第二話
足元で猫がにゃあ、と鳴いた。
菜花はハッとして下を見る。猫は安穏な瞳で菜花を見上げ、ゆっくりと瞬いた。屈んでその喉を撫でてやれば目を閉じてされたままになっている。菜花はふふっ、と笑った。
「ねぇ猫、私いつからここにいたの?」
まるで、覚えていないのだ。
自分の名前が菜花という事以外、何も思い出せない。どうやってここに来たのか、いつからここに来たのか。確かに家族がいたはずなのに、親の顔も思い出せない。家族構成も、自分が一体いくつなのかも。 猫はゴロゴロと喉を慣らすだけで、何も答えてはくれない。ふと、その耳がピクリと動いた。どうしたのだろうと撫でる手を止めれば、途端地面に黒い斑点がボツボツと出来上がっていく。何だろこれ? 上を見れば、夕立が菜花を襲った。
「わわ!」
なんじゃこりゃ、と驚いたものの、見開いた瞳には一滴だって水分を感じない。見上げれば真上から降り注ぐ雨。視点の中央を避けるように耳の横へと通り過ぎて行く水滴。どうして、肌に何も感じない。屈んだ足元を見れば、自分の足元はすでに変色している。おかしいではないか、人間がいるのに、一瞬でその下の地面が水に濡れるなんて。自分に、水がかかった感覚がしないなんて。
「猫さん、濡れちゃうよ。あたしの傘貸してあげるね」
小学生が、特有の黄色い傘を猫に差し出す。当然受け取れないのは承知の上、地面に傘を立て掛けて、女の子はニコリと笑い駆け出した。ちょっと、濡れるよ、と菜花が声を掛けても小学生から返事はなく、小さい背は立ち止まらずに角を曲がった。
「優しい子だったね~」
そう猫を見下ろせば自分の足元が見える。
開かれたまま地面に置かれた黄色い傘が、自分の足に突き刺さって、いや、貫通していた。切断されていなければありえないような貫通の仕方。痛くもない、違和感もない。立ち上がれば当然、足は繋がっていて、菜花は途端悲しくなって眉を寄せた。
記憶はないけれど、確かに自分は人間だった。
どうやらもう、それは捨ててしまったらしい。
そしてきっと、もうあちら側には戻れないのだと、直感で理解してしまった。
「なんだあ……ねえ~、猫。ひどい世の中だよね」
人間じゃない者同士仲良くしようよ、と菜花は黄色い傘に入りこむ。
小さく膝を抱えて丸まればなんとか身体が傘から飛び出なくなった。猫はにゃあ、と一つ鳴いて大人しくしている。
「雨宿りですか?」
ボツボツと傘に雨が当たる音を聞いていたら、そんな声が聞こえた。顔を上げた菜花は、目の前に傘を持った青年の顔があって驚く。
「猫に敬語使ってるよ、この人。面白いね」
菜花はくすっ、と笑って猫を見る。にゃあ、と一声鳴いてきっと何か答えてくれたのだろう。けれど菜花には読みとれない。
しかし先程の小学生を見るに、人間に菜花は見えていない。何を言っているか解らずとも、自分の言葉に応えてくれる猫の存在は有難かった。
「面白いって初めて言われました」
傘を肩に挟んで青年は目の前に座る。手に下げていたコンビニ袋から猫の缶詰を取り出しぱくりと開けた。それを猫の前に置きながら彼はそう言う。
「猫さっき面白いって言ったの? この人、猫と喋れるみたいだよ」
「いや、猫と喋れた事は一度もないです」
……あれ、まさか、この人。おかしいな、と思って菜花は青年を見た。
こちらの瞳を見つめているそれは、外される事もなく、ただ真っ直ぐに。
「……あんた、私が見えるの?」
「えっ見えま……あっ!!! まさかっ!」
また幽霊に声かけちまった! と青年は頭を抱える。
すぐに立ち上がった青年は、じゃっ! と手を上げて歩き出した。あ、はい、と菜花も手を上げて答えれば、ぐいいっと身体が引っ張られる。えっ、なにこれ。
「ちょ、何、何よこれ!!」
青年の三メートル後ろ程を付かず離れずで引き摺られていく。猫は缶詰をむしゃむしゃと頬張っていて見向きもしない。なんで!? 自分の意思に反して身体が引っ張られる。
ありえないームカつく! と意地になって傍の電柱にしがみ付いたら、今度は先を行く青年から悲鳴が上がった。
「うおっ! 進めねー、金縛り!? いや身体動く、し……! っあはは! 動かない!!」
最後辺りに何故か笑い出す青年は、必死で進もうとするが足が滑って前には行けない。痛みはないが千切れるのではないかと思う程に菜花は身体を引っ張られなんとなく冷や汗が流れた気がした。
「ちょっと! あんた何したのさ!」
「こっちの台詞だ! 可愛い顔してなんで人様に取り憑いたりすんだよ!」
「取り憑……え? 意味わかんないし! 可愛い顔ってなにさ褒めるな照れるでしょ!」
「ぎゃー呪い殺されるー!」
棒読みに青年はそう言って、力付くで歩き出した。
菜花が一度瞬いて、次に目蓋を押し上げ瞳に物を映した時、何故か目の前にあったのは青年の顔だ。
え、あれ、さっきまで電柱に。
「うおっ、瞬間移動しやがった…や、やるかテメー…っ」
「え、何、あんた瞬間移動出来んの? エスパー魔美?」
「俺じゃなくてお前が移動したんだよっ」
「え? じゃあ私がエスパー魔美? うそ、なんで? おーほんとだ私飛べる!」
自分の意思でふわりと宙に浮いた菜花は嬉しくなって青年を見る。
彼はただ間抜け面で菜花を見上げていた。
「幽霊にも初心者とかそういうのがあんのかな…」
「え? 何、私って幽霊っていうの?」