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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

家具職人・古泉純之助

作者: あきしげ

数年前に書いたホラー小説です。

気軽に読めるとは言いがたいだろう。

 阿部晋二の前には白い皮革を張った一人掛けソファがある。

 ソファには『希望』という名前が付いている。それは家具というよりは芸術作品に近い。

 世間では静かなるブームから、とある著名人のオススメで一気に広まった家具職人がいる。世界的にも評価される家具職人の古泉純之助は日本が誇れる最高の技術者にして芸術家である。彼の作り出す家具は癒し効果があると言う。彼の家具を購入した人々は決まった文句のように「癒される」と同じ言葉を口にしている。

 何とも言えない居心地の良さが彼の家具にあって、ひと目見た瞬間から家具の虜になると発言する人もいるぐらいだ。その証拠に晋二も同様の感情を持っていた。

 晋二の前にあるソファが、古泉氏が手がけたオーダーメイドの家具。一流商社とは言え、まだ入社して三年目の晋二が有名な家具職人からソファを購入するのは奇跡に近いと思われる。だが、晋二は幸運に恵まれていた。

 家具雑誌と共同で古泉氏とともに顧客への感謝を込めた企画が催された。その内容は特別に抽選でオーダーメイドの家具を無料で一名に提供するという企画。このような抽選で当てた事のない晋二はダメもとで応募した。結果としては外れの通知を受けたのは言うまでもない。別段、がっかりはしなかった。そもそも当たるとも思っていなかったからだ。誰かが当てたのだろうと晋二はすっかりと企画自体を忘れていた。

 そんな晋二には婚約者がいる。彼女の名前は森由希子。父親は大手貿易会社の社長で由希子は一人娘である。容姿端麗で品行方正。絵に描いたようなお嬢様で一流商社の会社員である晋二にはお似合いの素晴らしい女性。

 しかし、それは一ヶ月前までの話であった。

 晋二は彼女の父親にも認められ、婿養子として将来を約束されていた。無論、周りの友人知人からは祝福され、晋二の人生は勝ち組と呼ばれる人生の勝者になるはずだった。

 だが、結婚式の一ヶ月前になって忽然と婚約者の由希子は姿を消してしまう。

 二人で結婚式後の計画をしていた日、夕食の材料を買うと言って近くのスーパーに行ったきり、由希子は帰って来なかった。

 由希子の父親は大手貿易会社の社長だけあって、身代金目当ての誘拐とも思われたが、数日経っても犯人からの要求が一切なかった。その事実を踏まえて誘拐ではないと警察は判断を下し、当初の大規模だった捜査網は縮小していた。だが、事件の線が消えない今でも、度々、警察の人間が事情聴取の為に晋二の元へ訪れる事もしばしば。毎度のようにあの日にあった出来事を最初から聞かされる。晋二にとって、由希子との楽しい日々を思い出すのは簡単だった。そう、晋二の時間はあの日で止まっている。無気力な日々を無意味に過ごしているだけ。今は先の事など考えられない。

 結婚式の当日になっても由希子は戻らなかった。結婚式は取り止めになってしまい、由希子との婚約は解消された。



 そして、晋二の前には白い皮革を張った一人掛けソファがある。

 そもそも晋二が古泉氏の企画を知ったのは由希子からの情報だった。無論、彼女が企画に応募してもおかしくない。でも、まさか彼女が当てるとは晋二も思わなかった。

 あの時、彼女が電話越しで興奮した様子が今でも晋二は鮮明に思い出してしまう。晋二は単なる興味本位で応募したが由希子はブームになる以前から古泉氏の家具に魅了された一人だ。彼女の父親は業界では著名な人物で、趣味の範囲で古泉氏の家具を購入した経緯から由希子は虜になったという。晋二が彼女の実家へ初めて挨拶しに行った時、古泉氏の家具を拝見させて貰っていた。その時点から信じて由希子同様に古泉氏の家具を魅入った。

 これは由希子が古泉氏の企画で当てた家具。それが今日になって届いた。一人掛けのソファ。本来なら、晋二か由希子がそのソファに座って将来設計を考えている光景があったはずだった。だけど、今は包装用のビニールに包まれたままのソファを、晋二は暗い部屋で缶ビールを片手に眺めているだけ。行方どころか生死すら分からない由希子。まるで晋二の一部がどこかへと消えてしまったような感覚。そう、晋二の心の一部が死んでしまった。未来にあった由希子の幸せな生活は簡単にも奪われてしまった。

 皮肉にもソファのタイトルである『希望』が由希子の喜ぶ顔を思い出させる。どんなに後悔しても現状は変えられない。由希子はどこかにいるのか、晋二は心の一部が空っぽとなった今、もうどうでも良くなっていた。

 当然のように由希子の父親は婚約解消を言い渡した。理由は簡単だ。結婚をする予定の花嫁がいないとなれば結婚式を挙げる意味もない。残念だが、彼女の両親は現実主義者であって現状から打ち出した答えだったのだ。

 婚約解消で由希子は晋二にとって過去の人となった。これは変えられない現実で、晋二には社会生活を送るというもう一つの現実がある。会社の仲間たちは落ち込んでいた晋二を元気づけようと励ましの電話やメールを送ってくれる。心配してくれる気持ちは嬉しいが、今の晋二に応えられる気力がない。

