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第1話 ほかほかの白いごはん、てっぺんに梅干し

 明かりもつけずにベッドに倒れ込むと、ギイギイきしむ音にまじって腹がバカみたいな音を立てた。窓からはどっかの家の晩ごはんの匂いがした。腹の音がどんどん大きくなる。目を閉じても、耳も鼻も閉じられなかった。食い込んだメガネが痛くて、仰向けになる。目を開けても閉じても、見えるものはさほど変わらない。


 なんとか数時間ウトウトして、シャワーを浴びて大学に向かった。まだ早すぎて食堂も開いていない。

 がらんとした教室でぼんやりしていたら、隣に座ったなんとか君が飴をくれた。


「藤乃の腹、うるさすぎ」


「俺もそう思う」


「なになに、須藤くん腹ぺこ? 飴いる?」


 前の席の女子が飴を机に置いた。小さく「どーも」と言ったら、「お腹が空きすぎて、ありがとうも言えないの?」なんて嫌味を言われた。

 まあ、俺が悪い。メガネを押さえてごまかす。


 朝のひとコマ目を終えて食堂に走る。気持ちだけで、実際はそんな元気ないから早歩きが限界だった。


「A定食大盛り」


「あいよ」


 おばちゃんがトレーを差し出す。端に座ってかきこんだ。うまくもまずくもなかった。



 それが、俺――須藤藤乃の今日最初で最後の飯だった。大学に入って、親にワガママ言って一人暮らしをしたものの、三食買ってると仕送りが尽きる。


 一人暮らしをする条件のひとつが「バイト禁止」だから、稼ぎにも行けない。その代わり、土日は実家の造園屋で働いてる。たまに親の知り合いの花農家にも手伝いに行く。その分の給料はもらえるけど、先月の分は買い食いと漫画と飲み会で全部消えた。

 次の仕送りと給料日まであと二週間。土日は実家で食わせてもらえるから、平日の十日間をなんとかやり過ごさなきゃいけない。

 学食は入学したときにチケットを買ったから、それは毎日食べられる。でも一日一食はつらい。



「あー……、腹減った」


 どうにかその日の授業を終えて、帰宅する。外階段がギイギイとうるさい。西日が眩しくて目を細める。半分くらい上がったところでガシャンと聞こえ、気づいた時には足がはまっていた。


「えっ」


 バランスを崩して下の段に尻餅をつく。割れた階段の板がふくらはぎに食い込んで痛い。気に入っていたジーパンが裂けてるし。


「マジかよ」


 立ち上がろうにも、膝下まではまって抜けねえし、腹が減りすぎて腕に力が入らない。


「くそがよ」


 鞄からスマホを取り出す。家の住所を知ってるのは親くらいしかいない。でもこの時間、電話に出てくれるかは怪しい。とりあえず店にかけてみたけど、やっぱり誰も出ない。諦めて両親のスマホにそれぞれメッセージを送る。

