51・後ろ盾(sideクラウス)
レティノアが連れ去られた日から二日。
ミレシア――クラウスにとってレティノアを侮辱する人間がいる場所で生活などできるわけもなく、クラウスはこの二日間、騎士団寮で寝泊まりをしていた。
朝の見回りを終え、教会へと足を向ける。
この時間は、レティノアならば聖女像へ向かって朝の祈りを捧げている頃合いだ。
クラウスにとって、毎朝祈りを捧げるレティノアの姿を見ることは、密かな楽しみだった。
どんな姿であっても、レティノアはクラウスにとって女神のような存在である。中でも、祈るレティノアの姿はことさらに美しい。
教会の扉を押し開けると、礼拝堂は静まり返っていた。いつもであれば満ちている清浄な気も、薄れているような気がする。
レティノアと入れ替わるように教会へやってきたミレシアの姿さえ、そこには見当たらなかった。
(……ルイスが言うには、ミレシアが聖女の力を使った記録はないんだったか)
礼拝堂の奥へと進みながら、クラウスはふと友人の言葉を思いだす。
その言葉通りと言うべきか、この二日の間、クラウスは一度もミレシアが祈る姿も見ていなかった。
他の聖騎士から話を聞いてみたが、ミレシアは以前から祈りも何もしないことで有名らしい。
(レティノアとは似ても似つかないな……)
あれが彼女の妹か。
レティノアには悪いが、クラウスは落胆を禁じ得ない。
聖女像の目の前までたどり着いたクラウスは、聖女像の前へ膝をついた。
頭を垂れて、目を閉じる。
(藁にでもすがりたいとはこのことだな……)
初代聖女でも、神でも悪魔でもなんでもいい。
レティノアを自分のそばに返してくれ。
クラウスは悲痛な思いで祈りを捧げた。
この二日間、ルイスにはしばらく大人しくしておけ、と言われたものの、じっとしていることなどできなかった。
だが、一昨日の夕に引き続いて昨日の昼もフランヴェール家へ赴いたものの、同じように門前払いを食らってしまったのだ。
ルイスからの報告はいまだなく、クラウスができることはもう、祈りを捧げるくらいしか思いつかない。
祈りを捧げ終わったクラウスが溜息をつきながら立ち上がったその時、教会の扉が開かれた。
訪問者だろうか。
振り返れば、足を引き摺った老夫人が扉に縋るようにして立っていた。
「すみません、レティノア様はいらっしゃいますか……? 足が悪くて、癒していただきたいのですが」
老婦人の声には、痛みとわずかな希望が滲んでいた。
その足で教会まで来るのは決して楽ではなかったはずだ。
それでも彼女は、レティノアの癒しの力を求めてここまで来たのだろう。
「……すまない。彼女は今、留守にしているんだ」
「そうですか……。ではまた日を改めます」
クラウスが告げると、老夫人は肩を落とした。それから静かに頭を下げて、教会を後にしていく。
(……レティノアを必要としているのは、俺だけじゃない。この国の民は皆、大なり小なりあれど、聖女の力を支えにしている)
レティノアは、いなくてはならない存在だ。
(……レティノアは、今どうしている。会いたい。声を聞きたい。……また抱きしめたい)
どうにもならない歯がゆさにクラウスが床へ視線を落としたとき、再び教会の扉が開かれた。
軽快な足音とともに姿を現したのは、ルイスだった。
「クラウス、朗報だ。陛下からお前へ王命が下った。すぐにでもフランヴェール伯爵夫妻、及びミレシア伯爵令嬢を王城へ連行しろってさ」
「……どういうことだ」
「正確に言えば、お前へではなくて聖騎士団への命令だけどな」
ルイスは懐から一通の書状を取り出すと、クラウスへ手渡した。
中へ目を通せば、ルイスの言葉通り、フランヴェール伯爵夫妻とその娘・ミレシアを連行するよう聖騎士団へと命じる内容が記されている。
文末には、王命であることを示す王印が押されていた。
「聖女の記録が意図的に書き換えられてたことを話したら、陛下は大層お怒りでさ。今すぐその前々任者の記録係を呼び出せ、話を聞くって大事だったんだよ? で俺とんぼ返り」
クラウスが目を通している間も、ルイスは話し続けている。
口調こそ軽いが、ルイスの顔には疲労が滲んでいた。
おそらく、何度も城やら前々任者のところやらを往復して疲れ切っているのだろう。