 会社の者を無碍にしてしまったばかりに晋二を励ます仲間はいない。だが、それは一人だけを除く。彼は毎度のように電話をし、時々は晋二の自宅まで訪れるお節介焼きの同期。

 名前を副田康三という。



 同期である康三と晋二は入社以来の親友で、もちろん、由希子の事も知っている。誰よりも晋二と由希子の結婚を喜んでくれた康三は二人の幸せを願っていた。晋二は康三の励ましを無駄にしないよう立ち直らないといけない。

 明日、康三が自分を一日でも早く社会復帰出来るよう、その第一歩として飲みへ行く約束をしたと思い出す。いつまでも晋二は引き摺っている訳にいかない。

 少しは心が晴れたかも知れないと思い晋二は立ち上がろうと決意する。

 その時、晋二の視界に突然、ビニールカバーに包まれた白いソファがあった。

 晋二が立ち直ろうと決めた瞬間、あの白いソファが視線に入っていた。その無機質な白いソファを見ていると、何故か晋二は由希子の顔を思い出してしまう。そこから始まる鬱なる時間が再び晋二の思考を止める。

 小泉氏の家具は人々を魅了する。それは晋二も分かっている事。果たして、どんな人も魅了をするのだろうか。精神が病んでいる人でも、悲しみのどん底にいる人でもかと晋二はふっとした疑問を抱く。

 しかし、答えは「分からない」という一言。

 でも、今の晋二は精神が病んで悲しみのどん底にある。人生の底に落ちた状況に一致している晋二は明らかに魅了されている。白いソファから手招きをされるように、気付けば晋二は包装用のビニールを剥ぎ取っていた。無我夢中で白い皮革の張ったソファを包むビニールを必死に剥がしていた。

 次に晋二の意識が正常に戻った時、彼は白いソファに座っていた。

 社会とは隔絶した暗い部屋にて、晋二は由希子との思い出を何度も頭の中で巡らせていた。まるで壊れたレコード盤のように何度も繰り返していた。

 晋二は戸惑っていた。自分でも分からない。どうしてこのソファに座っている理由さえも。でも、晋二は白いソファに座っているだけで悲しみに染まった心が癒される。まるで叶わなかった新婚生活が浮かんでくる。

 ――結婚式。由希子のウェディングドレス姿。

 主役である由希子が輝いている。笑顔と涙が彼女の至福な気持ちが伝わってくる。その隣にはもう一人の主役である晋二がいる。幸せの絶頂にある感情が言葉で言い表せない気持ちでいっぱいになっている。新郎の阿部家、花嫁の森家、それに仲人を務める部長夫婦、親族並びに会社の者や友人たちが万雷の拍手で結婚式の主役二人に送られている。デジタルカメラのフラッシュが幾度も光る。そこへ康三がクラッカーを持ってヒモを引っ張って派手な音が鳴った瞬間――晋二は無理やり暗い現実に引き戻された。

 携帯電話が鳴り響いていた。



 いつの間にか晋二はソファに座ったまま眠ってしまったようだ。慌てて携帯電話の液晶画面に視線を向けると、そこには副田康三の名前が表示されている。時間は午後の十五時過ぎ。それは晋二が缶ビールを飲み始めたのは同刻。どうやら、そこから一日が経過しているらしい。晋二の感覚では数分間だけの事だと思っていた。

 悲しみの中にいる今の晋二にとって、この数分間しか感覚がない時間でも幸せな気分を味わえた。なるほど、古泉氏の作る家具に不思議な魅力があると思わずにいられない。無気力状態から自暴自棄寸前の晋二にも、噂通りの心地良さが身に沁みている。疑問を持つ前に打ち消している。

 まだ携帯電話が鳴り続いていた。

 晋二はふっと我に返って携帯電話を取る。心配する康三を他所に晋二はソファの素晴らしい心地良さに魅入られている最中で通話ボタンを押した事すら意識にない。

 受話器から聞こえるのは現実を運んでくる康三の生きた声。社会から隔絶された空間に飛び込む康三の声が晋二を無理やり現実に引き戻す効果であろう。その証拠に上の空だった晋二は気持ちを改めようとする。

 康三と飲む約束の時間は午後の十九時。そろそろ出掛ける用意しないといけない。

 暗かった部屋に蛍光灯を点けると見慣れた光景が飛び込む。

 散らかり放題の光景。多くを占めるのは無造作に置いた缶ビールの山。男の一人暮らしに掃除という言葉は無縁。いやっ、それは晋二を取り巻く環境のせいだろう。いつも晋二が散らかすと、その横では文句一つ言わず由希子が片付けていた。同棲をしていた頃を思い出してしまう。同時に鬱なる気持ちも襲う。このソファは晋二の体にぴったり張りついているような感覚に陥る。ちょうど良い座り心地。まるで晋二の体に合わせるような作りであった。こんなに立ち上がるのが億劫な事はない。このままソファに埋もれて何もかも忘れたい衝動に晋二は駆られる。

 再び携帯電話が鳴った。今度はメール。

 その相手はもちろん康三。晋二が由希子を失ってから一番に心配してくれた同期で親友。諦めずに何度も晋二を社会復帰させようと努めていた。

「……俺は……本当に良い親友に恵まれた……な……」

 自嘲気味に言ってみたものの、今の晋二に自分の言葉を笑う気力すらなかった。

 一点を見つめたまま、晋二は携帯電話を見ながら独り言を並べ始めた。

「そうだ。確かに布子を失ったのは大きい……けど……改めて俺は周りにいる人々の優しさを思い知った。しかし。しかし……俺は悉くお前の努力を踏み躙った。本当に悪いと思っている。いつまで落ち込んでいる訳にはいかないのは充分に承知している。だけど、俺の一部でもあった由希子は大きかった……そうだ。大きかったんだ……だから康三……申し訳ないが由希子の抜けた穴はお前じゃ埋められない。悪い、康三。これが現実だ……」

