声が漏れた。言葉の真意を汲み取ろうと彼女を瞳を覗き込んだ。そんな恭也の所作に「やっぱり知ってたんだ」と雪乃が悲しそうに呟いた。しまったと思ったがそれも後の祭り。「酷いよ」と声を絞り出した雪乃の声は震えていて、シーツを握り締めた手の甲にポツリと水滴が落下した。
「あたしの二年間っていったいなんだったの……?」
涙声の問いかけ。その矛先は誰に向けられたものなのか。少なくとも、自分には返すべき答えが見つからない。そんな自分に無力感を覚えながら恭也は再び「ごめん」と謝罪した。
しばらく泣きじゃくってから、不意に「あたしはね、からっぽなの」と酷く虚ろな声で雪乃はいった。「二年間、ずっと両親を探すために生きていた。それまでのいろんなことを全部放り出して。でもそれが全部無駄だったの。それはね、二年間がすべて無為なものだったとかそんなことじゃなくて、いまのあたしっていう存在が全部否定されたってことなの。そんなので、これから先どうやって生きていけっていうのよ!」
胸を刺す慟哭。それがどれほどの悲しみか恭也には判らない。けれど、それでも彼女のためになにか出来ることがあるんじゃないのか。恩を受けたまま、返さずに悲しみという仇だけを残して、それでいいのか。そう自問したときには、もう体が勝手に動いていた。
「――え?」突然抱きすくめられて雪乃が困惑の声を漏らした。
その声を聴きながら一瞬浮上してきた一抹の後悔を胸の奥に押さえ込んで「ごめん」と恭也はいった。「なんか、いろいろごめん。多分俺にはお前の心を癒すことも満たすこともできないと思う。だから、こんなことしか出来ないけど……」もはや自分でも何をいっているか判らなかった。
それでも、抵抗しようとせず「うん」と体を預けて雪乃が答えるのを聞いて、自分の行動が少なくとも間違っていなかったのだと、安堵した。
「ねえ、恭也」
「なに」
「あたし、あんたのことが好き」
「俺は……判らない」
「抱きしめといて?」
少し笑っているような気がした。
「そういうんじゃないんだよ」困ったように恭也はいった。「なんかこう、もっと根源的ななにかに衝動的に衝き動かされたっていうか」
「なにそれ、意味わかんない」そういって雪乃は吹きだした。
「俺もなにいってんのか判んない」
「じゃあさ、恭也は、あたしとこうしているのって嫌い?」
「……そんなことは、ない」
「なら、恭也もあたしのことが好きなんだよ」
「そうなのか? というか、そんなんでいいのか?」
「いいの。あたしだって一目惚れで、いまいち好きな理由がよく判んないんだもん。でも、胸の奥のほうからとんでもない衝動が暴れだしてきて、どうしようもないくらいに心拍数が上がって、体が熱くなってきて、それでなんだか幸せになるの」
「それこそ意味判んないよ」
「お互い様ってこと?」
「かもな」
二人同時に吹きだすと、盛大に笑った。
一通り笑ったあとで、ふとある疑問が胸に去来した。
彼女は、憎くないのだろうか。両親を殺した人間や、真実を黙っていた周囲の人たちが。
「どうしたの?」
雪乃の声に我に返った恭也は、反射的に「なんでもない」といいかけたのを飲み込んで、「憎くないのか?」と彼女に尋ねた。
「なにが?」キョトンとした表情で首を傾げる。
その仕草があまりにも自然だったから、喉元まで競り上がった言葉を飲み込みかけたが、目の前の微笑が僅かに揺らいでいることに気がついて、「お前の両親を殺した犯人を、真実を黙っていた人間を」
「そうね」僅かな沈黙。「確かに憎いし、たぶん殺してやりたいとかって思っているかもしれない。けどね、そんなのいまさらどうしようもないじゃない。犯人を殺したからって父さんとお母さんが帰ってくるわけじゃない、おじさんや真実を黙っていたすべての人を憎んだからって、あたしの二年間が元に戻るわけじゃない。すべては、もう終わってしまったことなの。だから、あたしはそんな無駄なことに体力を使いたくない。それに、犯人はともかくとして、おじさんとかはね、たぶんあたしを思って黙っていてくれたんだと思うの。だから、それは時間が経てば許してしまうと思う」
雪乃の答えを聞いて、無性に溜息がつきたくなってきた。「なんというか。お前って馬鹿なほどお人よしだよな」
「馬鹿ってどういうことよ」
むぅ、とほっぺたを膨らませて睨みつけてくる。
「なあ」恭也はいった。「お前はこれからどうするんだ?」
「どうしたらいいと思う?」
「それは自分で考えることだろ?」
「それはそうなんだけど」雪乃は俯いた。「判らないのよ。まるで、太平洋のど真ん中にレジャーボートで放り出されたような気分。どの方向を見渡しても目指す陸地が見えなくて、それでもどこかに向かって漕ぎ出さなければいずれ自分が駄目になってしまうことが判っていて、でもやっぱり漕ぎ出せずにいる。そんな感じかな」儚げな微笑を浮かべる。「恭也は、どうするの?」
「俺は、いままでどおりだ。それとなく、この事件の犯人の目処がついた。あとはどこかで足りないピースを拾い上げればそれで、絵は完成する」
「ほんとうに、探偵みたいだね」くすくすと雪乃は笑う。
「探偵がそれをいうか?」苦笑で答える。
それからどうでもいいようなことをしばらく話して、「それじゃ、また」と彼女に背を向け、出口へ歩いてく。
「待って」
呼び止める声に振り返ると、「一つお願いがあるの」と雪乃がいった。表情は、まるで迷子の子供みたいに不安げに見える。
「なに?」
「うん。その、ね……。この事件が片付いたらさ、あたし日本に行ってみたい。小さい頃に暮らしていた記憶は薄っすらとだけあるんだけど、でもやっぱり見てみたいの。はっきりと、この目で、恭也の隣で」
「判ったよ」
廊下を歩いてロビーの方へ歩いていると、壁にもたれて腕を組んで立っているボーナムの姿が目に入った。手にはなにやらA4サイズの封筒を持っていた。
「もうすんだのか?」
「ええ」彼の方へ近寄っていく。「普通にまともな状態でしたよ」
病室へ向かう前に、かなり精神的に混乱していると聞かされていたので、相応の覚悟をしていった分、拍子抜けしてしまった。
「お前だからだろうな」ボーナムはいった。「それで、話とは?」
「ええ、雪乃の両親を殺した犯人のことです」
「アンドリューのことか?」
「ええ。彼は双子だったそうです。一卵性の」
「ほう」
「そして、二年前までその兄弟を使役していたらしいですよ」
「……なるほどな」ボーナムはいった。渋い顔で天井と壁の継ぎ目あたりを睨みつけている。「いかんせん、奴の情報は元から少なかったからな。それくらいあっても不思議じゃない……か」
「そうなんですか?」
