心中物
「私の夢は、心中です。」
高校生の愛美は言った。彼女は、カタルシスによる魂の解放と、それに伴うイデアへの道程を、強く、望んでいた。数学と音楽を学び、物理学を愛した彼女は、演劇部に所属していた。
「文化祭での演目は、近松門左衛門の『心中天網島』。」
演劇部部長の、静汀間(M)は、己の伸びた黒髪を、つまみ上げ、秋の空に浮かぶ鰯雲に向かって言った。コバルトブルーの空は、相変わらず、沈黙していた。
「心中物は、学校側の許可が下りにくくありませんか?」
副部長の、神々陣(F)は、ストラテジックに、反論した。彼女の希望は、ホメロスの『イーリアス』である。
「それなら、問題ありません。」
強かに、そう言ったのは、紛れもなく、そこに、佇立していた、越前愛美(F)であった。
「古文担当の飯沼先生(M)の監修となります。」
「ちっ。」
「舌打ちは、控えたまえ。神々君。」
汀間は、力を込めて厳かに、かつ、優しく言った。
「すみません。私としたことが、取り乱してしまいました。」
陣は、満面の笑みの中に、反省と後悔と、若干の罪悪感を含めつつ、演説した。
彼らに時間は、なかった。文化祭を終えれば、彼らは、部活を引退し、受験に専念する。ここは、そういう学校であった。
演劇部総勢、30人は、その日から、脚本、役者、小道具、大道具、その他、諸々に別れて、準備に、取りかかった。
「演劇は、カタルシスであり、魂の解放を伴い、果ては、イデアへの扉を開いてくれる。」
「あなたは、プラトンではなく、アリストテレスなのね。」
演劇部の部室で、愛美と陣が、演劇について、語り合っていた。お互いに、ギリシア演劇の仮面を被っての対談である。
今回の演目で、愛美は、遊女小春を、陣は、紙屋治兵衛を演じる。
「言っておくが、私は、心中には、全く興味はない。」
普段から、愛美は、心中こそが、この世で、唯一のカタルシスであり、魂の解放であり、イデアへの道程に至る極致だと説いていた。
「近松の心中物の思想背景には、武士出身であった彼の思想と当時の殉死の思想が根底にある。と、私は思っている。そして、それは、現代の風潮とは、そぐわない。」
「心中の是非は、ともかくとして、文学的に、『心中天網島』は、良作だと、私は思います。」
両者、一歩も譲らず。戦いは、長期戦の体を示しつつあった。
「お初徳兵衛は、恋の手本となりにけり。」
「部長。」
汀間は、無理矢理、二人の間に入った。
「心中とは、心の誠を表し、生命を捧げた情死は、その極致であるとされた。無理心中は、殺人に当たり、それとは、異なる。越前君の説くものは、前者の情死のことだろう。」
「真です。」
愛美と陣は、仮面を降ろして、端座した。
「しかし、情死自体も、時の幕府は、それは幕政批判であると、御法度としたし、現代も、その賛否は、分からない。我々は、情死の是非を問うよりも、演劇の上演に、心血を注ぐべきではないかな。」
「真、その通りです。」
「分かればよろしい。」
残暑は、激しく、そして、暑苦しかった。
「愛美。」
愛美の幼なじみの、藤堂騎士が、野球帽とグローブを提げて、やって来る。
「今日、部活、早めに終わるみたいだから、一緒に帰ろうぜ。」
「厭です。」
愛美は、暑苦しいのは、嫌いである。彼女が求めるものは、魂の解放であり、イデアである。野球部の汗と涙と努力は、求めていない。もちろん、騎士の愛情もである。
「そんなこと言うなよ。帰りに、ファミレスで、パフェ奢ってやるから。じゃあな。」
騎士は、白球を追いかけに戻った。
「極楽と地獄は、この世に存在する。」
死後は、魂が解放されて、イデア界に戻る。そのような、現実で、頑張って、白球を追いかけた所で、魂は、救われないし、イデアへの扉は、開かれない。カタルシスこそ、その端緒であり、演劇は、その入口である。
「演劇の入口は、模倣。」
