松の湯 (後)
◆
若旦那としては、罠という程の事をしたつもりはなかった。
ただその場にあったもので、いつものように『客をもてなした』だけだ。
「何故……⁉︎」
蚤の王が愕然としている。
彼にとって何か予想外の出来事が起きた様だ。
杖を何度も床に突いているところを見るに、先程同様にあの蚤を呼び寄せようとしているのだろうか。
だが杖先はほんの少しだけ床を黒に染めただけで、それ以上は何も出てくる気配はなかった。
黒い模様にも似た無数の虫は、果敢にも自分に向かってくるがすぐに退いていき、やがて霧散する。
「……‼︎」
蚤の王がきっと若旦那を睨み付けてくる。
多分、思い通りにいかない原因がこちらにあると思ったに違いない。
まあ間違えではない。
だが自分から反則行為に及んでおいてその言い草はないだろうと思う。
「貴様……何をしている?」
「何ってロウリュウですよ」
若旦那がしているのは本当に大した事ではない。
ただ時折、持ち込んだコップの水を指先で、暖炉に飛ばしているだけ。
ロウリュウとは、乾燥したサウナ部屋に蒸気を発生させることで、湿度を上げる入浴法だ。
こうする事で利用者の体感温度を上げ、発汗を促すことができるのだ。
「その匂い……⁉︎」
「ご存知ですか」
「ペパーミント……‼︎」
「そ。こっちでいう薄荷だね。今、エルフの森じゃあ人気らしくて手に入れるのに苦労したよ」
いつの間にか水に含まれていたペパーミントの精油が、部屋中に広がり、すっかり爽やかな匂いで満たされた。
これのおかげで限界に近い状況でも、何とか意識を保ってこの場に居続ける事ができた。
また彼方のペパーミントは、此方のものよりも発汗作用、防虫作用が凄まじい。
身体に吹きかけるだけで一切の虫が退くそうで、この状況にはぴったり。
時折、身体にも擦りつけておいた効果もあり、虫が寄り付く事もなかった。
「……それで蚤の旦那」
若旦那はきっと見据えて、番頭さんを乗っ取った目の前の敵に問うた。
「誰がこの部屋から出て行くんだっけ?」
◆
「……」
蚤の王はようやく理解した。
先程からの息苦しさ。
それを感じていたのは竜ではなく蚤の王自身だった。
眷属がまともに召喚されず散っていったのも同じ理由。
ペパーミント。
あちらの世界における天敵。
その『匂い』ががそこらじゅうに充満している。
「止めさせなくては……止めさせなくては……何だ……何なんだこの身体の汗はなんだ……?」
「滞ってた血液循環がスムーズになっている証拠だね」
竜が先ほどから尋常ではない量の汗を流している。
それも黒色。
これは彼女を支配する為に全身を巡っている『傀儡』の魔力だ。
「さあ旦那どんどん行きましょう。老廃物をだしたら今夜はぐっすりです」
若旦那はコップを傾け、石暖炉へと垂らし込む。
次の瞬間、爆発的な水蒸気が沸き起こり、辺りを霧で包み込んだ。
「くっ……蒸気を増やすなああああ‼︎!」
意識が朦朧としてくる。
いや番頭の意識が覚醒しつつあるのだ。
番頭の健康状態が改善され、汗がどんどん流れ出ていくことで『傀儡』が解けつつあるのだ。
だがこのままで終わらせるつもりはない。
「貴様なぞおおおおおおおお、くびり殺してやるわああああああああああああ‼︎」
苛立ちを込め、全身全霊で竜の魂をねじ伏せる。
一瞬でいい。
一瞬だけでも、この身体を思い通りに動かせれば、若旦那の首を引きちぎる。
地上最強の脚力で床を蹴りーー。
地上最強の腕を、若旦那に向け振るうーー。
「おおっとーー」
若旦那はふらつき避けることができないようだ。
代わりに手に持っていた物で遮ってくる。
盾でも刃物ですらない、ただの葉を束ねた団扇だ。
「そんなもの何の役にも……ぐっ??」
若旦那がニヤリと笑う。
「おや。ヴィヒタを御存じない? これで撫でると発汗作用が促進するんです」
番頭/蚤の王はガクガクと膝を揺らし、崩れ落ちる。
擦り付けられたヴィヒタとやらもまたペパーミントの葉を束ねたもの。
強烈な匂いによって引き起こされる目眩と頭痛によって、立ち上がることもできない状態に陥っていた。
「ふっ……ざけ……おって……」
