松の湯 (中 その三)
「そういや旦那、名前を伺ってなかったね」
「我は、蚤の王だ」
蚤に個はない。
あるのは群れ。人喰い蚤という種族だ。
だから蚤の王というのは本来、名前ではない。
一族を繁栄させるという使命を担った、指導者としての立場を、便宜上、表現したものに過ぎなかった。
ただそれでも問いに応えたのは、興が乗ったからという他ない。
そもそも仮初めの立場としてではなく、他者と会話をすること自体が初めてのことだった。
「ほう王様ですかい」
「人間からは、黒霧の病などと呼ばれているようだ」
言葉に意味はなくただの戯れ。
異世界人ならば、あるいは大陸で蔓延している病と関連付けただろう。
だが向かい側に腰掛けている若旦那は「そうですかい」と素気ない返事をしただけだった。
彼は聞いているのかいないのか落ち着きなく手で汗を拭っては、指先で弾いている。
「ところで蚤の旦那、もしかして運動不足じゃありませんか?」
今度はそんな問いを投げてくる。
「どういうことだ?」
「いやね王様ってあれでしょう玉座に座りっぱなしで、部下に命令したり報告書読んだり、決済したり。机はないけど基本デスクワークじゃないですか。おまけに管理職とくる。いやあこれはストレス溜まるんだろうなあと思いましてね」
若旦那がべらべらと意味のないことを喋りながら、また汗を指先で弾いた。
「就寝は大体何時頃っすか?」
「……」
「夜ですよ夜。流石に旦那も夜は寝るんでしょう?」
「……何が言いたい?」
「ずばり眠れてないでしょう? 不眠症ってやつですね。何で分かるかって? そりゃあもう目の下を見ればわかりますよ。ほら歌舞伎座もびっくりの隈だ」
「これは『傀儡』にかかった相手に浮き出る徴だ。我は眠りなど必要とはしない」
「いやあそうやって仕事熱心な人とか立場が偉い人は無理するんですけどね。いつか身体にガタがきます。ツケが回ってくる。ちゃんと寝たほうがいい」
若旦那は一人で喋り、一人で頷いている。
「……成る程、それが貴様の手か」
「はて?」
「そのように相手を煽り自分のペースに持って行こうというわけか」
「嫌だなあ旦那。ただの世間話だよ」
若旦那が苦笑いをしながら、何度も汗を拭う。
そして彼が汗を指で弾く度、中央の暖炉に当たり、僅かに蒸気が上がった。
多分、苦しくて仕方がないのだろう。
原因は、言うまでもなく部屋の温度だ。
腰掛けている木板が、火を直に触っているような熱さだ。こうなってはもはや人間にとってまともに生存できる環境ではない。
「いい加減、ただの人間ではここいらが限界のはずだ」
「いやいや江戸っ子をなめちゃあいけません。まだまだこれからでしょう」
「演技の上手いやつだ」
番頭/蚤の王は嘲笑う。
人間の心理は未だ理解できない部分がある。
ただ教皇を『傀儡』としていた際にも、今の彼と似たような兆候を見せる者が幾人かいた。
無意味な饒舌。
そうする者の多くは、緊張や不安、苦しみから、自分の気分を紛らわせる為にしている。
この時点で、若旦那の限界を見抜けた気がした。
彼には策などない。
あるのはちっぽけな自信だけだったのだ。おそらくサウナに他人よりも長く入っていられる事を得意がってただけの事。
若旦那に限界が迫っているのは間違いない。
化けの皮が剥がれるのも間近。決着はすぐに着きそうだ。
「……」
ただそう思うのとは裏腹に、竜の身体に起きている変化が気になっていた。
いつの間にか汗が吹き出て止まらなくなっていた。
宿り主である竜ですら息苦しさ、不快感を感じているらしく、意識も僅かに朦朧としている。
「時に、こちらかも聞きたいことがある」
番頭/蚤の王は気づくとそう問うていた。
それは思考とは裏腹の言葉。
早めに決着をつけたくなっている焦りから発したものに他ならない事に、蚤の王は自覚していなかった。
「ほう……何ですかい?」
「貴様は蚤の大群に襲われ、病にかかったはずだ。あれをどのように克服した?」
問うても、若旦那から正直な回答を得られる可能性は低い。
ただその反応から、何かヒントが探れるかもしれないと思っての事だ。
「ああ。やっぱりあれは旦那の仕業か」
若旦那はあっけらかんとした口調だ。
「いや別に大したことじゃあないさ。たまたまあった霊薬(エリクサ―)を飲んだだけでね」
「成る程」
蚤の王はよろめきながらも立ち上がった。
若旦那の言葉が真実かどうかはどうでも良いい。
いつまでもつまらん余興に付き合う必要はない。
少し慎重になりすぎていただけの事。
何れにしろ『眷属召喚の呪文』が効く効かないかはもう一度試してみればいいのだ。
殺せるならば殺そう。
それができなくても竜は万能。
この程度のサウナなど何千万年だろうと入っていることができるはず。仔細はない。そう仔細はないのだ。
「おや旦那、独りごとを言いながら立ちあがって……ギブアップですかい?」
「その通りだ。但し我ではなく貴様がな」
さあ苦痛にのたうちまわるがいい。この部屋を出ていくがいい。
呪文を口にしながら手にしていた錫杖を床に打ち据えると、『眷属召喚の呪文』を行使する。
この時点で、番頭/蚤の王にあったのは、ただただ早々に蹴りをつけたいという意思だけ。
彼はまだ気付けていなかった。
自身の思考と矛盾する行動に――。
身体に起きている異変に――。
何よりも、若旦那の罠にはまっている事に――。