修繕士見習い、日々修行なり! ~蝶のご縁~
魔法みたい、と思った。
人の生では推し量れぬほどの長い間風雨に晒され、かろうじて輪郭が残っている程度に失われていた古代の壁画。
次に目にしたときには見事に甦っていた。
まるで今描いたかのように色だけでなく息遣いまでも。
誰かの手によって新たな息吹が与えられるのだと感動したことを覚えている。
国内最大規模を誇る図書館がある。
この地方を治める領主が学者気質の一族で、歴史を守ることは国を守ることだと掲げ設立されたものだ。知の都と呼ばれるに相応しい象徴となっている。
エリザベス――リズはこの図書館の司書。まだ新米で下っ端の立場なので日々音を立てないように駆け回り階段を行き来し肩で息をしていた。
司書は書籍や資料の管理を担う事務職と思われがちだがとんでもない。管理するからこそすべての、とまではいかずとも担当の書架および書籍の内容を理解していることが求められる。その道の権威とも議論ができる司書もいるという。…恐ろしい。
また日々書籍を持ち運び、年に数回の虫干しという一大事業を行う必要があるため大変な力――主に腕力脚力筋力も必要とされる。とんだ肉体労働だ。
見えないところで汗水垂らしているのが司書という職ではある。
実際思っていたのと違うと辞めていく新人も多い。このため司書は万年人手不足なのだ。
司書になるには適性の前に学歴、またはそれに匹敵する実績が必要となるから。
おかげでいつまでたっても静かに走り回ることになる。
さて。
今日も今日とて書架の間を回り、書籍資料の破損や劣化を確認していたリズを上司であるフランチェスカが尋ねてきた。
余談だが、一般的に想像される来館者への書籍等の貸し出し業務は時短勤務のお姉さま方が担当しているためリズが表に出ることはほとんどない。たまにこの書籍を探してほしいと依頼されるくらいだ。秒で見つけ出してくれるのでお姉さま司書がリズを頼りにしているのは有名な話。
今日はそんな依頼もなく、淡々と裏方で作業していた。
「精が出るね、リズ。うんうん、よく働いてこそ、だ」
「え、フラン先生?! 生きてたっ」
思わず返したら左の頬を引っ張られた。容赦がない。
実年齢の半分ほどの見た目をしているいわゆる美魔女のこの上司、滅多に現場に出てこないのだ。生存を疑うのも許してほしい。
現場に来ないで何をしているのかと言うとお偉方にしかできないような交渉や出張はたまた研究など。この方、実はとても仕事のできる管理職であちこちから引っ張りだこ。噂では図書館の設立者一族であり、領主である御方にも目を掛けられているらしい。
…こわ、と思うのはリズだけではないと思いたい。
「手加減してくださーい」
「勝手に殺すんじゃない。人類が滅んでも生き抜くよ、私は」
だろうな、と納得できるところがリズの上司様である。
摘ままれたほっぺをむにむにして慰めていたら無理やり手を取られた。どこまでもマイペースな人なのでツッコミもしまい。話が進まずにおもちゃになるだけだとは経験則。状況がある程度把握できるまではされるがままなのが正しい。
すると掌の真ん中にちょこんとあるものが置かれた。まじまじとそれを見つめる。
「………ブローチ?」
「壊れてしまっているけどね。さて、君にできるかい?」
向けられた笑みは子どもが玩具を前にしたときのようにキラキラとしていた。
リズは図書館司書である。正直に言うとそれは生活、つまりお金を得るためのこと。
実は就きたい職は別にあった。
それが『修繕士』というもので、言葉の通り状態を回復させる技術を持つ者のことだ。絵画や壁画、宝飾品、古文書、衣装、建物などその範囲は莫大。主に歴史の復元を担う仕事と言えるだろう。
幼い頃、その見事な手腕に心を打たれ追いかけ続けている夢。
司書になったのは歴史考古学を修めたこともあるが一番の理由はフランチェスカ――フランがいるからだ。
実は彼女、数少ない修繕士の中でも指折りの実力者。飄々な性格のため扱いにくいがそれを差し引いてもおつりがくるため余計に忙しくしているのだとか。…どんなに忙しくても人をおちょくる暇はあるようだが。
押し掛け弟子をするには不足ない相手。
押し掛けた当初から面白がって受け入れてくれたフランは時々こうして課題を持ってくる。――面白いというのはこんな少数派の目立たない職に憧れていることに対してであって、決してリズの性格や行動力について言っているわけではない、たぶん。
受け取った課題は欠けや剥離があるブローチだった。
しかも子ども向けの。ただおもちゃとするにはよくできたデザインで蝶をモチーフにしている。材質を気にしなければ成人女性が普段使いのアクセサリーとしていてもおかしくない代物だ。
壊れているのになぜブローチと断言できるのかって?