だがまだ勝機はある。
仕切り直せばいい。
この場は撤退し、ペパーミントの匂いのしない場所で再び眷属を召喚すればいいだけ。
「みて……おれ……」
蚤の王は支配の解けつつある身体に鞭を打ち、よろよろと扉へ向かった。
だが――。
「おっと逃すつもりはありません」
若旦那が立ち塞がってくる。
鬱陶しい奴だ。万全の状態であれば、容易に薙ぎ払えるのだが、今は這いながら前に進むだけで精一杯の状況だった。
「番頭さん、しっかりして下さい。働き者の貴方がいないとこの銭湯は回らないんです。夕方になっらもっと混むんですからちゃっちゃと起きて下さい。お客さん達が入浴者マナーを守らなくてもいいんですか」
「………………にゅうよく……まなー……?」
ニュウヨークマナー。
番頭が意味のわからないその言葉に反応している。
「ええそうです」
「にゅう。…よく……まなーは……ぜったい……です」
「何だこの強い意志は……⁉︎ ぐっ……馬鹿な……支配が解ける……!?」
そして番頭の視界が晴れていく。
心を支配していた黒い何かが離れ、解放されていくのを感じていた。
「私は一体何を……?」
していたのだろう。
まるで悪い夢を見ていたようだ。
かつて湖畔に棲んでいた際、黒い霧に憑りつかれていたあの忌まわしい感覚のような。
だがここはいつもの松の湯だ。
番頭台ではなくサウナ室のようだが、何が起こったのだろう。
確か謎の老人が暴れ出したと思ったら倒れ出し、駆け寄ったと思ったら――。
「やあ良かったようやく目覚めたね」
目の前にいはいつものように若旦那がいる。
少しぶっきらぼうで、でも優しい人。自分のことをいつも見ていてくれる人。
「若旦那」
「おう」
だがよく見るといつもの作務衣姿ではなくほぼ半裸だ。
普段頭に巻いている手拭いで股間を隠しているだけのあられもない姿である。
そして自らもまた何故か、バスタオル一枚を身体に巻き付けているだけの霰もない姿。
「破廉恥です! 入浴マナーに反します!」
「いやいや入浴マナー的には、これでせい……か……い?」
若旦那はそう言いながら、床に倒れてしまった。
よく見ると若旦那は茹蛸のように真っ赤になっており、「きゅう」と呻いている。
「若旦那⁉︎」
番頭はようやく状況を理解し、慌てて駆け寄った。
◆
「おのれ……こんな事になるとは予想していなかったぞ」
蚤の王は、半壊した浴室を跳ねながら悪態をついていた。
いち早くサウナから脱出することはできたが、宿り主を失ったせいで弱体化していた。
今の自分は麦粒大の小さな虫に過ぎない。
この状況では眷属すら呼び出すことすら不可能だ。
「だが決して敗北したわけではない。竜を支配できなかっただけで、こちらの優位性は一切、失ってはいないのだ」
あの老魔術師でも、ドワーフでも、猫人族でもいい。
とにかく倒れている誰かしらを『傀儡』で支配した後、異世界に戻ればいいのだ。
今回、マツノーユを潰せなかったのは痛手だが、大陸には黒死病の猛威がまだ残っている。
そしてこの蚤の王さえ存在し続ける限り、永遠に疫病は存在し続けるのだ。
「うわははははっははははっはあっははははははっははははははははははははあはははははははははははははっははーー⁉︎」
「……? なんか踏んづけたかのう」
常連客である松爺は首を傾げた。
うっかり何かを踏んでしまったようだが、小さ過ぎて、老眼にはわからなかった。
「まあええか」
どうせ大したものではないに違いない。
さて見たところ何やら大変らしい。
浴室は見たところあちこちが壊れており、倒れている者達もいた。番頭さんは若旦那を抱えながら騒いでいた。
だが幸いにして湯にはまだ入れるようだ。
松爺はひとり湯船に腰を落ち着けると、ふうと息を吐き、壊れた壁の向こう側から見える葛飾の街並みを味わう。
細かい事を気にしない。
それが彼にとっての長生きの秘訣であった。
「はあああ極楽、極楽」
こうして――
一人の老人によって、異世界の危機は回避された。
松の湯 了
というわけで
今回にタイトルは伏線(笑)でした。
次回、軽いエピローグを挟んで閉幕です。