 そして、晋二は白いソファに座ったまま意識が落ちた。手にしていた携帯電話も落ちる。「やっぱり……やっぱり、俺には由希子しかいないんだ、康三。お前の親切心はありがたく思っている。ああ、それは本当だ。でも、駄目なんだ。このソファが与える錯覚かも知れないし俺の独りよがりかも知れない。分からない。もういいよ。俺は大切な人を失った時点で人生が終わったんだ。康三。俺はお前との約束は守れそうにない。本当に悪いと思っている。すまない……康三……」

 小泉氏の家具がブームになるのも晋二はなんとなく分かった気がする。

 このソファ。こんなにも心地良く懐かしいは晋二の記憶にあった。それは由希子との楽しかった時間とまったく同じだったのだ。

 『希望』というタイトルが示す通り、このソファから伝わる感情は心地良く、このまま晋二は何もかも忘れて虚空の彼方へ行きたい気持ちが沸く。

 そう思った瞬間、玄関のチャイムが鳴った。

 意識を別次元に飛ばそうとした晋二をまたしても無理やり現実に引き戻す小うるさいチャイムの音。

 晋二はしばらく無視した。しかし、何度も鳴るチャイムの音は完全に晋二の夢心地な気分を台無しにしてしまう。

 苛立ちが募り、次第に晋二の表情も険しくなっていた。

「ふざけやがって! 誰だ! ぶっ殺してやる!」

 急激に湧いた怒りの感情は晋二を玄関まで誘導した。

 不思議とさっきまで晋二を止めていたソファからは何も感じがない。だが、晋二はそんな事よりも、何度もしつこく鳴る玄関のチャイムの音に思考が怒りによって支配されていた。

 晋二は苛立ちを隠さずに訪問者を追い払おうとドアに近づいた瞬間、タイミング良くドアのロックが外れる。それを見て警戒した晋二は身構える。

 そして、ドアが開いた。

 そこには――円くて、濁っていて、不気味な光を放つ、二つの目があった。



(……どうしたんだろう……)

 副田康三は携帯電話を片手に頭を抱え心の中で呟いていた。

 彼は会社の同期で親友の阿部晋二と飲む約束を交わした場所にいる。約束の時間がとっくに過ぎてしまっている。それでも晋二は一向に現れる気配はない。康三は確認の為に電話をした時、晋二はちゃんと来ると言っていた。少し神経質な康三は約束の時間前に飲み屋で待機していた。時間が過ぎているにつれ、康三は再三に渡って晋二に電話したが、最終的には出てくれなくなった。康三は仕方なくメールを送って晋二の所在を確認。それでも、晋二からの返信はなかった。

 約束した時刻から一時間が経過した頃、康三は諦めて会計した。このように晋二が約束を破るのは五回目である。本来、真面目な晋二は絶対に約束は破らない人間。晋二が康三との約束を破り出した由希子が失踪してからの事。当の康三も分かっていて晋二を誘っている。約束を破られるのも仕方ないとも思っている。

 結婚式を一ヵ月後に控えた由希子が突然蒸発してしまった。その理由は晋二本人も康三も原因が分からない。気を利かせて部長はしばらく晋二に休職扱いするが、度々心配する会社の仲間から距離を取ってしまい、今では康三だけが連絡を取っているだけとなってしまっている。

 飲み屋から出て会社帰りだった康三は肩を落として家路へ向かっている。晋二は康三にとって単なる会社の同僚ではない。数人いる同期の中で晋二は特別に優秀である。何をやらせても器用にこなし、人当たりも良く人望がある。それに比べ、康三は晋二の影とも言える存在。いつも部長に怒られてばかり。失敗は当たり前。先輩や同期だけに限らず、後輩にまで見下されてしまう始末だった。そんなおちこぼれの康三に晋二はなんの隔たりもなく付き合ってくれた。

 康三にとって、自分と同じ目線で接してくれた人間は今までいなかった。康三は言葉だけでは言い表せない感謝の気持ちを持っていた。そのおかげで万年おちこぼれだった康三の成績も徐々に良くなり、それまで冷たくあしらっていた会社のみんなと親交を深めるまでになっていた。

 これまで暗い道にあった自分の人生に明るい光を齎してくれた晋二という無二の親友に斉藤は友情とともに尊敬の念を抱いていた。晋二には感謝しても足りないぐらいの恩恵を貰っている。その晋二が今、大切な人を失って落ち込んでいる。部長は晋二の心情を考慮して休職処分扱いにしているが、いつ会社に戻るか分からない。もしかすると、このまま晋二は会社を辞めるかも知れない。そう思い立ち上がったのは康三だった。

 自分を救ってくれた晋二を今度は自分が助ける番だと。そう思ってから康三はしつこく晋二に声を掛けていた。毎日、電話やメールをして晋二の状態を確認。時々は晋二のマンションまで訪れては直接本人の状態を確認していた。余計なお世話だろうが、康三は自分を救ってくれた恩人を見捨ててしまうような人間じゃなかった。

「――晋二。どこにいるんだ?」

 呟いた康三は口を一文字に結び、一目散に晋二のマンションに向かっていた。

 このままでは納得が出来ないと思い康三は行動を起こしていた。ここまで康三を駆り立てるのは晋二に対する恩返しをする純粋な気持ちだけ。これまで約束は何度も破られたが、今回に限って康三は晋二が心機一転する意気込みを感じ取っていた。確かな手応えだったのに、連絡が取れない今の状況が何よりも康三は恐れていた。それは最悪の状況まで想像するのは容易だった。