裏の留め金が残っていることとリズ自身も同じものを持っていたため。これとは色違いではあるが。
子どもの頃、確か10歳にも満たなかったとき、年に一度の祝祭に遊びに出た際たまたま見つけた露店で衝動買いした。お小遣いだけでは足りなくて、お手伝いをして貯めていたお駄賃のほとんどを費やして購入したのだ。よく覚えている。女の子の“好き”をよく理解している品物だった。着飾ることにそこまで興味を覚えなかったため身に着ける出番は少なくなってしまったがアクセサリーを入れる小箱にはずっと入っている。目にするだけ気分が明るくなるから。
持ち帰ったブローチを私物のものと並べてみた。
色違いで同じデザイン、材質も同じとくればおそらく製作者も同じだろう。こればかりは感覚的なものになるがブローチごとに2つ配置された色ガラスのセンスがそう思わせる。デフォルメされた蝶の羽を飾り、その調和が絶妙だ。
もちろん壊れている部分に痛ましさは感じるも、漂う清廉さは失われていない。
そうは言うもののこの壊れ方は、とリズはブローチを持ち上げる。
まごうことなき欠損。
材質がそもそも強いものではないことを差し引いても激しく欠けているし、全体的にひびも広がっている。本来2つある色ガラスのうち片方は失われておりぽかりと空いた空白から寂しさが感じられた。落としたにしては不自然。想像でしかないが床や壁に叩きつけたのではないだろうか。
フランいわく持ち主はもう不要と言っているらしい。
ならばともらってきたようだ。ちゃっかりしているというかしっかりしているというか。
壊れたものがなければ練習すら始まらないとはいえ、廃棄物を目の前で強奪してくるとは。その場面がありありと想像できるあたりがフランという人なのだろう。困惑する元持ち主にすみませんと頭を下げたくなった。
頭を振って想像を払うとリズはもう一度2つのブローチを眺める。
どのように“修繕し”ていくかを頭の中で組み立てていく。
元の形はわかっているのでそれに向かって手を加えていけばいい。色違いではあるが色が残っている部分があるのでそこで悩む必要もない。
唯一自分で補完しなければならないのが失われた色ガラスの片割れだ。大変にセンスを問われる部分である。独特の感性を持っていることを自覚している身としては頭を抱えたくなる問題。
だがここで躊躇してはならない。悩めば悩むだからおかしなことになっていくのだから。
残っているのが緑色のガラス玉だから、淡い色を添えておけばなんとか整うだろう。…そう信じたい。
私物ブローチの色ガラスは紫と黄色という組み合わせだった。だからたぶん、いける。たぶん。
「よし、やっていきますか」
方向性が決まったのでリズは仕事の後や休日を使って進めていった。元が小さいので繊細な作業だが手先は器用だと自負している。ちまちました作業は嫌いじゃない。お手本が手元にあるのだ。さくさくと進んでいく。
…だが、こう。言葉で表しがたい何かが胸につっかえていた。
なにか、ちがう、と。
胸の奥底から、遠い彼方から、訴えられている気がした。
夢を視た。
やけに現実的で、しかし夢だとわかる情景を。
小さな男女が初めましてを交わしている場面。子どもといえど立派な紳士淑女でたどたどしさが微笑ましい。バラ色に染まった頬が互いの間に芽生えようとする好意を表しているようだ。見守っている側も幸せになるような光景だった。
一瞬の光転の後、場面が変わる。
男の子と女の子が町に出掛ける姿が映った。忍べていないお忍び感満載。彼らの素性など知る由もないこちらがわかるくらいだから、2人はそれなり以上の身の上なのだろう。滅多にないお出かけに小さな紳士淑女の表情は輝きに満ちている。
街はにぎわい、花がこぼれ、喧騒に溢れていた。年に一度の祝祭だ。大通りにたくさんの露店が並んでいる。
