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猟師の湯 (後)

「ねえ、その刺青……あなた『白狼』の出身でしょ?」


 少女は興味深そうな顔つきで、ハルアにそう問いかけてきた。


 刺青というのは、ハルアの右腕の呪い文字のことだろう。

 これは『白狼』の民が、十回目の冬至に施されるものだ。猟師の子であるハルアは『矢がよく当たる』呪いと、『耳が良くなる』呪いを入れてもらっていた。


「お姉さんは『白狼』の民じゃないの?」

「勿論。私が住んでいるのは『大樹海』だもの」


 女の人が手拭いから漏れる金色の髪をたくしあげて見せる。

 露出したその耳は、人間のものとは違い長く尖っていた。


「も、もしかしてエルフ?」

「ええその通り」


 エルフは人間とは違う種族だ。

『白狼』の大地より遥か遠く、巨大な森に住んでいるといわれる、精霊を扱う術に長けた長命の者たち。

 祖母の昔話でよく聞かされてはいたが、実物と遭遇するのは初めてだ。


 思わず、まじまじと見つめ返してしまう。


「あなたはマツノーユに来るのが初めてなのね」

「マツノーユ?」

「ええ、ここはあなたの『白狼』とは全く違う場所にあるマツノーユというお店」

「『白狼』とは違う……?」


 ここは『白狼』の滝壺ではないのか。

 だが狐に化かされているにしては、あまりにも実感があった。


「ねえトリアという妙齢の女性をご存知?」

「ぼくの祖母です」

「ああやっぱり!」


 エルフは嬉しそうに微笑んだ。


「私は『大樹海』にある『蠱惑の森』の族長アナスタシア。トリアとは友達だったのよ」

「お婆様のともだち……?」

「ええトリアは元気かしら?」

「その……病死しました」


 三つ前の立冬だ。

 黒毛の獣に襲われた妹を庇って、祖母は倒れた。

 一命は取り留めたものの疫病に罹り、結局、帰らぬ人となった。


 彼女はとても不思議な人物だった。

 村からも出たことがないにも誰よりも博識で、特に異国の話に詳しかった。

 その助言を求め、村だけではなく遠方からの訪問者が絶えなかった為、、葬儀には驚くほど多くの弔問者が訪れた。


「そう。心配はしていたの。最近姿を見せなかったから」


 アナスタシアは哀しそうに小さな溜息いた。


「でも教えてもらってよかった。ここではなかなか相手の消息を伺えないから」


 彼女は微笑みながら目元を拭うと、短く祈りを捧げた。


「……あの、アナスタシアさん」

「貴女のお名前は?」

「あっハルアといいます」

「素敵な響きの名前ね。……私のことはトリアのようにお姉様で構わないわ」

「ええっ!?」


 彼女の見た目はどう見ても自分と同年代か、すこし年上だ。

 冬至を六十七回も越えた老婆である祖母が、姉と呼んでいる姿はとてもではないが想像できない。

 一体幾つなのだろう。


「ええっとアナスタシア……お姉さん」

「まあいいでしょう」


 非常に呼び辛い。


「ここは一体どういう場所なんでしょう?」


 ハルアには未だに、このマツノーユがどういう場所なのか理解しかねていた。

 だがどうやら食事処ではないらしい。

 ここを訪れていたらしい祖母は一体何をしていたのだろう。


「ここはエルフにとって、族長にのみ許された沐浴の場です」

「沐浴」

「でも教会の信徒にとっては聖なる泉。長寿と繁栄をもたらす場所だそうよ」


 教会のことは知っている。

『白狼』とは異なる神様の教えで、大陸全土に広まっている信仰だ。


「そういえばトリアは昔、ここが『白狼』の神様の湯治場だって言っていたわね」

「人によって、意味が違うってことですか?」

「ええ。そしてあらゆる人がここを訪れる。何故なら大陸のあちこちに入り口があるの」


 アナスタシアが周りを見回しながら、そう言った。

 その視線を追う。


 今まで気付かなかったが何人もの客がいた。

 蜥蜴のような肌を持つものや、赤銅の肌を持つ者、印呪を刻んだ者など、明らかに出身が『白狼』ではない女性ばかりだった。

 アナスタシアは旧くからここを利用しているが、正直詳しいことはよく知らないのだと言った。 


「でもね。理由はどうあれ、ここを見つけた人たちは何度も訪れるの」

「何故ですか?」

「お湯に魅せられちゃうからよ」


 アナスタシアは言いながら、目の前の囲いのなかにある湯に入っていった。

 彼女は腰を沈めると、気持ちよさそうな溜息をついた。

 覗き込むとまるで新雪を溶かしたような透き通ったお湯だ。

 確かにここに入るのは気持ち良さそうだ。

 浸かれば、きっと身体の震えも止まるに違いない。


