居場所
朝7時。キッチンに差し込む陽の光が、ステンレスのポットの曲面を照らしている。
コンロの上で湯がかすかに唸り始めると、陽子は火を止め、静かに急須に注いだ。
テーブルには、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、白いごはん。
一人分だけの朝食。テレビの音もつけない。咀嚼音だけが部屋に小さく響く。
醤油をかけすぎた。手元が狂ったわけでもないのに、味が濃く感じる。
箸を持ったまま、陽子はふと壁に目をやった。
ダイニングの奥。木製の額に収められた一枚の写真。
息子の中学卒業祝いで出かけた日のものだ。夫が珍しく「たまには記念写真を」と言い出し、
観光地のカメラマンに頼んで撮ってもらった。
三人の笑顔は、どれもぎこちなかったが、今見るとそれさえも温かい。
「もう、こういう時間……戻ってこないのかもね」
呟いた自分の声が、思った以上に大きく響いた。
向かいの席には誰もいない。カチャ、と箸を小皿に置きながら、陽子は息をついた。
息子は大学の寮に入り、今は月に一度LINEが来る程度。
夫は、関西の現場に出向中で、戻ってくるのは月に数日だけ。
連絡は来るが、簡素な業務連絡のような文面ばかりになった。
いないわけではない。
ただ、日々を共にする人間が、家の中から静かに消えていった。
その実感だけが、こうして残っている。
煮物の湯気がほとんど消えかけていることに気づき、陽子はまた箸を手に取った。
静かな部屋に、器と器が触れる音だけが響いた。
窓の外の庭では、スズメが一羽、ツツジの枝にとまっている。
洗い終えた茶碗を拭きながら、陽子は一歩引いてそれを眺めた。
羽根を震わせて鳴くその姿が、まるで何かを試すようだった。
洗濯機の回転音がリビングに響く間、陽子は新聞の折込チラシに目を走らせる。
赤ペンで囲った「豆腐88円」。その印の横には、昨日のメモが消えかけて残っていた。
アイロンがけ、ゴミ出し、戸締まり確認。
どれも身体に染みついた動作だが、終えるたびにどこか“帳尻”が合うような感覚がある。
「今日もちゃんと過ごせている」
そう思える小さな手順を、ひとつずつ積み重ねていくような日。
図書館に着くと、すでに何人かの親子が絵本コーナーにいた。
絨毯の上に正座して、ページを開く。
「きょうはね、ぐりとぐらのお話です」
そう言って表紙を見せると、小さな子どもたちが「知ってる!」と声をあげた。
朗読を始めると、最初はざわついていた子どもたちも、次第に言葉に引き込まれていく。
ページをめくるたび、ちいさな笑いや、驚いた顔がちらほらと見えた。
その顔を見るたびに、陽子は「ここにいてもいい」と、ほんの少しだけ思えるのだった。
この子たちにとって、自分の声は“誰かの声”として届いている。
──それだけで、救われるような気がした。
読み聞かせが終わった後、陽子は子どもたちが散っていくのを見送りながら、絵本を元の棚に戻していった。
カラフルな背表紙が並ぶ中に、ふと逆さまに差し込まれた1冊を見つける。彼女は黙ってそれを引き抜き、向きを直した。
「ありがとうございました~」
母親たちの明るい声が、やや遠巻きに聞こえる。
その中に、わずかに“含み”のある笑いが混ざっていた。耳に触れた瞬間、陽子の指先が一瞬だけ止まった。
彼女の視線が、棚越しにちらりとそちらを向いた。
職員カウンターの向こうに立つ若い司書の女性が、他のスタッフとなにか言葉を交わし、ふと陽子のほうに目を向けた。
が、すぐに気づかぬふりをして視線をそらす。
……気のせい、と自分に言い聞かせるには、あまりにタイミングが揃いすぎていた。
片付けを終えて、陽子は出入口近くの掲示板に立ち寄った。
次月の読み聞かせ予定が印刷された紙が貼られている。自分の名前がいつもの枠にあるかを、何気ないふりで確認する。
なかった。
代わりに、最近よく顔を合わせる別のボランティアの名前が入っていた。
彼女のほうが子どもたちの反応がよかったのかもしれない。声が明るいし、話し方にも慣れている。
──そう思おうとしたが、胸の奥で何かがひとつ、音を立てて沈んだ。
図書館を出ると、空が曇っていた。
街路樹の葉が湿って重く垂れ下がり、風もなく、歩道は静かだった。
陽子はカバンからスマートフォンを取り出し、無意識にいつものメモアプリを開いた。
買う予定だった牛乳やタマネギの文字の隣に、ふと目に入った通知バッジ──
《2件の新着メッセージがあります》
それは例の匿名掲示板からだった。
親指が画面に触れる。開いてはいけない気がする。けれど、そのまま指を止めるのも、なんだかもっと怖かった。
──《依頼:正義の代行》
──《迷惑な隣人を止めてほしい》
陽子はスマホをそっと伏せた。けれど、画面の光は瞼の裏に焼きついていた。
リビングのカーテンを閉めると、部屋の中は柔らかな薄闇に包まれた。
台所の片隅にある椅子に腰かけ、陽子は再びスマートフォンを手に取った。
《あなたの代わりに、あなたの願いを叶えます》
そのページは、数日前とまったく同じままだった。
けれど、表示された最新依頼の一文は、前よりもずっと鮮明に目に入った。
《依頼:向かいの部屋の男をどうにかしてください》
文章は短く、句読点もなかった。
投稿主の名前はなく、ただ「匿名希望」の文字が灰色に浮かぶ。
タップして開くと、詳細文が展開された。
隣人が怖い。
私が部屋を出ると、必ずドアを開けて出てくる。
