★第四話 背を向けた女に気をつけろ
夜の街は煌びやかだ。特に、東京だとよく分る。その割に人はいない。大抵、帰り始めているから。なんだったか。社会の授業でうろ覚えに聞いた覚えがある。東京ドーナツ化現象? 東京の土地は高いが、仕事はそこに集中するので、その周りに住むという人が増えたとかで、人口が東京を穴の部分としてドーナツ状になっているのだとか。
正直、うろ覚えだし、どうでもいいが。歩を進めていく。目指すは、東京でまだ残っている、廃工場。
早めに取っ払われるのが普通だが、処理費が掛かるという理由でまだ手付かずだった。一応は私有地のままなのだが、俺は躊躇なく踏み込んだ。
錆びに錆びたシャッターが入り口を塞ぐべく降りている。妙だ。今は管理者がいない。土地の所有者こそいるが、シャッターは壊れていて下ろせなかった筈だ。看板にシャッターが落下する可能性がある的な注意と書かれていたのを覚えている。踏み越えたが。
一通り見て回ってみたが、どうも窓には板、裏口にも鍵、何処もかしこもそんな感じで、徹底して中への侵入を防ごうとしているように見える。本当に此処か? あらためて、意識を集中した。目を瞑って、大きく深呼吸をして、いざ。薄い魔力を、ゆっくりと波紋の様に広げていく。これは知り合いの魔法使い、これも知り合いの魔法使い、これは……魔法使いじゃない。知り合いでもない。
見つけた。目を開く。やはり、このシャッターの先に何かいる。しかし、侵入する方法がない。さて、どうしたものか。……裏口から強硬手段で侵入でいいか。別に。どうせ、魔法で俺の姿は隠されている。魔法とはかくも偉大なり、ってね。
さて、裏口のほうに回った。強力に施錠された鉄の扉は、随分硬そうに見えるが、魔法使いにとってこんな物ないに等しい。
「火よ。我が身に宿りて、我が身を守れ。エルシェイラン」
俺の体を、ほんわかと暖かな空気が包む。エルシェイランは火の精霊ではあるが、火と言うよりは熱と言った方が近い。そして、精霊は全ての生物に加護を授ける事ができる。これは、エルシェイランの加護だ。効果は、身体能力の上昇と、その硬化だ。
俺は、キックする直前のムエタイボクサーの様に、膝を高く上げ、つま先を地面に垂直に向け、腕を手首が顔の前に来るように持ち上げた。鋭く息を吸い、吐くと同時に足首の辺りで鉄の扉を強打する。ゴインと、鈍い音が辺りにこだまして、鉄の扉が少しへこんだ。このあたりで機能している会社はほぼなく、あってもこの時間帯ならもう帰っている。問題はない。
そんな訳で、騒音を気にせずにひたすらに足を打ちつけ続ける。ゴイン、ゴイン、ゴイン、ゴインと、俺は暫くの間、鉄の扉と戦っていた。加護が無ければ俺の足首は今頃真っ赤っかで、ヒーヒー言いながら足を抱えて跳びまわっていることだろう。いや、それ以前に足首の間接がイカレるか。
ゴインゴインゴインゴイン、ミシッ。おっと、そろそろか? 扉の留め具が悲鳴を上げ始めた。ゴインミシッ、ゴインミキシッ。よし、そろそろだ。俺は一旦脚を引っ込めると思いっきり足を前面に押し出す。ヤクザキックだ! ドアの留め具が限界を向かえ、ドアが後ろ向きに倒れた。……一回、やってみたかったんだ、コレ。いや、そんな事はどうでもいい。気を引き締めた。
警戒しつつ中に入る。前の廃ビルの様に下級悪魔がわんさか、と言う事はないが、恐ろしいほど静かだ。恐らく工業機械がズラリと並んでいたであろうそこは、今は殆どが撤去され、がらんとした広い場所だけがのこっている。つるつるした地面には埃が積もっていて、歩くたびに舞い上がる。この薄気味悪い仮面がガスマスクに似た能力を持ってなかったら咳き込んで涙目で歩いていただろう。
俺としては悪魔が襲い掛かって来ないだけ、楽でこそあるが、何となく不安だ。これまでの仕事が毎回毎回山のような悪魔ばかり相手してきた影響もあるのだろうが。
そして、一瞬立ち止まった。埃が積もっている床に目立つ、俺以外の足跡。埃が薄れていて、足跡がくっきりと残っている。しゃがみこんで、しっかり確認した。
目測で、大きさが大体22から24ぐらい。女性か、そうでなければ相当小柄だ。俺の予想があっていれば、ロシアの女の靴跡か。とりあえず、ロシア語を使っての偽装だったときの可能性は無視する。足跡を見る限り、ロシアの女は、どうやら屋上に向かったらしい。
階段を上りながら、あくまで警戒しながら、俺は考え込んだ。屋上で、悪魔召還? 目立ちすぎる。しかし、それ以外だとしたら何故? それに、何故下級悪魔が出て来ない?
