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時子の瞬間(とき)

作者: 堀川忍

時子の瞬間(とき)

堀川忍 作


 

 …私には、家族しか知らない秘密があった。実は私には名前が二つあるのだ。戸籍上の名前である内山亜希子としての私は、小中高と公立の学校に在籍している普通の目立たない女生徒の一人で、「居ても居なくても誰も気付かないような…」存在でしかなかった。仮に私が登校して、その後に突然消えたとしても、決して大騒ぎになることもなく、「そう言えば、そんな女子がいたっけ…?」ぐらいの存在でしかなかったのだ。だから私は、そんな自分が大嫌いで仕方がなかった。名前が内山だったから、みんなからは「内気な内子」と呼ばれていた。特別な才能もなくさして器量も良くなかった私は、クラスの男子からも女子からも…いや、先生たちからも相手にされない大人しく目立たない存在だった。

 内山亜希子は、そうやって普通の生活をして、目立つことなくこれからも生きていくんだろうな…そうしていつの日か誰からも忘れられてしまうんだ…私は「それはそれでいい」と思っていた。普通に生きて、適当な伴侶を得て、普通の家庭で生活し、子どもを産んで育てて、そして普通に死んでく…そういう生き方を亜希子はするんだろう。ずぅっと私はそう思って生きていた…目立たず、花も実も付けずにひっそりと生きて行く。私の人生とは「そういうものなんだ」と思っていた。


 …だけど、私には「もう一つの…綾乃時子」という名前の私がいる。それは、亜希子である私とは正反対の…まるで別人格のような私だ。私が時子である瞬間、私は関西では比較的に有名な劇団に所属し、一人の女優として舞台にも立つこともあった。もちろん、まだエキストラ的な扱いでしかなかったけれど…でも、綾乃時子の私は激しく活動的で自己主張の塊のようになる。一日も早く演出家に認められて主役として舞台中央で演じられるような女優になることだけを夢見て生きている。もちろんシンデレラのようにチャンスだけを待っているのではなく、演劇という世界で実力を磨き、誰からも認められるような女優を目指していた。

 人生というものには、時々思いもよらない「分岐点」のようなものがある。私の場合「演劇」との出会いが、それだった。私が「綾乃時子」という名前と出合ったのは、些細なきっかけだった。中二の時に、芝居好きな叔父に誘われて大阪の小さなホールで、ある小劇団の生の演劇を観た時に、私は自分の中に今まで感じたことの無い衝撃を受けたのだ。その後、叔父に頼んで何度か生の舞台を観ているうちに今のアマチュア劇団「舞人まいと」の役者兼演出を手掛ける中山雅人さんと出会い「…そんなに芝居が好きならウチに入れば?」と誘われ、中山さんの一言で入団し、中山さんから「綾乃時子」という芸名を付けてもらった。鏡の前で初めて舞台用のメイクをしてもらった時、私は化粧というもので自分が別人に変身したような気がした。まるで、醜いアヒルの子が白鳥に生まれ変わったような気がした。

「君ってさぁ、素材がいいからさぁ、初めて会った時から必ずこうなるって感じていたんだよね?」

 中山さんが鏡に映った私を見て言ってくれた。…以来「内山亜希子」でしかなかった私は亜希子ではない、「綾乃時子」というもう一つの名前を持つようになった。

「芝居ってさぁ、奥が深いんだよねぇ…」

 私は、昔東京で全国的にも有名な劇団の役者だった中山さんの喋り方…というか、その東京人特有のアクセントがあまり好きにはなれなかったけど、「演劇」という世界の面白さを話す彼を尊敬し、彼の下で演劇を学ぶことに熱中した。もちろん、入団したばかりの頃の私は最初小間使いのようなことしかさせてもらえなかったのだけれど、そのことを少しも嫌だとは思わなかった。…寧ろそういう異世界に「綾乃時子」という別の名前で地道な努力を重ねる日々さえ愛しかった。上演中に役者がスムーズに演技できるように舞台上の掃除も、「いつかこんな私でもここに立ちたい!」と思うと苦痛だとは思わなかった。たとえそれが叶わなかったとしても…

一つの「舞台」という別の世界を創り出すためには、役者だけではなく、大道具や衣装などを含めた小道具を作りセッティングする人たち、更には音響や照明担当…舞台上の役者を支える黒子たち等々…とにかく一つの芝居には舞台の上で演じる役者以外に数多くのスタッフによってできているのだ。もっとも小劇団の場合はほとんど兼任するのだが…そのことを知っただけでも、演劇という世界の中に身を置いた意味があるような気がする。それはテレビや映画のドラマでも同じかもしれない。スタッフの数から言えば、テレビや映画の方が圧倒的に多いかもしれない。

だが、私は「演劇の世界」に魅かれてしまった。一度幕が上がってしまうと、降りるまで失敗の許されない生の舞台の激しさや緊張感が、まるで私を虜のようにしてしまったのだ。芝居は、役者と観客が一体となって創造する「異次元世界」のような芸術だからだ。「舞台」では同じシナリオであっても、役者の気持ちのあり方や、観客の質によって毎回異なる。その緊張感は、他のメディアでは絶対にありえない。

「舞台は、一度きりの真剣勝負なんだよ。…だからこそ我々は、そこに人生を感じる瞬間があるんだよなぁ…」

「なんとなく、分かるような気がします…」

中山さんは、時々私を夕食に誘ってくれながら時子である私に熱く語ってくれた。私は、どんなに辛い稽古でも…嫌、辛ければ辛いほど演劇の世界にのめりこまれていくような気がした。毎日学校にいる「内山亜希子」という存在の自分は殻に籠ったカタツムリのような存在だったけれど、劇団の稽古場に入ってメイクアップした瞬間から自分の本来あるべき姿になるのだ。その瞬間から、亜希子は「時子」に生まれ変わることができるのだ。


私が演劇を始めて何年かすると、私は役者綾乃時子として舞台に立たせてもらうようにもなった。台詞や演技も与えてもらえるようになった。私が所属していた劇団「舞人」は、アマチュアではあったが、関西では少しだけ有名な劇団の一つとして知られていた。そんな私が、いつの間にか「自分では、まだまだ…」と思っていたんだけれど、一人の役者として扱われるようになっていた。高校を卒業後、コンビニなどでのバイトを掛け持ちしながら劇団の練習場へ通う日々が続いていた。両親からは「大学にも行かず、ちゃんと就職もしないで、一体どうするつもりなの?」と言われていたのだけれど、無視していた。そんなある日、いつものように稽古場で発声練習をしていると中山さんから声をかけられた。

「時子…今、ちょっといいかな?」

「はぁ?…別に構いませんが…何か?」

「事務所に来てくれないかなぁ。ここじゃぁなんだし…」

 中山さんにそう言われて、私は一瞬緊張した。「何か重大なミスでもしたんだろうか?」頭の中を悪い想像が走った。事務所…と言っても、古い事務机が二つ並べられていて、机上には、劇団の電話が一台置かれていて、雑然とたくさんの書類や伝票があり、以前の舞台で使われた小道具などもごちゃごちゃに置き去りにされている。壁には、これも古い黒板があって、上演予定や様々な電話番号などのメモ書きが書かれていて、ぱっと見た目には落書きとしか思えないような感じだった。ロッカーには、古今の台本が並んでいたが、私が初めてこの劇団の事務所に来た時から「多分、誰も触ってないだろうな」と思うほどに埃まみれになっていた。中山さんは事務机の椅子に座ってぼんやりと夕刊を読んでいた。

「失礼します…」

 部屋に入ったのが私だけなのを確認するように夕刊を事務机の上に置いてから、中山さんは、まるで告白するような声で私に話し始めた。

「時子は、ここに来て何年になる?」

「えぇと…四年か五年だと思います」

「五年かぁ…歳は? いくつになった?」

「今年成人式です」

「そっかぁ。…まだ若いな」

「あのぅ…私、何かミスでもしたんでしょうか?」

「いや。時子は真面目だし、舞台に立っている君は輝いていると思う。ただ…」

 そう言うと中山さんは、遠くを眺めるように、壁に貼られた一枚のスナップ写真を見ながら言葉を続けた。それは若い頃の中山さんの舞台写真だった。

「君のご両親と会って話したんだ。君の将来のことについて色々と話したんだよ」

「ち、父や母が何て言ったのか知りませんが、私は芝居が好きなんです!…『舞人』で舞台に立って演じている瞬間が好きでたまらないんです!」

「そんなこと、最初っから分かっているよ。…でも、人間生きていくためには、生活していかなければ駄目だろう?」

「生活のためなら…バイトでも何でもして働いてやっていきます。…覚悟はできています。私は『役者綾乃時子』として生きてゆきたいんです。一生…」

「だったら、尚更『舞人』は、君の居場所じゃない!…本当に役者として生きていくつもりなら、ここを卒業しなきゃ駄目だ!」

「分かりません!…この劇団にとって私は不必要なんですか?」

「不必要なんかじゃないよ。いいかい? この『舞人』は、あくまでもアマチュアの小劇団なんだ。団員は、みんなそれぞれに自分たちの仕事や家庭を持った上で、それでも芝居が大好きだから演劇をやっている。…時子、君以外はね?」

「それは…そうですけど…」

「もし君が本気で役者として生きたいと思うなら、仕事として…つまりプロの『役者』として、真剣勝負しなくちゃ駄目だと思うんだよ」

「プロの役者…ですか?」

「もちろん、プロの役者には誰でもなれるものではないし、競争は激烈だ。多くの役者は、競争に負けて挫折してしまう…僕も『負け組』の一人だけどね?」

 そこまで話すと中山さんは、机の上に置いてあったチラシのようなものを探し出してから、私に差し出した。そこには、演劇をやっていなくても知っている人が多く、テレビなどでも紹介されるほどに有名な劇団の次年度公演予定されている演目の案内が紹介されていた。テレビドラマなどでも有名な役者がたくさん出演する豪華キャストの名前が紹介されていた。ヒロインは星野麗華という元宝塚歌劇のトップスターだ。私が自分には関係ないと思っていたチラシにキョトンとしていると、中山さんが自分の方へチラシを向けて話し始めた。

「昨夜、この芝居の演出を依頼されている安中から電話があったんだよ」

「ヤスナカって、あの有名な安中忠久さんですか?」

「そうだ。僕がまだ東京で芝居やっていた頃の親友だったんだ。アンナカヤマなんて徒名を付けられる程に仲良くて、早稲田の頃から『将来二人で日本の演劇界を変えよう!』なんて馬鹿な夢を朝まで飲んでは語り合ったものさ」

「私、お二人が親友だったなんて…知りませんでした」

「誰にも話していないから、知らなくて当然だよ。もう十年以上も昔のことだから…」

「…それで、安中さんに何を言われたんですか?」

「あぁ…『今度の舞台で一緒に組まないか?』って、『役者でも演出でもいいから助けてくれないか?』って、言われたんだ」

「す、凄い話じゃないですかぁ!…今や日本を代表するような安中忠久さんと一緒に仕事ができるなんて…」

「僕がOKしていればね?…だが、断ったよ」

「えっ、断った?…どうして断ったんですか? ビックチャンスじゃないですか!」

「理由は…今は言えない。僕と安中の問題だから…それより、彼に提案したんだよ?」

「何を…ですか?」

「大阪に面白い役者の卵がいるんだが、一度見てやってくれないかってね?」

「面白い役者って…?」

「名前を訊かれたから答えたよ。『綾乃時子っていう女優だ』って…」

「えっ?」

「誤解しないで欲しい。僕が口利きしたからって、仮に安中がそれを聞いたからって、君がシンデレラのように一気に一流の女優になれるわけじゃない。演劇の世界は、そんなに甘くない。名前だけで役が貰えるような女優になるためには、人並み以上の努力をして、一流の演技ができるようにならなければ、本物にはなれないよ?」

「あのぅ…中山さんは、私に何が言いたいんですか?」

「来年公演予定の舞台の最終オーディションが来月東京で行われることになっているんだ。時子…お前が本気で役者として生きていきたいなら、受けてみる気はないか?」

「私が…ですか?」

「さっき君は、生活のためなら…バイトでも何でもして働いてやっていきます。…覚悟はできています。私は『女優綾乃時子』として生きてゆきたいんです。一生…と言ったね?その言葉が真実なら、大阪で両親に守られた形で内山亜希子という自分を隠れ蓑にして中途半端に演劇を続けるつもりはないんだろう?」

「はい」

「だったら、前へ進むために退路を断つんだ。未知で不安かもしれないけど、新しい世界は広がらないような気がするんだ。…まぁ、自分の人生なんだから、しっかりと考えて答えを出せばいい」