「九十年代の前半辺りにアメリカにやってきたところまではなんとか情報を得ることができたが、それ以前の経歴は、出生も含めてようとして知れない。そういう男だ。で、他には?」
「昨日話した場所で盗聴器が見つかりました。だから、たぶん待ち伏せしていたのも事前にあのときの会話を聞いていたからだと思います」
「なるほど。だが一体、誰が?」
「恐らく、ロンギヌスのメンバーによるものだと思います」
「どうしてそこでその名前が?」
「もし本当にノーライフキングを呼び出して封印を壊すつもりなら、その計画の根底ともなる死霊の書を奪還しようとしている俺は確実な邪魔者です」
「それで、邪魔者を排除しようとした、か。だが一体誰が彼女に指示をしたんだろうな」
「たぶんアンドリュー・ピチェニックですよ」
「根拠を聞かせてもらおうか」
「簡単です。俺が制裁人であると、この街で知っている人間はごく少数です。あなたとタイラー刑事、それと雪乃と、街で知り合った留学生の日本人。そして、アンドリュー・ピチェニック」
それ以外の人間には知られていないはずだ。
「マリア・サザーランドは、奴の教え子だそうだ」呟くように、ボーナムはそんなことを口にした。
「繋がりましたね」ボーナムを見ていった。
「ああ、ジェームス・マッケンリーをかみ殺したのは、彼女の使役していた馬鹿でかい犬だ。歯形と、遺体の傷口が一致した。まず、間違いない。さらに、だ。彼女はジェームス・マッケンリーを殺す動機があった」
「動機?」
「昔、奴が起こした事件で家族を一人、弟を殺されている」
えらく複雑な背景が出来上がってきているな、と恭也は思った。
「魔導書を持っているのはアンドリュー・ピチェニックだと思われます」恭也は話を元に戻した。「彼はジェームス・マッケンリーが殺害された日に、教え子に会っていたといってました」この街に来た翌日のことだ。鈴香に案内された魔導師学校で、確かにそういっていたのを聞いた。「でも、一体どうやってノーライフキングを呼び出すつもりなのか、それが判らないんです」
「ああそのことなんだが」そういって封筒を開け、中身を取り出した。先ほどから気になっていたのでなんだろうと思っていると「これを見てくれ」と手渡された。見てみると、なにかの写真のようだった。
「これは?」
「死霊の書の、重要な部分をプリンタで出力したものだ。写本が議会図書館の倉庫のなかにあったそうだ」
「これが、死霊の書……」食い入るように写真を見る。「……これは」そのなかに見覚えのある図形を発見した。ページいっぱいに描かれた二重円。その内側の円弧に頂点が接するように配置された五芒星。そのなかにはさらに正方形が描かれている。さらに五つの頂点の部分には小さな円と五芒星が描かれていた。それと同じものがあの墓地に墓を使って描かれていた。
「どうした?」
「これ、あの墓地にありました」
「ああ、知ってる」
「え?」
「警察も無能じゃない。朝一でその写真が送られてきてから、事件があった墓地をもう一度手分けして見て回った。もうすべての場所を把握している。それにどこで儀式をやっているのかも、おおよその見当はついている。魔法陣が描かれていた墓地と、この魔導書の魔法陣の位置関係から、中心地点にあたる場所を割り出せばそれでおしまいだ」
「で、それはどこなんです」
「ホールシティ魔導師学校」
「え?」
「前に話しただろう。あそこの訓練場の結界システムには欠陥があると。あれはな、外から魔力が浸透するが内側からは逃げていかないという欠陥だったんだ。それで、シンヤは見直しを求めたんだ。こんなシステムじゃ、内部の魔力濃度が異様に高くなる、と」
そういえば、と先ほどの鈴香との会話を思い出していた。
――なんか学校の敷地内で異常な濃度の魔力が観測されたらしくって、その調査で今日の午後と明日一日休校になったらしいんです。
「……なるほど。でもどうして死体を?」
「それはそこに書いてある。なんでも邪悪な五芒星を使っているからか知らないが、六六六体の死体がノーライフキングを呼び出すのには最低限必要だそうだ。多ければ多いほどいい。そしてそれが、寄り代になるらしい」
「あの、どうしてそこまで判っているのにこんなところにいるんですか?」
「これはもう完全なテロだ。警察は引っ込んでろと上から通達があってな。それと、関係者以外には、くれぐれも口外するな、とさ。どうやら連中この出来事を闇に葬り去るつもりらしい」ボーナムは苦笑する。
「そうなんですか。それじゃあ、いまは軍の特殊部隊辺りが動いてるってところですか?」
「ああ、それと猟犬部隊の連中も」
「ああ、そういえば」
そんなことをいっていた。
「だから連中に任せておけば、お前がいちいち出張らなくとも事なきを得るだろうさ。墓地の魔法陣にしても、すでに術式を崩す作業が始まっている」
「何がいいたいんですか?」ボーナムの口調に言外の意図を汲み取った恭也はそういうと、棘のある視線を送った。
「あんまり性急に過ぎると、早死にするぞ。お前は絶対楽な生き方が出来ない人間だ」
「でしょうね。でも俺はやらなきゃならないんですよ」
「罪滅ぼしのつもりか?」
「まさか。そんな安い決意じゃないですよ。そうですね、いってみればそれが俺の生きる意味なんですよ。制裁人として、依頼された仕事をクライアントの望みどおりに解決する。そういう風に生きることに、残りの人生をすべて捧げるって決めたんですよ」
「あまり大差あるようには聞こえないな」
「気持ちの問題ですよ、本人の」
「都合のいい答えだ。政治家よりもたちが悪い」
「それでは」そう一礼すると恭也は出口へ向かって歩き出した。
「ちょっと待て」
立ち止まり、振り返る。
「死ぬなよ。いま、ユキノを支えているのはお前という存在だけだ。そのことを、よく理解しておけ」
「肝に銘じておきます」
一礼して歩き出す。
これからすべき行動を頭のなかで思い描いた。一度雪乃の部屋に戻って、眠っている佐奈を叩き起こして、あとは魔導師学校へ向かう。そして魔導書とアンドリューの身柄を確保。早ければ一時間もあれば充分に事足りる。
外に出た恭也は、ふとなにか違和感を覚えて空を見上げた。
雲ひとつなかった青空。
その色が、少し濃くなっているような気がした。
強いていうなら紫色に。
(佐奈)と念話で呼びかける。
昨日の戦闘の後から、魔力の回復のためにずっと雪乃の部屋で眠っている。なかなか返事がないのでもう一度呼びかけようとしたところで、(うにゅぅ……。なにぃ?)と眠たそうな声が返ってきた。
(仕事だ)
(うん、判った)急に声がしゃきっとした。(どこにいったらいい?)
(えっと、そうだな……)と少し逡巡。(魔女の泉のところまで。場所は、判るな?)
