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シカバネ  作者: 遠野義陰
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第一章

 プロローグ


「クソ、ついてねぇ」

 ジェレミィはそういうと路面に痰を吐いて、目の前にあった街灯のポールを思いっきり蹴飛ばしたがただの人間がどれだけ頑張ったところで金属製のそいつがどうこうなる訳でもなく。激痛が走った右足を浮かせたまま片足でぴょんぴょん跳ねて、石に躓いて豪快に転んだ。ごろんと寝返りを打って仰向けになると「この野郎!」と満月が煌々と輝く夜空に向かって吼えた。

 俺が何をしたっていうんだ。酒臭い溜息を吐き出しながらジェレミィは心中で呟いた。普段から真面目に働いてたし、神への祈りを忘れたこともない。だというのに世の中は反吐が出るほど理不尽だ。

 十月の大手証券会社が破産したことに端を発した経済的混乱は、先ごろからの低所得者ローンの焦げ付きと相俟って国際的な金融危機を誘発し、経済が落ち込み、融資を打ち切られた企業や工場が相次いで潰れていった。ここ最近だんだんと同僚が減っていく職場に、そのうち危ないのではないか、という予感を抱いていた。それでも真面目に働いてさえいれば乗り切れると思っていた。だから今朝も早く起きたし妻が用意してくれた朝食を食べて先月ローンで買ったばかりの日本車に乗って工場へ向かった。いつものように出勤すると何故か普段は工場に殆ど顔を出さないオーナーがいた。先月も三人ほど止めさせられていたから、ジェレミィは、ああまたか、と思いながら挨拶を交わして自分の持ち場へ向かおうとして、足を止めた。オーナーは人の良さそうな顔に、気まずい色を浮かべて「君には悪いんだが、今日でここを辞めてもらえないか?」といったのだ。いい方こそ疑問系だったが、それはすでに決定事項であり、明日から無職になってしまうということだった。

そう告げられた途端ジェレミィの目の前は真っ暗になった。先月買ったばかりの車のローンがまだ二年ばかり残っているし、住宅ローンもある。妻も妊娠していることが判ったばかりだ。ついこの間までは彩り豊かだった未来像はもろくも崩れ去り、先の見えない不毛の大地が茫洋と広がっているだけだった。それから一日の仕事を終えると自分の持ち物をカバンに詰め込んで、真っ先に工場の近くにあるバーですっかり顔見知りになったマスターがとめるのも聞かず、とにかく手持ちの金で飲めるだけ飲みまくった。それでも車を運転して帰ろうとしなかったのは、一抹の理性が残っていたからか。

 冬の夜気に頭を冷やされて、次第に冷静になってくると、思考はどんどんこれからどうすればいいのか、ということに向かって一直線に下降していく。これがウォール街だったら今頃みんな失業者だ。卑屈な笑みを浮かべながらジェレミィはそう思った。

 体を起こし、立ち上がるとふらふらとおぼつかない足取りで歩き出した。ジェレミィの暮らす住宅街はこの先のホールシティ第三墓地の横を抜けてそのままずっとまっすぐいったところにある。普通に歩けば三十分ほどで着くが、この調子では一時間か、いや場合によってはもっと時間が掛かるかもしれない。

 うんざりしながら、いっそこのまま歩道の上で寝てやろうか、などと自棄になっていたときだった。

 不意に、ドッ、という物音が聞こえた。それはまるで重い石を地面に落としたような音だった。耳を澄ませ、その音源を探ると、どうやらそれは墓地のほうから聞こえてくる。

 よせ、という本能の声を無視して、好奇心に駆られるままジェレミィは墓地へ向かって歩き出した。門の前に立つと、ジェレミィは首を傾げた。いつもなら、この時間は門の鉄柵が閉じている時間なのだ。それなのに、どういうわけか今日は開いている。それも外側に向かって。急に気味が悪くなってきたジェレミィだったが、酒ですでに理性が薄れていた彼は好奇心が訴えるまま墓地の敷地内に入っていった。

 そして、腰を抜かした。

 規則正しく並ぶ墓石が、無残にも裏返されたり、位置がずれたりと目も当てられないが広がっていた。だが、ジェレミィが腰を抜かしたのはそんなことが理由ではなかった。むしろ、そんなことなど目に入ってなどいなかった。

 転がされた墓石の直ぐ側、棺桶が埋めてあったはずの場所。そこが掘り返されたような穴があり、墓から這い出してきた亡者たちが墓地中を歩き回っていたのだ。目が腐り溶けて垂れ下がったもの、すでに半分以上骨と化したもの。あるいはまだ埋葬されてあまり時間が経過していないのか綺麗な体のもの。いつもは静謐な夜気が漂い、時折吹く風が木の枝を揺らす音が異様に大きく聞こえるほど静まり返っている墓地が、今夜ばかりは十人十色の死者が跋扈する死の楽園と化していたのだ。

 ごっ、ごっ、という何かが突き上げてくるような音が聞こえて反射的にそちらを振り向くと、すぐ近くにあった墓石が揺れている。

「ひっ」

 悲鳴を漏らして、身を固くする。

 断続的に突き上げる音は続き、不意に静かになった。

 嫌な汗が首筋を伝う。

 次の瞬間、墓石が勢いよく浮き上がり、湿った土をばら撒きながら浅黒い腕が地面から飛び出した。

「うわぁぁぁぁ!」

 一瞬で恐怖が沸点に達したジェレミィは大声で悲鳴を上げると、這うようにして墓地から逃げ出した。


          ※※※


 一時間後、通報を受けた警察が駆けつけると、そこに亡者たちの姿はなく、ただ荒らされた墓地が広がっていただけだった。

 ホールシティ市警察はこれを『死体消失事件』と銘打って捜査に乗り出した。


     第一章


     1


 目の前に突きつけられた袋小路を絶望的に眺めながら鹿羽恭也は、ここはどうするべきかと思いつつ振り替えった。

「やっと追い詰めたぞこのクソジャップ!」

 近所迷惑なのも顧みずにわめき散らすゴリラみたいな男。その背後にもぞろぞろと六人ばかり構えていて、全員がガラの悪い不良のなりをしていた。それにガタイも良い。素手で殴り合って勝てそうな相手ではない。かといって、ナイフも拳銃も持っていない。恭也が持っているものといえば、せいぜい薄っぺらい旅行用カバンと背中に背負った大きな桶。だがそれはいまは使えない。

「この街はいつもこうなのか?」うんざりしながら恭也はいった。こうして追いかけられたのはこれが初めてではなかった。どういうわけかこの街に入ってからずっと目の仇にされて、ろくに食事も買い物もできないまま、ふらふらと宿を探しながらメインストリートを歩いているとこの連中に絡まれたのだ。しかも突然。

「おい、聞いたか? ジャップが一丁前に英語喋りやがったぞ」

 男の声に背後の連中が馬鹿みたいに笑い声を上げる。

「いいか? お前はネクロマンサーだ。俺たちがお前を地獄の底に送ってやるにはそれだけで理由は充分足りてんだよ」

 再び哄笑が湧き上がって、不良連中がじりじりと迫ってくる。

 確かにネクロマンサーは世間的にあまりよくは見られていない。理由は簡単。死体を使うからだ。大抵の人間は、死人を本能的に穢れだとして避ける。そして、それを人形のように扱う人間もまた穢れている。そんな簡単至極な論法でネクロマンサーは忌み嫌われている。実際、全世界の人口の十分の一を占める魔導師人口の内、ネクロマンサーは一割程度しかいない。誰も好き好んで嫌われたくないのだ。

 だが、それにしたってこれはやりすぎだ。なにか個人的な恨みでもあるんだろうか。そんなことを考えていると背中に固い感触がぶつかった。後ろを見ると汚れたコンクリートの壁があった。袋小路の最奥に追い込まれてしまった。目の前には肩にバットを担いだ男。

「最後にお祈りくらいいわせてやろう」

 目が馬鹿にしたように笑っている。どことなくそわそわした雰囲気は、これからやってくる暴力の宴が待ち遠しくてたまらないからなのだろう。

 そんな男に、恭也は唾を吐きかけた。

「生憎だが、このファッキン野郎。俺は無神論者だ」

「……上等じゃねぇかこの野郎――!」

 大袈裟なテイクバック。ああ、こいつ右打ちか、なんて思いながら身をかがめると同時に右の拳を強く握った。頭上を分厚い風を切る音が通り過ぎた。

男の舌打ち。

振り切った瞬間に出来る完全な隙。

 それを狙って、体のバネを使って男の二重顎に(アッパー)を叩き込んだ。手ごたえは充分あった。

 だが。

「なんだその軽い拳は?」

 狂犬のような目。青筋を額に浮かび上がらせた男に、ダメージはまったくない。むしろ余計に怒らせてしまったようだ。

 まずい、ぜんぜん利いてない。

 首筋を冷や汗が流れて、逃げろと頭のなかで警鐘が鳴る。

「本当の拳っていうのはこういうのをいうんだよぉ!」

 百九十センチは超えているであろう長身。そして体重百キロを優に超えているであろう筋肉質な肉体。まるでヘビー級のボクサーのような肉体から放たれる拳はまさに凶器そのもの。まともに顔面に食らえば首の骨など小枝のように折れてしまうだろう。

 ああ、終わったかな。

 そう諦めかけたときだった。


「待ちなさい!」


 男の拳が鼻先三ミリのところで静止した。

 当たってもいないのに鼻先がびりびりとする。

 助かった、内心溜息を付きながら恭也は声の主を見た。

 不規則的に立つ不良たち、その向こう側。メインストリートの逆光に佇むひとりの少女の姿があった。

 カツカツと靴音を響かせながらこちらへやってくる。

 逆光で、その容姿は判然としない。

 足音が止まる。

 雲に覆われていた月が、そっと顔をのぞかせた。

 地上に降り注いだ月光が突然の闖入者の姿を照らし出した。年齢は十代半ばか後半か。漆黒の長髪が風に揺れる。凛として整った顔立ちは東洋人のようであった。だが中国人のような鋭さはない。やや丸みを帯びた瓜実顔は日本人のものだった。さながら大和美人ともいうべきその少女は、何故かセーラー服を着ていた。日本の学生がよく来ているそれだ。さらに腰には日本刀を提げており、正直どこからつっこんでいいのか判らない格好だった。

「なんだお前は?」

 男がいった。

「さあね」

 そういって少女は挑発的に口元を歪めた。

「あんたみたいな馬鹿に名乗って、何かいいことあるの? 生憎、ゴリラは大嫌いなのよね」

 少女の馬鹿にしたものいいに男は「なんだとっ」と激昂して、少女をにらみつけた。

「悪いことはいわないからさっさとここから立ち去りなさい」常人ならば震え上がってしまいそうな視線をものともせず少女は毅然といい放った。「そしたら命だけは助けてあげる」

「なめんじゃねえぞこのクソアマ!」

 怒号が轟き、男が少女に向かって突進する。それはまるでラグビープレイヤーのタックルのようだ。あんなもの、まともにくらったらひとたまりもない。ましてや相手は華奢な体格の少女だ。

 このままじゃ危ない。そう思って踏み出しかけた足は、少女の表情を見て止まった。彼女は、口の端を吊り上げて、余裕の笑みを浮かべていた。


「死に急ぐのは、よくないわよ」


 しゃりん、という音を聞いた。

 次の瞬間男の体が真横にふっとんで、ビルの壁面に激突、そのままずるずると地面に落ちてぐったりと気を失ってしまった。

「大丈夫、峰打ちだから」そういいながら少女は刀を鞘に納め、ざわつく手下たちを睨みつけ、「で? あんたたちはどうする?」とすごんだ。

 逃げろ! 手下の一人がそう叫ぶとボスを置いて一目散に逃げ出した。

「やれやれ、あんたも人望ないのね」少女はいった。気を失っているのか、男は答えない。それから恭也を一瞥し、「あんたは助けてもらってお礼もいえないのかしら? ネクロマンサーさん」と肩を竦めた。