「さあいらっしゃい。折角知り合ったのだから、お湯に入ってお話ししましょう」


 祖母の友人の優しい手招きに従い、ハルアは湯のなかに身を沈める事にした。



「……若旦那」

「ん、どうしたい?」

「宜しかったのでしょうか?」


 番頭に声をかけられ、若旦那はスポーツ新聞から顔を上げた。

 彼女の視線は、何やら気遣わしげに女湯を向いている。

 白狼の少女を心配しているのだろう。


「あの子は初めてのお客様です。とても案内が要らないようには思えませんが」

「大丈夫、大丈夫」


 若旦那は新聞を捲りながら、笑った。

 番頭は『浴室まで連れて行けば十分』という指示に不満があるかもしれないが、若旦那自身は何も問題はないだろうと考えていた。


 確かにあちらの住人は入浴習慣がない。

 だから初めて訪れた客は銭湯が何かも理解できておらず、ある程度付き添っての案内が必要になる。


 ただ今日は常連客のアナスタシアがいる。

 世話好きの彼女なら、迷っている客には声をかけるだろうし、白狼の娘だと知れば猶更面倒を見たがるに違いない。


「今頃はエルフの姐さんが面倒を見てくれるよ」

「ですが」


 番頭は納得がいかないようだ。

 もの言いたげな視線を向けてくるが、暫くすると業を煮やしたらしい。


「ちょっと湯加減を見てきます」

「はいはい頼んだよ」


 若旦那は苦笑しながら、女湯へ向かう番頭の後ろ姿を見送った。



「はー久しぶりに楽しい気分ね」


 アナスタシアが湯船のうーんと伸びをする。

 エルフの族長にとって、肩書きに縛られないここは数少ない息抜きの場なのだそうだ。

 彼女は昔を懐かしむように、祖母の話をしてくれた。 


 ハルアはその声に耳を傾けながら、何故祖母が、見たことも聞いたこともないはずの知識を持っていたのかを理解した。

 誰も知らないこの場所で、密かな交友を育んでいたお蔭なのだろう。


「お湯加減は如何ですか?」


 案内をしてくれた先程の女の人が声をかけてくる。


「とっても気持ちがいいです。こんなにあったかいのは生まれて初めてかも!」

「それは何よりです」


 彼女はバントウというらしい。

 うっすらと笑みを浮かべると会釈をして去っていった。最初は無愛想な人だと思ったが、案外良い人なのかもしれない。

 訪れる前は正直死にかけていたが、今は生き返った。

 囲炉裏に当たるのが比較にならないくらい暖かく、身体のこわばりも解れるどころか蕩けていくような気分だ。


「フウ、ゴクラクゴクラク」


 ふとそんな言葉が口から零れる。

 祖母が機嫌の良い時よく口ずさんでいた不思議な呪文のひとつだ。

 どうやら自分もまた、このお湯に魅せられてしまったひとりであるらしかった。



 暖簾を潜り、店を出る。

 すると、いつの間にか祭壇の上に立っていた。

 狐に化かされていたのかもと疑ってしまうくらい、あっさりと元の場所に戻ってきてしまった。


「でも夢じゃない」


 ハルアは手のひらのなかに残るそれ(・・)を握り、にっと笑う。


 すっかり乾いてしまった衣類や、湯に浸かったことで得られた体に残る熱。

 それらがあの場所での出来事を嘘ではないと物語っていた。

 洞窟を出て崖に近づくと、地上からの陽が差し込んでくる。


 どうやら吹雪は止んだようだ。

 どうやって帰ろうか考えていると、壁面に黒い何かを見つけた。


 杭だ。

 祖母はきっと、生前これを使ってマツノーユに通っていたのだろう。

 これで地上に戻ることができそうだ。


「ガフッガフッ」

「うわっ」


 何とか壁を登りきると、いきなり何かが胸に飛び込んできた。

 相棒のフェンリルだ。

 兄妹のように育てられた白い毛並みを持つ体躯の狼は「どこに行っていたんだ」としきりにハルアの頬を嘗めてくる。


「よしよし心配かけたね」

「ガフッガフッ」


 愛狼を労うように何度も背を撫でてやると、暫くして彼は、「こっちに来い」と外套の袖を噛み、何かを催促してくる。

 どうやら黒毛熊の足跡を見つけたらしい。


「……」


 ハルアは手を何度も握り開いて悴んでいないか確かめた。

 それから矢筒から取り出した矢に新しい(やじり)を取り付ける。


 湯から出た後で、アナスタシアから託された品だった。

『白狼』の国にはない鉱石を削って作られたもので、魔物に強い威力を発揮するのだという。

 祖母から死ぬ前に依頼されていたのだと彼女は言っていた。


「さあ行こう黒毛退治だよ!」


 ハルアは準備が済み、愛狼に声をかける。

 それから弓を握りしめると、黒毛狩りを再開する事にした。

猟師の湯 了

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