猟師の湯 (前)
アーススターノベル様にて、書籍化が決まりました。
8月17日発売予定です
(下のイラストは作者が趣味でかいたドット絵です)。
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(御入浴における諸注意)
・当銭湯には、魔術師、エルフ、ドワーフなど様々なお客様が来店します。
文化や生活習慣の違いによるトラブルがあるかもしれませんが、お湯に流しましょう。
・入浴マナーを守りましょう。番頭さんを怒らせると大変なことになります。
・当銭湯は刺青・タトゥの方でも気兼ねなく御入浴できます。
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『白狼』の大地――。
大陸の北端にあり、大山脈によって他の領域から断絶された未開の地。
かつて大帝時代には開拓も計画がなされ、囚人や移民などが送り込まれた経緯もあったが、結局は頓挫。
一年の殆どが雪で覆われてたその場所は、人が生活を営むには厳しい環境であった。
だが、元からそこに住まう者も極少数だがいた。
『白狼』の民。
彼らは土地柄、交易などはほとんど行わず、独自の風習文化を形成していた。
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「大変なことになってしまった……」
『白狼』の民、ハルアは遥か遠くの地上を見上げ、途方に暮れていた。
状況は絶望的だ。
目の前にそそり立つのは巨大な氷の壁。
とてもではないが登攀して地上には戻れそうにはない。
彼女はまだ半人前の身だが、村の猟師だった。
宿敵である『黒毛』を追いつめかけたすぐ後で悪運に見舞われたのだ。
急に天候が変わり、吹雪のなかで愛狼とはぐれた挙句、雪の割れ目に踏み外したのだ。
何より問題なのは、落ちた底が雪渓だった事だ。
今まさに、彼女は冷たい流水に腰元まで浸かり、体温を奪われ続けていた。
寒い。
愛狼フェンリルの毛並みが恋しい。
祖母の形見の木片の護符を握りしめ、寒さに必死で堪えた。
「……どうしよう」
ハルアは己の身体を摩りながら考える。
もう村には自分以外に狩りをできる者がいない。
既に父を含めた猟師五人が怪我を負い、三頭もの橇引き狼が殺されていた。
黒毛という恐ろしい熊の魔物のせいだ。
奴は人里に降りて悪さを働くだけではなく、疫病を広める。
見つけたら早急に殺さなくてはいけない決まりがあった。
ここでハルアが死ねば、村や、残してきた小さな妹を、一体誰が守るのだろうか。
「……よし」
気持ちを切り替え、改めて辺りを見回した。
ここは元々、滝壺だった場所に違いない。
祖母の昔話で、この辺りに神様の住む滝があったと聞かされたことがある。
暫く歩くと、凍りついた滝があり、くり抜いた様な横穴を見つけた。
「どこに続いているんだろう?」
穴は暗く先が見えなかったが、運が良ければ地上に出られるかもしれない。
ハルアは祖母の形見の護符を強く握りしめると、先に進むことにした。
◆
「おかしいな」
先ほどまで暗い洞窟のなかにいたはずだ。
奥で祭壇みたいなものがあり、近づくと床に魔法陣のようなものが刻まれていたのを覚えている。
それがいつの間にか違う場所にいた。
「……ここはどこ?」
目の前には古ぼけた紺色の大きな暖簾がある。
白抜きで『男』『人界世異』『女』という見たことのない文字のような模様が入っている。
潜り抜けると途端に明るくなった。
見回すと屋内――天井が、陽の光のように明るい――隙間どころかむらのない漆喰の壁に囲まれた空間だった。
「いらっしゃい。松の湯へようこそ」
部屋の奥にある背の高い台から声が降ってくる。
見上げると青年がいた。
明らかに『白狼』の民ではない。
何故なら瞳が黒く、僅かに肌が日に焼け、身に纏っている服も見たことのない藍染めの薄着だ。
手にしていた細やかな文字が記された大きな紙を折りたたみ、こちらを見てくる。
「あの……ここは一体?」
「いらっしゃい」と声をかけられた以上、ここは何かの店なのだろうか。
「松の湯という銭湯だよ」
マツノーユ。セントウ。
聞きなれない言葉だ。
店の周りを見る限り、商品も見当たらず何を売っているのかも不明だ。
ハルアが戸惑い身構えていたが、店主は気にした様子もなく話しかけてくる。
「おれはこの店の主人で、若旦那って呼ばれてるんだ。よろしくな」
ワカダンナ。変な名前である。
やはり『白狼』の民ではなく異国人のようだ。
「ええと嬢ちゃん、その恰好見ると『白狼』から来ただろ?」
「……」
「凍えてるところをたまたま、ここにやって来た? 違うかい?」
ハルアは頷いて見せる。
その通りだ。長い時間雪渓に晒され、身体は凍えきっていた。
「何かよく分からないうちに怪しい店に来ちまったが、この際、嘘でも何でもいいから温まりたいと……思っている?」
「そう……ですけど」
「なら風呂はどうだい?」
「フロ?」
「ああ。身体が芯からあったまるぜ?」
成る程、どうやらここは食事処のようだ。
フロとは汁物か串焼きの類に違いない、とハルアは理解した。
空腹ではなかったが、暖が取れるなら何でもいい。
「じゃあ、フロというのを一杯下さい」
「ああ、えーと、いや銭湯は売り物ではないんだな」
ハルアは何となく噛み合わない会話に首を傾げた。
◆
「私はここの番頭です」
「ど、どうも」
「ではこちらへ」
ハルアを案内してくれたのはワカダンナではなく、別の人物だった。
ちょっと素気ない印象がある女性だ。
この人も『白狼』の民ではないのだろう。長い黒髪と白い肌は、自分と似ていたが、瞳の色と着ているものが違っていた。
先導され、店の奥にある『湯女』という文字の暖簾を潜り、四角い箱が並ぶ部屋に到着する。
「ここで、お召しのものをお脱ぎ下さい」
成る程、濡れた着物の替えを用意してくれるらしい。
何て親切な食事処だろうと、感心し、ハルアは言う通りに従った。
だが手渡されたのは手拭い一枚だけだった。
そして裸のまま、更に奥の部屋に放り出される。
「ではごゆっくり」
「ちょっ、これ、どうなっているの!?」
バントウを呼び止めようとしたが既にいなくなっている。
状況が全く呑み込めない。
早く食事をして、身体の震えを何とかしたいのに。
自分が今いるのは、固く滑らかな石細工の床でできた広間だった。
凍え死ぬような寒さではなかったが、とても暖まれる状況ではない。
囲炉裏がないかと辺りを見回し、大きな石細工の囲いが目に入る。
近づいて覗き込んでみると、なみなみと水が蓄えられていた。
「飲み水?」
それにしては多すぎる。
今の時期は、村の井戸水も完全に凍りつく。切り出した氷を溶かすの手間がかかるので、水は必要最低限しか蓄えないのが常識だ。
「水ではないから触ってみるといいわ」
ハルアは言われた通り囲いのなかに浸してみる。
「熱っ。これで料理を作るの?」
「そんなわけないじゃない。面白い子」
くすくすと笑う声に我に返る。
振り返ると、少女がいた。
おまけに自分同様、裸だ。
若木のように細く、新雪のような肌を惜しげもなく晒している。
頭に巻いた手拭いの隙間からのぞいた黄金色の髪から、彼女もまた異国人なのだと分かった。
「ねえ、その刺青……あなた『白狼』の出身でしょ?」