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第3話 差し入れの麻婆豆腐と中華サラダと肉じゃがとカレー

 その日、学校の帰りについに海苔を買った。今まではラップで丸めるだけだったけど、ようやく海苔で巻いたおにぎりが食える。

 鼻歌交じりでアパートの階段を上がると、部屋の前に女が座っていた。こっちに気づくと、にっこり笑って立ち上がる。


「あ、ふっくん! 待ってたんですよぉ」


「帰れ」


 反射的に答えて階段を指差す。何で、こいつが。俺の嫌な顔なんか気にせず、その女は立ち上がり、封筒をヒラヒラさせた。


「あたしにそんな口きいていいのかなぁ? おじさんたちから、ふっくんのバイト代預かってるよぉ?」


「お前から渡される金なんかいらねえ。今すぐ帰れ」


 女――従姉妹の須藤鈴美はムッと口をつぐんだ。

 つつっと近寄ってきて、こちらを見上げる。


「なんで、ふっくんはあたしに意地悪なの? あたし何かした?」


「お前の親にはさんざん嫌がらせされてんだ。お前、それ知ってて何もしねえだろ。つーか煽ってんの知ってんだけど」


 鈴美は中学生のころ、フラワーアートでデカい賞を取った。そっから、俺ら従姉妹は親戚に「鈴美を見習え」「鈴美みたいに頑張れ」「鈴美ちゃんはすごいわね。で、あなたは?」って比べられまくるようになった。

 俺は鈴美の五つ下で、親父が鈴美の父親の一番下の弟だったせいで、とにかく比べられた。鈴美と比べてどんだけダメか、才能がなくて役立たずかを、伯父は延々と説教してきた。

 俺が高校に入る頃、母が気づいてブチ切れた。それからは須藤の家には近寄らなくなった。


 目の前の鈴美は眉をひそめて口を尖らせる。……テレビで見る”かわいすぎるフラワーアーティスト”の顔だ。耳の横でふんわりカールした髪のせいで顔が小さく見える。だから目だけ妙にデカくて、魚っぽくて苦手だ。


「……それは、ふっくんに頑張ってほしくて」


「何を? 従姉妹とバカみたいな比べられ方して、才能がないだグズだと貶されて、何を頑張れと?」


「ねえ、こんなとこで話すのもアレだし、お部屋に入れて?」


 小首を傾げる様子も気持ち悪いとしか思えない。こいつが悪いわけじゃないと思えるほど、俺はまだ割り切れていない。


「絶対に嫌だ。死んでもいれない。帰れ!」


「じゃあ、せめてこのお金は受け取って? おじさんから預かってきた、ふっくんのバイト代なの」


「はい、ダウト」


 そのとき、冷たい声が響いた。廊下の端から、小柄な女の子が肩を怒らせて、明るい茶髪をなびかせながらカツカツと歩いてきた。その後ろには困惑顔の理人が着いてきている。


「藤乃くんの親が、あんたと関わらせるわけないでしょ」


 少女は俺と鈴美の間に立ち、鈴美が少女――菅野葵を睨みつけた。


「……あおちゃんには関係ない」


「私の藤乃くんを泣かして、関係ないなんてよく言えるよね」


 葵は鋭く言い返す。


「泣いてねーし、お前のもんでもねーよ……」


 思わず顔が緩んだ。理人がハンカチを差し出す。


「顔、拭いてください」


「……ありがとな」


 かっこ悪いことに、気が抜けたら涙が出ていたらしい。


 鈴美は唇を噛んで、踵を返して走っていった。階段をガンガン降りる音がして、しばらく響いてたけど、やがて静かになった。


「差し入れ持ってきたよ、藤乃くん」


「おお、ありがと」


 何事もなかったかのように、葵は振り返り、手にしていたトートバッグを差し出した。受け取ると、ずっしり重い。


「帰る? いた方がいい?」


「どっちでもいい」


「じゃあ、いてあげる。王子が何でいるのかも気になるし」


 葵がニヤッと笑うと、理人が嫌な顔をした。王子?


「王子って言うな! 僕が王子ならお前は葵の上だろ」


「その呼び方、キモいからやめて」


 小学生たちがキャンキャン喧嘩していて、それにやたらと安心した。


「人んちの前で騒なって、ガキ共」


 そう言ったら、葵に背中をバシッと叩かれた。

 二人を部屋に通すと、当然の顔で上がり込んで好き勝手に座った。トートバッグの中にはいくつか容器が詰まっている。


「それ、藤乃くんのママから預かってきた。麻婆豆腐と中華サラダと肉じゃがとカレー! 冷蔵庫入れてね。レンジある?」


「それはある」


 少し前に小さいのを買った。


「じゃあ、少しずつ温めてね」


「お前、世話焼きの彼女かよ」


「キモいこと言わないでくれる?」


「願い下げだっつーの、バカ」


 言い合いながら容器と買ってきた海苔を片付けていると、理人がおずおずと近寄ってきた。口元に手を当てるので身を屈めて耳を近づける。


「菅野さんと、お知り合いなんですか?」


「んー……幼馴染っぽい……?」


 何て説明したものか考えていたら、葵がムスッとした顔で振り向いた。


「そっちこそ、なんでいるの?」


「お前は新入りを受け入れられない猫かよ。理人はこのアパートの大家の孫。葵は俺のじいさんのお得意さんの孫。孫同士なんだから、人んちで喧嘩すんなよ。てか、お前ら知り合いだったの?」


