9・連帯責任
父のつぶやきに私ははっと息を呑んだ。
だからミレシアは、アレクシスと共に逃げたのか。
昨夜のミレシアの言葉が、再び私の脳裏によみがえる。
おそらくミレシアは、クラウス様と結婚したくなかったのだろう。セリナから以前聞いた噂によれば、彼は「血も涙もない冷血な悪魔」のような人らしいから。
「レティノア。忌々しいが、お前とて我がフランヴェールの血を引く娘。聖女の力もある。……ミレシアが見つかるまでの間、お前が聖女の代わりを務めるんだ」
「……はぁ」
(それ、言われなくてもやってます。昨日も今日もずっと――)
「それに加えて、お前が代わりにクラウス殿との婚姻を受けなさい。ミレシアが戻ってきたら別れてもらうから安心しなさい」
「……はぁ!?」
思わず声が裏返った。
この人たちは、一体何を言っているのだ。
聖女の代わりならまだしも、婚姻まで私が引き受ける? しかも、ミレシアが戻ってきたら別れさせる?
(どれだけ自分勝手なのよ、この人たちは)
両親やミレシアにとって、私のことなどいつでも使い捨てることのできる都合の良い人間でしかないのだろう。
私はただの代わりなのだ。いなくなった妹が見つかるまでの偽物。
そこに、私の意思は存在しない。
「この婚姻は国益と、我々フランヴェール家がさらなる繁栄を得るために必要なものだ。ミレシアがいなくなったのはお前にも責任がある」
「……っ!」
「この婚姻は陛下も望まれている大切なもの。いわば王命のようなものだ。お前まで逃げられると思うなよ」
私は唇をきつく噛み締めたまま、言いたかった言葉を飲み込むしかなかった。
『王命』やら『国益』やら、大義名分を振りかざされては、私までもがわがままを言うのははばかられた。
それに、確かに私にも責任の一端はあるのだ。昨夜、ミレシアの違和感に気づきながらも、引き止めなかったのは事実なのだから。
怒りも戸惑いも呆れも、全部まとめて喉の奥に押し込めるしかない。
「……分かりました。聖女の役目と婚姻……ミレシアが戻るまでの間、私が務めます」
うつむきながら、どうにかそれだけを口にする。
教会の木の床は、こんなにも暗かっただろうか。
「レティノアなら理解してくれると思っていたよ」
満足げな父の声と継母のくすくす笑いがいやに耳に障る。
その時だった。固く閉ざされていたはずの、教会の扉が開かれたのは。
「……騒がしいな」
低く、静かな声が響く。
顔を上げると、扉の前に立っていたのはクラウス様だった。
白い騎士服に身を包み、冷ややかな眼差しをこちらへ向けている。
クラウス様の来訪に気づいた父と継母は、わざとらしいほどににこやかな笑顔を浮かべた。
「クラウス殿……! ちょうど良いところに! 実は婚姻の件なのですが――」
父はすりすりともみ手をしながらクラウス様へ近づこうとする。
取り入ろうとする意思を隠す気もないのだろう。
「婚姻のことなら、すでに陛下と話がまとまっている」
対してクラウス様はというと、ちらりと父を一瞥しただけだった。
擦り寄る父を気にした素振りもなく、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「聖女殿との婚姻は、俺にとって光栄なことだ」
クラウス様のはっきりとした言葉に、父と継母は満足気に頷いた。
「ええ、ええ! 我々フランヴェール家としても王国一の騎士と名高いクラウス殿との婚姻は望外の喜びでございます!」
「ほら、レティノア。ご挨拶なさい」
舞い上がる父の隣で、継母が私の背をわざとらしく押す。
クラウス様の視線が、ぎこちなく一歩を踏み出した私に向けられた。
冷たいはずの、クラウス様の視線。けれど、琥珀の瞳が私と目を合わせたその一瞬だけ、ほんのわずかに揺れたように見えた。
「……レティノア・フランヴェールと申します。クラウス様。改めて、よろしくお願いいたします」
私は静かにドレスの裾を引いて、頭を下げる。
訂正しなければ、と思っていたはずだった。
私は聖女ではない。ただの聖女補佐官なのだと。
けれど、それを口にする意味はもう失われてしまっていた。
(私は、偽物の聖女。偽物の婚姻。すべて……ミレシアのかわり)
「…………レティノア」
沈黙の中、クラウス様がぽつりと私の名を繰り返した。
その声は静かなもので、思いのほかやわらかな響きをまとっていた。
(……っ)
クラウス様の声に、私の胸の奥がほんの少しだけ揺れた。
誰かに、大切そうに名前を呼ばれたのは初めてだったのだ。
私は胸の奥の熱さを隠すように再度頭を下げた。