そして彼らはリズの記憶にもあるとある露店の前にやって来た。ペンダントや指輪、髪飾りなどの服飾品が箱に入って並べられている。商品を目にした瞬間女の子の表情がパッと輝いた。貴賤問わずやはり女性は好むものらしい。きらきらした瞳で品物を眺めていた。もちろんすぐ傍にいる男の子がそれに気づかないはずがない。
そこからはもう物語のような流れで、男の子が女の子にブローチをプレゼントしていた。いくつか彼女に合わせてみて、ああでもないこうでもないと2人で話しながら選んだブローチ。
蝶の羽が常より鮮やかに見えたのは錯覚だろうか。
嬉しさを隠しきれずにブローチを見つめる女の子の横顔をやはり嬉しそうに優しく見つめる男の子。
やはり、見ている側も幸せになるような光景だった。
太陽の光が痛い。
そう感じることが不健康の証だなと感じつつ、休日の朝を迎えていた。目頭を揉み、大きく伸びをし活動できるよう身体を順応させていく。
誰もがいい天気といいたくなる快晴だ。気分だけでも有効的に使いたいじゃないか。そのためにここにいる。
ちょっと贅沢にカフェブランチ。
自分では絶対に作れないふわふわのパンケーキに黄金もかくやのはちみつ、フルーツがふんだんに使われたサラダの横には甘みを抑えたカフェオレが。
目の前に揃っている光景だけで気分が上がる。食い意地を張るな? 食べなきゃやってられないので聞こえませ、聞きません。
もちろん味も裏切らない。お財布は寂しくなるが心が温かくなるのでプラマイゼロ。
ああ…、美味しい。
「リズ」
「―――――あれ、ブライアン? おはよう」
反応が遅れたのはご愛敬。呼ばれた声に顔を上げれば見知った姿があった。
口をもごもごさせたままのリズに笑みを浮かべると彼――ブライアンは持っていたカップをテーブルに置いて隣に座る。
人の経歴についてあまり記憶力を発揮しないリズだが、ない知識の中から絞り出した記憶によると彼は確かそれなりいい家の出のはずだ。庶民向けのカフェに順応していることに何を思えばいいのやら。まあ、リズに不都合はないので気にしまい。白昼堂々町中に現れるくらいだから彼も休日だろうに、髪型も服装もピシッと整っている。お貴族様は大変だ。
「くさくさしてるな」
「先生の課題のせい」
身分に対する気負いはほとんどない。
ブライアンは元学友である。
同じ学内にあっても通常であれば交流など生まれない立場だった。だが互いの知的好奇心が近いらしく、ある教師を通して知り合うことになる。以来好きなことを好きなだけ話できるという場が出来上がったため、付き合いが続いてきた。完全に趣味仲間。歴史考古学を専攻、というか趣味にしていたという点で業が深いといえよう。
彼は上流階級貴族ゆえしがらみに縛られてはいるが、好きなことに没頭する時間を与えられた運のいい人間らしい。嫡男ではないというのも理由だそうだ。一般人の中でもどちらかというと下の方にいたリズとしては想像もできない雲の上の話である。
そんな人と卒業した今でも細々とつながっているのだから、縁とは不思議なもの。
「そんな君に贈り物をしよう」
くつくつ笑いながらブライアンはどこからか取り出した小さな包みをリズのテーブルの端に置いた。よく見なくてもわかる。このカフェで一番人気の焼き菓子ではないか。
「やだ、太っ腹。お返しは2年前に発見された古文書の写しでいい?」
「はは、いいな。最高の結婚祝いだ」
「あ、結婚するんだ。おめでとー。祝福の気持ちはいっぱい贈るね」
意訳、金銭は一切出せないよ。
社会人としても半人前のリズに学友とはいえ格上の相手に贈れる金はない。世知辛いがそれが現実。遠回しに要求されてもできませんと主張したわけだが、ここまでが既定路線。お互いそんなものを要求していないとわかりきってのやりとりだ。ほら、仲良し。
「なんでそんな可哀そうな目で見るのかな」
「いや…。相変わらず世情に疎いな、君」
