第114話
気が付けば私は見知らぬ世界にいた。
足元は黒い水で満たされている。
水……というには少し粘性が高いか。
足首あたりまで浸かっているだけなのに、足を取られて歩きづらい。
「ここが……ノアの心の中。いや、エレナの心なのかしら」
(ノアの心にしては毒々しすぎるし)
これが聖女ノアの精神世界だったら人間不信になりそうだ。
ちょっと失礼かもしれないが、エレナの精神世界だと決め打ちすることにする。
「だとしたらノアがいるのは……あっちかしら」
広がる一面の夜。
しかしそれがすべてというわけではない。
私の視線の先には白い光があった。
闇を照らすというには弱々しい。
それでもそこに光はあった。
この世界のどこかにノアがいるのなら。
あそこしかないだろう。
「ノアの精神のはずなのに、ほとんどエレナに侵蝕されているわね」
一面に広がる世界。
暗いが、遠くには確実に水平線が見えている。
そんな中、灯る光はほんのわずか。
それを目指して私は歩く。
足に絡みつく黒い水を押しのけながら。
「どうにかノアを表に出すことができれば……!」
光の正体は樹木だった。
大木といえるほどの雄大さではない。
それでもこの暗い世界で、その木はたたずんでいた。
「いた……!」
光る木の根元。
枝分かれた根に包まれるようにしてノアはそこにいた。
木に背中を預け。
身じろぎもせずに。
「ノア!」
私は声を上げて走り出した。
距離としてはすでに数メートル程度。
そんな距離さえもすぐに駆け抜けられないほど悪い足場が嫌になる。
(反応がない)
ノアの肩を揺するが、彼女は動かない。
おおよそ反応と呼べるなにかが返ってくることはなかった。
(かすかだけど呼吸の音はする)
まさか死んでいるのでは。
そんな不安が脳裏をよぎるものの、彼女の口元からは空気が通るような音が聞こえてきた。
たしかに息はある。
(目は開いているけれど、私の存在を認識しているようには思えないわね)
目は開いている。
だが、その瞳に光はない。
まるで精巧な人形を見ているようだ。
それほどに彼女からは覇気というものが感じられない。
「これじゃラチが明かないわね」
私は医者じゃなければ、魔術の権威でもない。
今の彼女がどういう状態かなんて判断できない。
「それなら呪術で直接心に語りかければ……」
だからできることをする。
たとえ壊れた人形のような状態だったとしても。
そこに心は残っていると信じて。
私が彼女の頬を撫でれば――
「あ――」
聞こえてきた。
彼女の口は動いていない。
それでも、たしかにノアの声が聞こえてきた。
――もう、どうすればいいのか分かりません。
「ノアの声……」
偽りない心の声。
絶望さえ過ぎ去ってしまったような平坦な声が聞こえてきた。
――安易な選択でした。
――あの日、最後にエレナと話そうと思わなければよかった。
それはきっと、私が始めてこの世界に来た日のこと。
地下牢に閉じ込められたエレナを、ノアが様子を見に来た日のこと。
そして、ノアが自身の体を奪われた日のことだ。
――そうしなければ、彼女に体を奪われることはなかった。
予見できるようなことではなかっただろう。
あの日の行動だって、彼女の善性によるものだった。
ただそれが裏目に出てしまっただけのこと。
――私が体を奪われなければ、こんなことにはならなかった。
だけど、それがなんの慰めになるだろうか。
心に触れていたから分かる。
彼女はたしかに肉体の主導権を奪われていた。
だが眠っていたわけじゃない。
エレナが世界を戦争へと導いてゆくさまを、誰よりも近くで見ていたのだ。
自分の肉体が、自分がもっとも望まない選択をしていく様子を見続けていたのだ。
――私のせいで……戦争が始まってしまった。
だから彼女の心は摩耗した。
強い心を胸に世界を救った彼女でも。
自分が世界を壊すという現実には耐えられなかった。
「それなら! そう思うのなら!」
だからこれはきっと無茶苦茶な理論なのだろう。
今はそっと、彼女は心を癒さなければならないのだろう。
それでも、
「起きて!」
それでも私はそう伝える。
事態を最悪のままにしないため。
手遅れかもしれない現在を、変えられるのは彼女だけだから。
「情けない話だけど……貴女しかいないの。この戦争を止められるのは」
悔しくて涙がにじむ。
命を懸けて。
痛みに耐えたとしても。
私に世界は救えない。
せいぜい、世界を救える人に声を届けるだけ。
そんな不甲斐ない事実に胸が痛い。
「エレナに体を奪われたことで生まれた悲劇に後悔があるのなら――」
それでも言わなければならないのだ。
無責任に彼女を頼るしかない。
「――起きてッ!」
その声が届いたのか。
わずかにノアのまつ毛が震えた。
瞳が動き、私を認識した。
「………………貴女は」
呪術を通して伝わった心の声ではない。
彼女自身の喉を震わせて発せられた声が届いた。
「たしか、エレナの体に入っていた……」
エレナを通してすべてを見聞きしていたからだろう。
彼女は私がどういう存在なのかはおおよそ把握しているらしい。
「本当の意味で直接会うのは初めてね」
「……そうですね」
力なくノアが微笑む。
いつもの優しい笑みではなく。
疲れきった笑みで。
「正直、貴女の身に起きた不幸は私のせいでもあるから偉そうなことは言えないんだけど」
そんな彼女を酷使するのは忍びない。
だがそう言ってもいられない。
私は彼女へと手を差し出す。
「帰りましょう。エレナの凶行を止められるのは貴女しかいないの」
「…………」
ずっと動けずにいた弊害か。
ノアの動きはひどく緩慢だ。
それでも彼女の手は私の手を取って――
「はぁ……」
聞こえてきた声。
思わず私たちは声の出処へと顔を向けた。
ここに彼女がいるのは当然といえば当然。
だが、聞きたくなかった声だ。
「……エレナ」
苦々しい声が漏れる。
暗い水の上。
それを踏みしめる黒いドレスの少女。
彼女――エレナ=イヴリスは本来の姿で。
あの陰鬱さを纏った姿でそこにいた。
「まさか、こんなに長々とてこずらされる羽目になるとは思わなかったわ」
静かなエレナの声。
だが、そこに込められている感情はこれまで見てきたものとは違う。
嫌悪だとか、嗜虐だとか。
苛立ちではない。
「本ッ当に……ロクなことをしないわねアナタはッ!」
腹の底から湧き上がるような憤怒を宿して彼女はそう吐き捨てた。