 事務所を出た後、私はその日稽古場でどんな練習をしたのか覚えてはいなかった。気づいたらその日の練習を終えて、最終に近いいつもの電車に乗っていた。十一時過ぎの電車はそんなには混んではいない。酔っ払いばかりのオッサンが酒臭い匂いで、時々若い私に絡もうとしていたが、私の顔を見ると「なんや、お前は?…生きとんのんか?」と、うんざりしたような顔で私から離れていくのだった。何故なら稽古場を出た私は、綾乃時子ではなく、暗い目をした内山亜希子に戻っていたからだ。亜希子に戻ってしまった私は、女としての魅力どころか、寧ろ存在感の無い物体…「生きているのか?」と相手に思わせるような表情をしているらしい。電車に揺られながら窓に映った顔は、亜希子そのものだった。私は「自分は二重人格なんじゃないかしら?」と思うことが時々ある。自分が綾乃時子である時は、そんなふうには考えないのだけれど…

「もしかしたら私は、本当は自分が亜希子であって、ただ『綾乃時子』という仮面を被っているだけで、自分のコンプレックスから逃げているだけなのかもしれない…」

 中山さんから言われた「退路を断つんだ!」という言葉が頭の中でリフレインしていた。確かに、私は内山亜希子のままでいれば、決して目立つことはないけれど、それなりに生活に困ることなく生きてゆける。親が言うように、大学か専門学校にでも入って適当な資格を取れば適当に就職できて、自立だってできるだろう。…それでも演劇が好きなら、今の「舞人」を続ければいい。他の団員も同じような志しで自立した生活を生きながら舞台に立っているのだから…

 それなのに私は、亜希子を捨てることもしないで、時子として舞台に立っている。中山さんに言われたように中途半端なのだ。プロの役者を本気で目指しているようなつもりでいたのだけれど、心のどこかで「プロの厳しさ」から逃れようとしていたのかもしれない。もしかしたら、中山さんは、そんな私に苛立ちを感じて「あんなこと」を言ったのかもしれない。不甲斐ない私の背中を押すために…

 自宅に戻った私は、風呂に入ってから自室の鏡台に向かってからもずっと考えていた。頭の中で答は出ていたのだけれど、両親を説得するだけの言葉と勇気が持てていなかったからだ。

「どうせ反対されるに決まっている…」と内気な亜希子が鏡の中で私に呟いた…でも、同時に「退路を断つんだ。未知で不安かもしれないけど、新しい世界は広がらないような気がするんだ。…まぁ、自分の人生なんだから、しっかりと考えて答えを出せばいい」という中山さんの言葉が何度も過ぎっていた。その夜私は一睡もできず朝を迎えた。


朝、私がリビングに行くと両親が、珍しく二人そろって朝食を摂っていた。向かい合ってトーストを食べている父に、私は立ったまま話しかけた。

「話があるんだけど…」

私のために食パンにブルーベリージャムをぬり始めていた母が手を止めて少し驚いたように私を見上げた。

「朝食よりも、大切な話なのか?」

父が読みかけていた朝刊から目を離して、ジョークのように笑顔をくれた。でも、私がいつになく真剣な目をしていたので、「…じゃあ、そこに座りなさい」と私がいつも座っている椅子を見た。私は、いつもの場所に座った。それは父の正面で、母の隣になっていた。普段なら、必ず誰かが欠けているテーブルついてみると、不思議な気分だった。たいていの場合、父は朝も早く夜は遅かった。小学校の頃、何かの用事で母が不在の時は、父がいてくれて、「男の手料理だ!」と苦笑しながら、決して「美味しい」とは思えない料理を食べていたような気がする。…やがて中学生になると、母も仕事を始めたので誰もいないリビングで一人食事をすることが多くなってきた。そして、演劇を始めた時からは、私が一番遅くなってしまった。…孤食が家族の日常になっていた。それなのに今朝は家族全員…と言っても三人だけど、そろっていた。私は、昨夜考え続けて出した「答え」を、できるだけ平静に話し始めた。

「実は、これから先のことなんだけど…」

 私は、昨日中山さんから言われた話を全部話し、「東京で一人暮らしをしたい」という決心を素直に打ち明けた。話しをしながら、私はいつの間にか亜希子ではなく時子として必死に両親に向き合っている自分に驚いていた。それは、両親も同じだっただろうと思う。普段なら、話しの途中でも割り込んでくる母も私の話す勢いに圧倒されたように私を見ているだけだった。私が話し終わってからも、母は戸惑ったように父の顔を見ているばかりだった。しばらくの沈黙の後で父がゆっくりと口を開いた。

「お前の人生なんだから、私たちが口を出すべきではないのかもしれないが…」

 父はそこで、言葉を止めて静かに天井を見上げるように、何か考えているようだった。私は父が話すのをじっと待った。自分が言うべきことは、全部話したからだ。

「…親として、個人的に意見を言わせてもらえるなら、…心配なんだよ」

「…ごめんなさい。勝手に我がままばかり言って…」

 私の頬に一筋の涙が流れた。いつもならここで母が「冗談じゃないわ!」って怒り出すのだが、今朝は何も言わなかった。下を向いて涙を拭いていると、ハンカチを差し出して「そんなことじゃぁ、あんたの覚悟を疑ってしまうでしょう?」そう言う母を見上げると、母も涙を流していた。

「…本当に、ごめんなさい」

「貴方が自分で決めた道なんだから、お父さんも母さんも応援するわ。…でもね?…一つだけ約束して欲しいのよ…?」

「何?」

「演劇の世界なんて、そんなに簡単じゃぁない。仮に東京で上手くいかなくなってしまったとしても、自棄やけにならないで、帰って来なさい。…これが中山さんから話を聞いた時の条件だ。自分のしていることに疑問を感じたら、必ず帰って来なさい…それだけは守って欲しいんだ」

「…うん。分かった」

そうだったんだ。中山さんは「退路を断て」って言ったけど、やっぱりそれは私の背中を押すためであって、「決して自分を見失ってはいけない」と言いたかったんだ。私が本気かどうかを父も母も確かめたかったんだ。…多分、私も母親になれば分かるんだろう。自分の子どもだからこそ、心配もするし応援もしてくれる。…私は涙を拭いて両親に頭を下げた。

「私は…どこまでやれるか分らないけど…お父さんとお母さんの娘に生まれて幸せです」

「後悔だけはしないでね?」

「はい。綾乃時子として…頑張ります!」

「内山亜希子でもあることを忘れるんじゃない?」



新大阪駅で新幹線に乗り込む時、両親と中山さんに手を振った。中山さんは優しく声をかけてくれた。

「安中は、厳しいけど、いい奴だから…アイツを乗り越える気持ちで頑張れ!」

「はい。じゃぁ、行って来ます!」

動き始めた新幹線の窓から三人を見たら、父が泣いていた。泣いている父の姿が潤んでかすんできたのは、きっと…きっと、私も泣いているんだと思った。「つくづく親不孝な娘だなぁ…」私は指定座席に座って、頬を伝う涙を拭くこともしないで、今までの日々を何度も復習していた。京都を過ぎると急に睡魔が襲ってきてそのまま窓にもたれて眠ってしまったのだった。

次に私が目を覚ました時には、静岡だったんだろう。左側の窓に美しい富士山が見えた。自分が長い間眠っていたんだと思って時計を見たら、お昼になっていた。新大阪駅を出たのが十時過ぎだから、「二時間も寝ていたんだ!」と、少し恥ずかしくなって周囲を見たら、当然のことだけど、誰も私のことを笑ってはいなかった。私は、出発する前に中山さんからもらったメモをポーチから出して安中さんの主催する劇団「希想人」の事務所がある場所の住所と、電話番号を再度確認した。私は、車内販売の女性からサンドイッチと珈琲を買い求めて昼食を済ませてから、ボイスレコーダーに入れていた好きな音楽をイヤホンで聞きながら、東京での生活を想像しようとしてみたが、初めての「一人暮らし」なので、何がどうなるのか考えようがなかった。あきらめて私はまた寝ることにした。

 夢の中で、私は華やかな舞台のセンターで主役として演じ、歌い、踊り続けていたのだった。まるでシンデレラのように美しく着飾って…いつまでも、いつまでも鳴りやまない拍手喝さいの舞台の上で…



中山さんから教えられた劇団「希想人」の事務所は、都心部から少し離れてはいたけど、山手線の駅から近くて迷うことはなかった。五階建ての雑居ビルの二階が事務所で、三階が稽古場を兼ねた舞台になっていた。私が中山さんからの紹介状を受付に出すと、内線電話で安中さんを呼び出してくれた。私が椅子に腰かけて待っていると、階段をステップするように安中さんが駆け下りてきた。

「君が時子ちゃんだね?…あのさぁ、今ちょうど練習中だからさぁ。良かったら見学に来ない?」

「えっ?…あのぅ…」

「遊びに来たんじゃないだろう?…だったらさぁ、少しの時間も無駄にしないで、現場の雰囲気に慣れなきゃ…ね?」

「でも…いいんですか?」

「駄目だよ?…でも、君は中山の紹介だから…特別さ」

「特別って…私…本当にいいんですか?」

「あぁ…勘違いしないでね?…舞台の上では、特別扱いなんてしないよ。…たとえ中山の紹介でも…ね?」

「はい。ありがとうございます!」

私は安中さんの後について、三階の稽古場に行った。中に入ると、何人かの役者が発声練習や、ダンスの振り付けなどをしていた。正直言って動きや声の出し方が半端なくて正直に「凄い!」と思った。

「冴子!…見学者に気を取られていたら、いい役なんて取れないぞ!…本気になれないなら、帰れ!」

「す、すみません!」

綺麗に踊っていた「冴子」と呼ばれたポニーテールの女性がそれまでよりも、激しくしなやかに踊り始めた。どの役者も、安中さんの前で必死に演技の練習をしていた。その練習は、アラームが鳴るまで続けられた。どうやら、何分間かの練習とインターバルの繰り返しが続けられるらしい。

「はい。みんな休憩。…ちょっと集まってくれないか?」

みんなが足早に集まって来ると、安中さんが私を前へ出して紹介してくれた。

「明日から、みんなと同じ仲間になる新人だ。えぇと名前は…」

「あっ、初めまして。綾乃時子と言います。よろしくお願いします!」

「綾乃君は、今朝大阪から出てきたばかりなので、いろいろ分からないことがあるだろうから、教えてやってくれ」

みんなが拍手して迎えてくれた。…いや、正確には先程「冴子」と呼ばれた女性以外だった。冴子さんがスッと立ち上がって、右手を差し出した。

「本条冴子。…よろしく」

「はい。よろしくお願いします!」

私も手を出して握手しようとすると、冴子さんが「パシッ!」と、私の右手を払った。私は慌てて冴子さんを見た。とても怖い目をしていた。

「何をやってるのよ!…私と握手がしたいなら、その汚れた手を洗ってからにしてちょうだい!」

「あっ、あぁ…ごめんなさい」

「冴子…自分の仲間に敬意を払えないなら…」

「安中さん。この子が本当の仲間なのかどうかも分からないのに、私は敬意を払えません!」

「中山の推薦…でもかい?」

「えぇっ?…中山って…まさか、あの中山雅人さんの紹介なんですか?」

「…あのぅ、中山さんが…何か?」

 私は中山さんが東京で活躍していたことは知っていたけど、何か冴子さんと関係があるんだろうかと思った。それまでの怖い目が一転して私を恐れるような眼差しに変わったからだ。

「あのぅ、私が何か…?」

 いつもの亜希子に戻ってしまった私の右手を握って冴子さんが薄笑みを浮かべながら言った。

「さっきは、ごめんなさい。よろしくね…」

 そう言うと冴子さんはクルッとふり向いて稽古場を出て行った。後に残った団員は「しょうがないなぁ…」と言う感じで顔を見合わせていた。

「あいつは昔からあぁいう奴なんだ。許してやってくれ」

「いえ、許すも何も…」

 安中さんの言葉に私が俯いていると、安中さんが、明るく声をかけてくれた。

「さぁ、それじゃぁ一度中山が紹介してくれた綾乃時子君の実力を見せてもらおうかな?…とりあえず、舞台の上手から下手へ歩いてみてくれないか?」

「えっ?」

 ・・・・・・・・・・・・

「ビックリしたでしょう。いきなり『演技してみろ』なんて言われて…?」

 町子さんが、チュー杯を飲んでから言ってくれた。

「はい…東京駅から直行してきたばっかりだったんで…ちょっと、でもただ歩いただけなんで…」

 その日の練習が終わって、劇団員の仲間が夕食を兼ねて私の歓迎会をしてくれた。みんなが自己紹介してくれたんだけれど、全員の名前を覚えることは不可能だった。一番気さくで二つ年上の長谷町子というボーイッシュな彼女の名前はすぐに覚えられた。冴子さんのような美人というよりも可愛い感じだった。

