水曜日の図書館と銀髪の美少女。
――キーンコーンカーンコーン……。
櫻魅耶の街に、下校を告げる夕焼けチャイムが鳴り響く。空はいつの間にか燃えるような茜色に染まり、長く伸びた校舎の影がアスファルトを黒く塗りつぶしていた。
「あー……。数学の最後のアレ、なんだよ。xとかyとか、もうアルファベットは英語の時間だけで十分だっての!」
正門を出るなり、タケルが頭の後ろで両手を組み、盛大な愚痴をこぼした。隣を歩くモンタも「あはは、そうだね。僕も計算ドリルが終わらなくて……」と苦笑いを見せる。
そんな二人の少し後ろを、いつも通り無表情で歩いていたケンが、ふと立ち止まった。
「……二人ともごめん。僕はちょっと、市立図書館で勉強してくるから。今日はここで」
「えっ? 図書館? お前、家の方が効率が良いからって、いつもは真っ直ぐ帰るだろ?」
タケルの言葉に、ケンは眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、視線をわずかに逸らした。
「……たまには環境を変えないと、思考が凝り固まるからね。それじゃ」
それだけ言い残すと、ケンは二人とは反対方向、駅前の図書館へと続く道へ、迷いのない足取りで歩き出した。
その背中を見送りながら、タケルがポツリと呟く。
「……アイツ、毎週水曜日の時だけ、決まって図書館に行くよな」
「うん。僕たちがまだ5年生に上がる前、4年生の時は『自分の部屋で勉強した方が情報の検索速度が速い』とか言って、放課後の寄り道なんて絶対しなかったのにね」
タケルとモンタはお互い顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げた。夕闇に溶けていくケンの背中は、どこかいつもより少しだけ、足取りが軽いように見えた。
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市立図書館の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
空調の微かな音と、ページを捲る乾いた音だけが支配する空間。ケンは慣れた足取りで一般学習スペースを通り過ぎ、奥まった歴史・科学資料コーナーへと向かう。
本棚の合間を縫うように歩きながら、ケンの視線は特定の「場所」を探していた。
そして、その場所――窓際の、一番端にある閲覧席に「彼女」の姿を見つけた瞬間、ケンの心拍数が論理的な計算を超えて跳ね上がった。
そこには、櫻魅耶でも有名な女子校、私立聖アルテミス女学院のセーラー服を纏った少女が座っていた。
夕日に照らされたプラチナブロンドの髪が、銀糸のように美しく輝いている。
ケンは深呼吸をして、声をかけた。
「……こんばんは。花見さん」
読書に没頭していた彼女――花見・リーリアが、ゆっくりと顔を上げた。
ロシア人の父と日本人の母を持つ彼女の美貌は、同年代の少年が見れば息を呑むほどに整っている。澄んだ碧色の瞳がケンを捉え、その薄い唇が柔らかな弧を描いた。
「やあ、石谷くん。こんばんは」
リーリアの声は、どこか異国の風を感じさせる透明感があった。彼女は中学1年生。ケンよりも二歳年上だが、二人がこの場所で〔“水曜日の勉強会”〕を始めてから数ヶ月、学年の壁を超えた奇妙な友情――あるいはそれ以上の何かが、この静かな空間で育まれていた。
「……ここの数式、ニュートン力学の基礎だけど、歴史的背景を考えると面白いね。当時のペストによる大学閉鎖がなければ、この発見はもっと遅れていたかもしれない」
ケンがノートを広げ、リーリアに語りかける。二人の机の上には、数学の予習プリントと、中世ヨーロッパの歴史資料が並べられていた。
「石谷くんの解説は、教科書よりずっと論理的で分かりやすい。私は歴史の物語性は好きだけど、数字の裏付けはどうしても苦手だから……助かるわ」
リーリアがペンを置き、ケンを見つめる。T154と、この年代の少女としては小柄で華奢な体躯だが、その存在感は圧倒的だ。
ケンは、タケルやモンタといる時には絶対に見せない「年相応の少年」の顔で、熱心にペンを動かした。
「花見さんにそう言ってもらえると、僕の知識も報われるよ。……ところで、聖アルテミスの数学の課題は、やっぱり進学校だけあって難易度が高いね」
「ふふ、だからこうして、街で一番の天才少年に家庭教師を頼んでいるの」
冗談めかして笑うリーリアに、ケンの耳がわずかに赤くなる。
二人の会話は、数学の解法から始まり、いつしか産業革命時代の社会情勢や、現代のテクノロジーへの変遷へと広がっていく。
ケンにとって、この時間は「戦い」や「責任」から解放される、唯一の純粋な知的好奇心の時間だった。
外の空が群青色に染まり、閉館を告げる予鈴が鳴るまで、二人の〔“水曜日の勉強会”〕は続いた。
「……じゃあ、また図書館でね」
図書館の入り口で、リーリアが小さく手を振った。
「うん。……あ、花見さん。夜道、気をつけて」
ケンが見送る中、リーリアの白いセーラー服の背中が夜の街へと消えていく。
彼女は知らない。この隣に座っていた少年が、黄金のブレスを隠し、巨大なロボットを操って街を守っていることを。
そしてケンもまた、確信していた。この穏やかで知的な時間を守るためにこそ、自分は戦わなければならないのだと。
ケンは一人、家路を急ぎながら、左腕のブレスを制服の袖の上からそっと押さえた。"水曜日の図書館"。そこは、理屈ではない守りたい場所だった――。