 母親から『大家さんに伝えておく』とだけ返ってきた。

 ……こっからどうすんだよ。動けねえし、腹減ったし、なんかもう嫌になってきた。


「何してるんですか?」


「あ?」


 甲高い声に振り向くと、子供が不審そうな顔で見上げていた。子供はゆっくり階段を上がってきた。

 なんでこんなアパートに子供が? 単身向けだったはずだ。


「なんだ、お前」


「こちらのセリフです。なぜ、階段の真ん中に座り込んで……足、はまっちゃったんですか?」


 子供は少し離れたところで立ち止まった。警戒しているらしい。しっかりしている。前髪の奥の目がまつげでバサバサしてた。俺とは違ってやたらときれいな顔の小僧だ。


「階段がさびててな。これだから安普請は」


「失礼ですね。その安普請を選んだのはあなたでしょ」


「はあ?」


「手をお貸しします」


 子供が階段を下りていく。地面に黒いランドセルを転がして戻ってきた。


「お手を」


「……おお」


 立ち上がる。ジーパンの引っかかっていたところを子供が外して、なんとか引き抜くことができた

「怪我をしていますね。治療のための道具を持ってきます。部屋はどちらですか?」


「いや、お前、何者だよ……」


 見下ろすと、子供はむすっとした顔でこちらを見上げていた。


「僕は江里理人(えり りひと)。このアパートの大家の孫です、須藤さん」


 江里という名前は知ってる。大家はたしかよぼよぼのじいさんだったはず。目の前の小生意気ながきんちょとは似てないが……。


「いや、なんで俺の名前知ってんだよ」


「祖父から、聞いていますので。最近C大の方が入ったと。園芸学部だそうですね」


「いや、それ個人情報だろ……」


「ともかく、その血だらけの足の消毒をすべきです。部屋は?」


「いらねえよ。んなもん水で流しとけばいいだろ」


「破傷風にでもなったら、どうするんですか」


 話し方が小生意気で本当にかわいくねえな。


「俺の優秀な常在菌ちゃんたちが、なんとかしてくれるんだよ。はいはい、しっし」


 手でがきんちょを払うと、同時に俺の腹が鳴った。かっこつかねえにもほどがある。まあ階段にはまって小学生に助けてもらっている時点で、かっこなんて一つもついてねえんだけど。


「……お腹、すいてるんですか?」


「すいてねえ」


 反論するように、また腹が鳴った。がきんちょが、ふふっと笑い出す。


「少々お待ちください。部屋は祖父に確認してきます。ちゃんと血を洗い流してくださいね」


 そう言って、がきんちょはカンカンと軽い足音を立てながら階段を下りていく。地面に転がしたランドセルを拾い、出ていった。


「えー……なんなの……」


 まあ、いっか。

 ともかく、俺も階段を上がって部屋に戻る。ジーパンは大きく裂けていて、もう使い物になりそうにない。ゴミ袋に放り込んでからシャワーを浴び、服を着たところで呼び鈴が鳴った。


「はいよ」


 ドアを開けると、綺麗なお姉さんが立っていた。目が大きくて、笑顔がまぶしい。目がしょぼしょぼするから、ドア閉めてえなあ。


「……あの、お間違いでは?」


「間違ってませんよ」


 お姉さんの後ろから、さっきのがきんちょが顔を出す。ランドセルはなくなっていて、かわりに水筒を下げている。


「え、なに? なんで姉ちゃん連れてきたんだよ?」


「あらあら、理人の母です。怪我をされたとうかがいましたので参りました」


 母!? 思わずじっとお姉さんを見てしまう。俺よりちょっと上くらいにしか見えねえんだけど!? がきんちょの方はどう見ても小学生の高学年だ。……でも、言われてみれば、たしかにこの二人はよく似ている。特に、目と鼻の形が。


「あの、ちょっと血が出ただけですし、洗ったらもう止まったので大丈夫です」


「そうですか? それと、お腹をすかせているとも聞きましたので、こちらを」


 差し出されたのは、大きな風呂敷包みだった。思わず受け取ると、心なしか温かい。


「……これは?」


「おにぎりです。入れ物は、洗って返してくださいね」


「はあ、でもなんで……?」


「足の怪我は大丈夫ですか?」


「えっ、大丈夫です」


「警察や不動産屋に駆け込んだり、レビューでこき下ろしたりしませんね?」


 なるほど? 言いふらされたらヤバいってことか。じゃあ、ありがたく受け取ろう。


「しません。おにぎり、大好きです」


「では、よろしくお願いします、須藤藤乃さん。修繕は早めに取りかかりますが、それまでは足元と夜道にお気をつけください」


 ニコッと微笑んで、お姉さんは去って行った。

 こえーな、おい。

 ドアを閉めようとしたら、何かが引っかかった。見下ろすと細い足が挟まっている。


「……なんでお前、母ちゃんと帰らねえの?」


「警察に駆け込まないか見張ろうかと」


「駆け込まねえよ」


「あと、あの」


 なぜかがきんちょはもじもじしている。腹減ったから帰ってくんねえかな。


「その……ジーパン。捨てちゃうんですか?」


「あ?」


 指さした先には、さっきゴミ袋に放り込んだジーパンがある。


「破れたから」


「もらっていいですか?」


「……いいけど、俺、このおにぎり食ってていいかな」


「あ、はい。すみません」


 部屋に入って、テーブルの上に風呂敷を広げた。中には容器が二つ。どちらにもおにぎりが入っていた。


「いただきます」


 ぱしっと手を合わせて、おにぎりを一つつかむ。

 うまーい! めちゃくちゃうまい! なんだこれ、米に塩混ざってんのか? しょっぱい! 中身は鮭だ! しょっぱさがたまんねえ、うまーい!