「私は長谷町子…みんなからは『川無し』って呼ばれているわ」

「川無し?…どうしてですか?」

「貴方『サザエさん』知ってるでしょう?」

「ええ。小さい頃は毎週テレビで観てました」

「じゃぁ、作者の名前は?」

「作者?」

 私は昔、中学の修学旅行で東京へ来た時に『サザエさん』の作者の美術館を見学したことを必死に思い出そうとしていた。「確か世田谷区の…」

「あっ、思い出した!…『長谷川町子美術館』だ!」

 私が突然大きな声を出したので、みんなが「シッ!」人差し指を口に当てた。私が慌てて口を押さえると、町子さんが笑った。

「長谷川町子さんから川という字を取ると…?」

「えっ?…あぁ、長谷町子…だから『川無し』なんですか?」

「そう…だから『川無し』なの。子どもの頃からずっと言われてたわ」

「本名なんですか?…どうして芸名を付けないんですか?」

「安中さんが、『面白い名前だねぇ?…芸名もそのままの方がいい』って言われたのよ?…貴方の本名は?」

「内山亜希子…です」

私が本名を名乗ると、町子さんが不思議そうな顔で私を見て言った。

「内山亜希子かぁ…私は素敵な名前だと思うけどなぁ…」

「私…嫌だったんです。みんなから『内気な内子』って言われていたし…」

「私は、関係ないと思うけどなぁ…」

「私は…『綾乃時子』でいたいんです!」

私が涙声で意地を張るように言うと、町子さんが慌てて場を繕うように私の肩に手を当てて言ってくれた。

「ごめん、ごめん、貴方をからかうつもりで言ったんじゃないわ。もう二度と言わないから…」

「ごめんなさい…私…つい」

「いいのよ。…それよりも、貴方、住むとこはあるの?」

私は…東京駅から直行して来たので、住む場所どころか今夜眠る場所も何も決まっていないことに気づいた。私がそのことを言うと、その場にいた団員が笑い出した。

「…まったく、時子ちゃんは一途っていうか、無鉄砲だなぁ…!」

「すみません…私、一度決めちゃうと、後先のことを考えなくて…」

「本当にしょうがないなぁ。…もし、行くとこないなら、私の部屋に来ない?…シェアしていた子が、名古屋に帰っちゃったから空いている部屋があるんだけど…」

町子さんが、今日会ったばかりの私なのに、気軽に一緒に住むとこを提案してくれた。「こんなに簡単に気持ちを寄せてくれてもいいの?」と逆に疑ってしまうほどだった。

「えっ…でも、いいんですか?」

「あぁっ!…町子ちゃん、ズルい!…抜け駆けなんてズルいでしょう?」

「私は、部屋が空いているって、誘っただけよ?」

「それなら時子ちゃん、私のアパートの隣の部屋も空いているわよ?…大家さんもいい人だしさぁ?」

「あっ、あのぅ…皆さん、どうして私なんかに優しいんですか?」

「仲間だから…だよ?…僕だって男じゃなければ、君を誘っているよ?」

「…こんな私なのに?」

私が今にも泣き出しそうに俯くと、山本一平と名乗ったパントマイムが得意な男性…多分三十歳は超えているだろう…が、ビールを飲みながら笑った。

「東京の印象って、『無関心』だと思っていたんじゃないかい?…僕も青森から出てきた時には、そう思っていたんだ。でもさぁ…本当は違うんだよ。みんな本当は寂しくて孤独な本音を隠して生きている。本当は誰だって仲良くなりたいんだと思う。…でも、騙されるのが怖いから、みんな無関心なふりをして生きている…多分、そういうことだと思うよ?」

「相変わらず、一平さんの説明って難しいなぁ…」

相葉愛梨という、多分年下の可愛い子がウーロン茶を口に含みながら呆れたような顔で言った。すると、一平さんが少しムッとした顔をした。

「愛梨ちゃんみたいな子どもには、多分、分からないさ」

「私は、もう子どもなんかじゃぁ、ありません!」

「ちょ、ちょっと~。話が脱線しているわ!…今は、時子ちゃんの住む部屋をどうするかってことでしょう?…で、肝心の時子ちゃんは、どうしたいの?」

「そうですねぇ…私は、家財道具も何もないから…」

「当然よね。…これで決まりね。うちなら、すぐに生活できるもん!」

「…よろしくお願いします」

「良かったね?…町っちゃん。男なんか連れ込んじゃ駄目だよ?」

「大丈夫よ。私の恋人は芝居なんだから…!」

「それじゃあ、話がまとまったところで、乾杯しようぜ!」


私は、最初に声をかけてくれた長谷町子さんの部屋で生活をすることに決めた。町子さんの住む部屋は事務所からも電車で二駅、駅前の商店街の人も気さくでいい人ばかりだった。自分が想像していた東京のイメージとだいぶ違っている、出発だった。

案内された部屋は商店街を抜けた路地に面した比較的新しい二階建ての女性専用のアパートだった。二つの個室と着替えや食事などをする共用の部屋があり、バストイレもあるし、小綺麗に整頓されている感じの2DKだったが、町子さんの部屋の机の上だけは様々な台本や演劇に関する書籍が山積みになっていた。

「汚い部屋で申し訳ないんだけど、この机の上だけは勝手に触らないで欲しいの、後…時子の部屋は隣にあるから、好きなようにしていいからね?…食事は、自分で作ってもいいけど、私が作ったので良ければ朝の七時開始で八時までにして欲しいの。慣れてきたら交代制ね?…洗濯とか買い物なんかは、追々話していくわ。…何か質問ある?」

「いえ、特には…」

「あっ、そうだった。忘れていたけど、私…時々寝言を言うらしいけど、これだけは自分でコントロールできないから、許してね?」

「寝言…ですか?」

「うん。台本をもらうと、練習でセリフを寝言で言っちゃうらしいのよ。『貴方のためなら、私は喜んで死ねます!』…みたいな?」

「あぁ…それなら、私一度寝ると完全熟睡しちゃうから、多分大丈夫です」

「良かった…じゃぁ、もう寝る?」

「あのぅ…一つだけ聞いてもいいですか?」

「何?」

「どうして、皆さんはこんなに優しいんですか?」

「貴方を仲間だと認めたから…って言ったじゃない?」

「でも…今日会ったばかりなのに?」

「私たちは、たとえ貴方が中山雅人さんからの紹介だとしても、貴方の何も知らないわ。…でも、東京駅から直行してきた貴方の演技を見せてもらって『この人は、凄い才能があるかもしれない』…そう思ったの。貴方となら、何か新しい舞台が作れるんじゃないかなって…それだけよ?」

「…私は、ただ舞台の上手から下手へ歩いただけですよ?」

「…そう、貴方はただ歩いただけ。何も考えないで自然に歩いた。あの時、貴方が『上手く歩こう』なんて変に自分を着飾って歩いていたとしたら、きっと貴方は、今頃ネットカフェかどこかの安宿にいた筈よ?」

「意味が分かりません…」

「私たちは貴方が持っている才能っていうか、素材の素晴らしさに気づいたのよ。まぁ、そのことに一番最初に気づいた冴子さんは負けたけどね?」

「本条冴子さんが…?」

「安中さん以外に劇団で唯一テレビからの出演オファーがある彼女が、初対面の人に自分の方から右手を差し出したのは、貴方が初めてなのよ?」

「…で、でも、本条さんは怒って帰られましたよ?」

「嫉妬したのよ多分、貴方が稽古場に入って来た瞬間に、何かを感じたんでしょう。だから冴子さんは安中さんに注意された…そして貴方が『中山さんからの紹介だ』って聞いたから…まぁ、詳しいことは自分で確かめるしかないわ。…それよりも、明日からいろいろ頑張んなきゃいけないんだから、もう寝ましょう?」


 私に与えられた部屋は、綺麗に片づけられていたし、ベッド机も町子さんのとお揃いだと思われるのが置かれていた。それに多分前の住んでいた女性のよほど趣味が良かったのか、東山魁夷のレプリカが飾られていて、「お洒落だ!」と思った。前に町子さんと一緒に暮らしていた女性のことは何も知らなかったけれど、きっとセンスがいい女性だったんだろうと思った。

「まぁ、いいか。とにかく疲れたから眠ろう!」

 私が、普段なら芝居以外ではしない薄めのメイクを落としていると突然私の携帯が鳴った。「母だ!」と思ったが予想外の相手だった。

「あっ、もしもし時子ちゃん?…安中だけどさ。今、どこにいるの?」

「や、安中さんですか?…昼間はありがとうございました!」

「そんなことは、どうでもいいんだ。今どこにいるのか聞いてるんだよ?」

「えぇと、えぇと…」

 私が驚きのあまり、しどろもどろになっていると、安中さんが焦ったように早口で言った。

「東京タワーでも、スカイツリーでも、六本木ヒルズでも何でもいいから、目印になるものは見えないかな?…すぐに車で迎えに行くから…!」

「あっ、あのぅ…私なら大丈夫です」

「何が大丈夫なものか!…君にもしものことがあったら、君のご両親や中山に対して合わせる顔がないじゃないか!」

「いえ、本当に大丈夫なんです。今、長谷町子さんの部屋にいます」

「はぁ?…町子の部屋に?…本当かい?」

「はい。皆さんが歓迎会をしてくださって、成り行きから町子さんと同居させてもらうことになりました!」

「本当なんだね?…あぁ良かったぁ、どっかのネットカフェにでもいるんじゃないかって心配したよ。劇団の連中には電話がつながんなくて…本当に焦ったよ。でも、町子の部屋だと安心だ」

「心配をおかけして申し訳ございませんでした…」

「いや、こっちこそ、いきなり上京してすぐに『演じてみろ!』なんて無茶振りしちゃって、すまなかった」

「いいえ。安中さんが私に演技をさせてくれたおかげで町子さんたちが、私を仲間だと認めて下さったんです。本当にありがとうございました!」

「じゃぁ、もう夜も遅いからゆっくり眠るといい。近いうちに僕の家にも遊びに来るといい。君に会いたがっている人がいるから…」

「えっ?…誰ですか?」

「お休み…」

 私は、その夜なかなか寝付けなかった。たくさんの出来事があって、自分の中で消化不良を起こしたような気分…いや、違うな。今まで気づかなかった沢山の人たちへ感謝の気持ちで胸の中の水源が溢れてしまいそうな気分で、何度繰り返しても終わらない「ありがとう」の言葉の中に埋没してしまいそうな感じだった。父と母へ、中山さんや安中さん、そして多くの仲間たちへ…

「…でも」

 明日からは、そんな呑気なことも言っていられないような、辛く厳しい道が続くんだろうな。「演劇」という激しい競争社会の中で私は生きて行くことを選んだのだから…私は溢れ出る涙を止めることができなかった。

「今夜が最後ね。…もう泣くもんか!」私は、自分に言い聞かせるように呟いて目を閉じたのだった。

 ・・・・・・・・・・・・

 雨が降っている…それも激しい雨だ。いつまでも止まない激しい水音が私を悲しいほどに打ち続けていた…

「…夢?」

 私は目覚めた。「嫌な夢を見たな」…そう思って起き上がると、外は明るいのに、何故か「ジャー」っと水音が続いていたのだ。「…そうか、だからあんな夢を見たんだわ。でも、一体何の音なの?」激しい水音に混じって幽かなハミングが聞こえてきた。

「…えぇと、私は?」

 ベッドに腰掛けて辺りを確認するように眺めていると、一体自分がどこにいるのか分からないような気になった。自分がまだ夢の中にいるような不思議な浮揚感に包まれていると、小さく部屋をノックする音がして、返事をすると見覚えのある笑顔が「おはよう!」と声をかけてくれた。

「あぁ、町子さん。おはようございます。随分早いんですね?」

「もしかして起こしちゃったぁ?…気持ちが悪いからシャワーを浴びてたの」

「いつも朝にシャワーを浴びるんですかぁ?」

「いいえ。昨夜は遅かったから、メイクだけ落としたんだけど、どうもスッキリしなくってさぁ…それで『エイッ!』って浴びちゃったぁ。…ごめんね?」

「ううん。私も浴びちゃおうかな、シャワー!」

「うん。気持ちいいわよ!」

 私がシャワーを浴び終えると、テーブルの上にはハムエッグとフレンチトースト、それにホットミルクが用意されていた。まるで、本当の姉のような気遣いが嬉しかった。朝食後に「今日は、練習も仕事もオフだから…東京案内でもしましょうか?」と言われたけれど、さすがに断って「自分で探検してみます!」と笑顔を見せることができた。町子さんは、「迷ったり、何か困った時は、すぐに連絡するのよ?」と言ってくれた。