(お兄ちゃんが行ったことのある場所なら)精神リンクと一緒に、ある程度記憶も共有できるので、こういうときに便利だ。
念話を終えて、空を見上げる。先ほどより色が濃くなっていた。少し、空気がざわついている感じがする。
もう儀式は始まってしまっているかもしれない。
3
魔女の泉の前まで来ると、そこにすでに佐奈の姿があった。噴水の池のふちに腰掛けて退屈そうに足をぶらぶらさせながら、何か歌を口ずさんでいた。
近づいていくと、途中でこちらに気が付いた彼女は、ふちから飛び降りてこちらに走り寄ってきた。
「遅い」ビシッと指をさしていう。「女の子を待たせるのは駄目な男の典型だよ」
「お前が早すぎるんだ」そういって佐奈の頭をぐしぐし撫でる。
「うー、もう、子供扱いして。こんなことしてる場合じゃないでしょ」ぶんぶん手を振り回して恭也の手を払いのけながら佐奈がいった。少し顔が赤い。
「まあな」そう答えて歩き出す。「なあ、佐奈。いまどんな状態なのか、判るか?」
「うん」頷いてから、空を見上げる。釣られて上を見ると、また色が濃くなってた。「なんていうか、すっごい悲鳴が聞こえるの。植木の葉っぱ一枚一枚が、空を飛ぶ小鳥たちが、空気中に漂う小さな生き物の一つ一つが、みんな苦しんでる。そういう声が聞こえてくるの。でも、逆に死者の歓喜が聞こえる。その所為かな、昨日あんなに能力を使ったのに、もうほぼ完璧なほどに魔力が回復してるの」
通りかかったバス停に運良くバスが止まっていたのでそれに乗り込んで一番奥の席に座った。平日の昼間でも、それなりに人がいた。
目的地でバスを降りた。自分たちのほかには誰も降りなかった。
「……なんか嫌な感じ」佐奈が呟いた。
近くの植え込みの陰に隠れて、校門の様子を窺う。警備員と思しき男が、門の左右に一人ずつ立っていた。
「行くぞ」と合図をして校門へ向かって歩き出した。門は閉じられており、警備員の男二人がこちらをじっと睨んでいた。体格がよく、制服の上からでも筋骨隆々としているのが判る。学校の警備員というよりは、立哨している兵士のようだ。
(お兄ちゃん)
(判ってる。こいつらは臭う。生きてる人間じゃない)
校門の前までくると、片方の男が目の前に立ちふさがり「入ることは出来ません」と低い威圧的な声でいった。
意思があるのかと少し驚いたが、「通してもらいたいんだけど」と男を睨み返した。
「お帰りください」
男のやたらごいつ手が肩を掴んだ。万力のようにギリギリと食い込んだ指が肩を締め付ける。
「その汚い手を離せ」
唾を顔面に吐き掛けた。
瞬間、ざわりと空気がざわめき、肩に込められる力が一気に倍増する。それは肩甲骨をいともたやすく砕かんばかりの力。だが、男の手が恭也の肩を砕くより先に、男の懐に潜り込んだ佐奈が痛烈なアッパーを男の顎に叩き込んだ。男の体は宙を舞い、門扉に激突して地面に転がった。目の前で倒された仲間の姿を見たもう一人の警備員がとっさに腰のホルスターに差した拳銃に手を伸ばそうとしたが、先手をとって動いた佐奈が鳩尾に一発叩き込むと、男が腹を押さえて体を句の字に曲げたところに跳躍の勢いをつけた膝蹴りを鼻っ面に叩き込んだ。男の体がぐらりとゆれ、仰向けに昏倒した。
「さすが」
「もう、ひやひやさせないでよ。心臓に悪い」
「とっくに止まってるんだろ」そういいながら佐奈を抱きしめた。「一気に飛ばしていくぞ」
「うん」
魔法陣を展開。
抱きしめた小さな体にありったけの魔力を注ぎ込む。
僅かな鼓動が密着しあった肌を通して感じられる。この瞬間だけ、彼女は体温と心音を取り戻す。死人を殺したまま生かす、鹿羽一族の長年の叡知が生み出したまさに秘術である。
光が爆ぜ、暴風が巻き起こる。
舞い踊る黒髪。
紫光をたたえた瞳が物欲しげにじっと見つめてくる。
唇を重ね合う。絡まる舌。唾液の交換とともに精神も交感し、限りなく自分と彼女が感応し、一つの存在となっていく。
唇を離すと、唾液が糸を引き、そして途切れた。
「充電完了」
そういって恭也の腕を振り解いた佐奈は、軽い足取りで門扉のすぐ前まで行くと、握り締めた拳で鋼鉄の門扉を殴り飛ばした。
敷地内に入ると、迷わずに訓練場のドーム目掛けて走った。僅かに腹の傷が痛んだが、そんなことをかまっていられない。先ほどの門をぶっ壊した音を聞きつけたのだろう、わらわらとアンデッドが姿を現し、行く手を阻む。その大半が工事現場の服装をしているところからすると、恐らく訓練場の建設に関わっていた人間なのだろう。
山のように集まったアンデッドたちであったが、万全の佐奈が相手ではまったく勝負にならず、次々と元の死体に戻って行き、彼女が通ったあとには屍の一本道が出来上がっていた。それを辿るように走っていると、訓練場に到着した。見張りはおらず、鍵も閉まっていなかったので、簡単になかに入ることが出来た。
扉を抜けると、肌を舐めるような寒気と、鼻腔を刺激する強烈な死臭が漂ってきた。
「沢山、悲鳴が聞こえる」と佐奈が顔を顰める。いつもより精神リンクが強まっているので、その声がどれほど彼女を苛んでいるのかが、手に取るように判った。まるで、常に耳元で断末魔の声を聴かされ続けているような、無間地獄に放り込まれたような感覚。心臓がきりきりと締め付けられるような緊張感が襲った。
だがここはまだ玄関ロビーで、訓練場の結界内にいるわけではない。一体、そのなかはどんな阿鼻叫喚の極致と化しているのか。想像するだけでも怖気が走った。
だがそれでも行かねばならない。
別にこの街のために、世界のために、なにかしてやるような義理などない。ここは見知らぬ街で、この世界はたった一人の自分の半身を奪い取った憎むべきものだ。
それでも戦う理由はただ一つ。
体内を流れる血液に長い年月をかけて刻み込まれた制裁人としての指名、ただそれだけだ。
馬鹿げていると笑われようと、
人でなしと罵られようと、
それが自分と彼女の存在意義であるなら、
迷わずに戦いにこの身を捧げる。
半身を失い、再び得たその日に、
そう、決めたのだ。
訓練場への扉に手をかけようとしたところで「待って」と声が掛かった。
「佐奈?」
振り返ると佐奈が不安に揺れる瞳でこちらをじっと見詰めていた。
「お兄ちゃん、傷口が……開いてるよ」
いわれて自分の腹を見た。シャツに赤い染みが滲んでいた。
「これくらい平気だ」そう強がってみる。実際はじんじんと傷口が傷む。この痛みも、たぶん、彼女に伝わっている。そう考えると、少し申し訳ないような気がした。
「でも、そんな状態で戦ったら――!」
いまにも強制的に連れ帰りそうな表情で食い下がってくる佐奈の頭の上に、ぽんと手を置いた。「あ」と声を漏らして、黙ってしまう。
「ばーか。俺は基本的にお前のサポートだろうが。俺を死なせたくなきゃ、お前が頑張ればいいの。俺も、それなりに善処はするからさ」
「……それでも心配なのは心配だよ。お兄ちゃんが死んでいいのは、もっともっと年を取って物忘れが激しいよぼよぼのおじいさんになってからなんだから」