 気付けば康三は走っていた。約束した飲み屋から晋二のマンションはそう遠くない距離にある。帰路にあった康三のアパートとは反対方向だが、それでも数分で晋二のマンションに辿り着いた。

 新築のマンション。十階建てで駅から五分以内の場所。近くにはスーパーやホームセンターもあるが、ごく一般的な分譲マンションである。万年、成績が悪く当分は昇進が見込めない康三には夢のような光景。大手貿易会社の次期社長とは言っても、晋二はそれまで自分の力で生活をしたいという希望から購入した分譲マンション。彼の成績や将来性を考慮すれば、余裕ではなくても購入出来る範囲内にあるのは確かだった。

 まだ晋二が入居してから間もない。このマンションで幸せな人生の出発をするはずだった晋二。しかし、その小さな幸せも潰されてしまった事実は、マンションを見上げていた康三の目に不幸の影が見えるような気がしてしょうがなかった。

 エトランスに向かった康三はオートロックシステムの前に到着する。すぐに晋二の部屋番号を押してインターホーン越しに状況を確かめようとした。だが、何度も呼び鈴が鳴るけど主が出る気配がまるでない。ここで痺れを切らした康三はオートロックシステムの解除をする。本当はいけない事だが康三は特別に晋二から暗証番号を聞いていた。

 晋二が住むのは三階。急いでいる時に限ってエレベーターは都合良く近くの階にない。そう考えた康三はエレベーターに目もくれず階段を上っていた。さすがに軽くとは言え、飲んだ後の運動は体に応える。康三は息を荒げながらも三階を目指していた。

 ここでふっと康三は妙な事に気付く。二階を上る途中から微かに異様な臭いが漂っている事実に。それはまるで腐敗臭のような悪臭だった。この悪臭に妙な胸騒ぎを覚えた康三は一気に加速して晋二の部屋へ。

 薄暗い廊下内に反響する康三の荒い呼吸。落ち着こうと深呼吸をする。

 そして、康三はドアチャイムを鳴らす。ここでも何度もしつこく鳴らす。しかし、返ってくるのは無反応な静寂だけ。四回ほど同じ行動を繰り返した康三は諦めてポケットから合鍵を取り出す。これも晋二から譲って貰った合鍵。もしもの時に備えて康三が持っていた。ゆっくりと合鍵を差し込んで回しドアノブを捻った。

 開いたドア。その瞬間、部屋の中から外へと出る風が康三の顔面を撫でる。急な出来事に康三の鼓動は大きく跳ね上がった。それと同時に康三の顔は歪んだ。

 ここで康三は二階の途中から感じていた異様な臭いの正体も知る。明らかに部屋の中から生じていると康三は知る。

 晋二の事を心配してやって来たが、異様な臭いが漂う空間を察知して足が竦んでいた。同時に恐怖という感情も芽生えた。急激な運動で乱れた康三の呼吸と鼓動は、開かれた阿部宅の空間とともに違う状況に変わる。

 吸い寄せられるような不気味な感覚が康三の全身を襲った。

 生唾を呑み込んで康三は玄関の様子を観察するが恐怖心を煽っているだけ。背中越しにある廊下の光だけが薄暗い玄関を照らしている。人の気配はまるでない。ドアを開けたままの康三は一歩も動かない。いやっ、正確には動けないでいる。本当ならすぐにでも親友の状態を確かめたい。しかし、足が前に出ない。その間も部屋の中から吹く風が康三の前面に当たっている。

 今までこんな状況はなかった。康三がやって来ると、少なくても無気力ながらも晋二がドアを開けてくれた。エトランスのインターホーンにだって出てくれた。それなのに今日は出てくれるどころか連絡さえ取れない。更に異様な臭い。康三の鼻は慣れてしまったのか、もうそこまでの異様さは感じていなかった。だが、玄関から漂う不気味な雰囲気だけはどうしても慣れる事が出来なかった。まだ康三はドア越しで玄関を見ている。その影響で斉藤の目が暗闇にも慣れ始め、そこから詳細な情報が康三の脳内に伝わってくる。

 玄関を開ければ、すぐ右側には部屋が一つ、左側には脱衣所、前方にはリビング。康三の目が暗闇に慣れ始めているとは言え、さすがにリビングの様子までは玄関先からは分からない。やはり、ここは中に入って様子を探るしかない。

 決意を固めた康三は行動に移っていた。玄関で靴を脱ぎ、一番近くにある右側の部屋を探ろうと手を伸ばす。心拍が上がって緊張感が康三の喉に渇きを与える。ゆっくりとドアノブを捻ると、部屋の全貌が康三の視界に映った。

 心拍は頂点に達した時、康三が見たのは何の変哲もない物置部屋だった。康三は胸を撫で下ろしてホッとする。なるべく音を立てないようにドアを閉めた。

 次に目指したのは脱衣所。まったく気配がない。相変わらずリビングが暗く先が見えない。先ほどの部屋よりは落ち着いた気持ちで脱衣所の引き戸を開けてみるが、そこには何もなかった。ただ、何日も洗っていないだろう洗濯物がたまっている事以外は。

 そっと脱衣所の引き戸を閉め、康三の視線はリビングにあった。廊下と隔てるドアがある。そして左側にはトイレがある。トイレのドアは少し開いていたので確認したが、特に変わった様子はなかったようだ。