 私は当てもなく近所を散歩した。最初は駅までの道を歩き、それからアパートの周辺をウロウロした。「東京」という大都会のイメージとは違って人の多さはと喋り方の違いはともかく、それまで住んでいた関西の町とは変わりなく思えてホッとした。…どのくらい歩いたのか分からないが、少し疲れてきたのでどこかで休憩しようと思ったら、ちょうどいい所に公園があった。少し寂れていて、遊具も少ないがベンチがあって、休憩するにはうってつけだと思い中に入った。

ポプラやモクレンが植えられた静かな公園の中では、赤ちゃんをバギーに乗せたママたちが談笑していた。「子どもたちがいないなぁ…?」と思ってよく考えてみれば平日の午前中だから、みんな学校に行っている時間なんだと気づいた。

「…あのぅ、ここ座ってもいいですか?」

 日差しを避けるようなベンチに座っていた老人に話しかけた。老人は私の顔を見上げてから「どうぞ」と言うように側に置いてあった荷物を自分の方へ引き寄せて私の座るスペースを作ってくれた。

「すみません…」 

私は隣に座って深呼吸をした。老人は黙って静かにラジオでも聴いている感じだったので、私も何も言わず持ってきたボイスレコーダーで以前中山さんが話してくれた「演技と間合いについて」のことを聴いてみることにした。中山さんは、演技指導の他にも、「演劇」について、役者としてのあり方など、基本的なことも私に教えてくれた。そんな時、私は「録音してもいいですか?」と、ボイスレコーダーに記録していた。自分が役者として悩んだ時に、いつも中山さんの声が私を励ましていくたのだ。…遠く離れた今も、…昨日まで一緒だったんだけど…ずっと先になっても、きっと私を励ましてくれる。「だって私は…」私は、その先のことを考えないように、思考にブレーキをかけてその場で立ち上がってしまった。

「お嬢さん、どうかしたのかい?」

突然立ち上がった私に驚いたように、老人が私に話しかけてきた。

「す、すみません!…お爺さんを驚かすつもりはなかったんですが…」

「…まるで、離れ離れになった恋人のことを思い出したような勢いじゃったな」

「…分かるんですかぁ?」

「…まぁな…この年になると、大体の見当がつくものじゃよ。…ズバリかな?」

「半分は当たっているけど…半分はハズレです」

「本当は、好きだけど…好きだなっちゃったぁ駄目な相手かな?」

「…失礼ですが、貴方は?」

「ただの老人さ…娘夫婦に気兼ねして、毎日この公園のこのベンチで時間を潰しているだけの…老いぼれジジィさ」

「私と、どこかでお会いしましたっけ?」

「…いいや、ワシはお前さんなんか知らんよ?」

「でも…何でも分かっているみたいで…なんか怖いです…」

「別にお前さんの素行調査をやっているわけじゃない。…思ったことを言っただけじゃ」

 私が、そのお爺さんと話していると、公園の入り口に幼稚園児ぐらいの男の子と手をつないだ上品そうな女性が…多分親子なんだろう…立っていた。

「銀ジィ!…そろそろお昼だよう!」

「おぉ、もうそんな時間かぁ…」

老人が軽く手を上げて「ヨイコラショ」と、立ち上がったので私も立ち上がり、多分お嫁さんだと思われる女性に頭を下げた。

「世の中には、いろんな人がいるんだな…」

そう思っていると、老人が振り返って私に言った。

「大雨でも降らない限り、毎日ここにおるから、また会いたいもんじゃな?」

「はい。東京に来たばかりなので、いろいろ分からないことを教えてください!」

「今時の若者にしては、随分変わった子じゃな…?」

そう言いながら、老人は迎えに来た親子の方へゆっくりと歩いて行った。私と「銀ジィ」との初めての出会いだった。


 私が町子さんの部屋に戻ると、昼食が用意されていた。食事を終えると、町子さんが着替えをしながら言った。

「さぁ、食事が済んだら時子も着替えてね。出かけるから…」

「出かけるって、どこへ?」

「仕事よ。もしかして有り金、使い切るまで働かないつもりなの?」

「いえ、どっかのコンビニで適当にアルバイトでもしようかなって、思ってました」

「駄目よ。そんなんじゃ、演劇のプロになるつもりなら、何か芝居に関係する仕事をしなきゃ…そうは思わない?」

「…でも、そんな仕事ってあるんですかぁ?」

「私がやっている芸能プロダクションで求人しているみたいだから、行ってみましょう。まぁ、以前の同居人の後任だけどね?」

「げ、芸能プロダクションですかぁ?」

「芸能プロダクションって言ったって、ピンキリよ。…ほらデパートの屋上なんかでやってるヒーローショーとか、駅前でティッシュやチラシなんかも配ったりするの…イベント屋みたいなもんかな。でも運が良ければコミュニティーラジオなんかのレポーターなんかもさせてもらえるかもよ…?」

「あのぅ、前にここに住んでいらした方ってどんな女性なんですか?」

「女性?…女性だなんて、私一言も言ってないじゃない。田神伸夫…戸籍上はれっきとした男よ?」

「ええっ?…男?…でも、このアパートは女性専用では?」

「だから、戸籍上って言ったじゃないの。いわゆるトランスジェンダーってやつで、田神伸子って名乗っていたわ」

「まるで、流行りのテレビドラマみたいですね?」

「観た目だけで人を判断してはいけないわ。特にこういう世界では…」

「…で、伸夫さんは、どうして名古屋なんかに?」

「親に『そういう自分』を認めてもらえなくて、東京でファッションモデルなんかやっていたんだけど、父親が死んでしまって会社の跡継ぎになるために帰ったってわけ。…最後まで『帰りたくない!』ってごねてたけどね?」

「あのぅ…つかぬことを聞くようだけど、伸夫さんと町子さんは…?」

「はぁ?…別にぃ、ただの元同居人。それ以上でも、それ以下でもないわ」

「だって…男の人と同じ部屋で暮らしてたんでしょう?」

「私は…伸子のことを男として見ていなかったし、多分彼女もそうだったと思うわ。それよりも…あぁ、もう約束の時間に遅れるじゃない。行くの、行かないの?」

「い、行きますぅ!」

「だったら五分以内で着替えなさい。ただし、普段着、メイクは薄めで」

「は~い」


 私が町子さんに連れて行かれたのは、劇団の近くの雑居ビルの三階にある小さな事務所で入り口には「NKプロモーション」と小さく書かれていた。簡単な面接の後で川尻と名乗った男性が「長谷さんの紹介なら…」と言い。すぐ採用されて、具体的な仕事の内容と予定などの説明を受けた。

「明後日から、渋谷のデパートでの『ナイス・ハニー』のショーがあるんだけど…君、行ける?」

「えぇと…いきなりショーですかぁ?」

「ショーって言っても、十分足らずの簡単なコスプレショーだし、主役をやる筈だった伸子が里帰りして、穴が開いて困っていたんだよ。町子さんも脇で出るから心配しなくてもいいと思うよ?」

「分かりました。時子なら大丈夫です。私がなんとかしますから!」

 突然、それまで黙って見ていた町子さんが言ったので、思わず私もOKしてしまった。でも、その後で急に川尻さんが「じゃぁ脱いで」と言ったので、さすがに困惑していると、町子さんも川尻さんも声を上げて笑った。

「あのねぇ、僕たちは君の裸が見たいんじゃないの。衣装の採寸をしたいだけさ。僕みたいな男の前で脱ぎたくないなら、別室で女性スタッフに測ってもらってもいいんだよ?」


 こうして、私は新しい仕事を決めて、劇団にも正式に入団させてもらった。劇団では、次年度の新作上演作品『終わりなき明日へ…』のオーディションに向けて厳しい練習が続き、仕事にコスプレショーなどが続いていた。子役の頃から注目されていた本条冴子さんの情熱的な演技を見ていると、感動というよりも、自分の中にある「惨めさ」で押し潰されそうになっていた。

「私がデパートの屋上でアホなショーをやっている間も、冴子さんは本来自分がいるべき舞台へ向かって練習しているんだろうな…」

 そう思うと何故か口惜しい気持ちで落ち込んでしまうのだった。そんな風に落ち込んで冴子さんを眺めながらため息をついている私に一平さんが声をかけてくれた。

「成りたい自分に成ることを諦めてしまったら、本当の自分には決してなれないよ…?」

「えっ?」

「君は、『本条冴子が羨ましいなぁ…』って思っているのかもしれないけど、冴子は、冴子なりに必死なんだよ?」

「どういうことですかぁ?」

「青山瞳って知っているよね?」

「ええ、テレビや映画で活躍している大女優ですから…」

「そんな大女優の一人娘だとしたら、きっと周りからも羨望の眼差しで見られて辛いだろうね?」

「じゃぁ、冴子さんってまさか…?」

「親が大女優だから…『娘も親の七光りで女優になれた』なんて、言われたくないから、名前を隠して、絶対に公表しないことを条件に、ここに来たんだってさ」

「どうしてそのことを一平さんはご存知なんですか?」

「聞いちゃったのさ。彼女が事務所で安中さんと話していたのを…偶然廊下で」

「…でも、家に帰ったらバレちゃうでしょう?」

「喧嘩して家出したらしいよ。簡単な方法よりも、敢えて仕送りもしてもらわないで、大学も中退して、深夜に牛丼屋でバイトしているみたいだよ。テレビに出る時にも決して自分の本名は名乗っていない。…きっと自分の実力だけで女優になりたかったんだと思うな?」

「凄いプライドですね?」

「だから、誰もが本条冴子には、一目置いているってわけさ。…でも、内緒だぞ?」

「はい…」


 鏡の前でしなやかに踊る冴子さんの額の汗が「本当に綺麗だな」と私は思えてならなかった…

「本当に東京って、凄いな」私は不思議な親近感を覚えた。





 いよいよ次年度公演する『終わりなき明日へ…』のオーディションが、いよいよ十日前になった。オーディションに応募する者には、事前に台本の一部分が送られていて、オーディション会場で安中さんなど審査員からの指示でランダムに選ばれたシーンを演じなければならい。分かりやすく言うと、フランスの歴史上の人物ジャンヌ・ダルクの生涯を描いたストーリー展開で、主役のジャンヌ・ダルクを演じる元宝塚歌劇のトップスター星野麗華さんの妹役カトリーヌを選ぶためのオーディションだった。一般を始めとしてまだ有名ではない新人や、テレビや舞台などで活躍している女優など、数多くの応募の中から書類審査を経て、十五人が最終審査に残されていたらしい。私の劇団からは、冴子さんと私、そして愛梨の三人が最終審査に残っていた。

「いいか。自分たちが有利だと思っちゃ駄目だぞ。最終審査は、僕だけじゃなくて、制作会社やスポンサーたちも一緒だから、加点やひいきはしたくてもできないんだ」

 安中さんは、事務所で三人に台本の一部分を配りながらそう言った。私たち三人は「はい!」と決意をもって台本を受け取った。事務所を出る時、冴子さんが私に向かって行った。

「私、貴方以上の演技をして見せるわ!」

 私は「それって宣戦布告ですか?」という言葉を呑み込んでしまった。冴子さんの目が余りにも激し過ぎて私に何も言わせないというような迫力があったからだ。そんな私に愛梨さんが肩を叩きながら、「私たちも自分のベストを尽くしましょう?」と微笑んでくれた。「うん」と私も微笑みを返した。


「…どうしたんじゃ?…何か心配なことでもあるのかい?」

「いいえ、別に…」

 銀ジィが、公園で私が台本を手に発声練習をしていると、いつもの時間よりも少し遅れて来て、話しかけてきた。私は、銀ジィなら聴いてくれるかなと思って中山さんの推薦で上京した経緯やオーディションの話をした。

「そうかぁ…オーディションかぁ…君もなかなか大変じゃのぅ」

「はい。プロのオーディションなんて生まれて初めての経験なもんで…」

「…だから、君は緊張しているのかい?」

「えぇっ?…まぁ…」

「…じゃぁ、一度ワシの前で演技を見せてくれないかい?」

「えっ?…今、ここでやるんですかぁ?」

「嫌なら、別に構わんが…」

「いえ…やってみるので、見ていてください!」

「ここが、オーディションの会場だと思ってやってごらんなさい」

私は、スッと立ち上がって一番難しいなと思った場面を思い描きながら、深呼吸をして銀ジィの前で、小道具もなく台詞を語った。それは、主役のジャンヌが神の予言に従って、唯一の理解者であったカトリーヌがジャンヌに剣を差し出し別れを告げるシーンで、多分劇中の見せ場の一つだった。