 もう一個の容器からも食べる。こっちは昆布とゴマだ! いい匂いがする。久しぶりに食ったけど、うめえ……涙出そう……。


「あの」


「うっわ、びっくりした。なんだよ、お前、まだいたのかよ」


「お前じゃないです。理人です。あの、これもどうぞ」


 理人が差し出したのは水筒だ。うちも水くらい出るけど?

 しかし水筒のコップに注がれたのは味噌汁だった。ワカメとネギも入ってる。天才かよ。


「……ありがと。うめえなあ」


「そうですか? 普通だと思いますけど」


「毎日食ってると、ありがたみが減るんだな。俺は身をもって知った。空腹つれえよ」


「その味噌汁、僕が家庭科の授業で作ったんですよ」


 思わず顔を上げると、理人は照れたような顔でこっちを見ていた。

 いやいや、それ俺じゃなくて、さっきの母ちゃんに飲ませろよ。


「なんで俺に。母ちゃんでもじいちゃんでもいるだろうが」


「あの人たちは、僕のやることをなんでも褒めてくれるので、忌憚のないご意見が欲しかったんです」


「……難しい言葉使うねえ。忌憚はさておき、うめえよ」


「そっか。よかったです」


 理人はほっとしたように微笑んだ。


「ジーパンも、家庭科の課題で必要だったので助かります」


「破れたジーパンを持ってこいって言われんの?」


「服のリメイクをする課題があるんです。前に動画で見たデニムの鞄がかっこよかったからやってみたくて」


「ふうん」


 どうでもよくなってきたので、適当に頷いた。俺にとって大事なのは目の前のおにぎりと味噌汁だ。


 理人は勝手に話し続けている。家庭科の課題がどうとか、塾が忙しいとか、そんな感じの話だ。


 おにぎりを半分食べたところで手を止める。残りは明日の朝ごはんにしよう。


「ごちそうさまでした」


 ぱしっと手を合わせると、理人が目を丸くした。


「……須藤さんって、育ちがいいんですね」


「はあ? 小学生のがきんちょに育ちとか言われたくねえよ」


「理人です。また来ますから」


「えっ、なんで?」


「母から、不動産屋さんに駆け込んだり、アパートの悪評をインターネットに拡散しないか見張れと言われています」


「しねえよ……」


 肩を落として呟くと、理人がふふっと笑った。笑うと、ますます母親そっくりになる。


「あと、藤乃さんは、忌憚のないご意見をくれるので」


「……なんだそりゃ」


「次は炊飯器を持ってきますね。うち、ちょうど買い換えたばかりなんです」


「そら、どーも」


 ようやく理人は立ち上がった。水筒を持ち直し、ジーパンを小脇に抱える。


「おにぎりは鮭と昆布とどっちが美味しかったですか?」


「どっちもうまかった」


「母に伝えておきます。失礼しました」


 ペコッと頭を下げて、理人は出て行った。

 なんつーか、しっかりしてんだか抜けてんだか、よくわかんねえガキだ。言葉遣いはやたらと背伸びをしてるけど、態度は子供だし。見知らぬ男の家にほいほい上がんなよ。


「ふわ……眠い」


 たらふく食べたら眠くなってきた。

 カーテンを閉めて、ベッドに倒れ込む。まだ夕方だけど、まあ、いいか。まぶたが重すぎて、開けていられねえから、しょうがねえんだ。




 二日後、学校から帰ったらアパートの階段の一番上に、理人が座り込んでいた。


「何してんの」


 カツン、カツンと音が響く。途中で一段飛ばす。飛ばした段には黒と黄色のテープが貼ってある。


「炊飯器、持ってきました」


「……マジで」


 たしかに座り込む理人の横には丸っこい炊飯器が置かれていた。まさか、家から抱えてきたのか?