今日から、一週間、汀間は、個人レッスンに入る。
「今日は、フラミンゴ。明日は、カモシカ。」
一日、彼は、それになる。そのまま、それになる。どこから、誰が、どう見ても、それになりきる。そうして、テンションとモチベーションアップを図る。
「その間は、私の指示で、練習を続けます。」
陣は言う。文化祭までは、あとひと月もない。
「イデア、イデア、イデア…。」
呪文を唱えながら、愛美は、練習を続ける。台詞の暗記は、もう一昨日、済んだ。
「カタルシスと模倣は、表裏一体のものです。人間は、別の人生と次元を楽しみ、模倣し、イデアを求めようとします。そして、それは、魂の解放となり、カタルシスとなります。」
「人間の楽しみは、ストレス解消と遊びで、理想を追い求めているってことだろう?」
通学途中のファミレスで、愛美は、ストロベリーチョコレートパフェを食べていた。目の前には、騎士が座っている。
「それって、誰だって皆、同じじゃないか?」
キャラメルミルクティーパフェを、食べながら、騎士は言った。
「古代ギリシアでも、ギュムナスティケ(体育)が、身体の善を生み出すものとして、青少年の教育にされたっていうし。そもそもなんで、情死なの?」
「それは…。何故でしょうか?」
「愛美の言う情死って、魂の解放と、イデア界への扉を開けるいろいろな方法の中のひとつなんじゃないの。別にそれにこだわらなくたって。俺は、好きな人とは、年を取るまで、一緒にいたいと思うけど。」
「ごちそうさまでした。」
「カタルシスになった?」
「まあ、そうね。ありがとう。話を聞いてくれて。」
「どういたしまして。」
夕暮れの街の中は、会社員、主婦、学生、その他、諸々が、それぞれの帰る場所へと、歩き、彷徨っていた。
「続いては、演劇部の上演となります。演目は、(これなんて読むの…。)飯沼明夫監修『近松門左衛門 心中天網島』です。」
文化祭2日目の午後。演劇部の公演が始まる。上演時間は60分。所々、ストーリーテラー(演劇部2年。紅梅茜(F))による説明をはさみながら、要所要所を押さえた脚本(演劇部部長。3年。静汀間)となっている。本来、『心中天網島』は、三味線と人形による浄瑠璃の作品である。あらすじは、おさんという妻と子を持つ紙屋治兵衛が、遊女小春と恋仲になり、挙げ句の果てに、治兵衛と小春は心中(情死)するというものである。
「妓が情の底深き、是から恋の大海を、替へも干されぬ蜆川。」
作品は、上中下の3巻である。勘太郎とお末の二人を子に持ち、おさんを妻とする治兵衛は、遊女屋通いが祟り、小春という遊女と恋仲になる。妻子がありながらも、遊女に恋した治兵衛は、同じく、小春に恋する太兵衛が、治兵衛と小春の仲の他、あることないこと、世間世間に、吹聴、流言、噂をし、風聞宜しからず、世間の面目罷り成らず、治兵衛と小春は、二人で心中することを約束する。
「死神付いた耳へは、異見も道理も入るまじとは思へども。」
治兵衛のことを心配する兄の孫右衛門は、侍に変装して、小春に会う。おさんは、みすみす夫を死なせることはできないと、治兵衛と別れてくれと、小春に手紙を送る。
「女は相見互ひ事、切れぬ所を思ひ切、夫の命を頼む頼む。」
小春は、おさんとの女同士の義理を汲み、孫右衛門に、本音は、命が惜しいから、治兵衛と別れさせてほしいと頼む。それを物陰から聞いていた治兵衛は、小春をなじる。しかし、まもなく、小春は、太兵衛に身請けされることになる。あれだけ、約束した治兵衛と別れ、恋敵の太兵衛の下に行くことになった小春。太兵衛は、そのことを世間に吹聴し、治兵衛を辱めるだろう。そうなることが、分かっている小春は、太兵衛に身請けされる前に、きっと、自ら命を絶とうとするに違いない。
「請出して小春も助け、太兵衛とやらに一分立て見せて下さんせ。」