「お姉様…いいえ、ジャンヌ・ダルク様!…どうか我が祖国フランスのために、思う存分にこの剣で戦って来てください!…神は、必ずや貴方様を勝利へとお導きになられることでしょうから…」

私が台詞を言うと、銀ジィは小さく拍手をしてくれた。私は、胸に手を当てて深くお辞儀をしてから、銀ジィの隣に座った。銀ジィはニコニコと微笑みながら言った。

「見事な演技だった。素読としては完璧じゃった。ただ…」

「ただ…?」

「…気持ちが観客に伝わって来ないね?」

「気持ち…ですか?」

「確かに、難しい場面の台詞なんだとは思うんじゃが…台詞が言葉でしかなくて、何故そのカトリーヌが姉のジャンヌにそう言ったのか…例えば…」

「どこが駄目なんですか?」

「最初の『お姉様』と『ジャンヌ・ダルク様』と言ったカトリーヌの違いを考えてごらんなさい?」

「違い…ですかぁ?」


その夜私は、自分がカトリーヌになったつもりで考えてみた。でも、いくら考えてみても分からなかったので、町子さんに相談してみた。

「どうしても、分からないなら、ジャンヌ・ダルクが生きていた頃の歴史を調べてみたらいいと思うな。その頃のフランスがどういう状況で、何故ジャンヌ・ダルクが戦うことになったのか…それが分からなければ、きっと妹のカトリーヌの気持ちにも寄り添えないんじゃないかしら?」

「なるほど…歴史的な芝居なんだから、まずその時代を調べるのかぁ…」

「カトリーヌになるためには、ジャンヌを理解すること…案外その方が近道かもね?」

私はネットの検索エンジンでジャンヌ・ダルクの生きていた頃のことを調べてみた。十五世紀のフランスは、王位継承を巡ってイギリスといわゆる「百年戦争」のさ中で、イギリス軍が猛攻をかけて、フランスはパリ陥落の危機を迎えていた。そんな時に貧しい農家に生まれたジャンヌ・ダルクは、神のお告げを聞いて戦う決心をして、見事に連戦連勝して国の危機を守った。だが、そのことを良く思わなかった一部の貴族や宗教関係者や軍人たちに騙されて「異端者」として裁判にかけられて死刑となる。彼女の名誉が回復されたのは、二十世紀になってから…つまり、五百年近くも後と言うことになる。

「…つまり、ジャンヌは文盲の貧しい女性であったがゆえに、異端者という汚名をきせられたのか…妹のカトリーヌは、だから『お姉様』と呼ぶのをやめて一人の下部として『ジャンヌ様』と言い換えたのか…」

私は、当時の歴史を知ることで、ジャンヌやカトリーヌが息を吹き返すように思えたので、次の日には図書館で当時のフランスやヨーロッパのことが書かれた歴史書を何冊か借りて読みふけっていた。

その時、不意に以前中山さんが私に話してくれた言葉を思い出した。

「…演じるということは、成りきることだ。その役の人物の背景にあるもの全部を理解することは、不可能かもしれないけれど、想像することはできる筈だ。ただ台詞を覚えるだけでは駄目なんだ。台詞に魂を込めるために、考えて想像しなければ、成りきることはできない」

銀ジィが私に言いたかったことの意味が分かったような気がした。今までは、ずっと現代劇ばかりだったので、気づかなかったけど…登場人物が歴史上の人物の場合には、その時代を理解して演じなければ駄目なんだ。

「…ようし。明日もう一度銀ジィに見てもらおう!」


次の日、私は公園で銀ジィに、以前に見てもらった同じ場面の同じ台詞を見てもらった。私は、頭の中でジャンヌが目の前にいるような気持ちでカトリーヌの台詞を自分の言葉として演じた。銀ジィは、私の演技を真剣に見てくれた。私が演じ終えると、優しい眼差しで静かに言ってくれた。

「…お前さんは、こんな短期間で、見事に変わったね…まるでジャンヌ・ダルクの妹が本当に目の前にいるような演技だったよ?」

「銀ジィが私に考えるヒントをくれたおかげです!」

「だったら、お節介ついでに、もう一つヒントをあげてもいいかな?」

「はい!…お願いします」

「確か、お前さんが受けるオーディションは主役のジャンヌを選ぶのではなくて、えぇと妹の…?」

「カトリーヌの役です」

「つまり、脇役というものじゃ。脇役には、脇役の役目というものがある…先日亡くなった大杉漣という名脇役者を知っているかい?」

「はい。大好きな役者の一人でした」

「彼も最初は舞台役者として、演劇から始めたんじゃ。テレビや北野武監督の『花火』という作品で一躍有名になったんじゃが…自分の役割をきちんと守っておった。だから、監督や演出家は安心して彼に役を依頼することができたし、彼がいるだけで作品がキリッと引き締まるんじゃ。何故だか分かるかい?」

「名脇役だから…ですか?」

「…では、名脇役とは一体何であるか?…ワシが好きな映画の一つに有川浩原作の『阪急電車』というのが、あるんじゃが…」

「観ました!…昔、宝塚市に住んでいた友だちがエキストラ役で出ていたので…」

「あの映画のワンシーンにだけ彼も出ていたんだが、覚えているかね?」

「はい。主役の中谷美紀さんが元恋人の結婚式場で、確かホテルマンとして…」

「あんなに幾つものストーリーが展開される映画なのに、最初数分のワンシーンの彼のことをお前さんが覚えていたのは、何故かね?」

「自分の恋人を寝盗られて、腹を立てた主役の中谷さんが式場帰ろうとするのに対して大杉さんが『貴方の気持ちは分かりますが、これが私の仕事ですから…』みたいな気風って言うか存在感があったからだと思います」

「つまり、ホテルマンという役柄にプロ意識を持っていたからじゃ。二時間近くある映画のワンシーンにそこまで演じきる…脇役というのは、そういうものなんじゃ」

「決して目立たず、でも、存在感を出す…」

「どうやら、自分で答を出したようじゃな?」

「銀ジィ?…貴方は…?」

「前にも言ったじゃろう?…ただの老いぼれジジィさ。ついでに言わせてもらうなら、オーディションでも、本番でも自分の実力の百パーセントを出そうとは思わんことじゃ。九十五パーセントでいい。『失敗したらどうしよう?』と思うから、心に余裕が無くなって不自然な力が入ってしまう。百パーセントを出そうとすれば却って小さなミスが許せなくなり、大きな失敗につながってしまう。そうではなくて『失敗したって別にいいや』って余裕を持っていれば、身体から不自然な力みが取れて、小さなミスもカバーすることができる。必ず答えは正しい方へ向かってくるもんじゃ」

「分かりました。九十五パーセントで頑張ります!」

「誰かを意識したり、競い合うものではない。自分の演技を楽しむつもりで…な?」

「演技を楽しむ?…そうか、結果なんて気にしなくてもいいんですね!」


 オーディションの会場は都心にある広い展示会場などが行われる場所だった。審査員席には、演出の安中さんを中心にして、主役を演じる星野麗華さん、制作会社のお偉方や芸能関係者や脚本家の田所さん等々…十名ぐらいが長机を前にして座っていた。ノートやタブレットや台本などが机の上に置かれていた。まだ時間前なのに、既にオーディションが始まっているような空気で包まれていた。今もっとも注目されている星野麗華さんの宝塚退団後最初の舞台ということもあって、マスコミ関係の人も大勢来ていた。私は心の中で銀ジィから言われた「九十五パーセント」と繰り返していた。相葉愛梨さんは泣き出しそうなほどに緊張しているみたいだったので、私が銀ジィからもらった魔法の呪文のことを話してから肩を叩いた。

「九十五パーセント、九十五パーセント!」

「はい。九十五パーセント…ですね?」

「今日が人生で最後じゃないんだから…気軽に、九十五パーセントで…ね?」

「それにしても、冴子さん…少し遅いと思いませんか?」

「そうねぇ。何かあったのかなぁ?」

 二人で話していると関係者入口のドアが開いて冴子さんが駆けてきた。私や愛梨さん、いやそれまでの本条冴子さんを知っている人は、皆「あっ!」と声を上げた。何故ならその日まで彼女のストレートロングの髪がバッサリと切られて短くなっていたからだ。自分のチャームポイントであった長い髪を切ってまでオーディションに臨もうとする冴子さんの「本気さ」がその会場にいた人たちを黙らせてしまった。私は「負けたな」と思った。この舞台に賭ける冴子さんの真剣さの前では、いくら私が素晴らしい演技を見せても彼女には勝てないと思ったからだ。

「でも…」

 私は、自分の中からそれまであった緊張感みたいなものが逆に薄れていくのを感じた。

本気の彼女に勝てる筈はない。でも、それは私が敗北を認めてしまって、どうでもいい演技を見せてもいい理由には決してならない筈だ。彼女が「本条冴子」として輝くのなら、私も「綾乃時子」としてのカトリーヌを演じればいいんだ。

「遅くなって申し訳ございませんでした」

「これで、役者は揃ったみたいだから始めましょうか?」


 安中さんの一言でオーディションが始まった。最終審査に残った役者は、二分間の自己紹介と舞台に賭ける思いを語り、続けて演出の安中さんの指定した場面を演じていくことになっていた。順番はクジで決まり、私は十五人中の十二番目で、冴子さんが十四番目だった。

「どうやら、神様も私に味方してくれたみたいね?」

 クジを引き終わった冴子さんが私を嘲笑うように言った。

「お互いに、自分なりのカトリーヌを演じましょう!」

「あら?…貴方、私に勝てるとでも思っているの?」

「いいえ。私はただ、この舞台が成功することしか考えていませんから…」

「相変わらず、負けん気だけは一人前ね?」

「それは…貴方の方でしょう?」

「まぁ、図々しい人ね!」

 順番を待っている間に小声で話しかけてきた冴子さんに、エールを送るつもりで私は敢えて強気で言った。そうすることで彼女が更にいい演技ができると思ったからだ。勝敗なんて、もうどうでも良かった。『終わりなき明日へ…』という舞台が成功すればそれでいいとさえ思った。

「私は脇役なんだから…」

 そう思った瞬間、私は何故か自分の中に本当のカトリーヌが降りてきたように思った。

本当の脇役は輝くためにいるのではなくて、主役を輝かせるために存在するんだわ。

 三番クジだった相葉愛梨さんは、緊張している感じだったけれど、安中さんに指定された場面を彼女らしくて可愛く演じきれたように思えた。そうやって他の人の演技にも私は参考にしようと思ったけれど、冴子さんは「自分には関係ないわ」というふうに無関心そうだった。そして、いよいよ自分の番になった。愛梨さんが「頑張って!」と応援してくれた。私は、立ち上がって自分が台本の中で疑問に思っていたことを言うことにした。


「十二番、綾乃時子です。所属は『希想人』です。…あのぅ、台本をいただいて、私なりに調べてみました。それで、大変失礼だとは思うんですが、一つだけ質問させていただいてもいいですか?」

周囲の全員が黙り、私を見た。演出の安中さんが「何だね?」と言った。脚本家の田所誠二さんも睨むような目で私を見た。

「はい。今回のシナリオで、どうしても不自然なシーンがあるんです」

「どこが不自然なんだね?」

今度は田所誠二さんが怒鳴るように言った。

「主役のジャンヌが後に王になるシャルル七世からの手紙を読んで、イギリス軍に戦うことを決意するシーンです。…貧しい農家の娘として生まれ育ったジャンヌは教育を受けていなかったので、文盲…つまり、手紙を読める筈がありません。…だからこそ、『自分の死刑の宣誓書』なのに騙されて、意味が分からずに覚えたての自分のサインを書いてしまって、だから火あぶりの刑にされた。あのシーンをフランスの歴史を学んだ人が観たら怒ると思います」

「確かに…あそこは、私も少し違っているような気がしていました」

今度は、主役を演じる星野麗華さんが首をかしげながら言ってくれた。すると、面目を潰された田所さんをかばうように、プロデューサーの人が安中さんに言った。

「…まぁ、シナリオの見直しは、後でするとして…とりあえず綾乃時子さんの演技を見せて、もらいませんか?」

「じゃぁ、綾乃さん。自分なりに調べたのなら、貴方の好きな場面を…どこでもいいので、やって見せてください」

その時「クク…」と冴子さんが小さく笑った。私が審査員の印象を悪くしたのが可笑しいとでも、言いたげだった。私はその笑いを見て却って、無心になって演じることができた。私は銀ジィに見てもらった場面を静かに始めた。目の前にいる主演の星野麗華さんを見つめながら、ジャンヌに語るように…自分なりのカトリーヌを意識しながら…

