感冒
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「ブァックショイ! ……寒い……」
「……だから言ったのに」
雨が降り続く中、体を半分も濡らしたまま帰れば、案の定風邪も引くもので。
俺は息も絶え絶えになりながら、二階の寝室に横たわっていた。
体の体表はとても熱く、服を脱いで楽になりたいと叫ぶのだが、反対に体の芯は氷像の様に冷たく凍えている。
体のそこかしこで節々が痛み、司令の中枢である頭でさえも、痛みに動くことを止めていた。
止まらない鼻水と咳は更に呼吸を困難にし、変にかいた汗が寝巻きを濡らす。
仰ぎ見る天井は、何も映らない白の景色が端まで広がっているだけで、特にこれといって面白いものでもなく、見飽きることにそう時間はかからなかった。
広い部屋にポツンと一つだけ引かれた寝床には、季節にしては多めの布団、他には横に水の入ったグラスと薬の空箱が置かれている。
エレナは俺と同じく、風邪を移されないようにマスクを着用して枕元で座り、寝込む俺を上から見下ろしていた。
「強がるから風邪なんか引いちゃうんだよ? しかも、私達が二人とも仕事で居ない日に限って引いてくれるなんて……バカ……」
「ごめんなさい……今日は大人しくしてます……」
「当たり前だよ! ……もう、早く仕事を終わらせて帰ってくるからそれまで大人しくしとくんだよ? 」
「……はい」
反省も兼ねて、スッと目を閉じると、頭に冷たい感触と重さを感じて目を開けた。
どうやら、濡れたタオルを絞って頭に乗せてくれていたみたいで、酷かった痛みが緩和している気がする。
「あー、気持ち良い……生き返るよ」
「そんなの一時凌ぎなんだから、直ぐ治るとは思うけど絶対安静にしておくこと! 分かってる!? 」
「うい……」
無言で彼女の顔を見つめ続け、その心配して無さそうで実は心配してくれている所が分かるだけでちょっと嬉しい。
なってから気付いたけど、可愛い女の子に看病して貰えるなら、誰だって風邪を引きたくもなるよコレは。
エレナは、家で家事を任されていただけあって、実際に手際はとても良く、今朝部屋で倒れていた俺を見つけるや否や疾風怒濤の勢いで俺を隔離し、布団を引いたり看病の準備を整えてくれていた。
俺は俺で、朝目を覚ました時には既に意識が朦朧としかけていて、まともにその場から動くこともできず、無様な状態で仰向けに倒れていた。そこをあまりにも起きるのが遅いので訝しんで来たエレナに発見されたという形。
今は容態も安定してきているし、一人で大人しく寝ている位なら何の問題も無さそうだ。
お昼を抜くのは少し辛いが、寝ているとあっという間に時間が経つものだし、少しの辛抱だろう。
「それじゃ、行ってくるね。夜まで掛かりそうな仕事だけど、夕方までには終わらせてくるから頑張って」
「……そこまで無理しなくても……いいから……」
「そんな訳にもいかないでしょ? 病人一人残して行くなんて心配でしょうがないんだから! 」
「んじゃ……よろしく」
「はいはい、行ってきます」
自然な所作で立ち上がると、悩みの種を残すことを名残惜しそうに部屋からエレナが出て行った。
これから約半日もの間、どうやって過ごそうか。
まともに動かぬ頭を動かすことすら忘れて、疲れ果てた俺の意識はいつしか夢の中へと誘われて行った。
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『零……大丈夫? 随分と魘されていたみたいだけど……熱は下がっていないわね……」
『……今日は学校を休むよ……』
目も開けられない状態で、俺の頭の中に二つの声が響いていた。
一人は幼い子供の声で、もう一人は大人の女性の声だ。
『雨の中を傘も差さずに帰ってくるなんて、無茶をし過ぎよ……お姉ちゃんを見習いなさい』
『ごめんなさい……』
声だけでしか判断できないが、この男の子も俺と同じようにずぶ濡れになった次の日に風邪を引いて、家で看病してもらっているのだ。
それもおそらく、母親辺りにしてもらっている気がした。理由は分からないが、そんな気がするのだ。声のトーンや、癖、他の色んなことがそうだと頭に語りかけているみたいに。
『貴方だけが家で風邪を良く引くのよ? 体調管理くらいちゃんとしなさいと何度言ったら分かるの』
『次からは気を付けます……』
俺にはその男の子の顔も、隣で看病をしているその子の母親の顔も見ることはできない。見たいのに目が開かないんだ。夢の中で目を閉じて立っているだけの存在。それが今の俺だった。
『でもね……蛙の鳴き声を聞きたくって庭に居たら、代わりに綺麗な紫陽花を見つけたんだ! 』
『紫陽花……ね、暫く見てないからさぞかし美しく咲き誇っているのでしょうね……それにしても、雨の中にずっと居たことは感心できませんけど』
『はい……』
顔は見えないのに、男の子の気持ちは不思議なことに手に取るように分かる。この男の子は、風邪を引いて辛い思いをしているのに、どこか嬉しそう。
普段話せない人と、ちゃんと面と向かって話ができる大切な時間。本人はそう感じている。
いつも話したかった沢山の話を一度にして、相手もそれを聞いてくれる嬉しさや楽しさ。男の子の声からはそんな明るい心の感情が滲み出ている。
『……嫌という程話しは聞いたから、そろそろ安静にして寝なさい。さもないと、治る病気も治りませんからね』
『……うん、大人しくしてるよ……』
『宜しい……それでこそ我が家の長男だわ』
その言葉の持つプレッシャーは、暖かかった少年の心をいとも容易く凍り付かせた。
本人は無自覚でも、とても心は苦しんでいて、反応することすら躊躇ってしまう。
それでも……この時間だけはその事を忘れさせてくれていた。何も家の事を考えずに済む、唯の親子の会話。それができるだけで今は十分だった。
『それじゃあ、仕事に行ってくるから、夕方までには戻るわ。……おやすみ……零……』
『おやすみ……母さん……』
最後に漏らした一言。我慢しながらも男の子の気持ちを込めた精一杯の一言を聴き、俺の意識は再び途絶えた。