「それで、証拠やら証言やらを聞いてさらに怒りが増したみたいでさ……。今度はフランヴェール伯爵家の人間を、公文書変造罪の容疑者として連行してこいってさ。事情に詳しくて近くにいた俺が、急ぎでお前の元に遣わされたってわけ」
クラウスは書状を手にしたまま、静かに息をついた。
これでようやく動くことができる。その事実は、クラウスの胸に遅れて実感としてやってきていた。
だが、クラウスが言葉を発するよりも早く、教会の扉が勢いよく開かれる。
「大変大変! クラウス様いらっしゃいますかー!?」
そう叫びながら駆け込んできたのは、明るい茶髪を高い位置でまとめた女性だった。
(……確か、レティノアとよく話している城の侍女か)
名前はセリナだと、レティノアは言っていたはずだ。
「……ってげえ! なんであんたがここにいるのよ! ルイス・フィンレイ!」
クラウスの隣に立つルイスを見つけると、セリナはぎょっと目を見開く。
あまりにも嫌そうなセリナの反応に、ルイスは肩を竦めて笑った。
「やあ、セリナちゃん」
「お前たち、知り合いだったのか」
この二人は城で働いてはいるが職種がちがう。まさか接点があるとは思わなかった。
「顔見知り程度さ」
クラウスが尋ねると、ルイスはひらりと軽く手を振って答えた。
対するセリナは、びしっとルイスを指さした。
「こいつ、城で有名なんですよ。手当り次第に侍女に声掛けて回る女たらしって! みんなかっこいいとか言ってるけど、私は騙されないからね!!」
セリナはルイスを睨みつけながら、クラウスに向かって訴えるように言う。
「はいはい。セリナちゃん、怒った顔も可愛いね」
ルイスは悪びれる様子もなく、軽口を返している。
この状況でも平然としている友人に、さすがのクラウスも呆れてしまった。
「……お前、いつか本当に刺されるぞ」
一度息を吐いてから、クラウスはセリナへと視線を向ける。
この侍女は、どうして慌てた様子で教会へ来たのだろう。
「それで、そっちはどうした」
クラウスの問いかけに、セリナは居住まいを正して真剣な顔つきになった。
「……あの。昨日、王城の方へレティノアとクラウス様の離婚願いがフランヴェール家の代筆で届いたんです」
「……どういうことだ……」
セリナから告げられた内容に、クラウスは思わず頭を抱えた。
確かに、一昨日の夕方にフランヴェール家へ押しかけた際に夫人が、「クラウスの妻は今日からミレシアだ、レティノアのことはもう忘れろ」といったことを言ってはいた。
レティノアから聞いた話から、離婚させられるかもしれない、と思いもした。
だが、離婚願いには当事者双方の署名が必要なはずだ。
まさかこちらの許可も得ずに、勝手に離婚願いを――それも代筆してまで提出されるとは誰が思うだろう。
「まぁ、あの家ならやりかねないだろうな」
隣ではルイスが呆れたようにため息をついている。
「貴族の婚姻離婚の書類は王妃様も目を通されるものだから、代筆って気づいた王妃様がお怒りで……」
セリナはさらに続けた。王妃殿下の様子を思い出しているのか、その声には緊張が混じっていた。
「王妃様、こないだの庭園開放でレティノアに会って、相当あの子のことを気に入ったんでしょうね。『代筆は認めない。お似合いの二人だったのに、親の事情で勝手に引き裂くなんて許せない、離婚は承認しない』ってもうカンカンで手がつけられなくて……」
クラウスは先日の庭園開放の式典で、レティノアが王妃殿下に茶会にまで誘われていた事を思い出した。
クラウスの目にも、王妃殿下がレティノアを気に入っているのは明らかだった。
「それで、クラウス様にフランヴェール伯爵夫妻を連れてこさせろってご命令です。多分、陛下の方でもレティノアの親を呼び出しているんですよね? 陛下の後でいいから、ともおっしゃっていました」
セリナは王妃殿下からの手紙を差し出す。
クラウスはそれを受け取ると、王命の書状とともに握りしめた。
「……承知した」
迷いなくクラウスは呟いた。
王家の後ろ盾までも得た今、クラウスを止めるものは何も無い。
(……レティノア)
これでようやく、レティノアを取り返しにいける。
二人を残したまま、クラウスは騎士団寮へと向かって歩き出した。