演じ終えた私は、脚本家の田所誠二さんに「先ほどは、先生に対して本当に失礼なことを言ってしまい、本当に申し訳ございませんでした」…だが、田所さんは、私を無視するように、書類に目を通しているばかりだった。私は「やっちゃったぁ…」と振り向いて愛梨さんに微笑んだ。

「時子さん。素敵な演技でしたよ!…まるで、カトリーヌが乗りうつったような…」

「慰めてくれなくてもいいのよ…?」

そう言いかけた私は、気を失ったらしく、その場に倒れこんでしまったらしい。目の前が急に暗くなってしまい、後は何も覚えていなかった…


…夢の中で、華麗にフランス軍を率いて剣を高々と上げて、勝利の雄叫びを上げているジャンヌ・ダルクがいた。その後ろでジャンヌを見送っている二つの影があった。一人は、確かに私だった。私がもう一つの影を見ようとすると、私の知らない影が突然話しかけてきたのだ。

「ありがとう…」

「はぁ?」

私は、誰か分からないけれど、その影と一緒に舞台『終わりなき明日へ…』を観ているんだなと思った。…でも、不思議でならないんだけれど「口惜しい」という気持ちには決してならなかった。寧ろその舞台の素晴らしさに酔いしれているような気分で、私は目を覚ました。


「こ、ここは…?」

「気がついたの?…オーディションの会場で貴方が倒れて救急車で病院に運ばれたって、愛梨ちゃんから電話をもらった時、私は本当に心臓が飛び出すかと思ったぐらいに驚いたんだからね。吐き気は無い?」

「町子さん?…私どうしてこんな所に…?」

…そこは、どこかの病室だった。私は自分が何故病院にいるのか分からなかった。私は起き上がろうとしたが、どうやら倒れた時に頭でも打ったのか、激しい痛みでまたベッドに倒れ込んでしまった。

「何をやってんのよ?…貴方は倒れた時に机に頭を打ちつけて病院に運ばれて頭のCTまで撮ったんだから。幸い軽い脳挫傷ですんだけどね。二、三日は寝てなきゃ駄目なの。お腹空いたら言ってね?…何か食べるものを頼んでくるからさ…」

「そ、それより…オーディションは…?」

「今は何も考えないこと。これはお医者様からの命令よ!…とにかく寝なさい。眠れないなら、睡眠薬を処方してもらう…?」

「分かりました。今日はもう寝ま~す」

「本当に…実家に連絡しようかって相談していたぐらいなんだから…」

 町子さんが本当に心配そうな顔をしていたので、私は何も考えないでその日は眠ることにした。オーディションの結果なんて決まっているんだから、自分にはもう関係ないことだから、ゆっくりと休んで、中山さんには明日にでも電話で謝罪すればいいんだわ。それよりみんなに迷惑をかけたことを謝りたかったのだけれど…私は町子さんに頼んで睡眠薬を飲ませてもらって、深い眠りの中に堕ちていったのだった。


 私がどれほどの間眠っていたのか、途中で目覚めて食事を摂ったのかどうか、トイレに行ったのかどうかも含めて、すべてが夢の中のような感じではっきりとしない時間が続いたような気がする。「時間」という感覚が失われていたんだと思う。恐らく医者が処方したという睡眠薬のせいなのだろう。そういう時間が、どれだけ流れてどれだけ昏睡していたのかも分かってはいなかった。

 …次に私が覚醒…というか、目覚めたのは薄暗い時刻だった。それが夜明け前なのか、或いは黄昏時なのか、自分でもはっきりとしなかった。私はベッドの枕元にお見舞いの品物がたくさん置かれているのを見て、驚いた。

「何、これ?」

 私はゆっくりと起き上がったけれど、以前のような痛みは感じなかった。私は自分のベッドに寄り添うように眠っているのが町子さんであることが愛おしくて涙が零れた。「こんな…私の…ために?」

 私は眠っている町子さんを起こさないように辺りを見回した。お見舞いの中には、安中さんや劇団員の人たちの名前もあったし、私がオーディションで文句を言った脚本家の田所誠二さんの名前もあり、驚いたのは舞台の主役を演じる星野麗華さんばかりか、会ったこともない冴子さんのお母さんである青山瞳さんの名前まであったことだ。

「一体…何があったの?」

 私が思わず口に出すと、町子さんが目を覚ましたように顔を上げて微笑んだ。

「やっと目を開けたわね。カトリーヌ…?」

「…はぁ?」

 私は町子さんにオーディション会場で何があったのかをナースに頼んで運ばれてきたお粥を食べさせてもらいながら、聞いた。要約すると以下のようになる…

 ・・・・・・・・・・・・

 …オーディション会場で自分の演技を終えた私が突然倒れたので会場は一時騒然となった。すぐに救急車が呼ばれ私は緊急病院へ搬送されたらしい。自分が主催する劇団員が騒ぎを起こしたことを演出担当の安中さんは、公演の主催者に謝罪すると共に、相葉愛梨さんに劇団に連絡するように指示をしてから、オーディションの残りの三人の審査を続行したのだ。残りの三人の演技も素晴らしく、特にその場にいた愛梨さんによると「冴子さんの演技が群を抜いて素晴らしくて、まるで主役のようだった」らしい。全員の演技を終えて審査員たちは別室で最終審査を行い、その間、私以外のメンバーは会場で待機することになっていた。本来なら三十分ほどで終わる筈の審査は少し長引き、一時間弱待たされたらしい。待っている間に愛梨さんは団員との電話で私が軽い脳挫傷で外傷も無かったことを確認してホッとしたらしい。そのことを冴子さんに伝えると「あっ、そう…良かったわね」とだけ言い。愛梨さんは呆れたらしい。

 やがて、審査員たちが別室から会場に戻って来たので、いよいよ結果が発表されようとしていた。みんな固唾をのんで結果を待っていた。主催者の一人がマイクに向かった。

「…えぇ、今回の最終審査では、皆さんの素晴らしい演技のお陰で審査会でも議論になり、予定していました発表までお待たせして申し訳ありませんでした。…それでは、審査の結果を発表します。…『終わりなき明日へ…』のカトリーヌ役には、本条冴子さんに…」

「ちょっと待って!」

 主催者の言葉を後ろから誰かが遮ったのだ。その声があまりにも迫力があったので、主催者も思わず黙ってしまった。会場内の全員が振り返ると、一番後ろでオーディションを見ていた女性がカシミヤのスプリングコートを着ていた女性が白い帽子を深めに被ってサングラスをかけて立っていたのだ。女性はゆっくりとした足取りで前へ向かって歩いてきた。それから「こんな茶番はもう止めない?」と歩きながら帽子を脱いだ。

「お母さん?」

 冴子さんが驚いたように声を上げた。すると誰かが「女優の青山瞳じゃないか?」とカメラを女性の方へ向けようとしたのだが、それを女性が手で制しながらキッと睨んだ。怖気づいたようにカメラを降ろした男性の傍を通りながら、サングラスを取り、テレビや映画でしか見せたことのない決めポーズの青山瞳さんが皆の前に立った。

「どうして、ここへ?」

「これでも、一応母親なもんでね。一人娘のことが気になって覗きに来たのよ?」

「どう?…私は、お母さんの名前を借りなくても、自分の力で大きな舞台の役を勝ち取ることができたわ!」

「…だから、茶番だって言ったのよ。貴方はやっぱりまだまだ子どもねぇ…?」

「一体どういう意味よ?」

「最初っから貴方に勝たせるためのオーディションだからよ。…どうせ主催者かスポンサーのお偉方か誰かが気づいて、その誰かさんのご意向が働いたんでしょう…そういうことなんでしょう、…安中君、もしくは田所さん?」

 脚本家の田所さんの顔が引きつっているようだった。安中さんは知らなかったようだ。

「確かに本条冴子という仮の名前を通した貴方の演技は立派で輝いていたわ。…でも、このオーディションは主演女優を選ぶためのものではなくて、主役の星野さんを引きたてるための脇役であるカトリーヌを選ぶためのオーディションの筈よねぇ?」

「だから、どうだって言いたいの?」

「脇役なら、脇に徹しなさい!…脇役である貴方が輝けば輝き過ぎると星野さんの邪魔になるだけなのよ。一番カトリーヌに成りきって目立たないけれど、存在感があったのは、貴方じゃないわ。それは貴方にも分かっている筈だと思うんだけど…?」

「そ、それは…」

 冴子さんが下を向いて黙った。するとそれまで黙って聞いていた星野麗華さんが大きな拍手をしながら立ち上がった。

「さすがは日本を代表する名女優青山瞳さんですね。感動しました!…実際に審査に時間がかかった本当の理由は、私と安中さんだけが最後まで『綾乃さんの方がカトリーヌ役に相応しい』と反対したからです。冴子さんの演技も見事だった。でも、あれはカトリーヌの演技じゃない。あまりにも美しく耀きすぎていた。…この舞台は私の女優としてのデビュー作として企画されたものです。田所先生も私を美しく見せるために、歴史を曲げてまでシナリオを書いてくださった。私はこの『終わりなき明日へ…』という舞台に惚れ込んでいます。この舞台を不朽の名作にしたいんです。…そこで私から皆さんに一つの提案というかお願いがあるんですが…?」

 そこまで星野さんは言うと、審査員席の全員を見ながらゆっくりと言った。安中さんに頷くようにして…


「…それで、それで星野さんは何て言ったの?」

 そこまで一気に話すと、町子さんがコップの水を飲んだので私は続きが聞きたくて彼女の顔を見た。町子さんは、まるで自分が星野麗華さんになったように立ち上がってこう言ったのだ。

「私が宝塚で学んだのは、『いい作品には、いいスタッフが必要だ。そして、いい主役といい脇役が必要だ』と…だからこそ私は、敢えてジャンヌ・ダルクを本条冴子さんに、そして妹のカトリーヌ役には綾乃時子さんを推薦します!」

「…でも、それじゃぁ君はどうなるんだい?」

「私ですか?…私は…そうですねぇ。最後の最後にジャンヌを見離したフランス国王のシャルル七世の役でも頂ければ、嬉しく思います…」


「そ、そんなまさか!」

「今の話が嘘だったら、ここにあるお見舞いの品物もみんな嘘ってことになるわよ?」

「じゃぁ、青山瞳さんもこの部屋に?」

「ええ。『久しぶりに素晴らしい演技を見せていただいて感動しましたわ』ですって」

「冴子さんも…?」

「我がままばかり言っていた私を許してください…って泣いていたわ」

「冴子さん、落ち込んでいたでしょうね?」

「そうでもないみたいよ。今まで隠していたお母さんのことも認めて、今は青山冴子と名前を改めて、自宅から劇団に通っているらしいわよ?」

「そうなんだぁ!」

「あの、青山瞳さんが『娘を今後ともどうぞよろしくお願いします』って冴子さんと一緒に頭を下げていたシーンは、時子にも見せてあげたかったなぁ…」

「…あのさぁ…全然関係ないのかもしれないんだけどさぁ?」

「…何?」

「初めて貴方たちと食事をした時にね。私は内山亜希子っていう自分の本名が嫌いだって言わなかった?」

「そう言えば、そんなこと言ってたような気がする。周囲から『内気な内子』って言われて嫌だったみたいなことを…」

「私は、今までさぁ。内山亜希子は『存在感の無い、いてもいなくても、どうでもいい存在』だって思っていたのね。でも『存在感が無いことは、生きる意味がないことではない』って今回教えてもらったような気がするわ」

「…確かに、どんな存在だって、存在そのものは否定されないものね?」

「うん。…オーディション会場で私は『カトリーヌ』が傍に降りてきたような気がしたのよ。…でも、あれ本当は私の中の私…『内山亜希子自身』だったような…」

「カトリーヌを探していて、答えは亜希子だったみたいな感じ?」

「うん。…きっと冴子さんも、自分の素姓を隠していたから、私が鏡のように思えて彼女をイライラさせる原因になっていたんじゃないかしら?」

「つまり、冴子さんも今回のことで本来の自分に気付いたってわけ?」

「…そうだったら、嬉しいなぁ!」


それからの日々はまるで息をついている暇もないくらいに忙しさだった。制作発表やテレビやラジオなどでの宣伝と週刊誌などの取材など…その合間を縫うように舞台の練習も始まった。それでも私が舞台での練習の前に毎回必ずスタッフの衣装・小道具さん、照明係さんにまできちんと挨拶をしているのを見て冴子さんが「何故そこまでするの?」と聞いてきたので、「舞台は一人で作るものじゃないから…」と私は説明した。