「え、ああ、ありがとう」

 呆然としつつ礼の言葉を述べると、「ひとついいか?」と恭也はいった。「お前なにもんだ?」

 アメリカでセーラー服を着て日本刀を振り回している日本人少女なんて聞いたことがない。

「あたしは草薙雪乃。魔導師で探偵で日本人」

 とんちんかんな答えに首をかしげながら「探偵?」と恭也は呟いた。

 百歩譲って魔導師というのは信じよう。なぜならここはホールシティ。世界に七つある魔導師にとっての聖地のひとつだ。日本人の魔導師がいたってそんなにおかしなことではない。だが、探偵というのはどうにも胡散臭い。普通探偵というのは全身黒衣であったり、超絶変人であったり、妙な能力があったりするものだろう。

だが目の前の少女は「そう、探偵なのよ」と自慢げにいって胸を反らした。

あ、以外に胸は小さいなぁと思いつつ「じゃあ、この辺の土地鑑はあるの?」と訊いた。

「まあ、探偵だし当然よ」

「それならさ、どっか近くに泊まれるところってあるか? 最悪モーテルでもなんでもいいからさ」

「んー、無理じゃない?」

「無理って」

 そんなあっさりと。

「ここまで来るまでにえらい扱い悪かったでしょ」

「ああ、そういえば……。なあ、もしかしてなにかあったのか?」

「あったあった、とんでもないことが」雪乃はいった。「死体が消える事件がわんさかと」

「死体が……消える?」なるほど、と思うのと同時に溜息を付きたくなった。「もしかしてその犯人がネクロマンサーだとかっていわれてるってオチか?」

「そういうオチ。理解が早くて助かる。まあそういう事情があって最近ネクロマンサー狩りが流行ってるのよ」

 あいつらもその類か、とすっかり伸びた男に視線を向ける。

「でも、なんで俺がネクロマンサーって判ったんだ?」確かにこの桶のなかには死体が入っているが、欧米で一般的な長細い棺桶ではないから、これが何かは判らないはずだ。

「割と人気のあるゴシップ誌が、特集組んで世界の死体の埋葬の仕方とか棺桶の種類とか取り上げてたから、そのせいじゃないかな」

「ああ、なるほど」世のなかにはおかしな雑誌もあるものだな、と思いながら恭也は得心して頷いた、

「ねえ、質問されたお返しにこっちからも質問していい?」

「ああ、答えられる範囲なら」

「んじゃさ、どうしてこの街に来たの? 見た感じ、留学って風でもないし」

「ちょっと事情があって」

「あたしはさぁ、その事情が聞きたいっていってんだけどなぁ……?」そういって口角を吊り上げて猫のように笑った。「場合によっては、警察に突き出してもいいんだけどねぇ。あたし知り合いに刑事がいるし。それにこんな時世だからね。冤罪でもネチネチ尋問されるわよ」

「判った。判ったからそれだけは止めてくれ」

「うんうん、それでいい」満足げに頷く。

「協定違反のネクロマンサーを追ってるんだ」

「それってどんなの?」急に表情を固くすると雪乃が訊ねた。「協定ってあれでしょ? 魔導師連盟が定めてるやつ」

「そう」恭也は頷いた。「市街地における無断魔法使用の容疑」恭也は渡米する前に渡された書類の文面を読み上げるような口調だった。

「それだけ?」訝しげに雪乃は尋ねた。

「もちろんそんなわけない。普通はそんな程度の犯罪で国外まで追いかけたりしないからな。問題は場所と、その目的だったわけだ」

「場所と目的?」

「そいつは京都の陰陽寮に、襲撃を掛けたんだ。数え切れないほどの死霊を引き連れて」

「あー、なんかその事件聞いたことがある。で、そのあとどうなったんだっけ?」

「当然警護部隊と衝突になって、府警の魔導師警察と魔法省の防衛局員が総勢千人近く動員されてようやく収まった。ちょうどその日は各国の魔法大臣が東京で開かれた国際会議の席についていて、その護衛に陰陽寮の主力魔導師も借り出されていた。だから警備は手薄だったんだ」

「でも、そんなに死霊っているものなの?」

「京都は昔、焼け野原になったことがあるからな。それに飢饉や疫病の流行で何万人もの人が亡くなっている」

「へえ、そうなんだ。あたし殆どこっちで育ったから日本史は正直判んないの。で、それから?」

「何かが盗まれた」

「何かって?」

「なんらかの魔法遺産」

「なんらかの?」

「それは知らされてない。多分、知られたらまずいものなんだろう。だからすぐにこっちに仕事が回ってこなかったんだろうし。とにかく、その魔導師の身柄の拘束と、盗まれた魔法遺産を取り返すのが俺の役目なわけ」

 よくよく考えてみれば、面倒なことこの上ない仕事だが、自分の役割である以上しっかりと果たさなければらない。

「ねえ……、それっていつごろこっちにやってきたか判る?」少し考え込んでから、雪乃はいった。

「正確な時期は不明だけど、ここ半年以内だって渡された書類には書いてあった」

「半年以内……」そう呟くと少女はしばらく黙り込んでしまった。それから、「ねえ」と恭也に微笑みかけた。「宿がないならうちにこない?」

「いや、それは悪いって。それに他の家族に迷惑がかかる。というか話の流れが不自然すぎるだろ」

「大丈夫よ。あたし一人暮らしだし」

「それはそれで別の問題があるだろ」

全然話を聞いていない。思わず溜息がつきたくなった。

 年頃の男女が一つ屋根の下で、たとえ短期間であろうとともに暮らすというのはいろんな意味で精神に毒だ。それに、意図が判らない。

「じゃあ、そこらで野宿でもする?」そういって雪乃は首を傾げる。肩に掛かっていた髪がばさりと零れ、落ちる。「でもその前に袋叩きで永眠かな」

「……判った」流石に十七年と数ヶ月生きた程度で死にたくはいない。

「よろしい」そういうと少女は恭也の腕を掴むと「ちょ、待て」という声を無視してずんずんと歩き出した。「さぁ、行くわよワトソン君!」

「誰がワトソンだこの野郎」

引きずられながら、こいつもしかして助手が欲しかっただけなんじゃないのか? と頷いてしまったことを酷く後悔した。

 路地裏を出たところで解放された。彼女は案外人の目を気にするタイプの人間なのかもしれない。何も話さないまま並んで歩いた。

「そういえばあんたなんて名前?」不意に雪乃が尋ねてきた。

「そういやいってなかったけ?」と恭也は隣を見た。

「いってない」雪乃はこちらをちらりと見ていった。なぜか不機嫌そうだ。「あたしは名乗ったのに。人に名前を聞いたら自分も名乗るのは常識でしょ」

 確かに、と内心頷いた。

「俺は鹿羽恭也」

「シカバネ?」

「動物の鹿に、鳥の羽で、シカバネ」

「なんかとんちんかんな当て字ね。そして安直」そういってくしししと笑った。

「なにが」

「ネクロマンサーでシカバネって、そのまんまじゃない」

「うるさい。生まれてくる子供に親と名前を選ぶ権利はないだろ。そういうお前こそ、その刀で『草』を『薙』ぐから『草薙』なんじゃないのか?」

 反撃だとばかりにいい放つと、

「あ、」

 といって雪乃は固まってしまった。

 それから急に目を輝かせると、「その発想はなかった!」と叫んで、恭也の手をとった。「あんた天才よ!」

「いや、とりあえず落ち着け」

 夜とはいえここはメインストリートなのでかなりの人がいる。そしてその大半が急に騒ぎ出した東洋人に対して訝しげな、というよりは迷惑そうな視線を向けていた。四方八方から突き刺さってくる視線に気がついたのか、雪乃も「ごめん、つい」と小さくなって謝った。

 メインストリートを抜けて、閑静な住宅街に入ったすぐところに雪乃の住むアパルトメントはあった。煉瓦の壁には蔦が這っていて、レトロな雰囲気をかもし出していた。どこかの部屋の窓際に植木鉢があって、そこに紫色の花が咲いているのが見えた。外観の割りに高さのある建物だった。四十階建てくらいだろうか。なんとなく家賃が高そうだと思った。

 ロビーを抜けてエレベータに乗って最上階まで到着したところで降りた。

「最上階って、お前結構いい部屋に住んでんだな」

「まあね。一番上のフロア全部ぶち抜きであたしの部屋だから」

「…………お前実はすごい金持ちのお嬢様とかそういうやつか?」

「まあ、そうかな。正確には『だった』だけど」

 どういうことだろうと考えている間に扉の前までやってきた。雪乃が鍵を開けてなかに入って、恭也も後に続いた。まっすぐな廊下があって、その先にある扉が開きっぱなしになっていてなかが見えた。入っていくとその全貌が明らかになった。

「うわ……」

 地震か下手な空き巣にでもあったかのような惨状が広がっていた。整理されないまま放り出された衣類が床を見えなくしていた。

「ここがリビング」といって雪乃は衣類が埋め尽くす床の上をぴょんぴょんと器用に飛び跳ねるように移動して、向こう側の扉に到着した。同じ道のりを辿って恭也もあとに続く。扉の向こうには廊下があって、両側の壁に幾つかの扉が並んでいた。

「こっちがあたしの部屋」一番手前の右側の扉を指しながら雪乃はいった。それから少し奥の同じ右側の扉の前で、「あんたはここ」と扉を開けた。

 電気をつけると、タンスやクローゼット、ベッドなどの最低限の調度品だけが並べられた酷く無機質な空間が広がっていた。床はフローリングで、絨毯すら退いてない。テレビもないのか、と思ったがもともと自分はあまりテレビを見るタイプの人間ではないので何も問題がないことに気がついた。カバンのなかに日本から持ってきた文庫本が入っているので大丈夫だ。

「なんにもない部屋だけどね」そういって雪乃は苦笑した。「なんなら別の部屋もあるけど?」

「いや、ここでいいよ。あんまりものがないほうが落ち着くから」そういって恭也は桶とカバンを床に置いた。

「ねえ、えっと、そのなかにあんたの使役する死体が入ってるの?」

「そうだけど。……やっぱ気持ち悪いか?」

 死体を気持ち悪がらない人間なんてそうはいない。こういうことを訊ねられて答えるたびに、嫌な顔をされることが多いが、最近ではすっかりなれてしまっている。

「ううん。そうじゃなくて、なんとなく」

 あははは、と笑う雪乃を見て、その言葉の真実性は半分くらいかなと判断した。死体を気持ち悪がらない人間なんてネクロマンサーくらいだ。それでも意外だな、と思った。

 そんなことを考えていると、いつの間にかベッドの端に腰掛けていた雪乃が「そういえばさあ」と話しかけてきた。

「なんでネクロマンサーなんかになったの? あ、いや、なんかっていうのは言葉の綾なんだけど」

「いいよ。慣れてるから」同じ魔導師のなかでもネクロマンサーはさげすまれている。彼女が魔導師であるならば、自然にネクロマンサーを下卑する習慣を刷り込まれていてもおかしくはない。「うちはさ、大昔から続く家系だから。なんでも我が家の始祖が冥府の人間だとかなんとかいって」

「へえ、じゃあ結構名門ってわけなんだ」

「周りからはそういわれる」

「実際は」

「名門」

 なにそれ、とつまらなそうにいって雪乃はベッドに倒れた。あれ俺のベッドだよなぁと思っていると「あたしはね」と雪乃がポツリと言葉を吐き出した。急に空気の重量が増したので、何をいうのかと構えて言葉を待った。

「判んない」と雪乃はいった。

「意味深に呟いておいてそれはないだろ」肩透かしを食らった気分だ。

「だって知らないんだからしょうがないでしょう」

「知らないって、なんだよそれ」

「さあ? 両親は魔導師だけど、この刀が何であるとかそういうことは知らないの。まあ、仮に日本の名門だったとしても、アメリカにやってきた時点で本家との縁はきれてそうだから、その辺どうでもいいんだけどね」