 適当に説明すると、葵と理人は睨み合う。何、仲悪いの? 喧嘩なら他所でやってほしい。俺は疲れた。

 冷蔵庫から麦茶を出して飲む。二杯目を注いだら葵が理人を睨んだまま手を出すから渡す。ちょっとは気ぃ遣え。葵は麦茶を一気飲みしてから、理人を指差した。人を差すな、人を。


「塾が一緒なの」


「”王子”って?」


「あだ名。見ためが王子様っぽいから」


「”葵の上”は?」


「……」


 葵は黙り込んで、じろっと俺を睨んだ。あだ名なんだろうけど、相当嫌らしい。


「少し前に塾で源氏物語をやったんです。菅野さんって、塾だと澄ましたお嬢さんぶってて。名前も相まって、”葵の上みたい”って呼ばれるようになったんですよ」


 理人はそう言って苦笑いした。


「こんなキツイ人だと思いませんでした」


「うっさいな。藤乃くんがメソメソしてたから、応戦しただけ。……よしよしする?」


「いらねえ。でも、ありがとな」


「いいよ。今度、アレンジの作り方教えて」


「店が暇なときにな」


 コップをシンクに入れて炊飯器に米を入れる。無洗米という文明の利器に頼っているので、水を入れたらもう米が炊ける。


「俺、課題やるわ」


「あ、僕も宿題やります」


「じゃあ、私もやろうかな」


 三人で机についてカリカリ手を動かす。理人がソワソワ顔を上げて、葵に目をやる。


「”アレンジ”って、なんですか?」


「藤乃くんの家って造園屋さんなの、知ってる? 花屋さんもやってて、そこで藤乃くんフラワーアレンジメントを作ってるの。かわいいから、私もたまに教えてもらってるんだ」


「へー……意外でした。どっちも」


「藤乃くん、ひょろ長くて目つき悪いし、ガサツで口も悪いけど、花の扱いはすごいんだから。私の師匠だし。王子、こんなに花の似合う美少女に失礼じゃない?」


「王子って呼ぶな。菅野さんは黙ってればかわいいのに。黙っていれば! さっき『私の藤乃くん』って言ったのは、師匠だから? ……彼女とかじゃないんですよね?」


 葵がめちゃくちゃ嫌な顔をした。まあ、『私の』って言ったら、そう思われてもしゃーないよ。絶対違うけど。


「冗談止めて。藤乃くんのことは尊敬してるけど、彼氏にする気はない。筋肉が足りない」


「筋肉?」


 理人が首を傾げたけど、葵はそれっきり無言。カリカリ音を立てながらノートにかき込んでいる。俺も葵の好みとか興味ないし、黙って教科書をめくった。


「つーか、バイト代もらいそこねた」


 ぽつっと言ったら、葵がムッとして顔を上げた。


「ダウトって言ったじゃん。あんなの嘘だよ」


「……マジで?」


「そだよ。藤乃くんのお父さんたちが、鈴音ちゃんにお金渡すわけないよ。わかるでしょ」


「……それも、そうか」


 伯父が俺にネチネチ絡んでいるのを見た瞬間の母親の顔はまさに般若だった。造園屋の隅っこで花屋をやっている母親の腕は思った以上にゴツくて、にちゃにちゃ笑っていた伯父の顔ごと体を吹っ飛ばした。

 俺が場違いにも、「一生、母親を怒らせないようにしよう」と決めた瞬間だった。

 騒ぎを聞きつけて親戚が集まったとき、祖母は伯父を起こして、祖父は俺に、父は母親に話を聞いた。

 そのまま祖父と父母は造園屋に戻って、祖母は伯父の家に移った。それっきり、祖母と伯父一家には会っていない。

 そもそも、集まりたがってたのは鈴美を自慢した伯父一家だったから、祖父と父が行かないって決めれば、それで済んだ。祖父の兄とか祖母から、しばらくは復縁しろって電話や手紙が来ていたけど、母親にバレる前に祖父と父が全部握りつぶしてた。