「私もマネしていい?」

「もちろん!…一緒に行くと勇気が出るわ!」

 オーディション以来私が冴子さんと仲良くなり、町子さんを嫉妬させるぐらいだった。確かに、オーディション以来冴子さんは変わったなと思う。多分あれが冴子さんの本来の姿なんだろう…私も大事な役をもらって、周囲の人からちやほやされても、今までと同じように誰にでも気軽に声をかけるようにした。時間があれば近所の公園へ行き、銀ジィに忙しい毎日のことなどを話したり演技も見てもらった。…でも銀ジィは、頑なに何も言わなくなった。

「どうして、以前のように私に演技指導をしてくれないんですか?」

「聞きたいなら話してやっても構わんが…例えばここに一枚の画用紙があるとする。その画用紙に二人の画家が別々に絵を描きだしたらどうなる?」

「きっと無茶苦茶になってしまうと思います」

「そうじゃろう?…今、お前さんは安中とかいうプロの演出家によって、その人が思う『カトリーヌ』を描こうとしている…そこへワシが自分の考える『カトリーヌ』を描こうとしたら、お前さんを潰してしまうじゃろう?」

「なるほど…」

「大抵の場合、役者は個性というか、自分の色みたいなものを持っている。だが、ワシが思うに、お前さんには色が無い。『青』と言えば青くなり『黒』と言えば黒くなれる。つまり、お前さんは透明なカンバスのような役者なんじゃ。天使にも悪魔にもなれる。それは、『個性がない』という意味では欠点なのかもしれんが、寧ろ長所でもあるんじゃよ。本当の演出家や画家は、自分の色を持った画用紙や衣装を纏ったマネキンよりも、無色で何にでもできる素材…画用紙だったり、マネキンを好むのは当然じゃと思わんかね?」

「分かりました。今は安中さんのカラーに染まります!」

「まぁ、お前さんのことだから、オーディションとやらでもやったように、自分が納得いかないのなら、相手が誰であれ自分の筋を通すことじゃな?」

「はい!」


 やがて立ち稽古が始まると役者たちは、本番で使う会場に缶詰めみたいになって、衣装合わせや、舞台設定なども非公開での練習になった。それまで連日のようにあったマスコミとの接触が無くなった分だけ、楽ではあったが、安中さんの妥協を許さない演出のお陰で冴子さんなどは、少しうんざりしていたようだった。確かに芸能界という世界は美しく華やいでいたんだけれど、「お金」に絡んだ嫌な部分もたくさんあった。有らぬ噂や、スポンサーとの駆け引きなど…数え上げたらキリがないぐらい影の部分も私自身が見なければならなかったからだ。実際ある週刊誌の取材で私も聞かれたのだ。

「…失礼ですが、貴方や冴子さんは、もう安中さんと寝たんですか?」

 そういう露骨な取材も一度や二度ではない。星野さんと田所さんの関係や、青山冴子と名前を変えた冴子さんの思惑など、信じられないようなことが実しやかに囁かれ、記事になると、それが「事実」になってしまう…そういう芸能界の闇の部分も哀しいけれど、現実としてあったのだ。それらをシャットアウトするために、安中さんが舞台初日まで一切を非公開にしてくれたんだと思う。「こういうことになる」ことを恐れたから安中さんは中山さんに助けを求めたんだろう。「最高の舞台を作るためのガード」として…「では、何故中山さんは、安中さんの求めに応えなかったんだろう?」という疑問が私の中に湧いてきたのだが、その答えは意外な形で私に教えてくれた。

 それは、初日前日に開かれた安中さんの自宅でのホームパーティーでのことだった。出演者と主なスタッフだけが呼ばれて私たちは、調布市にある安中さんのお宅へ伺ったのだ。広間には、公演の関係者がたくさん集い、酒やいろんな料理を食べていると、安中さんが私に囁くように言ったのだ。

「時子ちゃん、ちょっといいかな?」

「はい?」

「前にも言ったけど、どうしても君に会わせておきたい人がいるんだ」

「はぁ?」

 私は階段を昇って行く安中さんの後について行った。二階には夫妻の寝室と子ども部屋らしき幾つかの部屋があった。その中の一室に安中さんが「ここで待っていてくらないか?」と私を招き入れた。私が部屋で待っていると安中さんが一人の女性を伴って入ってきた。私は立ち上がって美しく上品そうな女性にお辞儀をした。

「私の妻、小百合だ」

 私は、以前どこかでその女性と会ったことがあるような気がした。でも、私はもう一度深々と頭を下げて挨拶をした。

「初めまして。綾乃時子と申します」

「改めてご挨拶します。安中の妻、小百合です。…貴方とは以前、公園で一度お目にかかりましたよね?」

「えっ?」

「ほら、この子と一緒に…」

 そう言うと女性の陰から、可愛い男の子が顔を出してきた。…私は、その子を見て思い出した。私が初めて公園で銀ジィと出会った時に「銀ジィ!」と呼んだ、あの子だったのだ。…私が驚いて何も言えないでいると、後ろから銀ジィがいつもの笑顔で私の前に現れた。

「よう。毎日缶詰の稽古でお前さんたちも大変じゃろう?」

「銀ジィ?…どうしてここへ?」

「ワシの自宅じゃからのぅ…」

「はぁ?」

「お前さんを騙すつもりも、驚かすつもりはなかったんじゃが…」

 私はまた気を失いそうになった。でも、安中さんが素早く私の傍に来てくれて、私をソファーに座らせてくれた。そして、安中さんと奥様である小百合さんと銀ジィの関係をゆっくりと説明してくれた。

「私が、まだ早稲田にいた頃に演劇界で影の師匠として仰ぎ尊敬していたのが黒田銀二さん、決して舞台では姿を見せない黒子の第一人者だったのが『銀ジィ』なんだよ?…その師匠の一人娘が当時舞台にデビューする筈だった黒田小百合、つまり彼女だったんだ。その頃、私も中山も美しい彼女に憧れて…やがていつしか憧れの気持ちが恋心まで抱くようになってしまったんだ。…でも、小百合の気持ちは中山の方へ傾いていたんだ。多分、あの事故がなければ…」

「事故?」

「あぁ、黒田小百合がデビューする筈だった舞台で、黒田銀二は私ではなく中山雅人を相手役に推薦したんだ。でも、舞台直前の最終練習の時に中山の頭上にあったライトが落ちて来るという事故があったんだ。それを傍にいた小百合が身を投げ出して中山を助けたんだ。お陰で主演デビューする筈だった小百合は右足に怪我をしてしまって舞台に立てなくなってしまったんだ…だから中山は責任を取って第一線から退いて大阪へ行ったんだよ」

「貴方、もういいわ。あれは単なる事故だったのよ。…舞台から退いた私を貴方は見捨てなくて、私に懸命にリハビリを続けさせてくれて、普段の生活ができるようになるまでしてくれたじゃない。あの頃、確かに私は、中山さんを愛していたわ。…でも、あの後貴方は壊れかけていた私を選んでくれた。貴方の妻となって私は後悔なんてしていないわ!…本当は雅人さんから頼まれたんでしょう?」

「…あの事故の後、中山君は『事故の責任は私にあります。ですから小百合さんと結婚させて下さい』とワシに言ったんじゃ。だが、ワシは認めなかった。『お前の責任の取り方はそういうことではないだろう?』とな。安中君に小百合を委ねたのは、彼ならきっと小百合を幸せにできるかもしれない。だが、もし中山君に任せたら彼も小百合も…恐らく誰も幸せにはなれない…そう思ったからじゃ」

「だから、今回の舞台で中山に『手伝ってくれないか?』って頼んだんだ。…そしたら、彼が『綾乃時子という目立たないけど、素晴らしい素材を持った役者がいる』って君を紹介してくれた」

「そこへ偶然ワシの前にお前さんが現れた。お前さんの口から『中山雅人』の名前を聞いた時には、正直驚いたよ」

「わ、私は何も…何も知らなくて…」

「そうよね?…貴方は何も知らずに、父や夫に出会った。…でも、貴方は雅人さんが推薦しただけの結果を自分の実力で出した。貴方はきっと立派な女優になれるわ。自信をお持ちなさい!」

「ついでに言うと、君は青山冴子という逸材も開花させた。青山瞳の娘である彼女を主役にしたのも、君の力だ。舞台は、一人では成立しないことを彼女に教えてくれたのも君なんだ。明日の初日に期待しているよ?」

「何から何まで…本当にありがとうございます!」


 舞台は前評判の宣伝効果もあって、大入り満員で初日を迎えた。私にとっては、プロデビューの舞台で、それこそ目眩がしそうな程に緊張していた。衣装を着て最終メイクチェックをしていると、「希想人」の仲間が楽屋にやってきてくれた。私が町子さんに「緊張で、心臓が飛び出しそう!」と言うと、「何があっても大丈夫よ?」と安心させてくれた。愛梨さんが二ッコリ笑って「九十五パーセントですよ!」とオーディションで彼女にアドバイスした言葉を言ってくれたので、私はホッとして笑顔で「ありがとう!」と言えた。

 幕前に役者全員が集まり、星野さんの掛け声で「さぁ、私たちの未来へ!」と気合を入れてくれた。冴子さんも少し緊張していたけれど、私に大きく頷いてくれた。一ベルで観客が座り、場内アナウンスで諸注意などがあり、静まりかえった所で、本公演を代表して演出の安中さんと脚本の田所さんが挨拶した。…田所さんが最後にこう言った。

「この舞台の配役を決めるオーディションの時、私が歴史を誤って書いていたことを一人の無名の女優に指摘されました。名前は今、言いませんが、その女優も出演していますので、誰のことかを考えながらご覧いただければ嬉しいです」


大きな拍手の後で二ベルが鳴り、緞帳が静かに上がり、華やかな音楽と共に舞台が始まった。

「九十五パーセント、九十五パーセント…」

 私は心の中で何度も呪文のように言いながら自分の出番を待った。舞台上には、いきなり奈落から舞台中央に星野麗華さんがせり上がり登場したので、宝塚時代からの彼女のファンが拍手と大きな声援を贈っていた。麗華さんが当時の時代背景などを詳しく説明して上手へ退場すると、私と冴子さんが貧しい農家の仲良し姉妹として登場。ここでも大きな拍手がもらえた。戦場のシーンでフランス軍の劣勢が次々と報告され、「最後の砦」であるオルレアンの戦いの前にジャンヌは、神のお告げを受け、自ら戦いに向かう「あのシーン」の前に三度目の暗転があった。その時だった…

「あっ!」

 私は小道具の大切な剣が手許に無いことに気付いたのだ。暗転時間は三十五秒しかない。私は小声で冴子さんに「剣が無いわ」と言った。舞台監督に言うと「小道具さんか何かの手違いで上手にあるらしい」とインカムを通して言った。舞台裏を走っても間に合う時間はなかった。「どうしよう?」私は自分のミスでパニックになっていた。すると、冴子さんが何もなかったように優しく言ってくれた。

「分かったわ。私が舞台中央で適当にアドリブで何か言ってつないでおくから、貴方はその間に踊っているふりをして、剣を取りに行って!」

「えぇっ?…そんなぁ!」

 私が泣きそうな声を出すと、冴子さんが右手を強く握って私の肩を優しく撫でてくれて囁いてくれた。

「オーディションの時のお礼よ。一人で舞台はできないものね、大丈夫よ。カトリーヌ?」

「冴子さん…」

照明がつくまで残り二十秒だった。…しかし、その時真っ暗な舞台の上を何か黒い影のようなものが上手から、飛び出してきたのだ。その影がこちらへ向かって駆け抜けて行き、私の手に何かを握らせた。私は「それ」を見て驚いた。…大切な剣だったからだ。

「冴子さん、これ…!」

「よし、今まで通りでお願いね。カトリーヌ?」

「…はい。お姉様!」

 私たちは無事に一幕目の最大のシーンを無事に終えることができた。十分間の休憩中に上手の舞台監督さんに確認したのだけれど、下手からの連絡を受けてパニックになっていると、「不意に黒ずくめの誰かがやってきて、肝心の剣を持ち去ったのだ」ということしか分からなかった。不思議そうにしていると星野さんが言った。

「とりあえず、お陰で助かったのだから、そのことについては後で考えましょう?」

 さすがに何度も大きな舞台を踏んで来た星野麗華さんだなと冴子さんと顔を見合わせたのだった。二幕目は、ジャンヌ・ダルクの大進撃で、一番の見せ場はジャンヌの台詞だった。

「私は戦うために生まれてきたのではない。私は、私という小さな存在を産み育んでくれた我が祖国に永遠の平和を築くために生まれてきたのだ。私が剣を持つのは、戦うためではなく、この無意味な争いを終わらせるためなのだ!」

最終の三幕目には、側近たちに騙されて火刑に処される場面だった。側近たちの甘言によって悩みながらも「国のためだ。私を赦せ、愛しいジャンヌよ!」という星野さんの台詞は宝塚時代を思わせるように観客を魅了した。脚本家の田所さんは、ラストシーンを書き変えて処刑が終わった場所での私の独白で幕を閉じることになっていた。

