16・夜の庭で問う
結局、広場での騒ぎはすぐに収まりそうもなく、私たちは仕方なくその場を後にすることになった。
私たちがあのまま広場にいては、収まる騒ぎも収まらないだろうと判断してのことだ。
向かった先は、巡礼訪問での拠点であるダーレストの教会だ。
ダーレストの教会は、静かな町の奥にあった。
私たちが教会へたどり着いた頃にはすっかり夕日も沈み、遠くの空には星が瞬き始めていた。
夕方の騒ぎが嘘のように静かな場所だ。町に滞在する二日間、ここにお世話になる。
教会を管理する老神父が迎え入れてくれ、私たちはようやく長旅の疲れを落ち着けることができたのだった。
だが、場所が変わろうとも、明日からの聖女としての仕事はたっぷりとある。さっさと寝てしまおうと、私は教会の客室で布団を被り目を閉じたのだが……。
(眠れない……)
部屋はしんと静まり、ひんやりとした空気に満ちていた。
客室の壁には聖句が書かれた古い額縁が飾られ、窓の外には星の光が滲んでいる。
私が眠れないのは、決して部屋や枕が変わったからというような、ナイーブな理由からではない。
広場での出来事が、頭の奥にこびりついて離れないのだ。
薄暗闇の中、私は枕元に置いた小さな一輪挿しの花瓶にそっと視線を向けた。
老神父から借りた花瓶の中には、あの男の子が手渡してくれた小花が飾られている。
(……少し、散歩してこよう)
どうせこのまま横になっていても寝られないのだ。
夜風に当たれば、少しは心も落ち着くかもしれない。
私はそっと部屋を抜け出すと、足音を立てないようにして教会の庭へ向かった。
夜の庭には夜気が漂い、どこか遠くから虫の音が聞こえてきていた。
庭に咲く花々は夜露に濡れていて、月の光に照らされている様は幻想的だ。
美しいその景色を眺めているだけで、心のざわつきが収まっていくような気がした。
(あれ……?)
月光に濡れた花々の奥に、白い影がゆっくりと動いている。
聖騎士団用の見慣れた白い騎士服と、艶やかな黒髪が夜闇に浮かんでいた。
「……クラウス、様?」
小さく呟くような私の声は、クラウス様に届いていたらしい。
クラウス様はふと動きを止めると、私の方へ向き直った。そのまま花の間をぬけ、こちらへと近づいてくる。
「どうした。眠れないのか」
クラウス様の声は、普段通りの穏やかなものだった。夕方の広場で感じた冷たく鋭い空気は、今はもうどこにも見当たらない。
私はクラウス様の問いかけに小さく頷いた。
「……はい。少しだけ、外の空気を吸いたくて」
「そのままで出てきたのか」
「あ……。つい……」
言われて、私はようやく自分の格好に気がついた。
そういえば私は寝巻き姿のままだ。心を落ち着かせることばかりに気を取られ、上着を羽織るのをすっかり忘れてしまっていた。
そもそも、こんな夜中に誰かと庭で鉢合わせるなんて、思ってもみなかったのだ。
「……それでは風邪をひくだろう」
クラウス様はふうとため息をついた。
どうやらクラウス様が気にしていたのは私の格好ではなく、体調のことだったらしい。
一瞬だけ迷うような仕草を見せたあと、クラウス様は騎士服の上着を脱ぎ、私の肩へそっと上着をかけてくれた。
「これでもかけておけ」
「……ありがとうございます」
肩にかけられた上着からじんわりと温もりが伝わってくる。
きっと、クラウス様の体温だ。
その温もりに胸の奥が跳ねて、なんだかくすぐったいような心地がする。
私は言葉の続きを探しながら、地面へと視線を落とした。
「夕方は、巻き込んですまなかった」
だが、クラウス様のそんな声が聞こえてきて、私は目線を少しだけ上げた。
その声には謝罪というよりも、どこか諦めのような色があった。
「……ああいうことは、よくあるのですか?」
私はためらいながらも問いかけた。
胸の奥にはまだ、広場で感じたざわめきが残っていたのだ。
「……よくあることだ。俺が何をしていなくても、勝手に周りが離れていく」
答えるクラウス様の声は淡々としていた。琥珀の瞳は過去を思い出しているようで、どこか遠くを見据えている。
「……俺はずっと戦場で生きてきた。戦うしか道がなかった。そのことに迷いも後悔もない。だが――結果として、戦場を離れた今でさえ人を怖がらせるとはな……」
クラウス様は自嘲気味につぶやくと、視線を私へと戻した。
それからわずかな沈黙のあと、クラウス様はぽつりと尋ねてきた。
「……あなたも、俺が怖いか」
その問いは、夜の空気に溶け入るようだった。
私へと向けられた琥珀の瞳が、月夜の明かりに照らされてかすかに揺れてみえた。
「……私は……」
私はすぐには答えられなかった。
広場でのクラウス様が放っていた、鋭く突き刺さるような威圧感。それに触れた時、私は背筋を凍らせてしまった。
あの時のクラウス様が怖くなかったと言ったら嘘になる。
だけれど、私は知っているのだ。
クラウス様がそれだけの人ではないということを。
数日前、ぶつかって尻もちをついたセリナに手を差し出した。
巡礼訪問のために荷を詰めているとき、私の代わりにトランクを馬車へ収めてくれた。
そして今も、私の体調を気遣って上着を貸してくれた。
クラウス様のさりげない優しさは嘘じゃないと思いたいのだ。
しかし、私が続きの言葉を発するよりも前に、クラウス様は諦めたように息を吐き出した。
「だろうな。……あなたを怖がらせるのは本意ではない。前にも言ったが、俺から不必要にあなたへ触れることはないから安心してくれ」
クラウス様はそこまで言うと、くるりと私に背を向ける。
「上着は明日でいい。よく眠ってくれ、聖女殿」
「クラウス様……!」
(きっと誤解させてしまった……!)
訂正しようと呼びかけても、クラウス様が足を止めることはなかった。白い背中が、夜の闇に紛れるようにして遠ざかっていく。
クラウス様の上着の重みと温もりだけが、私の肩に残っていた。