治兵衛とおさんは、そのことを察し、小春を死なせては、義理が立たぬと、衣を質に入れて、小春を身請けしようとする。
「女房子共の身の皮はぎ、其の金でおやま狂ひ。いけどう掏賊め。」
そこへ来た舅の五左衛門は、度重なる治兵衛の遊女屋通いを、誹り、なじり、無理無体に、おさんを治兵衛と離縁させ、孫と共に、実家へ、連れて帰ってしまう。
「小春は内を抜出て、互ひに手を取かはし、北へ行ふか南へか。」
妻子を失い、途方に暮れた治兵衛は、元通り、小春と心中することを決め、小春を迎えに行く。小春は、治兵衛の誘いに応じ、二人は、廓を抜け出し、町を彷徨う。
「未来はいふに及ず、今度の今度の、つつと今度の其先の世迄も夫婦ぞや。」
治兵衛と小春が、共に死に、小春と治兵衛の心中であると、お上が沙汰すれば、それでは、小春が、おさんと交わした約束も、反故になるとばかりに、今際の際の義理立てに、二人は髪切り、法師となり、更には、死に場所をも変えて、二人が流れ着いたその場所は、網島の大長寺の傍の、小川の樋(水門)の上であり、樋の上を山と見立て、治兵衛は、そこで、小春を突き刺し、狙いが外れて、苦しみ死に行く、小春を供養し、終わると、自ら、川と見立てた、樋の下へと、紐に首縊り、樋から足を踏み外し、場所と品を変えて、時を同じくして、心中した。
「直に成佛得脱の、誓ひの網島心中と、目ごとに涙をかけにけり。」
幕は閉じた。
「公演、どうでした?」
「よかったよ。」
後夜祭が終わった後、街灯と満月が照らす暗闇の中、愛美と騎士は、二人、連れ添って、帰っていた。
「情死をする人は、苦しんでいたのですね。」
「そうだな…。どうしようもなく、苦しんでいた中で、灯明の火のように、情死に、希望を見たんだろうな。」
「希望ですか…。」
「近松作の心中物の公演の後、心中ブームが起きたっていうけど、それは、おもしろ半分、遊び半分のブームっていうより、それまで、どうしようもなく、苦しんでいた人たちがいて、その人たちが、演劇の中に、やっと見つけた、苦しみから逃れる唯一の希望だったんだと思うよ。それこそ、愛美の言う、カタルシスと魂の解放みたいに。」
「実際、小春を演じてみて、私、彼女の気持ちが、分かった気がしました。」
「まあ、もともとは、妻も子どももいるのに、遊女屋なんて行く、旦那さんが原因なんだろうけどな。」
「でも、私、治兵衛さんも、本当は、やさしい人なんだと思います。江戸時代の遊女は、農村から売られて来た女性たちが、多かったと言います。だから、きっと、治兵衛さんは、小春さんの、そんな境遇を不憫に思ったのではないでしょうか。」
「そうかもな。」
「他に方法があればよかったのでしょうか。」
「例えば…?」
街灯は途切れ、満月は、雲に隠れ、暗闇の中で、二人は、立ち止まった。
「心中する人。周囲の人。それを禁止する人。近松の作品は、その中で、情死を選んだ人たちの、内面の葛藤と、安らぎを描写することで、星の数ほど、存在し、消えて行く、歴史の事象の中で、それを選択し、記述し、人間と、社会の、ありのままの姿を、映し出した。そして、それが、当時の人々に受け入れられたということなのではないでしょうか。そこには、おそらく、是非善悪はなかったのだと思います。あるのは、ただ、ありのままの、人間の姿では、なかったのでしょうか。」
「結局、どうしたらよかったのかなんて、俺たちには、分からないだろうし。」
「ただ、今回、この作品を演じられたことによって、私の心は、カタルシスと、魂の解放を経て、イデアに、また、ひとつ近づいたのだと思います。」
「夢が叶ったのかな?」
「はい。」
愛美の夢は叶った。騎士は、いつも通り、彼女を支えていた。そして、この次は、愛美は、何を夢に見るのかと思うのであった。
「私の夢は、結婚です。」
進学先の大学の演劇部で、愛美は、そう言った。その横には、同じ、大学に通う、騎士の姿があった。