「お姉様…貴方は処刑される前に私にこう言われましたよね。『私がやろうとしたことは、今は誰にも理解されないのかもしれない。けれど、いつか必ず…百年後、いや何百年か後の世界で、偉大なる我がフランス国民たちに分かってもらえるであろう。この世に戦争などという愚かな行為が繰り広げられていることの馬鹿らしさを人々がきっと理解してくれる日が来るだろう』と。その日がくるまで私たち人間は、きっといつか必ずやって来る終わりのない明日のために、生きてゆかなければならない…そうですよね?…お姉様、…いいえ、ジャンヌ・ダルク様!」

 その場に泣き崩れる私にスポットライトが当たり、幕が静かに降りて行った。鳴りやまない拍手喝采の中で終演した。


 カーテンコールでは、本来の舞台の主役である星野麗華さんが舞台中央にせり上がってきたマイクで挨拶をした。

「本日は、本当にたくさんの方々、私たちの舞台を観に来ていただきありがとうございました。宝塚を卒業したので、もう男役はないと思っていましたが、諸般の事情によって、今回も男役を演じることになりました(笑)。…ですが、本当に舞台っていいですね。思わぬトラブルが起こったり、でもお互いにカバーし合ってなんとか今回も無事に幕を降ろすことができました。舞台は一人で作るものではない。みんながそれぞれの役割を果たしてこそ成り立つものです。…では、ここで二人のニューヒロイン。ジャンヌを見事に演じきった本条冴子改め、青山冴子さん。そして、脇役でありながらも、本当に素晴らしい演技に感動しました。カトリーヌ役の綾乃時子さんです!…どうか皆さん、新しい名女優の二人を大きな拍手でお迎え下さい!」


 私たちがキョトンとしていると「行って来い!」と安中さんと田所さんが背中を押してくれた。私と冴子さんは手をつないで舞台中央のマイクに向かった。私が涙で何も言えないでいると冴子さんがマイクに向かって話し始めた。

「先程星野麗華さんも、おっしゃっていましたが、『舞台は一人で作るものじゃない』そのことを私に教えてくれたのは、カトリーヌ…いいえ、親友でもある綾乃時子さんです。…舞台の練習が始まった時です。彼女が舞台での練習の前に毎回必ずスタッフや衣装・小道具さん、照明係さんにまできちんと挨拶をしているのを見ました。『何故そこまでするの?』聞くと、『舞台は一人で作るものじゃないから…』と彼女は説明してくれました。そんな当たり前のことに気付かせてくれたのは、綾乃時子さんです。意地を張っていた私と私の母である青山瞳とを和解させてくれたのも彼女かもしれません。そして、何よりも『他者を大切に思い、愛することができなければ、他者から大切にされ、愛されることはできないのだ』ということを綾乃時子さんが私に教えてくださったのです。この舞台を作るために、陰で働いてくれた多くの皆様に、そして観に来て下さった皆様方に、…そして私に役者として、人間としての生き方を教えてくれた、この綾乃時子さんにどうか盛大なる拍手を頂ければ嬉しく思います!」


 …その後、何があったのか、私ははっきりと覚えてはいない。ただ、冴子さんの挨拶の後で私に対する大きな拍手、声援と「時子コール!」が起こったことだけは忘れていない。舞台を終えて、ロビーに挨拶に出ると、それまで私が経験したことのないような多くの観客の方が私に握手とサインを求めてきたのだ。

「…これって、夢?」

 いつの間にかファンから私をガードしてくれていた町子さんや愛梨さん、それに一平さんまでもが私を守るように「はいはい、並んで下さい!」と叫んでいてくれたのだ。私は用意された椅子に座り、大勢の人が並んだロビーでたくさんの人と握手をして、たくさんのサインを書いた。たくさんの人が「応援しています!」と言ってくれた。私は何度も頭を下げてお礼を言い、一人ひとりの方々の思いに応えようと思った。…どんなに手が痺れても構わない。どんなに自分が疲れていても、最後の一人までキッチリと握手をすべきだと私は思った。私の微かな演技に対して応援してくれる人がいる限り…

「すみません。このままでは、明日の舞台に支障をきたしますので、サインは必ず自筆で送らせますので、ご住所とお名前を書いて係の者へお渡しいただけますかぁ?」

 町子さんの声で私は我に返った。「確かにそうだ。今日はまだ初日で、明日も同じ舞台に立たなければいけないんだ」私は立ち上がって握手を求めている多くの人たちとハイタッチをするようにして、その場を離れることにした。握手ができなくてもいい。少なくともハイタッチするだけでもいいから…

 私がそう思って楽屋へ向かおうとすると、見覚えのある笑顔が待ってくれていた。

「な、中山さん…ですか?」

「あぁ、君の初舞台、しっかりと観させてもらったよ?」

「あ、ありがとうございます!」

 私が頭を下げると後ろから少し意地悪そうに冴子さんが言った。

「中山先生、お久しぶりです。まさか一番緊張していた場面で先生に助けていただけるとは、思ってもいませんでしたわ!」

「はぁ?…一体何のことだね?」

「時子さんの鼻は騙せても、私の嗅覚は騙せません。大事な剣を時子に渡してくれたのは、中山先生ですよねぇ?」

「おいおい、何を言っているんだい?」

「未だに資生堂のタクティクスのコロンを使っている人は、先生以外に多分いませんよ?」

「君は相変わらず鼻だけはいいんだね?」

「あらっ、鼻だけ…ですかぁ?」

「その顔、お母さんにそっくりだ!」

 要するに、一幕の最後の場面で黒子になって、舞台の上手から、下手まで駆け抜けて私に剣を渡してくれたのは、中山さんだったということだ。でも、理由を尋ねるとあっさりと上手にはける役者が間違えて剣を運んでしまったので、「きっと後で困るだろうと思ったからさ」と白状してくれた。やっぱり中山さんは、安中さんの舞台に気持ちを寄せてくれていたんだ。私は嬉しくなって中山さんに人目をはばからずに抱きついた。確かに微かなタクティクスの甘いリンゴの香りがした。


 舞台『終わりなき明日へ…』連日大入り大成功で東京公演を終えることができた。次の名古屋公演も成功させて、大阪公演では、両親を始めとして「舞人」の仲間や高校や小中学生だった頃の同期生たちもたくさん観に来てくれた。私の楽屋は大勢の友人や仲間たちが来てくれて、「内気な内子」だった私を打ち消してくれた。

 大阪公演の楽日に私は中山さんに誘われて有名なホテルで両親とディナーに招待された。私は、ずっと疑問に思っていたことを中山さんに訊いた。

「中山さんは、いつ私がこうなると思ったんですか?」

「君が初めて『舞人』で鏡に向かってメイクした時…かな?」

「そんな以前からなんですか?」

「君は、ずっと内山亜希子である自分を否定していた。私は鏡に映った君を見て『こんなに素晴らしい存在なのに、もったいない』って、思ったんだ。自分を否定していては本当の自分に気付くことができない。…だから、君に『綾乃時子』という名前を与えた。そして、今回の芝居の話が来た時に、君のご両親にお願いしたんだ。『亜希子さんを僕に任せていただけませんか?』って…」

「あの時は、私もお父さんも正直驚いたわよ。『亜希子さんの人生を僕にプロデュースさせて下さい!』なんて言われたから…」

「…私には分かりません。じゃぁどうして一緒に東京へ来てくれなかったんですか?」

「冴子がいたからさ。我がままで自己主張の塊のような冴子と君なら、必ずぶつかってしまう。…でも、だからこそ何か思いもよらない『新しい何か』が生まれるかもしれない…僕がいたら、冴子は遠慮して本当の自分を出せない。それじゃあ何も生まれない。だから僕は、黒子として陰から君を支えようと思った訳さ…君を信じていたからこそ!…そのことを含めてご両親にお願いしたのさ」

「…お父さん、お母さん。私を内山亜希子として育ててくれて、本当にありがとう!」

「亜希子…これからは、綾乃時子という女優としてお前の人生のプロデューサーと一緒に生きていけばいい」

「はい。私は自分の人生を大切にしながら私の『終わりなき明日へ』向かって生きてゆきます!…でも、時々は私にも亜希子として甘えさせてね?」

「仕方ないなぁ…いつでも内気な亜希子で帰ってきてもいいんだよ?」

 私たちは声を上げて笑った。…ちょうどその時、ボーイさんがデザートを運んで綺麗にテーブルの上に並べてくれたのだった。私は『時子』である瞬間も、『亜希子』である瞬間も大切に生きてゆこう…そう思いながら、私の人生のプロデューサーである中山雅人さんと顔を見合わせ微笑んだのだった…


(完)

2018・3・2(Th)



…後書き…


 私は、『演劇』というか、舞台というものに立った経験は一度も無い。学生の頃に伊丹市にあった演劇サークル(?)のようなものに友だちが所属していたので、裏方で手伝いというか、邪魔をさせてもらったことが何度かある程度の人間で、実際に役者の世界がどういうものだということは何も知らずに生きてきました。ましてやプロの劇団の世界などのことは、皆目知らないでいたのです。ですから、演技のことや「舞台」というものが、どうやって作られているのか、何も分からいままに本作品を書き始めたんです。…ですから、プロの役者さんや演劇関係者の方が本作品を読まれたら、「何も分かっていない!」と怒られるかもしれません。最初にそのことは謝罪しておきます。

 私が、この『時子の瞬間』という小説を描こうと思ったのは、先にも言いましたが、学生の頃に演劇をやっていて、今も続けている友だちに誘われて、彼女が出演する舞台を観に行った大阪市内のある小さなホールでの出来事がきっかけでした。舞台は近未来のことを描いた作品で、役者は「実は皆アンドロイドだった」という大変興味深い内容で、友だちが演じていた「壊れて段々ロボット化していくシーン」には、鳥肌がたつような迫力があったのです。

当時私が住んでいたのが宝塚市ですから「大阪だったら近い」と思われるでしょうが、既に脳内出血によって、右半身に若干の麻痺が残っていた私にとっては、「徒歩五分」が「徒歩一時間」ぐらいかかる距離に思えるほどに遠くて、階段や砂利道だと更に倍の時間を要するものだったのです。実際に阪急梅田駅から地下鉄東梅田駅まで行くことさえ、私にとっては「遠足」のような距離に思えるほどでした。ですから、私は午後から始まる舞台でも朝早くから家を出て、電車をなんとか乗り継いで、会場まで行ったのでした。

舞台が終わり、友だちに挨拶をして帰ろうと思っていたら、会館の目の前にバス停があることに気付きました。「これなら大阪駅まで行けるかもしれない!」そう思ってバス停までゆっくりと歩いていると、会場内で見かけた一人のまだ若い女性がバスを待って並んでおられたので、思わず声をかけてしまいました。

「貴方は、確か今の芝居を観ていらっしゃいましたよね?」

「えぇ、友人がAの役だったので…」

「私はBさんの友だちでして…」

 私たちは、すっかり意気投合してしまい、観たばかりの舞台の感想を言い合っていました。やがて大阪駅に向かうバスが来たので、他の客と一緒に乗り込みました。二人がけの座席だけが空いていたので、私たちは並んで座り、芝居というものなどについて、語り合いました。その女性はまだ、学生で私の知っていた尼崎市にある劇団の名を教えてくれました。その女性は熱く語りました。

「まだ駆けだしですけど、いつか主役を演じられるような役者になりたいです!…ただ」

「ただ?…大丈夫、貴方なら、必ずなれますよ!」

「ありがとうございます!」

 やがて、バスは大阪駅終点に着きました。私たちはお互いに名乗り合うこともなく、彼女は阪神電車へ、私は阪急電車へと向かって歩き出しました。その日、私は何故かその女性が最後に言った「ただ…」という言葉が気になって、パソコンに「時子の瞬間」と打ち、一人の目立たない女性が、様々な試練を乗り越えて舞台の主役になるまでのストーリーを思い描いたのでした…

 しかし、他にもたくさん書きたい作品を抱えていた私は今年二月に「君が見たもの」という自分では納得のいく作品を仕上げたので、「パソコン」の中のフォルダーを整理していて、「時子の瞬間とき」というファイルを偶然見つけ、途中で終わっていることに気付きました。それで、テーマや内容を大きく書き換えて昨夜仕上げることができました。最初に思っていた作品とは内容がかなり変わっていますが、私なりには、完結させることができたので、それなりに満足しています。「どんな小さな存在であっても、必ず何か意味があって存在しているんだ」…私の作品全体に対して言える同じテーマなのかもしれませが…


堀川 忍

2018・3・3(Sat)




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