「そんなもんか?」

「そんなもんよ。大体、家柄がなに。魔導師の悪い因習よ、家柄に囚われて雁字搦めになるのって。肝心なのは個の実力であって、過去の栄光じゃないわ」

「学校でなんかあったのか?」一般的に、魔導師の資質を持ったものは魔法学校へ通う。当然ながらそこでは家柄によるカースト制度がいまなお残っていたりするのだが。

「辞めたわよ」

「じゃあなんで魔導師資格もってんだ」普通魔導師資格というのは、魔法学校の高等教育を履修した際に発行されるもので、国際資格でもある。「まさか自称とか?」

「まさか、あたしは中等部を出た段階で取得してたから、もう通う意味なんてないだろってやめてやったのよ」

「つうかお前いくつだ」

「十七」

「いつから探偵やってんの」

「辞めたときから」

 そうなると、もう二年も探偵をやっているということになる。

「じゃあ一人暮らしもそのときから?」

「まあね。結果的には」

「結果的に?」

「あのさぁ。――っと」足を振り上げてそれを下ろす勢いを使ってベッドから立ち上がった。「あんた質問しすぎ。女にはね、多少の謎が必要なのよ。それを話すことが出来るのは一生ともにするって決めた相手だけ。ってミーシャがいってた」

「誰だよそれ」

「知り合いの娼婦」

「あっそ。ところで、風呂はどこ?」

 とりあえず汗を洗い流して、それから服を着替えたかった。最低限の着替えはバッグの中に詰め込んである。

「廊下をでて、右に進んで、突き当りを右に曲がったところ。見れば判る」

「ありがと」といって恭也は風呂へ向かった。


      2


 目を開けると見知らぬ天井があった。あれ? と思いながら鈍い頭を働かせて昨夜のことを思い出した。昨日はシャワーを浴びて部屋に戻ってくるなり、そのままベッドに倒れこんで眠ってしまった。胃の辺りが締め付けるようで、少し気持ちが悪い。飛行機の機内食を食べて以来なにも食べていないせい。どうやら空腹であることを必死に体が訴えているらしい。ベッドから抜け出すとひとまずリビングへ向かった。なにか食べるものはあるはずだ。そう信じたい。

 廊下に出て、リビングに向かった。扉に手をかけたところで食欲をそそる香りが不意に鼻腔をくすぐった。リビングに入ると、テーブルの上にサラダやハムエッグ、こんがりと焦げ目がついたトーストが並んでいた。白い陶器のマグカップと喫茶店で見るようなコーヒーカップがそれぞれの席に置いてあって、なんだかちぐはぐな風景だった。

「お、起きた」エプロン姿の雪乃がキッチンから顔をだした。「うわー、寝癖酷いよ。実験に失敗した博士みたい」

 いわれて頭を触る。確かに頭の体積が増えているような気がする。無言で扉を閉めて、そのまま洗面所に向かう。鏡を見ながら水とドライヤで髪型を直して、ついでに顔も洗った。再びリビングに戻ったときに、足元が綺麗になっていることに気がついた。比較的というレベルではなくて、散らかっていた衣類は綺麗に片付けられている。それからテーブルをみるとラインナップにシリアルが追加されていた。

「朝からそんなに食うのか?」席に着きながら恭也は尋ねた。目の前のマグカップから白い湯気が立ち上っている。基本的に、朝は食べないか、食べるときでもゼリー飲料で済ませている恭也にとって、朝からこんなにガッツリ食べられるのが信じられなかった。

「朝はちゃんと食べないと、元気でないよ。それに今日から助手として働いてもらうんだから」

「その話だけど」そういえばそんな話だったなと思い出しながら、恭也はいった。「俺は俺でやることがあるんだから、無理じゃないのかなぁ、って思うんだけど」

「ああそのこと」雪乃は微笑した。恭也は少し嫌な予感がした。「これは推測でしかないんだけど」

「推測ならやめてくれ」

「いいからきけ」雪乃は、睨みつける顔で目を細めた。どうやら自分の推理を邪魔されるのが嫌いらしい。「あんたが追いかけているネクロマンサーが渡米したっていうのが、ここ半年以内。そして、この街で最初に連続死体消失事件が発生したのが三ヶ月前。タイムラグは三ヶ月。でもこの程度は誤差の範疇。ふらふらとアメリカ中を逃げ回っていたとも考えられるし、あるいはこの事件のための下準備をしていたと考えられる」

「つまり、俺とお前の追いかけるものが同じ、そういいたいわけか」

 確かにその話は、一応筋は通っている。だがほとんどが彼女の推測であって、確固たる証拠はない。仮にその推測が外れた場合には、こちらが被る損害はかなりのものになる。ただでさえ、日本国内で取り逃がしたことで風当たりが強くなっているというのに、高い旅費を分捕ってやってきたアメリカでも取り逃がしたのでは、自分を制裁人に推してくれた祖父に申し訳が立たない。家のことなど、正直どうでもいいが、祖父の顔に泥を塗ることだけは絶対にしてはならない、そんなルールが恭也のなかにはあった。

 こちらの胸のうちを見透かしたような笑みを浮かべ、彼女は話を続ける。

「別に悪い話ではないと思うんだけど。だってそうでしょ。もし、仮に、よ? この事件の犯人があんたの探しているネクロマンサーではないとしても、こんな事件を起こしている時点でその魔導師は協定違反をしているんだから、それを捕らえるってことは、プラスに働きはすれど絶対にマイナスにはならないんじゃないかな?」

 確かにいわれてみればその通りだ。それにここは魔導師にとっての聖地だ。そこで魔法犯罪を犯したネクロマンサーを捕まえることが出来れば、一躍世界的な英雄になる可能性も無きにしも非ずだ。そうなれば、多少のミスなら目を瞑ってもらえるかもしれない。いや、そこまで生易しくはないか。だが、目下の問題を先送りすることは可能だ。

 それに助けてもらった恩もある。

「判った。お前の提案を呑むよ」

「ほんと」雪乃は嬉しそういってテーブルの上に体を乗り出した。鼻先が触れ合いそうなほど接近している。

「ほんと。だからもう少し顔を遠ざけろ」

「ドキドキした?」

「眼ェ突くぞ」フォークを彼女の顔に向ける。もちろん本気ではない。

「冗談冗談」笑いながら雪乃は座りなおした。だが少し顔が赤くなっているので、あまり説得力がないようにも感じられた。彼女はそれを誤魔化すように「いただきます」と元気よくいってトーストに齧りついた。

 なんとなく釈然としない気持ちのままテーブルの上を見渡した。こんな沢山の料理を食べられるか不安だった。だが空腹だったのが幸いして、自分でも驚くほどすんなり平らげてしまった。

 最後のコーヒーを啜りながら「そういえば」と恭也は床に視線を巡らせた。「部屋片付けたんだ」

「まあね。いつまでも散らかしっぱなしじゃ気持ちも締まらないし、それに、ね?」

「ね? ってなんだよ」そんな意味の判らないテレパシーを受信する機能を恭也は持っていない。念話なら魔導師の必須スキルとして覚えているが。

「あたしだってそれなりにデリカシーがあるってことよ。流石に散乱した下着やらを見られるのは恥ずかしいわよ」

「なるほど」

 もっと図太いというイメージがあったのだが、案外繊細なんだなぁと思った瞬間に、少しだけ可愛いな、と思った。

「で、これからどうすんの?」

「一応、現場を見に行こうかなって思ってる。三日前にも事件があったばっかりだし。まああんたのおかげで犯人をかなり絞り込めたから案外簡単に真相にたどり着けるかもだけど」

「絞り込めた?」恭也は首を傾げた。それから、「ああ、そういえばいってなかったけ」と声を上げた。

「え?」

「俺が追いかけているのはアメリカ人だぞ」

「え、……なんで」

「いや、なんでっていわれても、むしろ俺が、なんで日本で協定違反しやがった、って聞きたいくらいだ」

「うわぁ、最悪」と雪乃はテーブルの上に突っ伏した。ばさりと長い髪がテーブルの上に広がった。「日本人なら探しやすかったのに……」

「地道にやりゃいいだろ。もし犯人がネクロマンサーなら事件現場に残留魔力が残ってるだろうし、そこから辿るって手もあるだろ」

「そんなの出来ないわよぉ、あたしそういう系統の魔法苦手だもん。基本刀でぶった切るだけだもん」

「ぶった切るって……、お前本当に魔導師か?」

 一般的に魔導師は接近戦を好まない。それは魔法の発動から顕現までに多少のタイムラグが生じるからだ。数年前に自動詠唱システムと呼ばれる魔法術式が組み上げられてからは、術者本人が長ったらしい呪文を唱える必要はなくなり、発動のキィとなる言葉、例えば技の名前をいうか、心で念じるだけで魔法を発動することが可能となった。だがそれでも、最大でまだ十秒前後のタイムラグが生じることもある。だから、接近戦では魔法を使うより、むしろ殴るか鈍器や刃物を使った方がいいという結論に至ってしまうのだ。現に、アメリカ軍陸上魔導師軍では接近戦では、肉体強化魔法を駆使して世界中の武術をミックスした独自の戦闘術での戦いが訓練されている。だから、魔導師が魔導師として戦うには、ミドルレンジ以上の間合いが必要になるのだ。

「あたしの刀にあんなシステムを積み込んでるとでも思う?」

 最近の魔導師の武装は、ほとんどが機械化されている。なかには昔ながらの木で作った杖などを持つ魔導師もいるが、大抵はなかにコンピュータを搭載した最新式の武装を持っている。最近では自動詠唱システムが搭載された銃火器が、各国の軍隊や特殊部隊の標準装備になりつつある。

 だが彼女の刀はどこからどう見ても、普通の日本刀だった。

「あれはちょっと特別でね。まさに我が家の伝家の宝刀。っていってもどんな風に伝えられているのかはまったく判んないんだけど」雪乃は苦笑を浮かべた。「ある意味儀式魔法に近いところがあるのかもしれないんだけど、あの刀には大昔に刻み込まれた術式があって、そこに魔力を流すことによって魔法が顕現する仕組みになっているの。あれ? なんか自動詠唱システムと似てるかも」

「で、その顕現する魔法って?」

「なんていうか、ものをぶった切りやすくする。ダイアモンドでもコンニャクでもスパスパ切れるようになるの。まあ切ったことないけど」

「ないのかよ」

「それはそうと、なんか探査系の魔法がが使えそうな雰囲気だけど?」

「急に話を変えるなよ」

「脱線させたのあんたでしょ」

「……まあそうだけど」

「で、使えるの?」

「ネクロマンサー限定だけど」

「よし、じゃあいますぐいくわよ」そういったときにはすでに雪乃は立ち上がっていた。特にとめる理由もないので恭也も席を立って、軽く背伸びをした。

雪乃は、「ちょっと用意してくるから待ってて」そういって駆け足で廊下へ向かう扉へ消えていった。

「せめて立ち上がる前にいって欲しかったな」

 テーブルの上には飲みかけでほとんど冷めたコーヒーがあった。カップを手にとって一気に喉の奥に生ぬるい液体を流し込んで、軽い溜息を吐いた。

 しばらくすると腰に刀を差して、バッグを肩に掛けた姿で雪乃が戻ってきた。

「あれ? 恭也、あんたはそのまま?」

「そのままって、ああ」桶のことをいってるんだな、と思って恭也は答えた。「調べるだけなんだろ? だったら必要ないよ。それに、まあなんというかもう少し休ませてやりたい」

「休ませる? あぁ、……あんまり深く追求しない方がいい?」

「まあ、今日のところは」

 戸締りを点検してから部屋を出た。案外神経質なんだなぁと思いながら、エレベータのなかで黙ったままぼんやりと階数の電光表示を眺めている横顔を見た。ベルがなって、Gが頭上から襲ってくる。扉が開くと少しひんやりとした空気がロビーから流れ込んできた。建物の外に出ると、もっと寒かった。雪でも降るんじゃないかと思ったが、空は青々と晴れていた。雲はどこにも見当たらない。きっと、植木のなかを探した方が簡単に見つかるに違いない。とくだらないジョークを思いついたが、口には出さなかった。

 しばらく歩くと、メインストリートに出た。夜とは違って、朝独特のせかせかとした騒がしさがあって、少し落ち着かない気持ちになる。けれどラッシュ時の日本の地下鉄と比べれば大分マシだ。