「お礼に宿題教えてください」


「お礼強制なんだ。ウケる」


 部屋の鍵を開けると、理人は蚊の鳴くような声で「お邪魔します」と言いながら入っていった。

 台所に勝手に炊飯器を置き、ポケットからコンセントを出してつないだ。


「しゃもじと茶碗ってありますか?」


「ないよ」


「……ですよね」


 理人の背中のナップザックから、しゃもじと茶碗、お椀も出してきた。


「百均で揃えました」


「あそう……」


 財布から三百円出して渡す。理人は少し迷ってから受け取った。


「中身は口封じ料だと母が言ってました」


「……”口止め”な?」


 中身ってなんだよ、俺の口封じられちゃうのかよ、って思ったら、炊飯器の中には炊かれたごはんが入っていた。至れり尽くせりだ。


「これは祖父からです」


 さらに出てきた小さい容器。開けると梅干しが入っていた。

 理人が周りをきょろきょろ見回し、口元に手を当てたので、俺は身を屈めて耳を寄せてやる。


「……祖母が毎年漬けるんですけど、祖父は実は酸っぱいのが苦手なんだそうです。藤乃さん、酸っぱいの平気ですか?」


「そっか。平気だから、もらっとくわ」


 やけに神妙な言い方が可笑しくて、笑いながら容器を受け取った。


「で? 宿題は?」


 聞くと、ナップザックからワークらしき紙束が出てきた。パラパラとめくると、小難しいことがずらずらと書いてある。


「ふうん。今どきの小学生って難しいことすんだね」


「それ、塾の宿題なんです。特進Sコースの……応用プリント」


「……どゆこと?」


 聞き返すと、理人の顔がしょんぼりと曇った。


「……塾のテストで連続して満点出しちゃって、先生が浮かれて難しいプリント出してきたけど、難しくてわかんない……」


 理人は口をへの字にして、囁くように言った。聞き取りにくくてしかたない。俺が座ると、正面で正座した理人の背中は丸まり、頭は項垂れている。


「それさ、俺に教わって無理に解くんじゃなくて、ちゃんと”んなもんできるか!”って言わないといけないんじゃねーの?」


「……失望されちゃう」


「させとけよ」


 プリントを放り出して、茶碗にごはんを山盛りによそう。実家じゃ、行儀が悪いって言われて、こんなに盛らせてもらえなかった。てっぺんに梅干しを載せて、割り箸も持って机に戻る。


「いただきます」


 ごはんはほかほかで、梅干しがくっついたあたりからほんのり梅の匂いが立って、めちゃくちゃにうまい。もらったおにぎりは昨日のうちになくなってたから、白飯が腹にしみる。

 ちょっとかじった梅干しは、俺のばあちゃんの家にあった酸っぱくてしょっぱいやつに似てて、ごはんが進む。

 半分ぐらいを一気にかき込んでから、机の上に視線を戻した。

 曇ったメガネの向こうで、理人の頭が下を向いている。


「ったく、しょぼくれやがって」


 鞄からシャーペンを出してくる。プリントは理科と算数。まあ、どうとでもなる。図形に適当に補助線を引く。理科は注釈をいくつか書き入れる。


「ほれ」


「……え、あ、これ」


 プリントを見た理人の目が丸くなる。たまっていた涙がこぼれたけど、後は続かない。


「それで解けねえなら、俺に教えられることなんて、もうねえよ」


「……解けます」


 口をぎゅっと結んで、理人は鉛筆を取り出した。さらさらと鉛筆の滑る音と、割り箸が茶碗にこする音だけが聞こえる。


 食べ終えて手を合わせ、それから茶碗を洗う。おにぎりの容器を洗って返せと言われたので、洗剤とスポンジは昨日百均で買ってきた。

 理人は顔も上げず、背中を丸めて手を動かしている。細っこい指がプリントの上を滑っていく。

 向かいに座って、俺も宿題をしないといけない。算数のプリントじゃなくて、生活と園芸の共存についてのレポートだけど。パソコンを出してきてカチャカチャ打つ。

 三十分くらいで理人が顔を上げた。


「できました!」


「ふうん。よかったね」


「あってるか確認を」


「俺に甘えんな。塾で聞けよ」


「……そうします。あの、藤乃さんは土日って用事ありますか?」


「実家でバイト」


「そっか。じゃあまた週明けに来ます」


「……いや、来なくていいけど」


「次は米と餃子と国語の宿題持ってきます」


「仕方ねえな」


 理人は散らばったプリントと鉛筆をまとめてナップザックに詰め込んだ。


「あ、梅干しうまかったって、お前のばあちゃんに言っとけよ。あとおにぎりの容器、返しといて」


 風呂敷で包み直した容器を理人に渡す。たぶん俺の母親ならお礼とか言っておかずを詰めて返すんだろうけど、そんなものはない。用意する金もねえし、そもそもが口止めなんだから、まあ空でいいだろ。


「わかりました。きっと次は、祖母が山盛りの漬物を持たせてくれますよ」


「そりゃ楽しみだ」


 理人を見送って、台所に行く。おにぎりを作ってみようかと思ったけど、握るためのラップが無かった。




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