46・凍った心に残るもの
「しばらくここで過ごしていろ。お前の今後についてはまた話に来る」
屋敷に帰り着くと、父はそう言って私をかつての自室へと押し込めた。
どんと背中を押されて、床へとよろめく。
ミレシアが聖女になることが決まった三年前。
私はフランヴェール家に不要とされ、最低限の荷物だけをもたされて屋敷を追い出された。
残されたこの部屋は、今は物置のような有様になっていた。
(……私がいた時とまるで違うわ……)
私は床にへたり混んだまま、呆然と部屋を見渡した。
棚の上には誰ものか知らぬ箱が積まれ、ベッドの上にはミレシアのものと思われる派手なドレスが数着、無造作に放られている。
それらはもう使われることのない不用品に見えた。
(まるで、私のようね……)
ここはまるで、いらない物を詰め込むゴミ置き場のようだ。
ぼんやりとそこでへたりこんだまま、どれくらいの時間がすぎただろう。
部屋の鍵を確かめてはみたが、内側から開かないように細工されているようだった。
それに加えて、ここは2階だ。窓から飛び降りるには勇気がいる。
どうにもならない。
心はすっかりすり減っていて、叫ぶ元気も逃げ出す気力も残っていなかった。
(……もう、夕方)
ふと窓の外へ視線を向ければ、強い西日が部屋へと差し込んでいた。
耳をすませば、扉の向こうからコツコツとヒールが床を叩く硬い音が聞こえてくる。
「少しは落ち着いたかしら? まぁ、どうだっていいけれど」
鍵を開けて部屋へ入ってきたのは継母だった。
床に座り込んだままだった私をどうでもよさげに一瞥すると、私の目の前へ一枚の紙を放り投げた。
それは、離婚願いの書類だった。
「これ、明日までに名前を書いておきなさい。城へ提出するから。どうして貴族の離婚の手続きって面倒くさいのかしらね」
継母は一度離婚を経験しているからか、言葉には実感が伴っていた。
この国で貴族が結婚や離婚をするためには、王家の承認がいる。この書類は、そのための申立書だ。
私は言葉もなく、目の前に落ちたままの書類を見つめた。
私がこれに名前を書いて、王家に承認されれば、クラウス様との離婚が成立してしまう。
継母は私の沈黙など意に介さず話を続けた。
「今ね、ルーヴェン公爵に掛け合っているのよ。少し……いえ、だいぶ年上だけど、家柄と財産は申し分ないわ。見た目はまぁ……カエルに似ているけれど、そのうち慣れるでしょ。あなたのような地味な子でも、フランヴェールの役に立てるように工面してあげているの。感謝して欲しいわ」
(……ルーヴェン公爵って……)
ルーヴェン公爵――その名前を聴いた瞬間、胸の奥にぞわりとした不快感が広がった。
なぜならその人物は、好色で有名な貴族だからだ。若い貴族の娘を集めては、遊ぶだけ遊んで飽きたら手放す。社交から離れている私でさえ知っている話だ。
そんな相手に掛け合われているという事実が、なによりも恐ろしい。
「ま、ルーヴェン公爵から返信が来たらまた知らせるわ。それまで、大人しくしておくことね」
継母は私から興味が失せたのか、ふうと息を吐き出すと視線を逸らした。
「……ほんと、つまらない娘だわ」
それだけ吐き捨てると、継母は踵を返す。カツカツと靴音を鳴らしながら部屋を出ていった。
扉が閉まり、鍵をかけられる音がやけに重たく響く。
私は動くことも出来ずに、ただその音を聞いていた。
(……クラウス様)
私は首元にかかるネックレスへ、縋るように手を伸ばした。
湖畔でクラウス様からもらった、小さな宝石のついたネックレス。
指先に触れる冷たい石の感触だけが、今の私の心の支えだった。
(……帰りたい)
ここではなく、教会へ。
両親の元ではなく、クラウス様の元へ。
その思いは、凍りきった私の心の奥底に残っていた。
(……しっかりしなきゃ)
私は今までずっと、色々なことを諦めてきた。
三年前の報告書から自分の名前が消えた時も、自分がなるはずだった聖女の立場がミレシアのものとなった時も。
ミレシアに、聖女の仕事や婚姻を押し付けられても。
仕方のないことだからと、諦めて大人しく従ってきた。
(だけど、私はやっぱり諦められない)
他の何を譲っても、クラウス様の隣にいることだけは誰にも奪われたくない。
だってクラウス様は言ってくれたのだ。
引き離されれば取り戻しに行く、何があっても離したりしない、と。
だったら私だって同じだ。
引き離されても諦めない。必ず、クラウス様の元へ戻る。
私はぐっと腕で目元を押さえた。悲観するのはここで終わりだ。私は自分で、自分の人生を選ぶ。
そのときふと、屋敷の下の方が騒がしくなった気がした。
怒鳴り声、足音、扉の開閉音――。明らかに誰かが来ている。
だけれどこの部屋が玄関から遠いせいか、耳をすましても誰が話しているのかは聞き取れなかった。