「あれ?」

しばらく歩いてから、急に立ち止まって辺りを見渡した。見知らぬ顔が流れては去ってゆく人ごみ。知った顔を捜そうとしても、どこにも見当たらなかった。雪乃の姿もない。どうやらはぐれてしまったらしい。ついさっきまで目の前にいたのに、と思ったが、少しぼーっとしていたので、その間に彼女とはぐれてしまったらしい。

「どうしようかな……」

 絶望的な気持ちで呟いた。立ち止まっていると後ろから背の高くて痩せた白人の男と肩がぶつかって迷惑そうな視線を向けられた。「すみません」と道を空けて、それから端に避難した。

 迷ったときは下手に動き回るな、というのが遭難したときの鉄則だったはず。しかし、ここは街中で、ただ迷子になっただけで森のなかで遭難したわけではない。さて、どうしようか。マンションに戻ることくらいなら割と簡単かもしれない、と考えてから建物の名前を確認していないことを思い出してその可能性を否定した。無意識についた溜息が白くにごる。

「あの……」

 ふと日本語で話しかけられて「え?」と声の方向へ振り向いた。背の小さい、中学生くらいの女の子が立っていた。朝日に照らされて栗色に光る髪を、肩の辺りでそろえた、少し丸顔の女の子。目はリスのようにくりくりとしていて、顔立ちは整っているけれど、美人というよりは可愛いという印象を恭也は受けた。

「お困りですか?」女の子はいった。

「ええ、まあ」恭也は答えた。「でもどうして?」

「なんだか、あからさまに困っているオーラが出てましたから」

 そんな風に自分は見えたのか、と思った。

「簡潔にいうと、道に迷った」

「それは大変ですね」眼を丸くして女の子はいった。その仕草をみているとなんだか、本当にとんでもないことになってしまった気がした。「この街は初めてなんですか?」

「知識としては知ってたけど、実際に来るのは始めてかな」

「えっと、お名前は?」

「名前?」恭也は訊ねた。

「はい」女の子は頷いた。

「俺は鹿羽恭也。『羽のある鹿が恭しい也』って書いたら名前になる」

「なんだか変わった自己紹介ですね」女の子はおかしそうにいった。「わたしは小椋鈴香っていいます。『小さな椋から鈴の音が香る』って書いたらたぶん名前になります……って、音が香るってなんだろ」そういって鈴香は首を傾げた。それから、「鈴香って呼んでください」とかわいらしく微笑んだ。

「俺のことは好きに読んでくれてかまわないよ」恭也はいった。「ところで、なんだけど。鈴香は、もしかして魔導師?」

「え?」

「ごめん、違ったか?」

「いえ、あってますけど、どうして?」

「だってこんなところに鈴香みたいな子がいるとなると、留学生か何かかなって。で、この街で留学といえば魔法学校しかないだろ」

「あぁ」鈴香は感心して頷いた。「そうですね。はい、わたしこの街の魔法学校に留学しているんです。将来は国連軍の魔導師部隊に入隊したいって思って」

「それはまた、茨の道だな」

 国連軍魔導師部隊といえば、世界中から選りすぐったエリートだけで編成された、魔導師軍隊で世界最強といわれている。その主な目的は、七つの封印の守護や、国際連盟の議会決議で派兵が決まった土地で起こっている紛争への介入だ。

「そういう恭也さんは?」

「俺? えっと……」答えるべきかどうか迷ったが、訊いてしまったのだから答えなければ不公平だ。「俺はネクロマンサー。ちょっとした用があってこの街へ来たんだ」

「そうなんですか。大変ですね。最近ネクロマンサー狩りなんて流行っちゃって。学校でも、死霊魔導師科を専攻している人たちは、みんなそれが怖くて寮のなかに篭りっきりなんですよ」

「ははは……」

 昨日実際にネクロマンサー狩りに遭った身としては苦笑するしかなかった。昨日は雪乃が助けてくれたからよかったものの、もし来なかったら、どうなっていたことか。本当に恐ろしい。

「そうだ。ひとつ提案があるんですけど」

「それはいいアイディア?」

「はい、グッドアイディアです」そういって鈴香は両手をパンと合わせた。「もしお暇なら、これからわたしがこの町を案内してあげます」

 どうしようか。いまの状況は、暇といえば暇だし、忙しいといえば忙しいという、そんな風に曖昧模糊とした状況だ。このままここでじっとしていても雪乃に見つけてもらえる確率は低いだろう。街を歩いている間に出会えるかもしれない。時間を有効に使えるのはどちらだろうかと考えて直ぐに答えを出した。

「それじゃ、お願い」

「はい!」元気よく鈴香は頷いた。「困ったときはお互い様です」


          ※※※


 バス停の前でうろうろしていた雪乃は、溜息をついて、それから意を決すると次にやってきたバスに乗り込んだ。はぐれたまま置き去りにするのに若干気が引けたが、自分の情報網を駆使すれば一晩あれば見つけることも可能だといい聞かせた。窓際の席に座って、そこからじっと窓の外を観察した。流れていく景色のなかに彼の顔があるかどうかじっと見詰めたが、見つけたところでバスは止まってくれないのだから意味がないことに気がついて、座席に深く座った。それでも心の奥の方では濃霧のような不安が立ち込めていた。

三つほどバス停を通り過ぎて四つ目のところで降りた。郊外の静かな墓地が目の前にあった。普段は昼間でも森閑としている場所だったが、墓地の前には警察車両が四台ほぼ停まっているのが見えた。立ち入り禁止のテープの前には野次馬が集まっている。そちらへ近づいていって見知った顔を捜す。テープの向こう側で、制服姿の刑事と話をしていたスーツ姿の刑事と眼が合った。一礼して、人ごみを掻き分けて前に進み、テープを乗り越えて、「なにかあったの?」と男に話しかけた。「ここの捜査は三日前に終わらせたはずだけど?」

「ああ、死体が見つかった」男は答えて、墓地の門柱の側に眼を向けた。そこにビニールシートを被った人間ほどの大きさの物体があった。恐らくそれが死体なのだろう。

「あの、ボーナム警部。彼女は?」男と話していた刑事が近づいてきた。背が高くてヘビー級のボクサーのようながっちりとした体型をしている。警察とは多少縁がある雪乃だが、知らない顔だった。

「捜査協力者だ」ボーナムは答えた。

「ユキノ・クサナギです」雪乃は丁寧に一礼した。それからセーラー服の胸ポケットから名刺入れを取り出し、そこから名刺を一枚取り出した。「以後お見知りおきを」

「ああ、はい」刑事は答えた。「私はホールシティ市警魔導師犯罪課のジャック・タイラーです。昨日付けでここに配属されてきました」

「あの、タイラーさん。早速なんですが、その死体見せてもらえます?」

「あぁ、えっと……」とタイラーはボーナムの方を、ちらと見た。

「かまわん」ボーナムは答えた。

「ありがとうございます」雪乃は完璧な作り笑いでいった。

雪乃が死体のほうへ歩き出すと、それに先回りするようにタイラーが小走りで死体の側に行き、しゃがみこんだ。巨大な図体には似合わない、ちょこまかした動きがとてもコミカルだった。

「本当に酷い状態なんで、覚悟してくださいね」ジャックは念を押す。

「大丈夫です」きっぱりと雪乃はいった。

 いきますよ、ともう一度念を押してタイラーはビニールシートをめくった。鼻を突く腐臭がむっと立ち込めた。死体の側にしゃがむと腐臭はより強くなった。臭いに顔を顰めながら死体を観察する。首の右側の肉が大きくえぐれていた。恐らく死因はそこからの大量出血だろう。傷口は、まるでなにか獰猛な獣に食いちぎられたようになっていた。喉笛も噛み切られているので呼吸困難に拠るものかもしれない。だがそんなことは検死官が調べればすぐに判るだろう。問題は、すでに死体が腐り始めているということだ。いまは冬で、門柱の前に死体があれば通行人が気付くはずだから、少なくとも殺されたのは昨日の夜のうちと考えるのが妥当だ。それからいままでの短い時間で死体が腐り始めるだろうか。あるいはわざわざ腐らしてからこんな場所に放置した? そんな疑問に答えるように「恐らくネクロマンサーによる犯行だ」と半ば断定するような口調でボーナムがいった。「彼らは死体を蘇らせることも、腐敗を進めることも出来る。それに、動物を使役している連中もいるからな。たまに非合法な生物を生み出してから殺して使役する方法もある。恐らく、犯人はそういう筋の奴なんだろう」

それが妥当だろう、と雪乃は思った。だが、何故腐らせる必要があったのだろうか? 判らない。

「しかし、どうして腐らせる必要があったんだ?」ボーナムも同じことを思っていたらしく、そう呟くと死体に眼を落とした。

「死亡推定時刻を誤魔化すため……なのでは?」タイラーがいった。だが声は小さめで、自信はなさそうだった。

「だがそうすることに何の意味がある?」

「えっと、そうですね……アリバイ工作とかでは?」

「こんな方法でアリバイを工作するくらいなら、完全に腐らせてから山でも死体を埋めたほうがよっぽど合理的だ」

「でもなんでそうしなかったんだろう」雪乃はいった。立ち上がって、死体に背を向けると大きく深呼吸をした。新鮮な空気で肺を浄化するイメージを頭のなかに思い描いてから、吐き出した。

「何かのメッセージか、あるいは犯人にはそうできない事情があった」ボーナムはいった。

「で、その事情とは?」

「判らない」ボーナムは首を振っていった。「それをいまから調査するんだ」

「ところで、なんだけど。ボーナムおじさん?」雪乃は小さく首を傾げる。「ここのことなんだけど――」

「好きにしろ」溜息をつきながらボーナムはいった。「それと、仕事場でその呼び方はやめてくれといったはずだが?」

「プライベートで警部って呼んだらがっかりする癖に」

「さっさと行け。こっちも仕事が残ってるんだ」ぞんざいに雪乃をあしらうと、くるりと背を向けて、早く行けとばかりにしっしと手を振った。

「相変わらず愛想悪いんだから」遠ざかる後姿に唇を突き出して不機嫌に呟いた。捜査官の間を縫って墓地のなかに入っていった。しばらく進むと喧騒が遠ざかって、いつもどおりの静かな墓地に戻った。

「でもあたしがひとり出来たところでやれることなんて大してないのよねぇ」

 本当ならここで恭也に探査魔法で、犯人の手掛かりが残っていないか調査してもらうよていだったのだが、はぐれてしまったのでそれもままならない。ここまで来たのが徒労だった気がして、急に疲れが押し寄せてきた。雪乃は少し離れたところに見えたベンチまで歩いていってそこに腰を下ろした。ゆったりとした風が吹いてざわざわとすぐ後ろに植えてある広葉樹が揺れた。

「あれ?」

 視界の端で何かが光った気がした。

 なんだろうと思って光った方向をじっと見詰める。あまり手入れされていない周囲に草の生えた墓石の近く。草の茂みのなかでなにかが日の光を反射して小さく煌いていた。立ち上がってそこまで歩いていく。近くでみると、それはプラスチック製のカードらしかった。バッグから手袋を取り出すと、それを嵌めた手でカードを拾い上げた。

「これ、学生証じゃない」

 〈ホールシティ魔導師学校〉と書かれたその学生証には、持ち主の顔写真と名前、学生IDや所属学科などが書かれていた。持ち主の名前はマリア・サザーランド。年齢は生年月日からすると、今年で十六。だがまだ誕生日を迎えていないので、実質十五歳だ。死霊魔導師科に所属していると書いてあるので、恐らく彼女はネクロマンサーなのだろう。ウェーブの掛かった金色の髪に、大きく円らな瞳が印象的な少女の顔写真をじっと見詰めながら、もしかしたら在学中に会ったことがあるかもしれないと記憶の引き出しを上から順に空けていったが、まったく見覚えがなかった。この街の魔法学校は世界でも有数のマンモス学校として知られており、初等部から大学までの学生をすべて数え上げれば五万人ほどいて、この街の人口の五分の一が学生だといわれている。二年前まで雪乃もそこに通っていた。