「判ってる。俺もこんなところで死ぬつもりはないよ」
頭においていた手で軽くデコピンをしてから、訓練場への扉を開けた。まず、短い廊下があった。恐らく、結界を展開中でもなかに入れるように設計されているのだろう。廊下の奥の扉のドアノブを握り、恐る恐る開いた。
刹那、精神に針を刺すような衝撃が襲った。
ぐらりと眩暈がしたのを何とか堪えて目の前の光景を睨みつけた。
気が狂いそうなほど紫一色に染め上げられた空間。異様なまでに高まった空間の魔力濃度のせいで、空気そのものが光っているように見える。
そして山のように積み上げられた死体。まるで、地獄の一部を切り取ったような凄惨な光景だ。
それをバックに佇む一人の男。
「――アンドリュー・ピチェニック!」
男が振り返る。
「予想よりも幾分かお早い到着だ」飄々とした態度でアンドリューはいうと「だが、もうしばらく待ってもらいたいな」と口の端を吊り上げ苦笑を浮かべた。「あと少しなんだよ」
「魅力的な提案だが、お断りだ。俺はあんたを捕まえて、その魔導書を持って帰らなきゃならないからな」
「そうか、残念だ。君にも歴史の証人となってもらいたかったのだが。まあいい。どの道、この成果は世界中に知れ渡ることになるのだから」
「それがお前の目的か?」
「まさか。あくまでそれは一部分でしかないよ。――君は、この世界が平和だと思うかい?」
「突然何を――」
「僕はね、名前がないんだ。冷戦時代にソ連が行っていた強化魔導師計画のなかの一人として幼い頃から数字で呼ばれ、魔法学の各部門での英才教育を受け、ネクロマンサーの適性があった僕は古今東西ありとあらゆる死霊魔導術を仕込まれた。もちろん、それを小さな子供がすべて習得することなど不可能だ。だから研究者たちは、子供たちの脳や肉体に可能な限り改造をくわえて、そして無理やりにでも教え込ませた。だが当時の自分はそれが辛いことだなんて思っていなかった。ただそれが当然であると受け入れ続けていた。その認識が変わったのは僕が十三歳になったころだ。泥沼化して、どうしようもなくなっていたアフガンに僕は送り込まれた。水も食料もない、あるのは途方もない量の砂とジリジリと照りつける灼熱の太陽、飢えと渇きとゲリラに対する恐怖のなかでハゲタカの接吻を待つ、そんな地獄のような場所だった。それでも僕は戦ったよ。死した同胞たちの体を借り、死人の部隊を編成して、ムジャーヒーディーンの兵士たちやゲリラ部隊を可能な限り殺し、あるいは疑わしいというだけの理由で村を一つ丸ごと消したこともあった。
そうしているうちに、ふと殺した人たちの顔が脳裏を過ぎるようになった。それはどうしようもない飢えや、異常なまでに冷え込む砂漠の夜が見せた幻影だったのかもしれない。けれど僕の記憶にはいまもその人々の死に顔と最後の言葉が鮮烈に残っている。そして、僕は思ったんだ。これは本当に正しいことなのか。こんな地獄の果てのような場所で自分は何のために、誰と戦っているのか。そんなことを考え出すともうキリがなかった。周囲を見渡せば麻薬中毒者ばかり。たぶん彼らも同じような苦悩に囚われ、そしてそれから逃れるために狂っていったんだろう。けれど幼い頃から様々な薬品を投与され続けていた僕は、麻薬程度で狂うことなどできなかった。だから、彼らが本当に羨ましかったよ。
そして答えが出ないまま、戦争は終わった。研究所に戻ってきた僕たちを待っていたのは、以前と同じモルモットの生活だった。もちろん不満なんてなかった。そうやって僕らは育ってきたのだし、これからもそうなると思っていた。
だが、それは違った。アフガンで自分のあり方を疑った僕は、もうそれまでの自分ではなかったんだ。ひたすら兵器として肉体を改造され続けるだけの生活。それを当然のものとして受け入れることが出来なくなっていた。そんなときだった。ソビエトが崩壊し、研究所が破棄されることになった。そこで育てられていた子供たちも全員処分――殺されることになった。それを知った僕は数人の有志を募り、研究所から脱出した。これで自由になれるのだ、とそんな感慨を抱いたのも束の間。僕を待っていたのは右も左も定かではない広大な森林地帯だった。いつも研究所の外に出るときは目隠しをされて車に乗せられていたから、外がこんな風になっているなんて思いもしなかった。当てもなく彷徨ううちに次々と仲間たちは飢えや疲労、病に倒れていって、気がつけば僕だけになっていた。僕もすでに死神の囁きが聞こえてきそうなほど、追い詰められていた状態だったから、もう駄目だと諦めかけていたよ。そのときだった。無作為に林立する木々の間に、僅かな光が見えたんだ。慌ててそちらへ行ってみるとそれは民家の明かりのようだった。最後の力を振り絞って、僕は民家の扉の前にたどり着いた。そして縋るような気持ちで扉を叩くと、なかから若い男が出てきた。背が高く、顔立ちの整ったまるで映画俳優のような男だった。こんな山奥の村より、ニューヨークの街中のほうがよっぽどお似合いの男だった。それに、どういうわけかこんな場所で彼は高級そうなスーツを着込み、黒い革靴を履いていた。僕はその男に話した。いままで自分がどんな風に生きてきて、どうしてこの場所に来たのかを。すると男はいった。『君には資格がある』と。始めは何のことだかさっぱり判らなかったが、話を聞いているうちにその意味がだんだんと理解することが出来たんだ。彼はロンギヌスの幹部で、ある目的ではるばるあんな辺境の地へ足を運んでいたらしい。そして、彼は僕に仲間にならないかと誘ってくれた。彼の語る理想に僕はすっかり虜になっていたから、二つ返事で頷いたよ。
彼はね、この世界を一つにしたいといっていたんだ。世界は元々一つだった。多少の民族の違いや肌の色の違いはあった。けれど言語は統一されていた。だがバベルの塔が作られたあの日、人々の言葉は引き裂かれ、それぞれの地に散ってしまった。カインとアベルから始まった争いの歴史は、それによってますます激化を極め、人々は戦い殺しあうようになった。
そのそもそもの火種となったのが、それよりも昔に発生したノアの洪水だ。かつて封印のなかった世界では誰もが魔法を使えた。そしてあるとき七人の偉大な魔法使いが生まれた。彼らは人が死に、花が枯れ、大地が罅割れるこの世界に絶望していた。そして神を倒し自らが神になろうと考え、いまでは到底考えられないような巨大な魔法を行使した。その結果、神の怒りを買い、四十日四十夜洪水がこの世界を飲み込んだ。そして、白い魔女が現れ、七つの大霊脈を封じたことで神の怒りは静まり水は引いた。七人の魔法使いたちは、神により未来永劫子々孫々と伝わり続ける残酷な呪いを与えられた。バベルの塔を作ったのはね、彼らの子孫なんだよ。何代も前の先祖たちが為し得なかった偉業を達成するために、そして志半ばで散っていった彼らの無念と、呪いに対する復讐のために、神の座する場所を目指したんだ。
