7・嵐の前の静けさ
日中慌ただしく私の足音が響く教会に、ようやく夜の静けさが訪れようとしていた。
(やっと1人になれたわ……。今日もつっかれたー……)
聖女の代わりの仕事も聖女補佐官としての雑務も、今日の分は何とか片付けた。
私は沈むように椅子へ腰を下ろすと、深く息を吐き出した。
教会にあるこの自室は、私が唯一安心できる空間だった。
かつては私も、ミレシアたちの住むフランヴェールの屋敷で暮らしていた。
だが、ミレシアが聖女になると決まった日に、私はフランヴェール家には必要ないと判断され、屋敷を追い出された。
それまでは、私が前妻の子で聖女候補だったから仕方なく置いていたのだろう。
愛するミレシアが聖女になれるとなれば、私はあの家にとって不必要な人間だ。
(……こちらはむしろ、あの家から出られて清々してるけどね)
少なくとも、ここには私を蔑む人間はいない。
ミレシアに仕事を押し付けられはするけれど、それ以外は平和だ。
(そういえばあれからしばらく経ったけど、クラウス様ってどちらにいらっしゃるのかしら)
手帳を開いて明日の予定を確認しながら、ふと数日前に挨拶に来たきり顔を合わせていないクラウス様のことを思い出す。
彼は私が聖女だと誤解していたから、早いうちに訂正したいのだけれど。
(聖騎士団長として教会に移動されたはずなのに、姿を見せないなんて……)
そこまで考えて、もう一人教会に現れていない人物がいることに私は気がついた。
(……そういえば、今日はミレシアの顔を見ていないわ。珍しいこともあるものね)
いつもなら朝に一度は教会へ顔を出して、仕事を押し付けて帰っていくのに。
頭の片隅でミレシアのことを考えながら、明日の予定を確認する。
手帳を閉じようとしたその時、部屋の外からがちゃりと扉が開くような音が聞こえてきた。
(今の音は……?)
こんな夜更けに、誰かが教会に入ってきた?
一瞬、不審者の可能性が頭をよぎった。だが、その可能性は低いだろう。
この教会は聖騎士団に守られている。団長クラウスの姿は見えないけれど、敷地の周辺には常に聖騎士たちが控えているはずだ。
(もしかして、誰か怪我でもした?)
しかし、聖女の治癒の力を必要としているなら私を呼ぶ声がきこえてくるはず。
部屋の外からは、その気配も感じられない。
「…………」
私は椅子から立ち上がると、足音を立てないようにしながら扉へと向かった。
「……うわっ!」
扉を開けた瞬間、目の前に立っていたのはうつむいたミレシアだった。
廊下の灯りに照らされたミレシアの顔には、いつもとは違う影が落ちていた。
いつもであれば、にこにこと愛想のよい笑顔を浮かべているはずなのに。その珍しい顔つきに、思わず違和感を覚えてしまった。
「ミレシア……? こんな時間にどうしてここに……」
心臓がバクバクと打ち付けるのを感じながら、私はどうにか言葉を絞り出した。
ミレシアは顔を上げると、私を見て嘲るように笑った。
「お姉様はいいわよね、自由で」
「……なにそれ」
聖女の仕事を押し付け、毎日のように男性と遊び歩き、時には夜遊びまでしているくせに。
好き勝手に振舞っているのは、どう見てもミレシアの方ではないか。
そう思ったものの、口には出さなかった。
「あたしね、アレクシス様との関係こそが真実の愛なんだって気づいたの。それは誰にも邪魔されるべきじゃないわ」
「……は?」
いきなり何を言っているのだろうか、この子は。
ミレシアの言葉に、私は眉をひそめた。
「あたしがいなくなれば、あの人たちもきっと気づくわ。あたしにふさわしいのは誰なのかって」
ミレシアは、私と話しているようで話していない。ただ自分の主張だけをしている。
……そして、『真実の愛』という飾られた言葉で、何かを否定しようとしているように。
私にはそんなふうに感じられた。
「それじゃあね、お姉様。いつもみたいにあとのことは任せるわ」
何かを振り切るようににこりと笑ってみせると、ミレシアはくるりと踵を返した。確かな足取りで、そのまま教会の出入口の方へと消えていく。
「……なんだったの、今の……」
胸の奥が、妙にざわつく。
けれどこの時の私は、翌日に運命が大きく動き出すなんて、想像すらしていなかった。