「これは持っていくべきかな」

 もしかしたらあの殺人事件と何か関係があるかもしれない。門のほうを見るとまだ人だかりがあった。捜査はまだ続いているようだ。カードを手に持ったまま、小走りで門のところまで戻った。

門のところで何か話していたボーナムは、こちらに気がつくと話を中断して近づいてきた。

「どうした?」

「これ拾ったんだけど」学生証を差し出した。

「これをどこで?」受け取りながらボーナムが訊いた。「学生証じゃないか。しかも魔導師学校の」

「案内するからついてきて」

 雪乃は拾った場所までボーナムを案内した。ボーナムのほかに、タイラーを合わせ、三人ほど警官がついてきた。

「ここで拾ったのか」ボーナムは墓のそばの草叢を見下ろした。「どんな感じだった?」

「普通に落ちてた。ちょうど日の光を反射してて、それで気がついたの」

「三日前にもここには警察が大勢やってきて、捜索したはずだ」ボーナムがいった。つまりそれ以降に落とされたものだといいたいのだろう。

「これってもしかして今回の事件の犯人だったりする?」

「それは断定できないが、限りなくそうであるか、あるいはなにか深い繋がりがある可能性がある」

「もしくはすでに殺されているか」雪乃はいった。

「死体消失事件の方の関係者かもしれない」ボーナムはいった。「ともかく、この生徒について調べてみないことには、こちらもはっきりとしたことはいえない」

「でもそれって難しいんじゃない?」

 どこの魔法学校も、伝統を重んじるとともに、外に対しては若干閉鎖的な部分がある。この街にある魔法学校は世界でも屈指の名門校であり、他国の名門魔導師学校と比べれば歴史は浅いが、それでもイギリス植民地時代に作られたものなので合衆国以上の歴史はある。歴史が長くて名門であればあるほど、身内のことについては閉鎖的になっていく。だから、警察の要請であっても、よほどのことがなければ個人情報を渡したりはしないだろう。むしろ彼らは、自分たちの生徒、仲間が警察沙汰になるような事件を起こしたりしないと本気で信じている節がある。仮に本当に事件を起こしていたとしても、そう簡単に仲間を売ったりはしない。強すぎる結束力は、こういうときにマイナス方向に働く。

「ねえ、その仕事あたしに任せてくれない? あたし、一応あそこの卒業生ってことになってるし。教員に知り合いもいるから、うまくやればごっそり情報を引き出せる可能性だってあるわ」

「でしゃばるな。これは大人の仕事だ」

「あたしだって、一応社会にでて稼いでるんです。それに、あたしは探偵よ。それくらい朝飯前よ」

「えらい自信だな」ボーナムは溜息をついた。「判った。お前に任す。まさかとは思うんだが、報酬を取るんじゃないだろうな」

「昔、あたしが入院して、退院したときにお祝いに買ってくれたコーヒーカップあるでしょ? あれをどこで買ったのか教えてくれるだけでいい」

「そんなのでいいのか?」

「とっても大事なことなの」

「判った」ボーナムは頷いた。「それじゃあ頼んだぞ」

「まかせて、おじさん」雪乃は悪戯っぽく笑った。



          3


 これまで割りと自分が用心深い人間だと思っていたが実はそうではない、ということを薄々感じながら見上げた空は、朝と変わらぬ青さがあった。ちょうど空の真ん中で白い太陽が寒気に抗うように孤軍奮闘、暖かな日差しを降らしている。

「あの……すみません。つい……」隣を歩く鈴香は申し訳なさそうに、上目遣いでこちらを見上げてきた。

「いいよ別に。結果的には街を案内してもらったわけだし」苦笑を浮かべつつ恭也はそう返した。実際、彼女の案内でいくつもこの街の名所を巡った。白い魔女という大昔に世界を救ったとかいう大魔導師の像がある、やたらコインが投げ込まれた豪奢な噴水だとか、百年以上前に建築された市庁舎だとか、魔導師連盟の本部である超高層ビルだとか。それ自体は、割合楽しい観光であった。移動の合間に両手がふさがって、持つ腕が痙攣するほどの買い物がなければの話だが。しかし、当の本人は反省しているらしく、そのお陰であまり強くいえない。自分はお人よし過ぎるかな、と少し思った。

「もうお昼ですね。どこかで食事でもします?」鈴香がいった。どこかで休憩した方がいい、という気遣いだろう。恭也もそろそろどこかで一休みしたいと思っていたので「じゃあ、あそこは?」と道路を挟んで向かい側にあるファストフード店を見た。

「じゃあいきましょう」そういって鈴香は右手を差し出した。「少し持ちます。なんだか、持たせっぱなしっていうのも悪いですし」

「そう? そんじゃあ、少しだけ」と、比較的軽い紙袋を二つ鈴香に渡した。

よいしょ、と鈴香はそれを両手に持ち直して、こちらを振り向いて目配せをしつつ微笑んだ。

五メートルほど歩いたところに横断歩道があったが、赤信号だったので立ち止まった。すぐに信号は変わって、ぞろぞろと堰を切った溝のように人が流れ出した。その流れの一部となって横断歩道を渡りきった。こういうとき、果たして自分は本当に自分の意思で生きているのか不安になることがある。だがそれも一瞬のことですぐどうでもよくなる。

外からのぞいた店内は、昼時にしては空いていて、空いているテーブルが幾つかあった。なかに入ると、カウンタで適当にセットメニューを二つ注文して、それから一番窓際のテーブルに座った。荷物を床に置いて、肩をまわすと関節がバキバキと音を立てた。それを聞いた鈴香が口元を押さえておかしそうに笑うので、「なんだよ」と不機嫌を装って睨んでみた。

「ごめんなさい」目じりを僅かに下げつつも、鈴香はそう謝った。

「いいよ。冗談だから」そういいながら、こんなことしてていいのかなぁ、と恭也はぼんやり思った。いまごろ雪乃はどうしているのだろうか。やはり勝手にいなくなったことを怒っているだろうか。それよりも、無事にマンションに帰れるかどうか、それが問題だ。部屋に桶をおいてきたままだ。まあ、呼べば中身は勝手に自分のいるところに来てくれるので、入れ物の代用品を用意すればなんとかなるのだが。しっかりと金もあるし、口座には貯金もある。

「なに考えてたんですか?」首を傾げながら鈴香がいった。「なんだかぼーっとしてました」

「連れのこと。いまごろどうしてんのかなぁ……って」

「そのひとも、この街が始めてなんですか?」

「いや、ここの住人。でも日本人」そういってから、国籍も日本人のままなのだろうか、とふとした疑問がよぎった。幼い頃からこの街に移り住んでずっとこっちで暮らしているのなら、もしかしたらアメリカ国籍を取得している可能性もある。まあ、どうでもいいことだが。

「それってどんなひとなんですか?」鈴香はいった。「とっても興味があります」

「どんなやつか……」どう答えようか少し迷った。まだ出会ってから二十四時間も経過していないので、まったく彼女のことを知らないのだ。「第一印象でいうなら、強くておひとよしかな。街のネクロマンサー狩りに動じずに、俺を助けてくれたし。家に泊めてくれたし。まちょとした条件みたいなものはあったけど」

「そうなんですか。親切、っていうかとっても強いんですね、そのひと」

「でも、変なやつでもあるかな。セーラー服に日本刀っていう一歩間違えなくても、頭のおかしいファションだったから」

「日本刀……?」と鈴香が聞き返したときに、ウェイタが料理を運んできて、話を中断した。目の前に置かれるトレーを身ながら、こんなサービスをしているのか、と少し感心した。いつも使っている大手チェーンのファストフード店では、自分で取りに行かなければならない。

 食事をしている間、会話は殆どなかった。恭也は昔から食事のときに黙る習慣があったが、どうやら彼女も同じ習慣を持っているらしく話しかけてこなかった。そういえば、雪乃も喋らなかったな、と思いながら最後のポテトを口のなかに放り込んだ。

「このあとはどうします?」鈴香が尋ねた。彼女は先に食べ終わっていて、このタイミングを待っていたらしい。

「別に、やることもないし。というか荷物を最後まで運ばないと」

「じゃあ、このまま寮に戻ろうかな。それでいいですか?」

「りょーかい」恭也は頷いた。

 店をあとにすると、通りを南に向かって歩いた。しばらくしてバス停が見えてきて、そこでバスに乗った。行き先に『ホールシティ魔導師学校前』というのがあったから、恐らくそこで降りるのだろう。

「恭也さんは、どうしてこの街に来たんですか?」

「え?」

「あ、えっと、聞いちゃ駄目なことだったら別にいいんです」

「ああ、それは大丈夫」別段隠すようなことではない。そもそも、すでに雪乃に喋ってしまっている。「この街に、日本で事件を起こして逃げてきたネクロマンサーがいるって情報が入って、それを追ってきたの」

「へぇ……。あの、間違ってたらごめんなさい。恭也さんは、『制裁人』なんですか?」

「まあ、一応」

「凄いです!」急に恭也の手を取ると、鈴香は感激していった。「だって、わたしとそう年も変わらなそうなのに、もう制裁人をまかされるなんて」

「ははは……」妙に照れくさくて、それを隠すために苦笑を浮かべてみる。制裁人とは、魔導師連盟内部の司法機関に属する人間のことを指す俗称であり、正式名称は『国際魔導師連盟魔導師犯罪対策部所属特別法務執行人』という長ったらしい名前であるが、誰もそんな名前で呼びたがらないので公の場以外では、俗称の方が正式名称化している。この仕事の主な役割は、制裁人というその名に相応しく、国際魔導師連盟が定める『国際魔導師協定』ならびに『国際魔導師法』に違反した魔導師を捕らえ、裁くことである。尤も、近年は人権擁護団体の圧力により制裁人が実質行う仕事は捕らえるところまで、ということになっている。

 この役職につくには、本来超難度の試験を突破しなければならないが、例外がひとつだけある。それがネクロマンサーの場合だ。ネクロマンサーと一般的な魔導師は、『魔導師』という括りこそ同じだが共通しているのは根底の魔力を使って何らかの現象を引き起こしている、というところだけで、他は何から何まで違うため、専用の制裁人が必要なっている。だが、ネクロマンサーの人口は魔導師の全体すうから見れば非常に少ないため、連盟は一定数を確保するために、殆どの国や地域で世襲制を暗黙の了解として認めている。恭也もその例に漏れることなく、一年前に祖父が引退した後、指名されてこの仕事を継いだのだ。とはいえ、兄弟や実の父を押しのけての、異例の指名だったので、そのことを重く受け止めて祖父に恥をかかさないようにこれまでやってきたのだ。

 だが、「尊敬しちゃいます」と無邪気にいう鈴香の言葉が胸に痛いのもまた事実である。多少なりとも、他の制裁人たちに対する負い目や、制裁人になれなかった自分より優れているはずの父や兄たちに対する感情が、そう感じさせているのかもしれない。

 バスを降りると、恭也は目の前に広がる光景に思わず「うわぁ」と感嘆の声を漏らした。

 豪奢な門扉の向こうには広大な土地が広がっていた。東京ドームでいうと何個分だろうか? と少し考えたが、そもそも東京ドームの広さを知らないし、ここの土地の面積も知らないので比べようがない。敷地のなかには小さな都市のオフィス街のように密集して建物が並んでいる。多分あれが校舎なのだろう。そしてその奥には、ドーム上の建物が見えたが、その周囲にトラックやダンプカーそれに建築に必要な重機が沢山並んでいたので、恐らく建築途中なのだろう。

 鈴香が生活している学生寮もこの敷地内にあるらしい。案内されるままに芝生の間を縫って走る赤レンガで舗装された歩道を歩いて建物が密集している方へと向かった。建物は道路に分たれるように、右側と左側に別れていた。奥行きが深い長方形の建物で、幅もそれなりにある。かなりの人数を収容できるだろうな、とそんなことを考えた。