 ついに康三は廊下とリビングを仕切るドアの前に立った。

 さっきまで安堵した感情が一気に昂ぶる。縦にあるドアのガラスからリビングの様子が窺う事が出来るが、康三は敢えて覗かずにいた。ドアノブに手を掛けて軽く捻った。

 すると、康三が見てきた静なる時間が漂う空間と違った様相が飛び込んだ。

 厚手のカーテンから街灯の光がリビングの隙間を照らしている。見える部分には無造作に転がっている空き缶の山が確認出来る。しかし何より康三に不快感を与えたのは、嘔吐するような気分になる腐った悪臭であった。思わず康三はネクタイで鼻を押さえ表情が歪んでいた。恐怖心より勝る不快感が理性を支配していた。

 凝縮された空気が康三を襲う。両肩に圧し掛かる重さ、呼吸器官を締め付ける濃密なる空気が康三の意識を刈り取ろうとする。だが、彼は強い精神力で乗り切った。自分を助けてくれた恩人を助けるという使命感が康三の意識を保っていた。

 進む康三。足には何度も空き缶がぶつかる。その度に乾いた音がリビングに響く。平らなフローリングを歩いているはずなのに、康三はタールの池に足が浸かっているように重かった。更に康三を襲う錯覚が昇華し、蠢く何者かに両足首を掴まれているような感覚が走る。立ち止まって自分の足元を見るが当然何もない。リビングはたったの数メートルしかないのに康三は酷く遙か遠い地平線を目指している旅人を思わせる。

 そんな康三は突如視界に映った光景を見た。

 カーテンの間から差す街灯はスポットライトの如く、ただ一つの物体を照らしていた。

 白い皮革のソファ。

 遅れてすぐに康三の嗅覚を刺激する腐臭が突き抜ける。ついに康三は我慢の限界を迎えて胃の内容物をその場に吐き出してしまった。

 純白にして清楚なイメージを与える独特のデザインを施したソファ。しかし、康三に与えていたのは尽きない嘔吐感だけ。視覚だけでは魅了する白い皮革のソファだが、嗅覚には忌々しい悪臭だけが伝わっている。

 急に康三は惑わされる。幻覚剤が空中を漂っているよう気がする。アンバランスな視覚と嗅覚の違いで康三の意識が朦朧とする。

 思わず康三は後退りすると、突然、後頭部を鈍器で殴られる錯覚が走る。足元はふらつき、右踵は倒れていた空き缶を踏み潰した。潰れた音と感触で康三の意識が戻る。

 慌てて康三は部屋を照らす蛍光灯のスイッチを押そうとする。何度も訪れている場所なので薄暗い部屋でも位置は分かっている。

 瞬時に二度、点滅した蛍光灯からリビング全体を照らす光が広がった。

 いつの間にかネクタイで鼻を押さえていた康三は愕然とする。

 床一面には夥しいまでの鮮血が広がっていた。それまで康三が感じていた液体の感触を忘れていた。それぐらいにリビングの異様な空気が康三の正常な判断を狂わせる。

 リビングを見渡す康三は悲鳴を上げても良かった。でも、康三は悲鳴すら出ない。何故か彼は冷静に物事を思考していた。ベッタリと靴下に付着しているはずの血液だが、康三には分かっていた。これは幻覚であると。己の恐怖心が作り出す現実的であって虚構な現象であると。ゆっくりと両目を瞑った康三は深呼吸して落ち着きを取り戻す。

 再び開かれた両目に映ったのは毎度見る光景だった。

 婚約者の由希子を失った晋二の堕落を物語る散らかったリビング。空き缶も無論、台所の流し台には溜まった洗い物。一人暮らしを男にしては荒れ放題。それもこれも人生に絶望した男の果てである事実を突きつけている。

 足元にあったはずの夥しい鮮血はなくなっていた。しかし、終始に渡って康三の嗅覚を刺激していた悪臭だけは消えなかった。どうやら、悪臭は本物であると認めるしかない。

 一息吐いた康三の視線はリビングに繋がる他の部屋に移る。

 寝室のドアは開いている。中をチラッと覗くと何もない。和室の引き戸も開放されて同じく何もない。

 結論として、主である阿部晋二はいない。そう分かった康三は脱力するように再び息を吐いた。本物の安堵感が康三を包み込んでそのまま近くの椅子に座って途方に暮れる。

 晋二の行方は分からない。テーブルには晋二の携帯電話が置いてある。さっきまで人がいた気配がある。確かに晋二が生活していた雰囲気がある。でも、当の晋二はどこかへ。諦めに近い感情を抱いた康三は呆然と何かを眺めていた。アンバランスな印象を受けるリビングでも浮いたソファの後姿。手を伸ばせば届くような距離。単なる物体なのに魅入ってしまう。その理由は康三には分からない。ソファだけが康三の心を支配し始める。どこか別世界へ連れて行かれる。

 康三は知っていた。婚約者の由希子を失う前から何度も聞かされていた。そのソファが世界でも有名な小泉純之助という家具職人が作ったモノだと。特別製の家具とは無縁な康三は初めて見た。不思議さと異様さが共有するソファには魅力と同時に妖しさがあると。