バベルの塔は既に折れてしまった。だが、彼らの意思はいまなお受け継がれ続けている。そう、ロンギヌスこそがまさに七人の魔法使いたちの子孫が作り上げた、まさに神を殺すための組織なのだよ!」
「神を殺してなんになる! そもそもそんなもの、いるかどうかも判らないただの概念じゃないのか。仮に殺せたとして、そいつらが新たな神になったとして、それが本当にいいことなのか。テロリストが作る世界なんて、真っ平ごめんだ」
「テロリスト。そういってこの世界は我々を貶める。だが、我々こそが真の平和への救世主なのだ。再び世界が一つになることが出来れば、この世界を覆いつくしている不毛な争いはすべて消え去る」
「何故そういいきれる。たとえ環境だけをかつての状態に戻したとしても、変わってしまった人間は、もうもとには戻らない」
「ならば、滅ぼしてまた作ればいいだけだ。彼は、それが出来るといった。この世界がどういった構造で作られているかは誰にもはっきりとしたことがわからない。平行世界の存在が証明され、科学と魔法の力を使えばこの世界のほぼすべてを解明できると思い込んでいるが、その実、この宇宙のまだ九十六パーセントは謎のまま。どうしてそんなことになっているか判るかい? それはね、神の作為なんだよ。もしも、その世界にいる人間が、自分を含有する世界について一から十まで知ってしまえば、それだけで神と同等の存在になってしまう。彼らは、それを恐れているんだ。物語の登場人物がシナリオ通りに動かないなんてことになったら大変だ。
我々人間は、自分たちのいる次元より低い次元に対しては圧倒的な優位を保てる。現に、平面の二次元世界に思うがままの世界を創造し、そのなかで人物を操っている。それと同じなんだよ。この三次元世界より高位、つまり四次元、五次元に存在する何者かがこの世界をつくり、そして物語を作り続けている。だが我々から見て神に位置する存在は、その世界においてはただの人でしかない。それならば、同次元に昇華することができるなら、神ですら殺すことは可能だ。
そして新たな神にとって変わる人物が、すべてを白紙に戻し、また新たに創造する。そういうことが可能なんだよ」
「そのために、こんなことをやったのか。死者を弄んだのか。そんな馬鹿げたことのために人を殺したのか!」
「ああ、彼のことだね。僕も同志を手にかけるのは少し気が引けたんだが、彼はとても下劣な人間だったんだよ。とても、新世界に相応しくないね」
「相応しくない?」恭也は眉を顰めた。
「彼は僕に取引を持ちかけた。魔導書を渡すのはいいが、百万ドル用意しろと。さもなくばこの計画をすべて連盟にリークする。なんて下劣だ。反吐がでる」
「だから、殺させた。マリア・サザーランドを使って」
「その通り。彼女は、どういうわけか最初からロンギヌスの支持者だった。どこからか僕の存在を聞きつけたのだろう。彼女は自ら協力を申し出てくれたよ。それに個人的な怨恨があったらしいしね」
ほんとうに、殺して正解の男だ。とアンドリューは肩をすぼめた。
「それに死体を集めた実行犯も彼女だよ。君の殺害を企てたのも彼女自身の提案だ。恐らく、彼女は僕とは別ルートの情報網を持っているんだろうね」
「なんだって? お前が指示したんじゃないのか?」
「まさか。これは僕のあずかり知らない所で起こった事件だ」
足元ががらがらと崩れていく音が聞こえるような気がした。
「じゃあ、もう一つ訊く。クサナギ夫妻を殺したのもお前か?」
「あぁ、あれか」とアンドリューは目を細めた。「あの事件は――」
そのときだった。
どこかでガスが抜けるような鋭い空気の音が聞こえ、アンドリューの額に黒い点が穿たれ、後頭部が柘榴のように弾けた。ぐらりと後ろに傾いだ体は、まるで糸の切れた人形のように無造作に倒れた。地面には赤い水溜りが広がっていく。
振り返ると、サイレンサーつきの拳銃を構えた人影があった。小柄で華奢な体つき。どうやら少女のようだった。
「――こちらハウンド04。目標の沈黙を確認」
インカムに吹き込まれる聞き覚えのある声。その姿を見ながら、無意識に恭也は「鈴香……?」と呟いていた。
「いったじゃないですか。すぐに会えるって」
そういって彼女は微笑んだ。
「でも怪我は?」
「それは嘘じゃないですよ。ちゃんと折れてます」そういって鈴香は苦笑する。「学生で猟犬部隊なんです。なんかちょっとかっこよくないですか?」
ぐっと袖が引っ張られるのに気がついて隣を見ると、ものすごい剣幕で佐奈が「誰?」と低い声で訊ねてきた。
「その子が妹さんですか?」
「……あんた誰よ」佐奈は恭也の腕にぎゅっと抱きつきながら鈴香を睨みつけていた。
「えっと、恭也さんのお友達です」そういうと近寄ってきて、左手を差し出した。とりあえず握手を、という意味だろう。渋々といった様子でその手を握った佐奈は「よろしく」といって小さく笑みを浮かべた鈴香を無言でじっと見詰め、「……うん」と小さく頷いた。
なんだかんだで微笑ましい光景を見ながら恭也は、何かいい知れぬ違和感を覚えていた。
「ともあれ」という鈴香に我に返った。どこかから人の声が沢山聞こえる。恐らく軍の突入部隊がやってきたのだろう。「これで一件落着ですね」
どこか釈然としないまま、それでも終わったのだという安堵感にほっと溜息をついた。
「そうだな」
アンドリューの倒れているすぐ側に魔導書が落ちているのを見つけ、それを拾い上げて後ろを振り返ったときにはもう鈴香の姿はなかった。ど
「面倒だから帰るだって」
詰まらなそうに佐奈が呟いた。
4
連日の冷え込みにも関わらず休日の人並みは絶えることなく目の前を流れていく。空を見上げると灰色の低い雲。今日こそは本当に雪が降るかな、などと考えながらベンチに座って手持ち無沙汰な時間を過していた。腕時計を見ると午後四時二十分。既に空は夕焼けに染まりつつある。約束の時間まではあと十分はあった。日本人的良心があれば、そろそろやってくる頃合だ。そんなことを考えていると、不意に目の前が真っ暗になり「だーれだ」というはしゃいだ声が聞こえてきた。それに対して「なにやってんだ」と至って冷静に対応し、振り返って声の主を見た。
「一度こういうことやってみたかったんです」悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべて鈴香がいった。左腕は三角巾で吊ったままだ。よくこんな体で先日は突入してきたものだ、と恭也は内心ではかなり感心していた。
「なんつうか。これでも一応恋人らしき奴はいるから、もし見られたら結構まずいことになるから、出来れば止めてもらいたいな」苦笑混じりに恭也はいった。
「いいじゃないですか。明後日には日本に帰っちゃうんでしょう?」
「まあ、その予定。チケットも取ってるし」
「二人分?」
「……あんまり年上をからかうもんじゃないと思うぞ」
「うわー、否定しないんですね。ちょっと残念」
