5・名前も知らないあなたに誓う(sideクラウス)
(ああ、彼女だ。間違いない)
教会を後にしたクラウスは、王城へと馬を走らせながら、先ほどの出来事を思い返していた。
中庭で話す彼女を見つけた瞬間、雷に打たれたかのような衝撃がクラウスの体に走った。
彼女の、月の光のように柔らかく揺れる淡いブロンド。穏やかな冬の湖畔を思い起こさせるようなブルーグレーの瞳。
見間違いようもない。彼女こそが、3年前の夜に自分の命を救った聖女なのだと、クラウスは確信していた。
(ずっと、彼女に会いたかった)
3年前のあの夜。
おぼろげな意識の中で、祈りを捧げ続ける彼女の声だけが耳に届いていた。
彼女の声が、冷たく凍えた体に染み込むように馴染んでいく。彼女が祈りを捧げる度に、クラウスを苛ませていた痛みや苦しみが溶けて消えていく。
ゆっくりと目を開けて、最初に映ったのはキャンドルの明かり。そして、柔らかな光に照らされたブルーグレーの瞳が、クラウスを見つめていた。
あの夜、クラウスは決意したのだ。
必ず聖騎士になって、一番近くで彼女を守るのだと。
ようやくだ。王国騎士団から聖騎士団への異動願いを出し続け、3年越しにようやく叶った。
異動の希望を通すために、戦地で功績を上げ続けた甲斐もあったというものだ。
……功績を挙げすぎた結果、異動せずに王国騎士団にいてくれ、と部下や上司、果ては国王からも熱望されてしまったが。功績のおかげで聖騎士団長の座を得ることが出来たのだから、結果オーライというやつだろう。
これでようやく、彼女をすぐそばで守ることが出来る。
(そういえば、名前を聞いていなかったな)
再会できた喜びで、肝心な彼女の名前を聞きそびれてしまったことをクラウスは今更ながらに気づく。
(次に会った時には、必ず尋ねなければ)
実際に彼女の名を呼べるかは怪しいところではある。
今日だって、彼女を目の前にしたらすっかり心が舞い上がって、伝えようとした言葉は霧散してしまったのだから。
王城へ辿り着いたクラウスは、騎士寮へ向かって通路を真っ直ぐに歩いていく。
先程は、取り急ぎ挨拶のために教会へおもむいた。数日中に自室の荷物をまとめて、本格的に教会近くの聖騎士団用の騎士寮へ移動する予定だ。
クラウスが足を進める度に、すれ違う貴族や使用人たちがぎょっとした様子で慌てて道を開けた。まるで、恐ろしいものが通っているかのように。
(何故、怯えたような目で俺を見るんだ)
クラウスはただ、自室へ向かっているだけだ。
「クラウス、戻ったのか」
その時、通路の向かいからかつての上司が現れ、クラウスを呼び止めた。クラウスを待ち構えていたようだった。
「はい。……何か」
「国王陛下がお呼びだ。速やかに王の間へ向かうように」
◇◇◇◇◇◇
王の間では、最奥にある玉座に国王陛下が腰掛けていた。
高い天井から差し込む光が、玉座を照らしている。
「クラウス・グレイフォード、ただいま陛下の御前に馳せ参じました」
クラウスは玉座の前に片膝をついて、静かに頭を垂れた。
「よい、おもてをあげよ」
「はっ」
顔を上げると、国王陛下がクラウスを見下ろしていた。口元は笑みの形を描いているが、瞳の奥は底知れない、為政者の目だ。
「先の国境紛争の鎮圧では見事な活躍だったな。わしも鼻が高いぞ」
「もったいなきお言葉です」
形式的な王の言葉に、クラウスも形式的に返す。
国王が話したいことは別のことだろうと、クラウスは察していた。
「その功績を称えて、そなたのかねてよりの悲願であった聖騎士団への異動を認めたが……。クラウス、そなたは確か今年で25であったな?」
「左様でございます」
「婚姻についてはどのように考えておる?」
「……は?」
国王陛下の突然の問いに、クラウスの口から思わず気の抜けた声が漏れた。
予想だにしていなかった言葉に、一瞬思考が止まる。
「いや何、フランヴェール伯は知っておるか? 歴代の聖女を輩出している名家だ」
「!」
聖女、という単語にクラウスはぴくりと反応する。
人生のほとんどを戦場で過ごしてきたクラウスにとって、貴族の名前や事情については疎い。それでも聖女という存在は、クラウスの記憶に深く刻まれている。
「お前の活躍を聞き及んだフランヴェール伯から、是非聖女である娘を嫁にもらって欲しいと頼み込まれた。わしとしても、聖女の力をもつ娘とお前ほどの騎士がこの国で家庭を築いてくれればと思うてな」
政略。
瞬間、その2文字がクラウスの頭をよぎる。
「わしは聖女との婚姻を、お前に望む。よいか、クラウス?」
国王の口調には、否を言わせない響きがこもっていた。
(つまるところ、俺をこの国から出したくないから早く結婚させたいということか)
……それでも構わない。
彼女の隣に立てるなら、どんな政略的な意図があろうとも、喜んで受け入れよう。
「……御意。国王陛下の仰せのままに」
国王の言葉に、クラウスは迷うことなく頷いた。
あの夜、自分の命を救ってくれた彼女こそが、聖女に違いない。
そんな彼女を、聖騎士団長の立場以上に守れるなど、こちらから願い出たかったほどだ。
そっと、腰に提げた剣に手を伸ばす。
(俺の命とこの剣は、あの夜からすべて彼女のためにある)
クラウスは静かに、剣の柄を握りしめた。