 思考がおかしな方向へ流れる康三は激しく頭を左右に振る。脳内を駆け巡るソファからの妖しい囁きを断ち切った。

 まだ康三は諦めない。晋二はどこかにいる。自分のやるべき事はただ一つ。その事を忘れなかった康三は正気を保ち、座っていた椅子から立ち上がった。

 その瞬間だった。康三は足元にあった空き缶に躓いて前方へと転んでしまった。反射的に彼は手を出して転倒を防ごうとする。伸ばした手が捉えたのはソファ。しかし、康三自身が思っていたよりも体勢が崩れてしまい、ソファとともに前方へ倒れてしまった。

 ここで康三はおかしな感触に気付いた。伸ばした掌にあった感触。白い皮革のソファならば、それなりの硬さがあるはず。それなのに、康三の掌が感じ取ったのは柔らかい感触であった。しかも、温度のない冷たい物体じゃなく、温かい肉のような感触だ。

 前方に倒れたままの康三は伸ばしている手を何度か握り返す。やはり、柔らかい肉の感触が伝わる。この感触には覚えがある。それは女性の柔らかい肌。数少ない経験しかないが、康三にははっきりと分かる。それだけではない。康三の掌は規則正しいリズムを刻む感触を覚える。思考を巡らせた康三は想像し難い一つの答えに辿り着く。

 生唾を呑み込む。

 視線は変わらずにフローリングと密着している。さっき得た安堵感は一転して別の感情へと変わる。

 背筋から後頭部、更に顔面へと鳥肌のうねりが康三の恐怖心を強調する。寒気が全身を襲い、発作を起こしたように一瞬だけ痙攣した錯覚さえ与えてしまう。

 無意識に伸ばしていた右手に力が入る。自分の荒い呼吸だけが聞こえるはずだが、康三の耳には女性の甘い声色が漏れる溜息が聞こえた。その現象を起点に康三を襲っていた鳥肌は消え去る。代わりに顔面は火を噴く熱さに変化し、手足は体温を奪われて冷たくなっていた。心拍も急上昇して脂汗がスーツに染み込んでいた。

 何とかして康三は伸ばした右手を引いて自分の元へ。まだ残る肉感。フローリングと密着していた視線がゆっくりと前方にある倒れたソファを見た。そこには見覚えのある顔が浮いていた。

「――ゆ、由希子さん?」

 震える声で尋ねた康三の瞳孔は開いていた。

 しかし、感情を支配していたはずの恐怖心が消え去っていた。まだ体は恐怖の影響で動けなかったが、康三の視線はしっかりとソファに浮き出る由希子の顔を見ていた。

 その顔には苦痛はなかった。

 由希子の顔には安らぎがあった。微笑む由希子。妖しい微笑みじゃない。幸福を得た人間が心の底から笑っている素晴らしく美しい微笑みだったのだ。

 そして、意識を保っていた康三は気を失ってしまう。


 翌日。

 スーツの内ポケットにあった携帯電話のバイブレーション機能が作動した。それは康三の携帯電話に珍しく入った一通のメールであった。

 片目を開ける。続けてもう一方の目を開けて状況を確認した。茶褐色のフローリングと無造作に転がっている空き缶が見える。あれだけ康三の嗅覚を刺激していた腐敗臭が後から不快感を思い出させる。自然と表情は歪むと、一番忘れてはならない光景が脳裏に浮かんだ。康三は恐る恐る前方へ視線を向けた。

 その先には倒れたままのソファ。晋二の婚約者である由希子の顔が浮かんだソファ。しかし、今は何事もなかったような状態。単なる錯覚ではないかと康三は思ったが、確かにあの時見た光景は本物だと自信を持っていた。

 康三は立ち上がろうと両手を地面に置く。だが、変な格好のまま寝てしまったせいで全身筋肉痛になっていたようだ。悪臭と全身筋肉痛で最悪の気分で朝を迎える事となった。

 何とかして立ち上がった康三は無意識にスーツに付着する何かを払っている。

 ここで康三の動きが止まった。

 誰かの気配がする。

 それは背後から。

 康三には疲労感が残っている。変な格好で寝てしまったせいもあるだろうが、何よりもリビングで体験した出来事である。あんなに精神力を削られる思いは初めてである。普段は部長に怒られているが、それはそれで慣れてしまっている。だけど、昨日の体験はまるで違う。別の場所に連れて行かれる気持ち。今、自分が暮らしている社会など、どうでも良くなってしまう気持ち。その気持ちに自分を委ねてしまえば、二度とここへは戻れないような気がしてしょうがなかったのだ。

 口角に力を入れた康三は倒れたソファを見えていた。悪臭の元であるソファ。この家では唯一、浮いている存在のソファに何かあると見た康三は覚悟を決めた。眉間に皴を寄せて手を伸ばす。その先には何も語らない悪臭だけを撒き散らすソファがある。

 表面を触った。やっぱり、温かい。気味が悪いが康三はそれでも触って確かめる。これは温かいというよりは生温かい。人の温もりであって違う。まるで感情がない。

 康三は更に倒れたソファの下側を見ようと移動する。転がっている空き缶を気にする事なく、強張った表情でソファを慎重に探っている。

 ソファの下側に回った康三の目は大きく見開いた。後頭部から全身に広がる鳥肌を感じ取りながらも斉藤は凝視した。

 白い皮革が張ってある。有名な家具職人が作ったとは言え、ホームセンターでも売っているソファとは変わらない構造だと康三は思っていた。だが実際に康三が見えているのは紛れもない鼓動であった。そんなはずはないと自分自身に言い聞かせても、目の前で起きている現実は康三自身の正気を試しているように感じる。