帰宅が遅いと、玄関の前に空き缶や紙ゴミが置かれている。
管理会社に言っても「証拠がない」と笑われた。
警察は動かない。家族も「気のせいじゃない?」という。
本当は逃げたい。でも引っ越すお金も、行き先もない。
だからせめて──
あの人が「いなくなって」くれれば、それだけでいい。
陽子はスマホを持つ手を、無意識にもう片方の手で押さえていた。
内容は単純だ。けれど、行間が訴える声が、あまりにも生々しい。
──それは、誰にも信じてもらえない孤立の声。
誰にも聞かれないまま、閉じた部屋でくすぶる恐怖。
「いなくなってくれれば、それだけでいい」
その言葉が、胸のどこかをじくじくと刺してくる。
相手の顔も知らないのに、投稿主の静かな切実さだけが、なぜか分かってしまう。
ふと、画面の下に「提案済みの対応策」がいくつか表示された。
・監視カメラの設置支援
・玄関前での威嚇行動の抑止
・“注意喚起の手紙”の投函
・直接の“説得”
・その他(自由記述)
自由記述のフォームには、空欄がひとつだけあった。
「あなたが考える方法でお願いします」
陽子は、スマホを伏せた。が、次の瞬間、もう一度手に取っていた。
「返信する」ボタンが、目の前にある。
部屋の時計の針が、静かに一秒を刻む音が聞こえる。
その音が、なぜか、誰かの背中を押す音に思えた。
陽子は、一晩スマホを伏せたまま眠った。
──眠った、というよりも、目を閉じていただけかもしれない。
翌朝、家事を一通り終えたあと、彼女はクローゼットの奥から古いバッグを取り出した。
息子が小学生のときに使っていたデジカメと、数年前に通販で買ったレコーダーが入っている。
「何かあったときのために」と思って残していた防犯グッズのようなものだ。
陽子はそのカメラのバッテリーを充電器に差し込み、レンズの埃を指でなぞった。
数日後。陽子は依頼主が指定してきた“現場の写真”を頼りに、団地の敷地へ向かった。
夕暮れどきの灰色の空に、くすんだコンクリートの外壁が溶け込んでいる。
──一歩も踏み込まず、ただ少し遠くから見るだけ。
そう言い聞かせながら、陽子はベンチに座り、持参した雑誌の裏にカメラを隠して構えた。
何も起こらない。ただ、自転車のチェーンの音と、風で揺れる洗濯物。
そのとき、2階の廊下に男が出てきた。
上下ジャージ、無精髭、手にはタバコ。煙を吐きながら、下を見下ろしている。
ちょうど別の住人らしき若い女性が階段を上ってきた瞬間だった。
男の目線が、まるで“通せんぼ”のようにその動きを追い、階段を上がる彼女がぎこちなく頭を下げてすり抜けていった。
陽子は思わず、シャッターを切っていた。
──あの依頼文に書かれていた、“出入口で待ち構えるような視線”。
その光景は、まさにそれだった。
何も“していない”のに、あまりに明確に、空気を支配していた。
その夜。陽子は依頼掲示板にログインし、こう書き込んだ。
状況を確認しました。
一般的な警告や通報では抑止できない類の“圧”です。
接触を避けたまま、行動を封じる方向で動きます。
明日、投函します。
翌日。陽子は団地の郵便受けに、一通の封筒を差し込んだ。
中身は簡単な警告文だった。
印字された匿名の文面──
近隣住人による複数の苦情が寄せられています。
迷惑行為が続いた場合、記録とともに管理会社に正式通告します。
差出人名は書いていない。が、封筒の中には、もう一枚──
撮影した写真が数枚、同封されていた。
陽子は手袋をしたまま封筒を落とし、すぐその場を離れた。
帰りの電車の中、窓ガラスに映る自分の顔は、どこか静かに凪いでいた。
罪悪感とも違う、達成感とも違う──けれど、“役に立った”という感覚だけは、確かに残っていた。
依頼を終えた数日後、陽子は再び掲示板のページを開いた。
新着メッセージの通知がひとつ。
差出人は、あの“向かいの男”の被害を訴えた依頼主からだった。
本当に、ありがとうございました。
まだ完全に解決したわけじゃないけど、
あの人、ここ数日はほとんど外に出てきません。
郵便受けの封筒、たぶん彼が開けました。
そのあとすぐ、缶や紙ゴミもなくなりました。
誰にも頼れないと思っていたけど、
誰かが“見ていてくれる”って、こんなに心強いんですね。
助けてくれて、本当にありがとう。
画面を見つめたまま、陽子は静かに椅子に座り直した。
その手元には、湯気の消えかけた紅茶のカップ。
読みかけの本のページは、午後の日差しに照らされて黄色く染まっていた。
──ありがとう。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥にぽつんと灯りがともったようだった。
図書館でも、パート先でも、家庭でも、もう長い間、誰かにそんなふうに言われた記憶がない。
この数年、誰かにとって自分が“役に立っている”と実感することは、
どんどん少なくなっていた。
それが当たり前だと、自分に言い聞かせてきた。
でも──
いま、確かに誰かが、陽子のしたことを必要だと言ってくれた。
それは、声に出して言われるよりも重く、深く、心に染みこんだ。
その夜。陽子はスマホのメモ帳に、ぽつりと書いた。
今回のは、ただの“注意”にすぎない。
でも、それでも人を救うことがある。
私がやったのは、「ただ見ていたこと」。
ただ、少しだけ、代わりに動いたこと。
それだけでも──意味があるのかもしれない。
指を止めて、陽子は少しだけ唇の端を緩めた。