スカビオサ
ここは、俺以外の人がいない街。
……いや。正確には、俺以外の人がいなくなった街。
もちろん、俺の"特別な存在であった人"もいない。
ここには、俺しかいない。
こんなことは信じられない。……信じたくない。
でも、信じるしかない。
そんな街を俺は今、1人で歩く。
……見慣れたものとは少し違う風景。
いつもは聞こえる人の足音も、賑やかな声も
今ではすっかり空気に溶け込んで消えてしまった。
いつもは、肩を並べて歩いている道。
なのに、隣を見ると誰もいない。
それなのになぜか、無意識に手を差し出す。
いつものように、手の温もりを求めて。
……"あの人"に触れたくなって。声が聞きたくなって。
でも、そんな事、できるわけないのに。
俺は出した手を、ぎゅっと握りしめた。
ふと、寂しくなって俺はその手を胸ポケットに入れ、煙草を出す。
ライターで火をつけ、口元に持っていく。
……ここまでして、なぜか手を止めた。
なぜか今日は、これ以上する気にはなれなかった。
俺は1つ溜め息をつき、携帯用の灰皿を出した。
火を点けたばかりの煙草を消す。
揉み消した煙草の火。
それは、綺麗な紅色から、曇った灰色と一瞬で変わった。
……後に灰色は大きく揺らめき、溶けるように消えた。
そこで、ふと思い立った。
--"あの人"と2人で一緒に巡ったところに行こう。--
"あの人"と行った場所に行って、色々な事を思い出す。
それが、"あの人"を感じることができる最大の手段だ。
それに、1人で行くと、今までの景色が違うように見える気がして。
それがどんな感じなのかが知りたくて。
悲しくて、虚しくなるのはもう目に見えている。
それでも、今、俺しかいないこの空間。
それを、めいいっぱい楽しむ方法は、それしかないのだ。
まず俺は、1つ目の目的地へと足を向ける。
その場所はここからあまり遠くなく、徒歩で行くことのできる範囲だ。
俺は道を右に曲がり、目的地へと目指した。
……一番最初に着いたのは、初デートで来た映画館だった。
その時に見た映画は、いかにも女子が好きそうな恋愛系のものだった。
確か、内容が凄く好みだとか言っていたような。
そして俺らはその帰りに、初めて手を繋ぎ、唇を重ねた。
あの時はまだ、目もしっかりと合わせられなかったな。
……今は、合わせたくても合わせられないのに。
そんな事を思いながら、俺は次の場所に移動する。
次に来たのは、俺たちがよく行っていたカラオケ店だった。
"あの人"は歌が上手くて、点数はいつも90台を越していた。
歌声も綺麗で、なんだか吸い込まれていくように感じていた。
俺はそんな歌声も好きだった。
……もう一度、もう一度だけでいいからあの声を聞きたい。
そんな叶わないことを思いながら、その場所を後にした。
そして、最終の目的地へと足を運ぶ。
いつも俺ら2人が歩いていたこの道。
もう1人で道を歩くことも慣れてしまっていた。
……でもなぜか、この時には、隣に"あの人"がいるような気がした。
この歩き慣れた道の角を曲がる。
俺はその先へと目を向ける。
すると、そこには綺麗な、目の覚めるような青色をした海が広がっていた。
……そう、最後の目的の場所はここだった。
ここは、俺たち2人が最初に出会った場所。
そして、俺が想いを伝えた場所。
なにより、この状況になる前の、一番最後に会った場所だ。
ここは、俺たちにとって、大事な場所。
だから、最後の目的地として、この海を選んだ。
その青色へと導かれるように足を進める。
足は勝手に早く動いていく。
やがて、目の前に青色が主張をしてきた。
足元に目を向けるとそこにはなぜか、人の足跡があった。
その形が"あの人"の物だということがすぐにわかった。
……俺の胸は、もう様々な感情で、いっぱいいっぱいだった。
目の前には息を飲むような青。
見下げると"あの人"の足跡。
目を閉じると、一定のリズムで打ち寄せる波の音が鮮明に聞こえる。
そのままの状態で、1度だけ深呼吸をする。
"あの人"がここにいたと思うと、この空気まで愛おしくなってくる。
「……戻りたい?」
ふと、俺の耳元でそんな声が聞こえた。
それは、よく聞き慣れた、優しい声。
「……え?」
俺は目を開ける。
もちろん、"声の主"はいない。
足元を見ると、"足跡"さえ、砂に埋もれてしまっていた。
残っているのは永遠と続くであろう青色と、砂道と、波の音。
か細い声が俺の耳に残る。
その瞬間、俺は遂に、本当に、
『俺以外がいなくなった街』
になってしまったのだと気がついた。
その時、目から一筋の涙が溢れてきた。
拭っても拭っても止まらない。
涙はいつか止まるものだと思っていた。
過去に縋って流した涙は、なんとも言えない色をしていた。
そして、俺の恋も、行方知らずとなってしまった。
……頼む、俺を独りにしないでくれ。
こんなのはあんまりだ。
そして
『"麗奈"、俺は……っ!』
必死に涙を堪えた。
そして、大きく息を吸って、しっかりと。
『……俺は、ずっと愛してた。これからも、愛してる。』
もう二度と会えない存在へと、精一杯、今の気持ちを伝えた。
『俺は、"麗奈"を、忘れたり、しない……。』
その一言をきっかけに、また涙は止まらなくなった。
段々と息ができなくなってくる。
俺は、ここから戻れなくなってしまった。
もちろん、これより先に進むこともできない。
俺はこれからどうしたらいいのだろう。
……誰か、俺に1人で歩く方法を教えてくれ。
問いかけても、誰も答えてくれない。
いくら待っても返ってくるのは、波の音だけだった。
スカビオサ:私は全てを失った
ワスレナグサ:私を忘れないで
麗奈は「ワスレナグサ」のレナからとりました。
全てを無くし、1人になってしまった男の人のお話でした。
皆さんは、きちんと相手が目の前にいる間に想いを伝えましょう。
言えなくなるその前に。
この男の人は、最初は1人でも平気でした。
その気持ちを表現するなら、綺麗な赤色でしょうか。
でも段々とその気持ちも薄れてきて。
最後には溶けるように消えてしまいました。
……これが、タバコのシーンを出した理由です。
タバコを吸えなかったのは、赤色を続けられる気がしなかったから。
……1人でいるのは案外辛いものです。
この男の人は、愛しい人と巡ったところを今度は1人で行きました。
もし、皆さんが自分1人だけの街になってしまったら、何をしますか?