 リズムは一定している。康三が衝撃の事実に気付いても白い皮革のソファは変わらない鼓動を刻んでいる。数秒ぐらい観察しても一向に様子は変わらない。

 康三はまだ今起きている事実を完全に把握している訳じゃない。

 思考力が止まった康三が動く。その足取りは台所へ。水に浸かっている食器や汚れがこびり付いたままの食器を見ながら、康三は流し台にある引き出しを開ける。手に持ったのは包丁。ここまで来たらやるしかなかった。康三はそう思って包丁を突き出しながら再びソファの下側が見える場所へ。

 相変わらず白いソファは一定のリズムを刻む鼓動が窺える。そこへ康三は包丁の刃先を向ける。蛍光灯の光を反射させる包丁の切っ先がソファの白い表面に当たった瞬間、それまで一定だった鼓動のリズムは大きく跳ね上がった。感情がある。恐怖の感情。これから康三がやろうとしている事を理解している。単なるソファが理解する。康三は頭の中で何度も「大丈夫だ」という言葉を反芻させながら包丁を思い切ってソファに刺した。

 急に視界がなくなる。

 腐敗臭から鉄臭くなる。

 どこからか聞こえた悲鳴が耳に残る。

 包丁を刺した箇所から血飛沫が康三の顔面に浴びていた。白かったソファの表面は真っ赤に染まっていた。康三が刺した感触も気味が悪かった。物体を刺すというよりは肉を刺す気持ち悪い感触だった。

 包丁を手放した康三は冷静になる。少しばかり息が上がっていたが、これで康三は物的証拠を手にした。白い皮革の張ったソファは生きている。

 じっと血を流し続けるソファを見る。段々と鼓動を繰り返したソファが弱っているのを見届ける。

 康三は殺してしまった。ソファを。

 しかし、康三には分からない点が次々と思い浮かぶ。

 まず、何故、ソファが生きているか。

 次に、何故、晋二の婚約者である由希子の顔が浮き上がったのか。

 最後に、晋二は一体どこへ行ったのか。

 顔に付着した血を手で拭いながら康三は考えた。

 一体、目の前で何が起きているのか分からない。このまま何事もなかったように立ち去っても良かった。康三が殺したのはソファであって人間ではないのだ。彼が殺したのはただの家具。生きているはずもない単なる家具。誰に言っても信じられない。

(――警察に――)

 一瞬、康三の頭に過ぎった言葉だが、この状態でソファから流血したともなれば、確実に自分の精神状態が疑われる。下手をすれば、康三が晋二を殺してソファの中に遺体をバラバラにして詰めた。そんな誤解を生むかも知れない。

 ここで康三は頭を抱える。

 今度は悪臭や全身筋肉痛、ましてや信じられない光景で表情を歪めている訳じゃない。康三は悩んでいた。どうすればいいのか。

 血の付いた手で髪の毛を掻き毟っていた。康三は今にも発狂しそうだ。何がなんだか分からない。康三は己の手で自分を追い詰めていた。

 ここで康三は思い出した。自分を起こしたメール。落ち着く為にもメールを見ようと考えたのだ。

 康三はスーツを脱いだ。ソファの返り血を浴びたスーツはもう使い物にならない。とりあえず、康三は血があまり付いていない左手で携帯電話をスーツの内ポケットから取り出す。確かにメールが一通届いている。大抵は晋二か部長からのメール。最近は両親からの連絡もないので、康三は部長からだろうと予測する。流れ上仕方なかったとは言え、今日は会社を無断欠勤しているのも事実だったのでちょうど良いと思っていた。

 康三は二つ折りの携帯電話を開くとメールのボタンを押す。差出人は阿部晋二。

 康三は驚いた。すぐにテーブルの上を見たが、そこにはちゃんと晋二の携帯電話が置いてある。メールアドレスを確かめると、それはテーブルの上に置いてある晋二の携帯電話のメールアドレス。間違いなかった。受信時間は朝の九時過ぎ。そんなはずはないと思った康三だが、それでもメールの内容を確認する。

 読み上げていた康三の表情は徐々に険しさが増していた。メールの内容を読み終え電源を消し携帯電話をそのままテーブルに置いた。

 そして、康三は溜息を吐き両目を閉じて頭を下げた。

 メールの内容は単純明だった。

 それは康三の気遣いを無視して迷惑を掛けてしまった謝罪の文だった。そして、最後には別れを示す「ありがとう」の言葉。

 康三の唇が小刻みに震えていた。悲しみや怒り、全ての感情が一気に康三の心で静かに爆発した。叫ぶ事はなかったが、康三は爆発した感情を倒れたソファにぶつけた。もう鼓動を繰り返さないソファに全身筋肉痛を忘れて有り余る力をぶつけた。拳には人の肉を殴るような感触、足にも人の肉を蹴る感触が伝わる。しかし、康三の爆発を止めるには至らなかった。

 そうする事で発散してから約一分。完全に息が上がった康三は地面に座り込んだ。空き缶が転がる音が響く中、康三は最終的な結論を導き出した。

「――古泉――古泉純之助――」

 久しぶりに声を出した康三の最終目的は決定した。

 既にソファは見る影もなかった。普通なら壊れても何も出ないソファ。だが、康三の視線上には内臓物を撒き散らした肉塊が映っている。それがただ、家具の一つであるソファの形態を取っているだけの話。これを作った人物こそが全ての鍵を握っている。世間では時の人となった有名な家具職人の古泉純之助である。