「ここは、校舎と寮が隣り合ってるんです。だから、忘れ物をしても直ぐに取りに帰れます。あ、ちなみに大学の方はここのすぐ右隣です」

 そういわれて右側を見ると、少し離れたところにレンガ造りの巨大な建物が見えた。時計塔のようなものがあったビッグベンみたいだな、と思った。

「で、ここの校舎は初等部から高等部まですべての学生が座学を学んでいるんです」

「へえ」恭也は建物を見上げた。「どっちが校舎?」

「向かって右手の方です。で、左手のほうがわたしの生活している寮です。ここも一応、なかで男女で分かれてるんですけどね」

「それって、俺が入ってもいいの?」

「バレなければ大丈夫です」

「見つかったら?」

「そうですね……」人差し指を顎にあてて考え込む。「お兄ちゃんの振りをしてください。身内なら不文律的に大丈夫、みたいな空気がありますから」そういって鈴香は少し照れくさそうに笑った。「いきましょう」

 階段を四階分登って、廊下を右側に進んだ。鈴香の部屋は階段から五つ目のところにあった。鈴香が鍵を開けて、なかに入った。恭也も、少し緊張しながら、壁や柱に荷物をぶつけないように注意しつつ部屋に入った。ほどよく生活観のある部屋だった。雪乃の部屋のように、着衣やゴミが散乱しているわけでもなく、かといって無機質でもない。全体的に明るい色でコーディネートされた家具やカーテン。棚の上にはいろんな小物が置かれていて、部屋の真ん中にあるテーブルの上には読みかけの本が伏せたままおいてあった。タイトルは英語で『古代魔法と近代魔法にみる魔力運用の推移』と書かれた魔法学の専門書だった。部屋の奥に二段ベッドがあったが、下の段だけモノが置いてあって、上の段には布団すらなかった。どうやらこの部屋は彼女ひとりだけのものらしい。

「どこにおいたらいい?」

「あ、適当でいいです」

 適当か、と床を見渡して、テーブルの足元に荷物をおいた。

「すみません。こんなところまでつき合わせちゃって」鈴香はいった。鍋に水を入れて、コンロの上に載せた。かち、という音がしてコンロに火がついた。「そこ、適当に座っていてください」

 そういわれて、テーブルを見た。二人の人間が向かい合って座ると一番しっくりくる、という小さなテーブルだった。恭也は椅子を引いて座った。

「安物の葉っぱ、っていうかティーバッグの紅茶しかないんで、その、あんまり期待しないでくださいね」

「ああ、うん。あんまりそういうのは拘らないから」基本的に飲めればなんでもいいし、そもそも紅茶の味に文句をつけられるほど知識を持っていない。

 コンロで火が燃える音が小さく響いている。静かだな、と思った。窓の外に眼をやると、青空に僅かな翳りが見えていた。うっすらとした筋雲が白波のように浮かんでいる。これは気遣って少しなにか話した方がいいかな、と思った恭也は伏せてあった本を手にとって「難しいの読んでるんだな」といった。開いてあったページには、複雑な数式が沢山並んでいた。理論的に魔法を説明するとこんな風になるのか、と少し感心した。ネクロマンサーの使う魔法にはこんなに複雑な術式は存在しない。いや、あるにはあるが面倒臭いし、それがなくてもやってこれているので必要としていないのだ。

「あ、はい」慌てて鈴香はこちらを向いた。その仕草が小動物みたいで少しおかしかった。

「俺にはさっぱりだわ」

「そうなんですか?」不思議そうに首を傾げた。

「基本的にネクロマンサーの魔法はパターンが決まっちゃってるから。死霊を操るか、死体を操るかって、だいたいはこの二つだけだから。しかも死体を操る方なんかは、直接術式を紋章として死体のどこかに書き込んでおけば、あとはそこに魔力を流すだけで勝手に動くようになってるから、いちいち難しい魔力運用とかは考える必要はないんだ」

「なんだか、おんなじ魔導師なのにまったく別物みたいですね。わたしなんて、基本的に射撃型の魔導師だから、砲撃の魔力制御だとか、誘導性魔力弾の制御とかいろんな術式を覚えないといけないから、大変です。あ、そうだ。幻術とかも結構得意なんですよ、わたし。頑張れば実体化したのも作れるんですから」

「それは凄いな」

「えへへー」と鈴香は笑みを浮かべた。照れているのか、少し顔が赤い。「なんだか、不思議です」

「不思議?」

「はい。その、わたしってほんとはとっても人見知りするタイプの人間なんです」

「そんな風には見えないけどな」確かに大人しめの印象はあるが。「だって、道に迷ってた俺に話しかけてくれたじゃんか」

「だから不思議なんです。普段のわたしなら、助けてあげたいな、きっと困ってるんだろうな、って思いながら結局見てみぬふりをしてたはずなんです。でも、なんていったらいいんだろ。恭也さんは、なんだか昔から知っているひとみたいで、話しかけやすかった、っていうかその……あ、お兄ちゃんみたいだった。かな?」

「それはどうも」恭也はいった。なんとなく、口元が綻ぶ。こういうゆったりとした時間を過すのは凄く久しぶりのような気がした。日本では、ずっとプレッシャーと戦いながら、まるで身を削るように法を犯したネクロマンサーを追いかけていたから。たまにはこういうガス抜きも必要なのかもしれない。

 鍋の水が沸騰して、火が止められる。戸棚から取り出されたカップが二つテーブルの上に並んで、ティーバッグが放り込まれて、あとから熱いお湯が注がれる。湯気とともに、フルーティな香りが天井まで上ったところで対流し、部屋中に満ちた。

「アップルティー?」

「はい。大好きなんです」鈴香は向かいの席に座った。「あ、恭也さん。お砂糖いります?」

「じゃあ、少し」

「はい」

 鈴香は席を立つとキッチンのすぐ隣にある戸棚からシュガーポットを取ってきて、小さな匙で二杯ほど砂糖を入れてくれた。

「ありがとう」正面に座った鈴香に礼を述べる。

「どういたしまして」柔らかい笑顔で彼女は答えた。

正面で見詰め合うような形になって、少し気恥ずかしいような気がして、澄んだ飴色の水面に視線を逃がした。異性と顔を合わせるのが恥ずかしいというよりは、鈴香の真っ直ぐな瞳が少しまぶしく思えたからだ。

ふと頭の中で記憶が巻き戻っていく感覚に囚われた。

なんだろう?

以前にも同じようなことをした記憶があった。そのときはこんな異国の地ではなく、田舎のひっそりとした山の側ににある実家。あれは確か十月の月の綺麗な夜だった。

ああ、だめだ。

嫌なことを思い出そうとしている。

本能的にそう思った。

だからすぐに思い出すのをやめた。

幸せに生きたければ、余計な思い出を排除したほうがより理想的に生きることができる。

「どうしたんですか?」

 すぐ目の前に、気遣うような鈴香の顔があった。

「なんでもない、ちょっと昔のことを思い出していただけ」

「そうですか……」鈴香は僅かに目を伏せる。「でも、なんだかとっても寂しそうな眼をしていました」そういってから、鈴香は顔を上げ、「ごめんなさい。初対面なのに、なにいってんだろ、わたし。あの、忘れてください」

「いや、ありがと」

 この子になら少しくらい自分のことを話してもいいような気がした。

 深呼吸を一度。

 口を開こうとしたときだった。

 ノックの音が三回響いた。

 溜息が自然と零れ落ちた。「どうしたらいい?」

「えっと……そこに隠れてください」声を落として、ベッドを指差した。

 恭也は頷くと布団のなかに潜り込んだ。靴はベッドの下に隠した。やってきたのは、鈴香の友人らしかった。金色の髪が綺麗な女の子だった。なにか話しているみたいだが、自分と彼女たちの位置関係と布団のなかというファクタのおかげでよく聞き取れなかった。しばらくして、友人は出て行った。

「もういいですよ」鈴香がいった。

恭也はベッドから這い出した。

「兄弟って誤魔化すんじゃなかったのか?」

「あの子には、わたしの家族構成を話してますから」

 テーブルの上を見た。まだカップには半分ほどアップルティーが残っている。「これを飲んだら出て行くよ」

「もう少しゆっくりしていっても、いいんですよ?」

「迷惑かけたら悪いしさ」

「そうですか」少しがっかりした様子だった。「それもそうですね。もし見つかったら恭也さんにも迷惑がかかっちゃいますし」

 それからゆったりとしたティータイムを満喫して恭也は部屋をあとにすることにした。

「校門のところまで一緒に行ってもいいですか?」鈴香がいった。上目遣いで、ちょうど小型犬が飼い主を見上げるときのように、少し瞳が潤んでいた。

 別にこの申し出を断る理由もなかったので「それじゃあ一緒に行こう」と恭也頷いた。それから二人で部屋を出た。

 階段を下りているところで、誰かが昇ってくる足音が聞こえてきた。恭也は、鈴香の顔を見た。鈴香は緊張した面持ちで、頷いた。

 足音の主とはちょうど三階の踊り場で鉢合わせた。白髪の混じった頭髪をまとめて頭の後ろで縛って、鋭角的な眼鏡をかけた女性。年齢は、四十を少し過ぎたくらいだろうか。

「おはようございます。ミス・ミシェル」

「その方は?」そういってミシェルは恭也を見た。

喋り方も、目つきも神経質そうだなと恭也は思った。「兄です」

「ほう?」目つきが険しくなる。ぐっと顔が近づけてくる。なにか鼻につくにおいがした。確か白髪染めの臭いだ。「あまり似てませんね」

「その、父親似なんです」鈴香からの微妙なフォロー。

「…………」ミシェルはあからさまに、訝しげに眉を顰めた。どうみても納得している風には見えない。

 さあ、どうしようか。そう考えていると「おや?」という声が聞こえてきた。そちらを見ると、細身で身長が高い金髪の男性がこちらを見ていた。なにかスポーツでもしていたのか、細身ながらもすっと芯が通った立ち方をしている。

「アンドリュー先生」鈴香がいった。

「ああ、スズカこんなのとこにいたのか」アンドリューはミシェルを見た。「彼女に少し用があるんだが、いいですか?」

「……ええ」ミシェルが頷いた。不承不承といった様子だった。

「あの、失礼します」鈴香がいった。恭也の手を取ると、先に階段を折り始めていたアンドリューに続いて階段を駆け下りていった。

 一番下までついたところで「ありがとうございます」と彼に恭也はいった。

 アンドリューは「どうも」と肩をすぼめて「ところで君は?」と胸ポケットからタバコを取り出しながらいった。「彼女のお兄さんではないだろう?」

「ええ、まあ……」

「ボーイフレンドかい?」くるくると指でタバコを回転させている。

「先生!」鈴香がいった。

「冗談だよ。僕は他人のプライベートに踏み込むつもりはないよ。でも、節度を守ることは大事だ。そのことをよく覚えておくように」

「すみません。でも、あの。どうして学校に? 今日は休日のはずですけど」

「偶然……というより他にないかな。僕が教えている生徒に急に学校に呼び出されてね。まあ、訓練場の最終調節のことで業者と少し話があったからどのみち学校にはくることになっていたんで、予定が狂うようなことはなかったけど。で、そのついでに校内をぶらぶらしつつ、現場に居合わせた、というわけだ」そういうと、アンドリューはこちらを見た。「ところで、君も日本人のようだね。名前はなんていうんだい?」

「キョウヤ・シカバネです」恭也はいった。「一応ネクロマンサーなんです」

「ああ、シカバネ……。知ってるよ。僕もネクロマンサーだからね。君の一族は、この世界じゃなかなかの有名人だ。変わった死霊魔導術を伝承しているってね。昔、独学で学ぼうとした時期があったよ。もちろん挫折したけど。そうか、ということは君がシカバネの制裁人なんだね?」

「ええまあ」曖昧に頷いた。「まだまだ半人前ですけど」

「謙虚だね」

「いえ、事実を述べたまでです。実力だけなら、父や兄の方が上でしたから」

「それはまた、難儀なことだね」アンドリューはいった。同情しているというよりは、少し面白がっているようにも見える。「ということは、あれかな。君の使役する死体が優秀だということじゃないかな」

