出張
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あの後の自分がどう過ごしていたのかは定かではない。気付けば景色も時間も日付も変わり、次の日の朝を迎えていた。勿論、その間の記憶などは一切合切覚えていない。
ただ、ふと思い返すとあの時の光景が焼き付いたフィルムを巻き戻し巻き戻しして何度も上映されていて、その度に頭の先から足の根元までが熱い線が一本通っているみたいに熱くなる。
それでいて分からない。エレナが俺にした事の意味を推し量る事ができないのだ。彼女が最後にしたことで、俺に何を伝えたかったのか。
心意を確かめる術もなく、茫然自失の俺は歯ブラシ片手に洗面所にたってボケっとしていた。そして、鏡に映る締まりのない顔を見て、昨日の出来事が偽りでなかったことに想いを馳せる。
「どうしたんだい? 鳩が豆鉄砲食らったような顔で」
「うわっ! ビックリした……いきなり覗き込んでこないでくださいよ」
「ハハハ、ごめんごめん。あんまりにも心ここに在らずって感じだったからついね」
朝っぱらに中年男性が音も気配も無く、背中越しにいきなり出てきて顔を覗いてきたら、そりゃ誰だって驚くに決まってる。
叔父さんには、昨日の件をきちんと伝え、事の顛末を知ると笑って許してくれた。それだけで度量の大きさが伺い知ることができた。
エレナはエレナで、昨日の看病が効いたのか、俺と同じく一日で病気を完治させ、今では気丈に朝ご飯を作ってくれている最中だ。周りから見ても血色は落ち着きを取り戻し、何故だか少し大人びて見えた。
朝に挨拶を交わした時には可笑しい点は殆ど無く、いつも通りの通常運転。一つ差異があったとすれば少しだけ熱の残りか、顔が少しだけ赤かった。
そんな刹那の記憶をコップに注いだ水で洗い流し、ついでに自分に喝を入れる為に顔に冷水を叩きつける。冷や水で肌の細胞一つ一つが、まさに文字通り身が締まるかのようにピッチリとしたハリを生んだ。
「さーて、今日の朝ごはんは何だろうねー? 」
「一昨日と同じメニューじゃないんですかね? さっき通った時にそんな匂いがしてました」
「じゃあ、ファーガソンさんの所のパンかな? あそこのパンはいつ食べても焼き立てのと味が変わらなくて美味しいんだよねー」
などと、他愛ない会話をしながらリビングへと歩を進め、いつもの決まったテーブル椅子に腰掛ける。叔父さんお気に入りのウッドアームレスチェアは拘りのヴィンテージ物らしく、確かに、一押しするだけの座り心地があった。
ギシギシと軋む音低音が、朝食を知らせるルーティンとしてお腹の音を誘発させハウリングする。
そして、少しすると彼女が朝ごはんをテーブルの上に置いてくれて、全員が腰掛けてから朝食が始まる。
うん、いつも通りの日常、通常運転。
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「「ご馳走様でした」」
「お粗末様でした」」
「レイ君、ちょっと今時間は良いかい? 」
「はい? 別に大丈夫ですけど…」
食後の一時、食器を片付けていると叔父さんに席に着くように手振りで示され、素直に席に戻る。
いったい、何の話があると言うのか。
「レイ君……」
「……はい」
なんと真剣な表情、思わずゴクリ、と固唾を飲んでしまった。これは叔父さんの仕事フェイスだ。
「君に頼みたい事があるんだ。いや、君にしか頼めないことがあるんだ」と言いながら叔父さんはポケットから地図を取り出す。
そこには久し振りに見た気がする世界地図が広がっていて、そこに幾つか、赤で印をつけてある街や都市があった。もちろん、全て行ったことも見たことも聞いたこともないような場所だ。
「僕とエレナが昨日と一昨日に急な入りで仕事に行ってたのは覚えてるよね、それが今回の件に絡んで来るんだ。レイ君は通商組合って知ってるかな? 」
「確か……この商業都市の中での経済活動を一手に担ってる組織団体でしたね」
ここは商都、商売が最も盛んで同時に都市を支える基盤となっている。その為の規則や様々な問題を解決する為の機関が通商組合。
「そう、ここでは僕らみたいな商人は全員が通商組合に参加していて、平等な商売をしているんだけど、今回、急遽新人育成の目的で新人だけの出張……というか研修のようなものがあるんだ」
「新人……だけ? 」
チラッと目をやると、エレナもこちらを見ていて、事態を既に把握しているのか頷く素振りを見せた。
エレナも商人の卵、つまりは新人な訳で参加は決定しているのか。
「そう、偶にこういう事が行われるんだけど今回はいつもと勝手が違うんだよ」
「勝手が違うとは? 」
「いつもは大概、大人数で男女混合で行うんだけど、それが今回は色んな事情が重なって、エレナを含めて三人しか参加者がいない。これは由々しき事態なんだ。……加えて、一番の問題なのがみんな女の子で、男性が一人もいない」
「つまり、俺に護衛兼手伝いをしろと? 」
「察しが良いね。実はそうなんだ、慣わしとして新人の商人しか参加できない所為でギルドに護衛を頼もうにもできない。そこで白羽の矢が立ったのが君なんだ」
なるほど、俺なら一応商人の手伝い、つまるところの端くれであり、ルール上何の問題もない。
叔父さんも、大勢でなら何の心配も無いだろうが、年端のいかない娘を含む三人で行わせるのは危険視しているのだ。俺だって同じ考えだ。
「基本的には安全なルートを通って、幾つかの街や都市で依頼を済ませるだけの簡単な仕事なんだけど、万が一という事もあるからね。頼めるかい? 」
「やります、俺で良ければですが、できる事ならなんでも手伝いますよ」
「本当かい!? ありがとう、やっぱり君に依頼をして良かったよ! なあ、エレナ? 」
「私も……レイが居てくれるなら心強いかな」
「エレナもこうして喜んでる事だけど、くれぐれもみんなの前でイチャイチャしちゃダメだからね? 」
「「しません(よ)!! 」」
俺が引き受けると言った途端にこれだ、叔父さんは安心したのか冗談交じりに俺たちを突いてくる。
エレナは赤面しながら叔父さんの肩をポカポカと叩き、当の本人は、笑いながらまあまあと彼女をなだめている。
あ、そうだ、引き受けたのは良いが、大事な事を聞く事を忘れていた。聞くなら早い方がいいだろう。
「あの、一つ聞き忘れていたんですけど、それっていつから行くんですか? 」
「今日だよ? 」
「……え? 」
こうして、急遽決まった俺とエレナの出張。
この出来事はある大事件に発展していくのだが、この時の俺は急な準備に追われてそんな事を考える余裕は露ほども無かった。