「否定はしないけど、どういう…。―――え、ごめん。もしかして祝福しちゃいけない感じの結婚なの? ブライアン、お貴族様だもんね。“お前を愛することはない”ってやつ?」
「どこで仕入れた知識だそれは。俺は常識と責務は弁えている」
「ブライアン基準の常識?」
「君の常識ではないことは確かだ」
真剣に顔を見合わせていた二人はここで揃って噴き出した。
この程度のなんてことないやりとりはいつもやっていた。
もう何年も前になるのかと時の経過の無常を思い知る。
ひとしきり笑うとブライアンはコーヒーを一口すすった。
「…まあ、“お貴族様”の婚姻は利害関係ありきだからな」
「ん?」
なんでもないと頭を振ったブライアンはリズがあらかた食事を終えたことを確認すると再びテーブルの上にそれを置いた。ただし今度はリズの目の前に。クッション代わりなのか、白い布を真下に添えた状態で。よほどの代物らしい。
まじまじと3秒は見つめた後、リズは続いてブライアンを見つめた。
彼はその視線を感じているだろうにリズではなく“それ”をじっと見つめている。
そしてゆっくり顔を上げた。
「修繕士のリズに頼みたい。これは直るだろうか」
そこにあったのは小指の先くらいの大きさの紅色のガラス玉。
やわらかな布の上で大切に扱われてはいるものの、大きなひびが入っている。あとわずかな刺激が加われば割れてしまうほどの。他の人であったならば捨ててしまうだろう損傷だ。
リズはただただガラス玉を見つめるしかなかった。
私はこれを、知っている―――。
勤務先の図書館に駆け込む。
記録は歴史そのものだとこの地方の領主様は様々な書籍などの保存に積極的だ。その役目を担っているのが図書館である。庶民の暮らしや世の流れがわかるからと一部大衆紙や新聞もまた大切に保管されていた。そのうち資料の保管場所に困ることになるだろうが、それはそのときの職員たちが頑張ってくれるだろう、きっと。
将来の問題はさておき、リズの目当てはその大切に保管された資料だ。
整然と資料が並ぶ棚をざっと眺める。目当てのゴシップ誌を探し当てるとタイトルの異なる何冊かを取り出した。ページをめくる指先の動きが荒くなる。
ああ、いけない。見つかったらどやされてしまう。
わかっていても気が急いているので止められない。心の中で謝罪を繰り返しながら読み進めていく。
そして。
―――見つけた。
とんと胸に訴えてくるものがある。
その記事は雑誌のトップを飾り、数ページの特集が組まれていた。
4か月前に起こったとある貴族の婚約破棄騒動。
理由はあることないこと面白おかしく書かれていると思われるので流し読みにとどめ登場人物に目を向ける。おそらくこの部分に偽りはない。舞台は有名なホテルのラウンジでそれなりの目撃者の中には一般市民もいたはずだから。完全なる偽りではないと主張されている。
いわく、侯爵家の令嬢が伯爵家の令息に婚約破棄を叩きつけた。
子どもの頃に結ばれた10年以上も続けられた婚約を。
リズの中で令嬢の中で呆然とする令息の姿にブライアンが重なる。
しかしこれだけではまだ確信にならない。偶然を否定するには弱かった。
あのブローチは、と直感できているのに。感情だけで動くとまたどやされる。それは人としては美徳かもしれないが仕事としてはよろしくはないと散々人生の先輩に言われている。気持ちはわかるが、最終的に困るのは自分だと。
ぎりぎりと歯を食いしばり記事をにらみつけていたとき、ふと顔を上げた。
理由はない。ただなんとなく。
下を見ているばかりでは首が痛くなるからといったそんな理由だ。
その“なんとなく”は決して侮れない。
視界の端に映ったものにどうしようもなく目がいった。吸い寄せられるように目が離せなくなる。
壁の高い位置にはめ込まれたエンブレム。
蝶の羽が円を形作り、三つ葉を抱えている絵になっている。
そういえばよく見かけるこのエンブレムだが、これは、何だっけ…。
「あれ、リズ。今日休みでしょ。どしたの」
