パン作り教室その②
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「ふぅ……これで大体は済んだかな? 」
「出来ましたか? ある程度のまとまりが出来たら、小皿に取っておいてあるバターを取り出して、まとまった生地に満遍なく混ざるようにように捏ね合わせていきます」
脂ギッシュなバターを適量入れて生地を混ぜると、段々と生地の滑りが良くなって、次第にまとまった生地が手から離れやすくなる。
ボウルの縁で生地を打ち付ける様にしていたエレナも、ボウルを使わずに打ち粉が付いた特性鉱石のパン打ち台の上で手ごねを始めていた。
「意外に捏ねて打つのも楽しいね! ストレスが発散できて一石二鳥だよ」
「パン作りをストレス発散の道具として見るのはどうかと思うのだが……」
「レイもやってみる? 本当にスッとするから! 」
言われるがままに手を掴まれて、ドキドキしながらパン生地に触れる。
エレナがさっきまで楽しそうにこねくり回していたパン生地……何処か暖かくて、何だか気分が高揚してしまいそう。
ふにゅんと沈む指先と、奥から反発してくるグルテンの感触、これはエレナの言っていることも一理ある。試しにこね回すのを止め、頑丈な台に打ち付けては伸ばしてまた打ち付ける。
「ヤベぇ……コレ意外と楽しいわ……癖になる」
「でしょー? レイならきっと嵌ると思ってたんだ」
「あら、そっちのチームもそろそろ準備が終わりますね。出来たら次はいよいよ第一発酵に入るので、生地をボウルに入れてラップをかけてください」
指示に従い、名残惜しそうに生地を見つめるエレナを放っておいて、重くなった生地をボウルに移してラップをかけた。
発酵時間は約五十分、たわいの無い雑談で時間を潰した。
ヒカリの家族のことや、最近あった面白い話まで、尽きることの無い会話、とても有意義に過ごせる環境がそこには存在した。
やがてタイムリミット、タイマー代わりの砂時計の中に入っていた星の欠片が全て下に落ちてしまっている。時間が経ったので、生地を一度取り出して様子を観察していると、ある大きな出来事に目が行ってしまっていた。
さっきまでは、ボウルの半分もいかない位の大きさだったのに、今の大きさはボウルの面積いっぱいまで広がりを見せていた。
「パン生地ってこんなに大きくなる物なんですか? 」
「そうです、パンは発酵させることで、元々の何倍もの大きさに変化しますから」
「パン作りって、何だか魔法みたいですね」
「魔法? 何が魔法なんですか? 」
「こうな風に生地一つに取っても、見ていて飽きない工夫が施されていて、やっていて面白くて驚かされるばかりです」
「ふふ、そうですか? 」
発酵の終えたパンをボウルから取り出し、好きな形に造形していく為に、大きさの違うボウルを用意してそれぞれを中に入れた。
切り分けた生地を二次発酵で寝かせている間に、とても大きな業務用オーブンのスイッチを入れて中を暖めていく。
特殊な鉱石でできたオーブンは、素材本来の旨味を逃さずに調理が可能なオーブンだとか。
目標設定温度は190度前後、温まる間の方が長く、二次発酵が終わった生地を取り出して成型に移る。
一度、生地に溜まったガスを抜いてから丸め直して、各々の好きな形に造形を施していくのだが、ここはお互いの腕の見せ所なので、お互いのオリジナルパンがどんな物かは分からないように作った。
作ったパンはニックのお母さんに渡してから、纏めて全部を乗せられるベターライトの鉱石板に乗せて、俺とニックで熱々に熱されているオーブンの封印されていた扉を開け放つ。
皮膚を伝って熱気の気流と、カラカラに乾いた中の空気がブワッと顔を襲い、あまりの熱量に耐え切れず、顔を背ける。
顔を背けた俺達とは反対に、厚手のミトンを装着したニックのお母さんは、慣れた手付きで生地達を熱したオーブンの中に押し込んだ。
これが最後の一つ手前の焼成、残りは焼けた後のデコレーションのみ。焼き上がりまでの時間は凡そ十五分程らしい。