「さっき自己申告したからな」
「でもでも、やっぱりなんだか乙女心に蟠りが残りますよ」
「乙女心?」
「はい。なんだか恭也さんといると無性に母性本能がくすぐられて、無償の愛情を注ぎたくなるというのか、その、微妙に気になっていたというのか、実際もう少しお話したかったとか……とにかくいろいろあるんです」
「そうなんだ」
「そうなんです。まあでも、こうやって会う約束してくれた分、嬉しくはあるんですけどね。よかった、連絡先知らせておいて」
結局いろんなモノが未消化のままあの事件が集結してから三日。取り返した魔導書のことで、陰陽寮と電話越しにひと悶着があったものの、無事に奪還したということで報酬はしっかりと支払われることになった。今回の事件に死霊の書が関連していたことも、日米両国の魔法省が電話での会合を行った結果、表沙汰にはしない方針で一致したらしい。両者ともに管理体制の不備があったのだから、ある意味お役所としては当然の対応といえるのかもしれない。
自分のあずかり知らない所でいろんな決着がついた頃に、ようやく雪乃が退院して、帰国の目処が立った。約束どおり彼女を日本に連れて行くことにした。別になにか問題があるわけでもないし、一応訊ねたところ佐奈も賛成してくれた。そんなわけで、明後日には帰国の途に着く予定になっていた。その前に済ませておきたいことがあると、明日一日を雪乃と一緒にずっと過すことを条件に、今日のこの時間を確保することが出来た。
「それじゃ、どこに行きます?」
そういって鈴香は指を絡めるようにして手を握ってきた。
「さっきの忠告きいてなかったのか?」呆れ気味に恭也はいった。
「いいじゃないですか。その人はいま家にいるんですよね。だったら大丈夫です」
実際のところ、普段の生活でも佐奈とは精神リンクしたままなので充分に気取られる危険性がある。下手なことを喋ってなければいいが。
だが、そんなことをいうのは少々無粋な気がした。これで彼女ともお別れなのだ。
最後くらい許されるだろう、と自分にいい聞かせた。
「とりあえずさ、ここを離れる前に見ておきたい場所があるんだ」
「見ておきたい場所?」
「大封印を見ておきたいんだ。ほら、一応観光名所だろ?」
「あ、うん。そうですね。大賛成です。はい」
何故だろう。そう答える鈴香がとても嬉しそうに見えた。
「夕飯はどうします?」
「ああ、それなら。あの喫茶店に予約入れてる」
「本当ですか?」尻尾を振る子犬のように眼を輝かせる。「もういっそ、この国で暮らさないですか?」
「それはだめ」
「冗談ですよーだ」そういって唇をアヒルみたいに突き出す。それから、「じゃあ、早く行きましょう」と繋いだ手を引っ張って歩き出した。
街は子供づれの家族や寄り添い歩く恋人同士、むやみにはしゃぐ若者たちで真っ直ぐに歩いていくことが少し困難なほどに賑わっていた。全体の比率では、若者たちが一番多い。恐らく、魔導師学校の生徒たちが遊びに来ているのだろう。ナトリウム灯のオレンジの光が照らす繁華街の町並みは、活気と温かさに満ち溢れていた。歩きながら、はぐれないように強く鈴香の手を握った。握り返してくる暖かさに先導されながら、人ごみのなかを進んでいく。
と、突然、鈴香が立ち止まった。
「どうかした?」
「あれ、見てください」と前方斜め上を人差し指で指し示した。
見ると、淡く蒼白い光が空中に幾つも漂っていた。まるで蛍火のようだ、と思った。だがいまは冬で、そもそも蛍はあんなに高いところまで飛ばない。この場所に蛍が生息しているのか、という根本的な問題もある。
「あれは?」
「あそこが大封印なんですよ。近くで見たらもっと凄いんです」声が弾んでいた。待ちきれないといった様子で手を引っ張って歩き出す。
しばらく歩くと、繁華街から外れ、大きな公園のような場所にでた。どこからか、流行のヒップホップが聞こえてくる。誰かがダンスの練習でもしているのかもしれない。ベンチに座りながら抱き合っているカップルもいた。つい先日あんなことがあったのに、まるで別世界のようだと恭也は思った。公にされていないのだから当然といえば当然なのだが、同時に無知とは恐ろしいな、とも思った。
「あ、見えてきました」
散っていた意識を前方に集中させると、なにやら仰々しい鉄柵の門とその前に立つ武装した門番の姿が目に入った。門柱に掛かったアーチには緑青の吹いたプレートが嵌めこまれているが、ライトの位置の関係で陰になって読めなかった。その奥にはまるで城壁のような頑丈そうな建物が建っている。
門の手前で右折して、少し歩くと小屋が見えてきた。レンガ造りの小屋で、かなり古い建物なのか、赤レンガの壁はどす黒く変色していて、罅がところどころに入っていた。
カウンタのような長い板が、横に長い窓の下にとりつけてあった。「すみません」と鈴香が窓をノックすると奥から雪だるまのような体系の男が現れて窓を開けた。
「いらっしゃい。あんたらも、大封印を見に来たのかい?」男がフレンドリィに話しかけてくる。
「ええ、そうなんです」鈴香が答えた。
「そっちのあんちゃんは、お兄ちゃんかい?」男がこちらを見た。
「いえ、違いますよ」恭也は答えた。
「へぇ」にやにやと男が笑う。「普通なら一人十ドルのところを、どうだ、八ドルに値引きしてやろう」
「いいんですか?」少しトーンの高い声で鈴香がいった。首を傾げながら、というのも相俟って、非常にかわいらしく見える。
「おうよ。特別割引だ」
「ありがとうございます」と恭也はいった。
二人分の料金と引き換えに、チケットを二枚手に入れ、先ほどの門番のところへ向かった。ちなみに料金は全額恭也が出した。こういうときは、男が出すべきものなんじゃないか、という考えからである。見栄を張りたかったともいえる。
門番にチケットを見せると「少々お待ちください」といった後に無線に何事か吹き込んだ。間もなくぎぃ、と鉄が軋む音がして門扉が内側に開いていった。
なかに入ると真っ直ぐの廊下が続いていて、正面には大きな階段があった。天井にとりつけられた蛍光灯がぼんやりと辺りを照らしていた。足音が異様に大きく響く。
「そういえば、さっきのっていったい?」
「連盟の封印守護騎士団の人です」
「連盟の?」
「はい。なんでもここ最近はちょっと資金難だとかで、数年前からここを観光名所としてお金儲けをするようになったんです」
「でも、少し無用心じゃないのか?」
「それなら心配いりませんよ。さっきの門のところに、危険物を持ち込もうとしているかどうか調べるセンサがついてましたから」
「そんなのがあるんだ」
「特別製らしいですよ。赤外線レーダと透過魔法で調べてるとかなんとかテレビでいってました。まあ重要な部分は全部伏せられてましたけど」
「まあ、そりゃそうだろうな」
階段に差し掛かったところで会話は途切れた。上りながら最上段を見上げると、床と天井の間から光の粒が浮遊しているのが見えた。