駄目だ、疑問が多すぎる。とりあえず、向かってみるしかないだろう。
カツン、カツンと、俺の足音が響く。こういう時、いやな事ばかり思い出してしまうのは俺の悪い癖だ。たとえば、夜の学校の廊下を歩いていて、唐突な水滴の音に吃驚したとか。初恋はものの見事に砕け散った事だとか。疲れて帰っても誰もいないんだろうなぁ、とか。
駄目だ。憂鬱になる。戦闘が予想されるのだから、しっかりと気を引き締めねば。けれども、どうしても考えてしまう。駄目だ、だめ。俺は今、ひょろくて弱い上谷銀二じゃなく、魔法使いの闇にさざめく者なんだから。
歩きながら深呼吸を繰り返し、また自分に吹き込みなおした。俺は魔法使いだ。それも、大事な任務で此処に来ている。余計な事を考えるな、俺。
カツン、カツン、カコッ。階段が途切れる。とうとう、屋上だ。いや、随分長く感じただけか。スローモーションの長い夢でも見せられてるみたいだ。糞。
屋上へのドアは、最初から開いていた。ゆっくりと、扉を押し開けていく。錆びているのか、俺が自然と怖じているのか。扉の開く速度は遅々としたものだった。
開けた視界を、3歩ほど進む。俺の視線の先には一人、鶏の首を絞めた女がたっていた。ようやくお目見えか。俺は女に声をかけた。
「お前が、悪魔召還者か」
「……Да」
頭にビシリと罅がはいるような感覚。言語の精霊による他人への翻訳に感じる、独特の感覚だ。俺は余りこの感覚が好きではない。それはそれとして、女をにらみつけた。
やや短めにカットされた髪、喪服の様に黒く、飾り気のないドレス。そして、白い肌。まるで死神の様だった。死神のロシアの女か。後ろ姿は酷く寂しそうに見える。いや、俺がそう思っただけだが。
「今拘束されるなら魔法使い連盟は殺しまではしない。ここで拘束されろ」
俺はそう言いながら、ポケットの中の綾取りを指にはめている。凡そ、これで拘束されたものはいないからだった。俺が担当して拘束したのは二十七人。その内二十四人はこう言ったら抵抗してきた。
「『それもいいかもしれない』」
背を向けたまま、女が答えた。意外な答えだ。綾取りを取り出しかけた手がとまった。しかし、一瞬後にその判断がま違いであったと知る。女が振り返ると、女がもう片方の手に持っているのが宝石だと知った。宝石は悪魔召還に必要な素材の一つだ。
「なっ?!」
「『だが、これが終わってからだ。ドモリネペル、今願おう』」
俺は慌てて印を結ぼうとしたが、女が悪魔を召還する方が早かった。瞬間、吹き荒れる風。女の手から宝石が奪い取られ、その背後の魔法陣から立ち上がる、悪魔。
頭に二本生えたヤギの様な角。そして人に似た体。背中には蝙蝠のような羽を持ち、手には鋭利な爪が伸びていた。黒い肌に強大な魔力を宿したそれは、正に悪魔。それも、上位悪魔だった。
油断大敵だな、畜生。老いぼれたちの言う事もちゃんと聞いておけばよかった。曰く、「背を向けた女に気をつけろ」ってな。あぁ。こう言う事ならしっかり言っておけよ爺。