 アンドリューはタバコを咥え、火をつけた。

 恭也は答えなかった。答えないのでも答えられないのでもなく、答えたくなかった。なんだか少し嫌なやつだな、と思った。感覚的なもので論理的な理由は特にない。

「それじゃあ、僕はここで。若い二人の邪魔をして、馬に蹴られたくはないからな」

 遠ざかっていくアンドリューの後姿を見ながら「相変わらず軽口ばっかだなぁ……」と鈴香が呟いた。

「あれって訓練場なの?」ドーム上の建物を指しながら恭也はいった。

「あ、はい。二年前から建設が続けられてて、もうすぐ完成する予定なんです。もともとかなり前から建設は予定されていたらしんですけど、最新式の結界システムの構築に色々手間が掛かるとかで、その問題がなかなか解消されないままずっと工事は行われていなかったんです。でもようやく二年前に建設が開始されたんですよ。大規模な儀式魔法を行っても、周辺にまったく影響を及ぼさない強固な結界を構築することができる、最新鋭の屋内実戦訓練場なんです」

「へえ。でもそれと彼がどう関係あるの?」

「ずっと開発チームにいたんですよ。建設にも結構な私財を投じたっていう話ですし。あれが作られるのがなにか、夢みたいなものなのかもしれません」

「そうなんだ。というか、結構金持ちなんだな」

「さあ、それはよく判りません。なんだか実生活があんまり判らない人ですから。でも、この前はお金がないって話をしてましたよ」

「まあ、ネクロマンサーはどんな職についてもあんまり儲からないからなぁ」

一般の魔導師なら、軍事関係や魔法技術の求められる企業や医療関係、教職など魔法学校卒業後はどこの国でも引く手数多の状態になっている。さらに、世界中の全人口からしてみれば魔導師はそんなに多くはないので、存在自体にそれなり希少性があって割合高い給金も約束されている。だがネクロマンサーは能力に汎用性がないせいで勤め先がほとんどない。さらに、魔導師のなかでも最下層だとみなされているので、どこかに就職できても給料はかなり安いし扱いも悪い。魔導師として、最後の就職先ともいわれる軍隊への入隊も、国際魔導師法により固く禁じられている。この法はしっかりとした拘束力をもつため違反すると、それ相応の罰則が与えられる。そしてこの場合の罪は、かなり重いものとなっており、一生連盟の施設に禁固されるという刑罰が実際に下ったケースもある。

そんな事情があって、多くのネクロマンサーは魔導師をやめるか、あるいはそもそもそんなもの目指さないという選択肢を選ぶことが多くなって、どんどん数が減っているというのが現状なのだ。

「そのうちネクロマンサーなんていなくなるかもしれないな」恭也はいった。

そもそもこんな能力が、本当にこの世界に必要なのかも甚だ疑問だ。

 けれどなくなってしまったら、それはそれで少し寂しいような気もする。昔、家のすぐ近くにあったボロボロの納屋が取り壊されてしまったときと、同じような寂しさだ。誰も困ったりはしないけれど、当たり前の風景から何かがぽっかりと欠落してしまって、それが心にも伝染して妙に物悲しくなる。

 そんなことを考えているうちに校門の前まで来てしまった。

「じゃあここでお別れですね」鈴香がいった。「でも、大丈夫なんですか?」

「判んないけど、なんとかなるんじゃないかな」まったく根拠はない。

「何か困ったことがあったらここに電話してください」鈴香はポケットから紙切れを取り出した。受け取ってみてみると、電話番号が書かれていた。いつのまに書いたんだろう? と思いながら「判った」とジャケットのポケットに押し込んだ。

「それじゃ」

「はい、また」

 しんみりするのが嫌だったのであっさり別れた。

 まずはバスに乗って……それからどうしよう。

 行き先なんて決まっていなかった。まあ、適当に歩き回ればそのうち帰れるだろう。

 歩き始めてしばらくしたところで、背後から足音が近づいてきているのに気がついた。テンポの速い足音で、閑静な夕暮れ時にせわしく響き渡っていた。

 振り返ろうかどうか迷っていると、「見つけたぁ!」と日本語の叫び声が聞こえて反射的に振り向いてしまった。

 肩で息をする、髪がぼさぼさで怒った顔の雪乃がいた。

 雪乃はこちらに早足でやってくると、胸倉を掴んで「どこ行ってたのよ!」と耳元で怒鳴った。

「道に迷ったんだよ」恭也はいった。少しかちんと来た。「お前こそひとを置いて勝手にどっかいったじゃんか」

「はぐれるヤツが悪いの」

「気付かないお前もどうかと思うけどな」

「はぐれたことに気がつかないヤツにいわれたくない」

「どうでもいいけど、手を離せ。苦しい」

「どうでもよくない!」

 手を離した代わりに突き飛ばされた。

「勝手にいなくなるから、またどっかでボコられてないかとか、すんごい心配だったんだから」

「……え?」

「見つかったからいいけど。本当に、もう、なんかケロッとしてる顔見たら無性に腹が立ってきた」

「ごめん」

「判ったらさっさと帰るわよ。ちょっとあんたに聞きたいことができた」そういってくるりと背を向けた。ついてこいということらしい。さっさと歩き出した雪乃を、早足で追いかける。隣に並んでみたが、会話はない。雪乃はただ不機嫌そうに口をつぐんで前方を睨みつけている。

「聞きたいことって?」遠慮がちに恭也はいった。

 雪乃は足を止め、こちらを睨んだ。「あんたが追いかけているっていうネクロマンサー。それは男? 女? それと名前は? ちゃんと話さなかったでしょ?」

「そういわれてみればそんな気がしてきた」確かにいった記憶はない。

「あたしのこと信用してない?」僅かに首を傾げる。先ほどとはベクトルの違う不機嫌さに瞳が揺れている。

「そういうわけじゃない。――ってこともないけど。単純にいい忘れてただけ。そっか、協力関係なのに情報を共有しないのはちょっと変だな」なんだか、おかしくて少しだけ笑った。「帰ってから話すよ」

「もったいぶるつもり?」むっとして彼女はいった。

「そういう話はゆっくり出来た方がいいだろ?」

「移動中にも出来る」

「誰かに聞かれているかもしれない」別にやましいことではないが、関係のない人間に聞かれるのは少々まずい、と思った。

「…………」

「…………」

 しばらくにらみ合ってから、「判ったわよ」と溜息混じりに雪乃が先に折れた。

「じゃあ、帰ったらちゃんと話を聞かせてもらうから」



          4


 シトロエンのハンドルを握りながらボーナムは横断歩道を渡る、視界を横切っていく歩行者をぼんやりと見ていた。

「相変わらずここは人が多いですね」タイラーがいった。大柄な体を小さな助手席に押し込んだ姿は、母親の胎内にいる赤ん坊のようだ。だが、こんなでかい赤ん坊はいない。でかいまま赤ん坊になっている姿を想像したら急に笑いがこみ上げてきた。

「思い出し笑いですか?」

「いや、なんでもない」適当に誤魔化して信号を見た。ちょうど赤から青に変わる瞬間だった。車を発進させる。

「お前はどう思う?」ボーナムはいった。

「どう、とは?」

「あの殺人事件と、死体消失事件の関連性だ」

「現状では、直接結びつけるような要因もありませんし。まだ、なんともいえません」

 無難な答えだな、と思った。「俺はなにか臭う気がする」

「警部、推理小説の読みすぎです。事実はそれほどドラマティックではありません」

「だが、事実は小説より奇なり、ともいうだろう?」交差点が見えてきた。前方の信号は青。左にハンドルを切った。「それに、一応共通項は存在している」

「どちらもネクロマンサーによる可能性が高いということですか? でもそれは可能性ってだけです、警部」そういってタイラーは大きな肩を竦めた。

「それに、腑に落ちないところがある」かまわずボーナムは続ける。「あの死体の状況だ」

「確かに、あそこで死体を腐らせる意図がまったく判りません」タイラーは深く頷いた。

「だが、なにか意味があるはずだ。それが判れば、なにか突破口が見えてくるかもしれない。まあ、まずは解剖の結果待ちだ。失血死か呼吸困難か、そのあたりが死因であることは明白だが、それでも意外な結果というものは幾らでもついてくる。……あるいは、死体を腐らせたのはただの怨恨という線もあるかもしれない」

 あまりにも憎い相手だから死体をめちゃくちゃにする目的で、腐敗させた。一応の筋は通っている。

「あとは、あの男の身元ですね。身分証もなにも持っていなかったけれど、あれは浮浪者じゃありません。浮浪者はあんな立派なコートを羽織ってませんし、靴ももっと汚いはずです。一体何者なんでしょう? あの男は」そういってタイラーは首をふった。それから「何者なんだといえば」とこちらを見た。「あの女の子は誰だったんですか? おじさんなんて呼ばれてましたけど」

「俺の被保護者だ」

「え、警部子供なんていたんですか? しかもあんなに大きな」

「そんなわけあるか」ボーナムはいった。「あれは知り合いの子でな、色々あっていまは俺が後見人をしているんだ」

「はあ。なにか複雑な事情があるみたいですね」

「できれば触れてくれるな。あれはまだ俺のなかでも整理がついていない」

 車は大通りを抜け、住宅街へと入った。

 ジャケットのポケットに入れていた携帯電話が電子音を響かせた。

「代わりに出てくれ」

 携帯電話をタイラーに手渡した。

「判りました」と受け取ったタイラーの通話を片耳で聞きながら運転を続けた。ふと、歩道に見知った人影を見つけた。雪乃だった。だが、もうひとりいる。知らない男だ。

「警部」タイラーがいった。気がつくとすでに通話は終わっていた。「男の身元が割れました」

「案外早いな」

 死体があの状況だからもう少しかかるとボーナムは思っていた。流石はホホールシティの魔導師犯罪対策課だ。世界でも最高水準を誇っているだけある。

「で、男の身元は?」

「ええ、男の名はジェームス・マッケンリー。年齢は三十五歳。ミシガンの魔導師学校卒業後、しばらく教員として働いたあと職を転々としている間に、幾つか犯罪を重ねて魔導師ライセンスを剥奪。その後どこかへ姿をくらました。――こいつはネクロマンサーだったようです」

「犯罪……なるほど。そこになにか手掛かりがあるかもしれんな。それで、それだけか?」

「詳しい情報は、まだ。現在魔導師連盟の方に問い合わせている真っ最中とのことです」

 やはりネクロマンサーだったか。そう思っているとタイラーが「おや」と声を上げた。彼もどうやら気がついたようだった。「男と一緒ですね」何が楽しいのか、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

速度を落とし、先に回り込んで路肩に車を寄せた。

 サイドミラーを見ると、ちょうど小走りでやってくるのが見えた。

 窓を開けて「いま帰りか?」と訊ねた。

「ええ」雪乃は頷いた。

「ところで、だが」そういってボーナムは彼女の隣にいる、少年に眼を向けた。雪乃と同じく日本人のようだった。背は雪乃より頭半分大きいくらい、線は細いがある程度は筋肉がついていて引き締まった体つきをしている。少し長い前髪の間からのぞく黒い瞳が印象的な少年だった。かなり整った凛々しい顔つきをしており、雪乃と二人で並んでいると美男美女といった様子でお似合いだと感じたが、それが余計に癪に障った。

「彼は?」

「あたしの助手。昨日雇ったの」

「助手?」

「そんなことより、おじ――ボーナム警部はどちらへ?」

「ちょうどお前に話を聞こうと思っていたところだ」ボーナムはいった。「帰るところなんだろう? 乗っていけ」

「いいの?」雪乃はいった。

「ついでだ」それにゆっくりと話をするべきことが、いましがた発生した。

「ありがと、おじさん」パッと表情を明るくして、一緒にいた少年の手を取ると後部座席に座った。

「じゃあ、お願いね」


          5


 走り出したシトロエンの後部座席で、恭也は異様な緊張感を感じ取っていた。まるでじわじわと海の底に沈められているような圧迫感と息苦しさが、バックミラー越しの視線に込められていた。何か粗相をやらかしてしまったのだろうかと考えてみたが、まったく思い当たる節がなかった。