 そんなうちの親が、鈴美を俺のとこに寄こすわけがない。……テンパってて、それすら忘れてた。


「あの封筒、ただの茶封筒だよ。たぶん中身も空っぽ」


「マジかよ」


「あの、さっきの……鈴美さん? 有名なフラワーアーティストの方ですよね? 藤乃さんのお知り合いなんですか?」


 理人が遠慮がちにこっちを見てきた。小学生に庇われて、気まで遣わせて……俺は何やってんだ。

 最近、俺に優しいの、小学生しかいない。……言い方が終わってる。


「従姉妹」


「何をしに来たんですか?」


「知らん」


 理人が葵の方を見るけど、葵は首を振るだけだ。気の強い弟子だけど、こういうとこは信用できる。


「あのですね」


 理人がピシッと背筋を伸ばす。


「この件は、母に伝えます」


 意味が分からなくて理人を見ると、真面目くさった顔でじっとこっちを見てた。


「母と父、それに祖父母にも共有して、合鍵とか取次はしないようにします」


「……うん。ありがと」


 理人はニヤッと笑って肩をすくめた。


「たまにあるんですよ、親のフリして元カノが侵入しようとするの」


「えっ、マジ? 怖い」


「あの人がそこまでするかはわかりませんが、大家には住民を守る義務がありますから」


「おお、なんかかっこいいな」


「これ、ネットのレビューに書いてくれていいですよ」


「いきなりかっこよさ半減したわ……」


 理人は気にせず宿題に戻る。葵も宿題に戻ったから、手元を見たら塾のプリントっぽかった。


「なんか、そんなに難しくないな」


「うん。私は特進Bクラスだから。中学受験はしないしね」


「それなのに特進クラスなのか?」


「特進Bって言っても、面倒だからクラス上げないって噂、ほんとですか?」


 つい理人と一緒に聞いてしまった。葵はどうでもよさげに手を動かしている。


「私の行く予定の中学、公立御三家でさ、進学率も治安も偏差値もすごくいいの。だからわざわざ私立なんて行く必要ないんだよね。そのためにおじいちゃん家に引っ越したし。噂は本当だよ。特進クラスに入るつもりなんて、もともとなかったし。前の学校、偏差値が低かったからさ。こっちの授業にちゃんとついていくために塾入っただけ」


 ……偏差値低い学校から来たのに、こっちの子より上のクラスに入ってんのか? え、もしかしてこいつ、賢いのか……?


「それに塾内のランキングだと王子が一番でしょ。私なんか構ってる場合じゃないよ」


「王子って言うな! 僕は理人だから!」


「はいはい、理人くん。受験校のランク上げろってせっつかれてるんでしょ?」


「なんでそんなこと知ってるんですか……」


「有名だもん」


 なんなんだこいつら。見た目だけならその辺のモデルやアイドルより整ってるし、塾でも噂になるレベルってさ。でもって成績もいいらしい。

 ……なんでそんな賢いお子様たちが、こんな冴えない大学生の部屋で言い合ってんだよ。

 二人は既に静かに宿題に戻っている。喧嘩しても罵り合うでもなく、声を荒らげることもない。治安がいい。

 媚びてくる鈴美と、半泣きで怒鳴ってた俺より、よっぽどしっかりしてるガキども。


 そこまで考えたところで炊飯器が鳴った。葵が顔を上げる。


「じゃ、帰る」


「そうか?」


「ごはんでしょ? 次は私の食器とごはん持ってくる」


「来んなよ」


「食べたいものある?」


「焼き肉がいい」


「了解」


「あと腹にたまりそうなやつも頼む」


「わかった。他にもあったらメッセージちょうだい」


 ささっと荷物をまとめて、葵はあっという間に帰っていった。その早さに、理人が目を丸くした。


「菅野さんって、気が利きますよね」


「そうかも。気にせず食ってけばいいのにな」


「僕も、自分の茶碗持ってこようかな」


「お前ら、俺ん家をなんだと思ってんの?」


 理人はにこっと笑って、教科書とノートをしまった。背負っているカバンは、俺のジーパンをリメイクしたやつだ。気に入ってんのかな。


「失礼します」


「おー」


 理人を見送って、俺もパソコンを閉じた。


 冷蔵庫から麻婆豆腐とサラダを出して皿に分ける。麻婆豆腐をレンジに……ラップ、かけたほうがよかったか? 葵に聞いときゃよかったな。

 まあ、ラップなくてもいいか。温めたけど、あんまり温かくならねえ。まあ、いいや。

 久々の麻婆豆腐は、懐かしいような、初めてのような、なんとも言えない味だった。この味を最後に食べたのはいつだったのか思い出せない。次帰ったときに作ってもらおうかな……やっぱいいや。

 一人で食う飯には、寂しさと開放感、それに安心感がある。

 安心感ってのは、あれだ。鈴美から俺の居場所を守れたからだ。つーか、あいつ、なんでうちの場所知ってんだよ……。次に実家帰ったら、親に聞いておこう。できれば親父に。

 ムカつくし、母親に聞いて騒ぎにしてやるのもアリかもな。

 ひと口ひと口食べ進めているうちに、もやもやとか苛立ちが、少しずつ薄れていった。……どうでも良くなってきたとも言えるかもしれない。

 気付いたら、皿が空っぽになってた。

 皿を片付けるついでに、玄関の鍵を確認して、チェーンもかけといた。


 俺の城は、ちゃんと守られている。

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