最上段まで上りきった恭也は、目の前に広がっている光景に思わず息を呑んだ。
どこに底があるやも知れぬ巨大な深遠の闇。そこから沸き出る無数の蒼白い発光体。ゆらゆらと尾を引いて立ち上ったそれは、ある程度の高さになると突然見えない壁にぶつかって小さな欠片になって粉雪のようにはらはらと舞い落ちてゆく。それはまるで天使の羽根から零れ落ちる燐光のように、神々しく、美しく、そして幻想的な光景だった。
「あの光はマナの塊。この星の生命の輝きそのものなんです」
鈴香の言葉に、そうなのか、と恭也は素直に納得した。だからあんなにも暖かいのか。
「あそこにベンチがありますから、そこで見ましょう!」
はしゃいだ声を上げる鈴香に引っ張られてベンチまで連れて行かれる。
二人で並んで座って、ぼんやりと生命の輝きを眺める。
ふと、肩に掛かる重さに振り向くと、鈴香の顔がすぐ側にあった。二つ潤んだ瞳に、光が映りこんでいる。
「ここって、この街でも屈指のデートスポットなんですよ」
「なんか判る気がする」
「これって完全な浮気ですよね」
「そうなるのかな」
「ねえ、恭也さん」
鈴香の右腕が、恭也の左腕にまきついていた。そのまま強く身を寄せてくる。
「もうやめてください」
悲しい声色だった。
潤んだ瞳からはひとつふたつと雫が零れ落ちる。
「判ってるんです。恭也さんがわたしを呼び出したのは、こんなことをするためじゃないって」
「…………」
無言で彼女を見詰める。
返す言葉がないわけではなかった、ただ、どうして彼女が泣いているのか。それが理解できずに内心混乱していたのだ。
「いつ、気がついたんですか?」鈴香がいった。目は伏せられ、こちらを見ていない。
「病院であったときに、少し変だと思った。外に見える部分に包帯やギプスをしていたわけでもないのに、いきなり怪我をしたのかって聞いてきたから。でも、そのときはまだ完全に疑ってたわけじゃない。俺はこんな職業をしてるから、勘を働かせれば怪我をしたってことくらいは当てられると思った。けど、その後アンドリューを撃ち殺したそのときに、確信に変わった。あのとき、鈴香は銃を左手で構えていた。普通、骨折した腕のままで銃を構えて撃つなんて無理だ。その上額に命中させるなんて」
「その通りです。わたしは、骨折なんてしてません」
「それに、クサナギ夫妻を殺したのも鈴香なんだろ」
「どうしてそう思うんですか?」
「判らない。これは本当に勘なんだけど。まず、アンドリューを射殺したタイミング。ちょうど俺があの事件について追求をした矢先にアンドリューは殺された。そして二つ目は、鈴香の幻術だ。確か、実体化した幻影を作り出せるっていってたよな。そして最後に、アンドリューは双子じゃなかった。彼の口からそんな事実は一つも語られなかった。それなのに彼が双子であると嘘の情報を流して、アンドリュー・ピチェニックが犯人になりうる証拠をでっち上げた」
「凄いですね。そこまで判ってるなんて。ほぼ、百点満点です」
ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝い、頭を乗せた恭也の肩を濡らす。
「それに、マリア・サザーランドにロンギヌスのことを吹き込み、俺を殺そうとしたのもお前なのか?」
「それは、半分正解です」
「半分?」
「わたしは、恭也さんを殺せなんていってません。あれは彼女の独断だったんです。わたしは、せいぜい足止めが出来ればそれでいいかな、と思ってましたから」
「足止め?」
「はい。足止めです。一日中、わたしが恭也さんを連れまわして、その間にことを進めるっていう。実際、恭也さんがこの街に来た段階ですでに儀式の準備は殆ど終わっていたんです」
「やっぱり、鈴香も神様を殺してやるとか考えてるのか?」
「いいえ。そんなことはありません。わたしには、多分そんなことを考える余地なんてないんです」
「それって、どういうこと?」
「わたしは、ロンギヌスに飼われ、育てられた犬なんです。だから彼らがいうことには逆らえないし、逆らったら存在意義を失ってしまう。ただそれだけのことなんです。だから、わたしは今回の作戦の障害になりうるかもしれない人物の偵察を行ったし、作戦の放棄を決定した上層部の判断でアンドリュー・ピチェニックを殺害しました。わたしが彼を殺したのは自己保身じゃありません。尤も、二年前の事件の真相もでっちあげろとのことでしたので、結果的には同じなのかもしれません」
頬にひんやりとしたものが触れた。
雪が、降ってきた。
「なあ、鈴香。お前はもしかして、自分がやっていることに気がついて欲しかったんじゃないのか?」
「…………そう、なんでしょうか。判らないんです。自分でも。たぶん、わたしは本気で恭也さんのことが好きになってしまったのかもしれません。組織から渡された、あなたの経歴を読んで興味を持った。実際に会ってみると、どこか危うげで心に穴が開いているような寂しげな人でした。同じように何かが欠けてしまっているわたしは、恭也さんと一緒にいるときにだけはその欠けたピースが埋まっているような、そんな気がしていたのかもしれません」
「でも」恭也はいった。はっきりといってしまうことに抵抗があったが、それでも断言しないわけにはいかなかった。「俺は、俺のピースを見つけた。互いに失った心の一部を補える相手を見つけたんだ。でも、それは鈴香じゃない」
「……そんなにはっきりいわないでくださいよ」
声が震えていた。
必死に嗚咽をかみ殺しているのが、息遣いで判った。
「いいんです。どうせわたしには選択の自由なんてないんですから」
肩から重みがふっと消えた。
いつの間にか、正面に鈴香が立っていた。
コートのポケットのなかに片手を突っ込み、何かを取り出した。
「上からの命令です。作戦が失敗する原因になったあなたに制裁を加えろと」
すべての感情を押し殺したような声。けれど目には深い悲しみをたたえたまま、「あなたをここで殺します……!」
悲痛な叫びとともに彼女の掌に握られていた何かが強い光を放った。「封印解除」と短い詠唱の後、彼女の右手には背丈ほどもある大きな杖が握られていた。最近の金属製のモノではなく、古めかしい木製の魔導師杖。
「どうやってそれを?」
「あのくらいのセンサでも、厳重封印をかければ、見抜けません」
一歩後ろにさがると、杖を構え、その先端を恭也の額に突きつけた。
杖の先端にマナが集まっているのが判った。恐らく、大威力の砲撃で一瞬で消し去ろうとしているのだろう。苦しまないためのせめてもの慈悲か。
「それを撃つ前にひとつだけ訊かせてくれ」
「……いいですよ」
「本当は、最初から俺を殺せという命令だったんじゃないのか?」
「いまさらなんでそんなことを」