声を掛けてきたのは先輩司書だった。面倒見のいい姉御肌の彼女はからかってくることもあるがリズによくしてくれる。つまり頼りになる。
先輩だと判断したリズは挨拶もそこそこに食いついた。
「先輩! あのエンブレムって何でしたっけ?」
あれ、と指差されたものに目をやり、先輩は呆れた視線を向けてきた。
無作法には目を向けないでくれるらしい。忘れた頃に借りを返せと言われるのだろう。
「あんた、雇い主のこともうちょっと知っとこうね。ここの設立者で運営者でもある侯爵家の紋章よ」
神話によると蝶は蘇生の象徴。
三つ葉の葉はそれぞれ民と知と未来を指している。
「侯爵家、ひいては国は不滅なり、って言ってるの。なかなかいいセンスよね」
無音だった“夢”の世界で聞こえてきた“声”がある。
――君と君の大切なものをぜんぶまもるって、やくそくする――
今日は本当に忙しい。
おかしい。今日は休みのはずなのに。
だが勢いで行動しないとすべてが手遅れになってしまう気がして急がない選択肢がない。
リズは階段を豪快に二段飛ばしで駆け上がり、目的地に飛び込んだ。来訪の報せ? 足音でわかっているでしょ!
「フラン先生! 助けてくださいっ」
己の未熟さや不甲斐なさ、物知らず具合を嘆いている場合ではない。自分の手に余るなら使える手を使うしかないのだ。プライド? そもそも殻も破ってないヒヨコですが。
他人の、それも最上級に頼りになる人の手を借りて何が悪い。
この割り切りのよさと潔さはリズのよいところといえる。
まるで待ち構えていたように窓辺の椅子に腰掛けていたフランは実に楽しそうに笑った。
「おや。何をすればいいのかな」
「職人紹介してください。門外漢もいいとこなんです」
「うんうん。たどりつけたか。君は疎いからどうかなと思っていたよ」
「これ、先生が担当すべき案件じゃないですっ?」
“修繕”する以上の内容だと訴えてみた。ところが師はにっこりと笑う。茨の道を踏破した覇者にだけ許される笑み。
「何を言っている。最高の結婚祝いは朋友から贈るべきだろう?」
「弟子の実力正しく把握して!」
「は、は。しているとも。しっかり励め」
たとえ一人前になったとしても、決して超えることはないだろう、美しい笑みだった。
「チーズ美味しい…。やだ、今日当たり?」
いつかも利用したカフェでリズは本日もブランチを頬張っていた。
ブランチとはいっても今日はサラダとハムとチーズというおとなしい組み合わせ。だが絶品なので文句はない。
一口でいっちゃう? と大口を開けたところで声がかかった。この動作を中断する意思はなく左手に持ったフォークを口まで運ぶ。お行儀が悪いことなど気にしない。見られて困る相手などいないから。胸を張ることではないけれど。
「リズ――…。すまん。タイミングが悪かったな」
首を動かすとブライアンだった。
ものすごく気まずそうにしているが気にするなと空いた手を軽く振ると苦笑を返される。
口の中のものを胃に運んでいる間、急かすことなく待ってくれるのは彼らしい。その優しさを知っているのでリズも急ぐ様子がない。
もぐもぐもぐとしっかり味わった後、今度はしゃべるために口を開いた。
「――ちょっと新婚さん。奥さま放ったらかしはまずくない?」
「一緒に来た。すぐ戻る。リズにちゃんと礼を言いたかったんだ」
今日会えてよかったとブライアンは微笑う。
眩しい…。
すぐに移った視線の先に奥方がいるのだろう。壁と木々に遮られて目視することはできないが、馬車が停まっている気配がする。想像しかできないがきっと麗しい女性のはず。穏やかな表情で待っているに違いない。願望も混じっている。そしてきっとその胸元か、あるいは帽子やバッグなどの身の周りの品を思い出のブローチが飾っているのだろう。
夫婦の絆の証として。
ブライアンの瞳にはただただ想いが溢れている。
「金継ぎといったか。すごいな、あれ」