 車は雪乃のアパルトメントの前で停まった。

「ありがと」雪乃がいった。ドアを開けて、外に出た。「なにやってるの?」座ったまま固まっていると雪乃がなかを覗き込んだ。

「ああ、すぐ行く」ちら、とバックミラーを見ると、まだこちらを睨んでいた。さっと眼をそらして逃げるように車から降りた。

 ほっと息をつけたのはエレベータには乗ったときだった。

「なあ、あれは誰なんだ? おじさんとかいってたけど」

「警察。それで、あたしの現在の保護者。運転手だった方がね。二年前に両親どっかいっちゃったから。あたしをおいてどっかに……」

「……だからひとり暮らしなのか」

 憂いを帯びた横顔を見た。俯いて唇をかんで、何かに耐えているようにも見える。

「寂しくないか?」

「……そりゃね。あんなに広いんだもん。人間ってさ、案外生活に必要なスペースって小さいんだよ。部屋がひとつと、キッチンとトイレとお風呂、それだけあれば充分。他は必要がないの」

 エレベータが上がっていく音だけが聞こえる。

「でもそれがある」呟くように雪乃はいった。「例えば、ひとのいない公園の枯れた噴水って、見てるとそれだけで寂しくなるでしょ? それと同じ。広い空間に沢山部屋があるのに、その殆どは使われず、枯れた噴水の池の底に落ち葉が積もるように、床にちりや埃を積もらせている。公園の噴水なんて、それを見なければそれでいい。でもその空間で生活している以上、逃げることは出来ない。朝起きるたびに、自分の部屋の扉を開けると、目の前には開くことのない扉がある。廊下を歩いても誰も気がついてくれない。リビングの扉を開けてもいい匂いもしないし、誰もおはようっていってくれない」

「だから、リビングで生活してたのか?」そうすれば、視界に飛び込んでくる悲しみはある程度抑えられる。だが、逃げることは出来ない。

 雪乃は小さく頷いた。

「ねえ、恭也。あんたはさ、この事件が解決したら、やっぱり日本に帰るの?」

「それは……」どうだろう、と少し考えた。確かに長期滞在する覚悟でやってきたが、けれどあまり長居するつもりはなかった。一応日本には家族がいるし(現在は一人暮らしだが)、奪還した『何か』を持ち帰らなければならない。大使館経由で秘密裏に送ってもいいのだが、自ら渡しに行ったほうがこちらの印象がよくなるかもしれない。

 そんな風に考えていると、「なんでもない。忘れて」と雪乃は笑顔でいった。それが痛々しく見えたが、なにも声を掛けられないまま、エレベータの扉が開いた。さっさと出ていった彼女の後姿をほんの数秒間見詰めてから、エレベータを降りようと足を踏み出した瞬間――。


ガツンと両側から扉に挟まれた。


モノをはさんだことを感知してがいーんとまた扉が開く。

 その隙に逃げ出して前を見ると、雪乃がうずくまっていた。小刻みに肩が揺れている。

「笑ってるだろ」

「……べ、別に……?」顔を上げてこちらを見た。

「眼が笑ってるし、声も震えてる」

「だ、だって……さ。普通……挟まれない……でしょ。だ……だめ……腹筋が、限界……割れる」

 そこまでいって限界を突破したのか、床をばんばん叩きながら爆笑。そのままごろごろと笑い転げた。

恭也は溜息を付きながらも、少しほっとした。

「さっさと行くぞ」恭也はいった。「スカート捲れ上がってる」

「はひ?」ぴたっと動きを止めて、「見た?」

「見えてる」現在進行形の話をしているつもりだ。「むしろ見せてんのか?」

 雪乃は静かに立ち上がって、髪型を直して、埃を払った。

「さ、行きましょう」

「一瞬で黒歴史にしたな、さっきの」

「なんのこと?」

「エレベータでどん」

「……く、ぷ」

「思い出し笑いか」

「……実は結構いじめっ子だったでしょ」

「妹いじめるのは好きだった」それに、人をからかうのは嫌いじゃない。もちろん、許される冗談の範囲でだが。

「なんであんたのマヌケを笑ったあたしの方がこんな敗北感があるのよ」

 とぼとぼ歩く雪乃に合わせて恭也も歩いた。スローペースだが、苛立つような速度ではない。むしろ、心地よくゆりかごに揺られているような速度だ。部屋の前に到着したところで先ほどの刑事二人がやってきた。雪乃が扉を開けると、保護者だという方が先になかに入ってその後に図体のでかい刑事が続いた。恭也は最後に入って扉を閉めた。

 リビングで、テーブルを挟んで、刑事二人と向かい合うように座った。全員分のコーヒーを淹れて戻ってきた雪乃が隣の席に座った。

「まずは自己紹介からかな」正面に座った刑事がいった。雪乃がおじさんと呼んだほうだ。「俺はキース・ボーナム。ホールシティ署の魔導師犯罪対策課所属の警部で彼女の保護者だ」

「私はジャック・タイラー。警部の部下です」大柄な方がいった。

 はあ、と頷きつつ、すっと息を吸った。「俺はキョウヤ・シカバネ。ネクロマンサーです」

「キョウヤ君。君はユキノの助手だそうだね」

「ええ、恩には礼を以って尽くすのが俺の主義ですから」

「恩?」

「ネクロマンサー狩りにあったところを助けてもらったんです。それに、一応利害も一致しているし」

「ほう?」視線が雪乃に向けられる。なにかを詰問するような眼だ。

「そんなことはどうでもいいでしょ、いまは」雪乃がいった。

「いまは、な」そういってボーナムは、射抜くような視線をこちらに向けてきた。

「それよりも、持ち主のこと色々聞いてきたんだけど、それが目的じゃないの?」

「もちろん。早速、聞かせてくれ」大仰にいって肩を竦めた。

 なんのことか判らない話だった。説明が欲しかったが、話の腰を折りそうなので諦めた。本当に自分はこの席にいる必要があるのだろうか、と少し思った。とはいえ、話自体に興味はあるので黙って耳を傾ける。

「彼女、マリア・サザーランドは今年高等部の一年生になった生徒で、三ヶ月前から寮には帰ってきてないみたい。でもたまに学内で目撃はされてたみたい。彼女は学内でも指折りの実力を持ったネクロマンサーだったそうよ」

「それは、興味深い話だな」ボーナムはテーブルの上に肘をつくと、顔の前で手を組んだ。「キョウヤ君。君はさっきネクロマンサーだといったね。どうなんだ? 一度に多数の死体を一人の人間が操ることは簡単なのか?」

「そうですね」恭也はいった。「それほど難しいスキルではありません。ここの魔法学校がどんな教育をしていたかは知りませんが、死体の使役自体は死霊魔導術を習い始めてすぐにでも覚えるスキルですから。それを応用すれば大人数を操ることも可能です。多少魔力を喰いますが」

「なるほど。つまり彼女は充分容疑者足りえると」

「まだそうと決まったわけじゃないけどね」雪乃がいった。「それで、あの殺されていた男の身元は判ったの?」

 殺されていた? なんのことだろうと思った。恐らく自分がいない間に何かがあったのだろう。

「それは私から」と手帳を広げながらタイラーがいった。「殺されていた男の名はジェームス・マッケンリー。三十五歳。こいつもネクロマンサーです」

「待ってください。タイラー刑事それは本当ですか?」恭也はいった。驚きに眼を見開いたまま、タイラーに詰め寄る。

「どうしたんですか。キョウヤさん」たじろぎながらタイラーがいった。

「恭也。まさか……!」そういって雪乃がこちらを見た。

 恭也は静かに頷いた。

「そいつは俺の追いかけていたネクロマンサーだ」

 どういうことなんだ? 恭也の頭のなかは混乱していた。せっかく、遠路はるばるアメリカまでやってきたというのに、犯人ががすでに殺害されていたなんて。いや、待て。本当にそうであるとは限らない。ただの同姓同名の別人かもしれない。そう思って「少し待ってください」といって恭也は自室へ戻ると、カバンのなかを漁った。日本を出る前に、ジェームス・マッケンリーについての情報が英語と日本語の二ヶ国語で明記された顔写真つきの書類を渡されていた。カバンの底の方でクリアファイルに入ったその書類を見つけると、再びリビングへ戻ってテーブルの上に叩きつけるようにしておいた。

「へえ、こいつは驚いた」書類を手にしたタイラーが眼を丸くした。「警部見てください」

「ああ俺も驚いているところだ」隣から覗き込んだボーナムがいった。「キョウヤ君。間違いない。殺されていたのはこいつだ」

「……どうなってるんだ」

 僅かに見えていた希望が潰えた。その事実に目の前が真っ暗になりかけたが、「いや、まだだ」と自分にいい聞かせた。そうだ、こうしてアメリカにやってきた理由は、なにも男の身柄を確保するだけではない。

「ジェームス・マッケンリーは、なにか持っていませんでしたか?」

「なにか、とは?」ボーナムがいった。

「判りません。詳しくは俺も知らされていないんです。ただ、『魔法遺産がその男に盗み出された、そいつを取り返して身柄も確保しろ』、とそういう依頼だったんです」

「君はよくその程度の情報で動いたね」

「それが仕事ですから。制裁人なんてただの肩書きに過ぎません。少しだけ身軽なフリーランスの賞金稼ぎとそれほど変わらないんです。ただ、クライアントが国やそれに準ずるものである、というその一点では大きく違いますが」

「じゃあ、君は日本政府の要請で?」

「正確には魔法省の陰陽寮からの極秘任務ですが」

「そんなにペラペラと喋っていいのか? 極秘なんだろ?」

「あくまで極力情報は隠せ、ということだったので。それに、あなた方は信用できると判断しましたから」

「それはそれは」ボーナムはおどけたようにいって肩を竦めた。「つまり我々が君の協力者になれと?」

「あわよくば。もしかしたら雪乃のいうように俺たちは同じものを追いかけているのかもしれない。漠然とした、そんな予感があるんです」

 恭也のその言葉を吟味するようにしばらく沈黙したボーナムは、「判った」といった。「明日一番に調べてみよう。だが、これはまだ確証のない推理だが――多分なにも出てこないだろう。もしそんなものを持っていたならすぐに判るはずだ。ここの警察はド田舎のボケた連中みたいなヘマはやらかさない。俺たちの課には、常に魔導師犯罪と隣りあわせで経験を積んできた特殊部隊や軍隊出身の猛者ばかりが集まっている」

 そういうと、ボーナムは立ち上がった。「行くぞ」とタイラーを一瞥して、「やることが出来た」と歩き出した。

「待ってください警部」と慌てて立ち上がったタイラーは歩き出そうとした足を止めると、「コーヒー、ご馳走様でした」といって部屋を出て行った。見ると彼のカップだけ空になっていた。ボーナムは、まったく手をつけていない。隣を見た。雪乃は俯いて、カップに眼を落としていた。

「雪乃?」

 呼びかけると、はっとして彼女は顔を上げた。それから、不器用な作り笑いで「なんでもない」と顔の前で手を振った。

「そうは見えなかったけど?」

「そんな風に見えた?」そんな風に応えた雪乃の表情が僅かに翳った。

なんとなくその理由が判った。

「お前さ、もしかして寂しいのか? 俺が出て行くかも……って」冗談でいってみた。

「へっ」声が裏返っていた。

 その仕草に、勝手に頬が弛緩する。

「べ、別にそんな訳じゃないんだから」

「じゃあ、いますぐにでも出て行こうか?」

「行ってどうするの? 宿なんてとってないでしょ?」

「……えらいあっさりと痛いところを突くな、お前」

 もう少し面白いリアクションを期待しての発言だったので、見事に読みが外れた。

「さっきの仕返しよ」

してやったりな笑みを浮かべると「さあて」といって雪乃は立ち上がった。

「夕飯なにがいい?」

 目の前の、冷めかけたコーヒーを見た。

「なんでもいい。結構料理上手みたいだし。あの朝飯うまかった」

「そういわれると腕をふるうしかないわね」


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