「だってそうだろう。マリア・サザーランドが俺を殺そうとしたのは、彼女の独断だといった。けど、俺が何者であるのかはっきりと判っていなかった彼女が、そんなことを決断できる立場にいたとは思えないんだ。だから、予め命令はあったんじゃないかって。それに、始めて会ったあの日。鈴香の部屋にいたときに尋ねてきたあの少女、俺の見間違いじゃなければ、彼女は、マリア・サザーランドだった」
「そのとおりです」鈴香はいった。杖の先端に集まったマナは球体になり、強い光を放っている。いつでも砲撃を撃つことが出来る状態だ。「本当は、わたしの部屋に招いたあのとき。紅茶のなかに毒を入れて飲ませるつもりでした。そのつもりで、お砂糖を用意していましたし、彼女が部屋にやってきたのも本当はあなたの死体を回収するためだったんです。でも、わたしにはそれが出来なかった。組織の役に立つことならこの命さえ擲ってもいいと思っていたのに。いざ実行に移そうとしたら、心が拒絶するんです。そんなことはするなって。後悔するぞって。訳が判らなかった。だって、命令に背くことのほうが絶対に後悔するはずなのに」
押し殺していた感情があふれ出すように、こちらを睨みつける瞳からは悲しみの涙が零れ落ちていく。
「そして思ったんです。自分が変わってしまったんだって。あの作戦のために三年前からこの街、あの学校に潜入して、いろんな人と触れ合っていくうちに、わたしが無意識的に閉ざしていた心のどこか一部分が解放されてしまったんです。ただの駒でしかないはずのわたしが、年相応の少女になろうとしていたんです。馬鹿げた話だと思いませんか?」そういって自分を嘲る。「だから、わたしは恭也さんを白馬の王子様か何かと勘違いして、もしかしたら自分をこの境遇から助けてくれるんじゃないかと夢を見て、ずっと殺せなかった」
「俺は――」
「いいです。もう慰めなんて必要ありません。所詮、わたしは組織の駒で道具にしか過ぎない存在なんです。夢を見る時間はお仕舞いです」
鈴香は、目を閉じて深呼吸をした。次に瞼を開いた時には、その双眸に何の色も浮かんでいなかった。まるで無機質な、人形のような瞳だった。
「さようなら」
彼女の口がそう動いた。
杖の先端に収束した光が、暴力的な光の奔流となって襲い掛かってきた。距離が近いので、被弾に一秒も掛からないだろう。飲み込まれてから、この体が消し炭になるまでにはもっと短い時間ですむ。引き伸ばされた時間のなかで、そんなことを考えていた。そして魔力の洪水が恭也の全身を飲み込みかけた刹那、真横から突如として現れた砲撃が鈴香の砲撃にぶつかり、大きく軌道が逸れ、恭也のすぐとなり、先ほどまで鈴香が座っていた場所を抉った。
突然の出来事に鈴香の動きが一瞬硬直する。その隙を狙ったかのように、地面から現れた光の鎖が彼女の体を幾重にも戒めた。
靴音が近づいてくる。
「お疲れ様」俯いて、恭也は靴音の主に声を掛けた。
返事は返ってこない。
靴音がすぐ近くで止まった。
「――あなたは」と鈴香が叫んだ。
ゆっくりと顔を上げる。
鎖が体中に巻きつき、地に伏した鈴香に最新鋭の機能を搭載したメタリックで機械的な魔導師杖を突きつける褐色の肌の少女。
「猟犬部隊所属ジェシカ・D・ルージュ。お前の身柄を確保しに来た」
「猟犬部隊……本物の」鈴鹿がつぶやいた。「まさか喫茶店で、前からずっと会ってたなんて」
どっと疲れや感情が押し寄せてきて、ベンチに深く腰掛けたまま、思い溜息をついた。
「危なっかしすぎる」鈴香に杖を突きつけたまま、少女がこちらを見ていた。「本当に死ぬところだった」
「最近自分でもそう思うようになってきた」
「恭也さん、どうして」
「最後に二人であの喫茶店に行った日に、かな。彼女から少し話を聞いてピンと来た。だから、予め連絡をしておいたんだ。俺がお前をおびき出すから、あとはなんとかしてくれって」
「……とことん酷い人ですね。恭也さんは。じゃあ、このデートもみんな、わたしが一人で舞い上がってただけだったんだ」
「いや、そんなことはなかった。俺も楽しかったよ。たぶん、あいつに出会わずに鈴香と先に出会っていれば、絶対にお前のことを好きになってた」
「そういうことを断言するのが、酷いんですよ。いまさら、どうなるわけでもないのに」視線をそらすと、ジェシカを睨み付けた。「これからどうするつもり?」
「連盟の拘置所に連行して、尋問。あるいは場合によっては拷問。でも、殺しはしない」
「そう……」と呟いて、鈴香は強く歯をかみ締めた。「恭也さん」
鈴香の顔を見る。
どこか満足な笑みを浮かべていた。
嫌な予感が背筋を走りぬけた。
「ありがとうございました」
そういい終わるか終わらないかのタイミングで、彼女の体がビクッと跳ねた。遅れて何か破裂音――銃声が響いた。飛び散った鮮血が、紅玉のように輝き、刹那、宙に溶けた。
「鈴香!」
駆け寄って抱き上げる。
胸からどくどくと血液が流れ出している。場所からして、撃ちぬかれたのは心臓か。
けれど、即死ではなく弱弱しい呼吸で胸が僅かに上下していた。
顔色は、まるでセルロイド人形のように青白い。
唇が、なにかいいたそうに戦慄いていた。
それを聞き取ろうと顔を近づけたときだった。
唇に柔らかな感触がぶつかった。
「あ……りが……と……う、ござい……まし……た。とっても――……たのし……かった……です」
かすれた、蚊の鳴くような声でそういい終えた彼女の表情は、まるで母の腕のなかで眠りに就いた赤子のような、安心した穏やかな寝顔――死に顔――だった。
「粛清……か」ジェシカが呟いた。「妙な慈悲だけ残していたみたいだけど」
殺すなら頭部を打ち抜けばいい。そうすれば十中八九仕留めることが出来る。それをせず胸を撃ち、最後の言葉を残すために猶予を与えた。それを彼女は慈悲といったのだろう。
「殺すことのどこに慈悲があるんだ」
「あなたは、彼女の話を聞いていなかったの?」ジェシカがいった。「彼女は、組織の利益のために自分を擲つことが自分の存在意義だと思っていた。それが、あなたと出会ったことで揺らいでしまった。根っからの飼い犬は、飼い主の手から離れたらちゃんと生きていくことは難しい。また新たな飼い主がいれば話は別だけれど。あなたは彼女の飼い主にはならなかった」
「俺が悪いって……いいたいのか?」
「違う。ただ、路頭に迷い込む前に、組織の守秘のためという理由で殉ずることができた。それが、彼女に対する救い、つまり慈悲だったということ。もちろん最後に言葉を残す時間を与えたのも」
「……でも、それが本当に鈴香にとっていいことだったのか?」
「それは、判らない。わたしは彼女じゃないから――」
――けれど。
と、ジェシカは鈴香の死顔を見やった。
「わたしには、とても幸せそうに見える」
つまりそれが答えなんだな、と少し安心すると同時に、どこか胸が締め付けられる思いがした。もしかしたら彼女を助けることが出来たかもしれない。そんな後悔がこみ上げてきた。
目頭が熱くなって、視界が滲んだ。
鼻の奥がツーンとして、喉から嗚咽が漏れた。
そいつを噛み殺しながら、暖かさが失われ行く亡骸をいつまでも抱きしめ続けていた。