「私もびっくりした。まさかあんなに小さなものまで手掛けてくれる職人さんがいるなんて…。先生の人脈が恐い」
ブローチ本体は簡易な造りだったのでリズがあのまま手掛けたが、さすがにガラス玉の修復はできない。粉々に壊す未来しか視えなかった。
物も色もわかっていたので似たような新品を用意することもできたが、ブライアンの要望は“直せる”か。
代替品は望まれていない。そもそもそれくらいだったら本人でもできるのだ。
“これ”でなくてはならない理由がある。
ならば、手を尽くすしかないではないか。
そしてたどり着いた“継ぎ”という技術。名前と学生時代のどれかの講義で耳にした程度の知識しか知らない技術。世の中は知らにことばかりだと思い知らされる事実。
壊れてしまったものを完全に元に戻すことなど不可能だ。壊れてしまった事実は消せない。
だから、思った。
ひびすらも――壊れた事実すらも形として残してしまえばいいのでは、と。
繰り返すが壊れた事実はなくならない。
だが、そこからまた新たに築き上げることは可能だ。
必要なのは当事者の強い想い。
すれ違いがあったらしいということだけ知っている。
引き留めたのは修復されたブローチだった。
2人にとって良い方向に働いてよかったと思う。友人の哀しい顔は見たくはない。
例えば彼は嫡男ではないので婿入りが可能だったとか、“どこぞ”の侯爵家の跡継ぎは娘であることとか。リズの預かり知らぬ世界の話とはきっと無縁のままだろう。…無縁のままでいさせてくれ。当事者になるのはもちろん巻き込まれるだなんて考えたくない。
一度だけで十分だ。
「――ありがとう、リズ」
「どういたしまして、お幸せに」
ほわほわの浮かれオーラを放つ後ろ姿を見送り、リズはふむと唸った。
なるようになってよかった。
恋路というものはどうしてこんなに複雑怪奇なのか。
テーブルの端に避けておいた本に目をやる。図書館で借りたものでこの国の神話や伝説を一般向けにまとめた一冊。この本によると一度作り上げられた世界が混沌に飲み込まれた際、闇色の羽を持つ蝶が混沌を巡り、鱗粉がかかった場所から再び世界が顔をのぞかせたという。蝶が蘇生、再生の象徴とされるのはこの神話によるとか。
あのブローチの蝶の羽は紫だった。ちなみにリズの私物のものは白色。あの露店に並んでいた品物には様々な色の蝶がいたはずだ。
幼きブライアンはその中から紫を選んだ。神話に言う闇色とは、諸説あれど紫だという説もある。
ブローチに個性を与えている色ガラスは緑と紅。夢を視たリズだから知っているのだが、この色、互いの瞳の色というだけでなくそれぞれの好きな色だという。
…そう、思いたくはないのだがお互いの目の色だから好きになった説が限りなく有力だ。私は何も視てないし聞いてないと頭を振って訴えたい。
これらのことを思うと、何度でもため息が出てしまう。
「激重愛情だよね、お互いに。しかも10年以上の熟成もの。……恐ろしい。なんで心変わりを疑うような状況になったのかが謎だわ」
幼い頃に出逢った男女が一目惚れを成就させて結婚した、それだけ。
今回あわや別離という大惨事になったのだ。きっとこれからは山や谷はあれど2人で乗り越えていくことだろう。
――頼む、そうであってくれ。そうでないならば巻き込まないでくれ。
深呼吸をして息を大きく吐き出す。
よし。
未確定案件に思考を費やすと心身とも疲弊するだけだ。止めよう。報酬をもらってすぱっと忘れよう。
楽しいことに目を向けよう。
チーズも美味しいがそれだけはちょっと足りないな。
よし。
パタパタと駆けていく背中を黄金色の陽気が照らしていた。
お肉食べてきますとウキウキで帰っていった弟子の後ろ姿を見送りフランは息をついた。
「過去の情景を視ることができるなんて普通の人間にはできないとあの子は気づいているのだか」
やれやれと呆れながらも、どこか面白そうな笑みを浮かべていた。