密閉された空間の中で逃げ場をなくしたパンの生地は、熱を受けて体を固めつつ美味しさも纏っていく。
匂いを部屋中に立ち込めさせて、万人の食欲を皆等しく刺激する優しい匂いが部屋を包み込む。
「何だか、この部屋にいるだけでお腹がどんどん空いてきちゃって困っちゃうなー」
「食べ過ぎは体に良くないぞ? 菓子パンって意外とカロリーとか糖分高いし……」
「そ、それもそうだよね……気を付けないと維持してきた体のバランスが……悪くなっちゃうから……」
「バランスがどうしたって? 」
「べっつにぃ! 言われなくとも私も食べ過ぎには注意しますよぉーだ! 」
「何をそんなに怒ってるんだ……」
パンを待ちわびる乙女の思考回路を読み切れず、本人にとっての逆鱗に堂々と触れてしまったことが悔やまれる。
「……うん、もうそろそろかしら? 」
予定していた焼成時間より少し早かったが、プロの判断により温度調節ネジを回してチーンという終わりのチャイムがオーブンから聞こえ、中から出来たてホヤホヤのパンが顔を見せた(あくまでまだ見せ合いはしない)
材料から全てを自分達で調理してきた俺は、一番自信のあるパンを選んでもらい、チョコスプレーやデコレーションクリームを使って似顔絵を描いていく。
書く時に目の部分の黒は……他の周りの背景は……と言う位に、今あるデコレーション用の材料で自分の思い描いたイメージの通りになるようペイントを加えて色鮮やかに彩っていく。
楽しい、この時間は確かに楽しい。工作の時間をしているみたいで男心を擽られる。
だけど、この胸のドキドキは何のドキドキなのか。
背後から、監視の目を逃れたことで伸び伸びと最後の仕上げを行う女性の声が聞こえたが、何だろう……凄く嫌な予感がするのだが、気のせいであって欲しい。
「な、なぁ……みんなそれぞれに納得のパンを作れたわけだから、そろそろここで解散にして家に……」
「あーもう! お腹空いたから食べる! 」
人が話そうとしたタイミングを見計らったかのように、エレナによって軽やかに俺の発言は却下されてしまった。
だけどまだだ、まだここで食い退がる訳にはいかないのだ……そんな気がする。
虫の知らせと言うべきか、第六感がそう告げていると言うべきか、兎にも角にもあのプレート上に乗ってあるエレナ作のパンはヤバイ。そうとしか感じられない異質なオーラをパンが放っていた。
「お、お腹が空いたなら家に帰ってご飯を直ぐに作れば……」
「雨降ってるし風は強いままでしょ? 」
「その通りでございました……」
逃げようにも、外は大雨で猛風吹き荒ぶ環境、荷物を持って出られる訳がない。
「じゃあ、皆が折角作ったんだし、交換して食べ合いをしようよ! 」
「それいいですね! 姉御のパンとか食べてみたいなー! 」
「いいよいいよ! 二つしか無いから一つはニックのお母さんに、もう一つは誰かと交換という事にしよう! 」
「私が頂いても宜しいのですか? 」
「今日は一番お世話になっているので、これはせめてものお礼ですよ」
「そうですか……なら、お言葉に甘えて……」
人から貰ったことがとても嬉しいのか、ニックのお母さんは見た目もよく知らない謎のパンを躊躇する事なく口にした。
いつもと同じ怪奇音、だが、咀嚼する度にニックのお母さんの顔色が昔の病床に臥せっていた時と同じになってしまっていた。
間違いない、これはエレナのパンは失敗している……それも殺人級に……
当人はそのまま口を開かず息もせずに地面へとダイブ……今回はメモ通りに焼いてデコレーションしただけなのにどうして味が変わるのか不思議でならない。
「お、お母さん? 変だな……寝ちゃってる……」
「それは変だね……、多分疲れちゃったのかも知れないから、無理に起こさずに私達だけでも始めよっか!? 」
変じゃない! 理由は確実にエレナが作っているのだから。どうして誰も気がつかないんだ?
現実はいつも残酷だ。
自分の予想だにしないハプニングの宝庫のお陰で、これから地獄のロシアンルーレットが始まるのだ。