 秋を迎える山は深緑から紅色へと変わりつつある。忙しく様々な人が行き交い、雑踏や電車と言った色んな音が鳴り響く都会から離れた長閑な田舎。広大な山々が連ねる大自然に人間の姿はほとんど見掛けない。時間がまるで止まっているような場所。

 山一つを所有している古泉純之助はそこに住んでいる。世間ではブームとなっても、古泉の生活は何も変わらない。しばしば、田舎では見られない今時の服装をした都会人たちの往来が少しばかり増えているが、特に大きく古泉の生活を変えるまでには至らない。

 古泉の念願だった田舎生活。のんびりとした自給自足の毎日は最近になってようやく叶ったばかり。家具職人は儲からない時代。食べていくだけでも精いっぱいだった。でも、ひょんな事から古泉の家具は黙っても注文が入ってくる。それまでは選ぶ事すら許されなかった古泉が、今では気に入った注文だけに着手しても楽に生活が出来る。誰も文句は言わないし、予約は一年先までぎっしり詰まっている。

 早くに結婚した古泉だったが、苦しい生活に耐えられなくなった妻は二十年前、二人の子供を引き連れていなくなった。孤独となった古泉だが、彼はそれで肩の荷物が降りたと逆に解放された気分になっていた。

 家具作りは何よりも古泉の生き甲斐だった。父親も、またその父親も、更にその父親もずっと家具職人だった。古泉は生まれながらの家具職人だったのだ。彼が家具職人になるのは生まれる前から決まっていた運命だったのかも知れない。

 時間を忘れ、人との関わりを忘れ、古泉はお気に入りの場所でゼロから家具を作っている。無心に家具を作っている古泉には幸福が満ちていた。家具を作れるだけなら、それで満足だった。

 そんな古泉には唯一の友人がいた。片時も離れなかった愛犬の太郎。妻との関係がこじれ始めたと同じ頃、気晴らしに散歩をしていた古泉が偶然、道端に捨てられた子犬の太郎を拾って飼い始めた時からの付き合い。

 ついに不便な生活や古泉の態度に辟易した妻が二人の子供を連れて出て行っても、太郎だけはいつまでも古泉の家具作りを見守っていた。苦しいながらも古泉と愛犬の太郎は日々、同じ屋根の下で十年の月日を共に暮らしていた。

 地道な活動をしていた古泉に転機が訪れる。どこかの著名人がたまたま古泉の作る家具が気に入ったようで、断るごとにその著名人は絶賛してくれていた。特に古泉が頼んだつもりじゃなかったが、その影響力は大きく、あっという間に『古泉純之助』という家具職人の名は世間に認知され始めていた。

 ただ家具作りに没頭していた古泉が世間に認められ始めた同じ頃、皮肉にも長年に渡って連れ添った愛犬の太郎は老衰で死んでしまう。深く悲しみのどん底へ落とされた古泉は家具作りが出来なくなっていた。生まれ落ちて五十八年、古泉は人生で初めて家具作りに意欲をなくしていた。父親が死んでも、母親が死んでも、妻が子供を連れて出て行っても、古泉は大好きな家具作りに励んでいた。それなのに愛犬の死が古泉の家具作りに賭していた意欲を消し去っていたのだ。

 でも、今まで古泉の家具作りを最初から最後まで見守ってくれたのは、紛れもなく愛犬の太郎だった。放し飼いだった太郎は、目が覚めると飼い主である古泉の作業場にやって来ては家具作りを眺め、古泉が家具作りを終えると同時に就寝していた。食事も一緒で風呂も一緒、何をするでも一緒だった。ここまで古泉と同じ時間を共有したのは太郎が最初で最後であった。

 太郎の亡骸を数日に渡って古泉は見ていた。ろくに食事も摂らず、睡眠せず、ただ古泉は毛が抜け落ちた老いぼれた太郎の亡骸を見ていただけだった。涙は流す事なかったが、古泉は大変なショックを受けたのは事実であった。

 既に命を失った太郎の亡骸は日に日に変化していた。無論、それは腐敗現象。みすぼらしかった毛並みは更に悪化し、鼻を突く刺激臭が太郎から漂い始めていた。さすがに古泉も変わり行く太郎を見ていられなかった。

 そこで古泉は閃いた。

 その時から古泉は意欲をなくしたはずの家具作りを始めた。まるで何かに取り憑かれたように没頭。これまではマイペースに家具作りをしていた古泉だったが、この日を境に人が変わったかのような姿でひたすら腕を振るっていた。

 ついに新作を完成させた古泉は満足していた。それまで家具に名前を付ける事はなかったが、古泉は初めて自分が作った家具に名前を付けた。

 そのタイトルは『愛情』という味わいあるコタツだった。

 これは、まだ古泉は世間のブームになる少し前の出来事であった。



 副田康三は田園風景が広がる長閑な田舎にいた。

 手荷物はない。阿部宅で異様なソファを見た康三の行動は合理的だった。血を浴びたスーツを捨て、晋二の服を拝借したラフな服装に着替えると、部長に仮病を使って会社を休んだ。

 今では有名人である古泉純之助の住んでいる場所は誰でも知っている。古泉の暮らす山中には電話がない為、予約するには直接伺わないといけない。その為、連日に渡って都会の方々が訪れる現象を生み出している。

 そこへ康三は鍵を握っているはずの古泉に事情を聞きだそうとやって来たのだ。もしかすると、晋二の消息も分かるはず。それだけではない。白い皮革のソファが一体何かも判明する。

 康三は悪い頭なりに推測していた。あの白い皮革のソファは晋二の婚約者であった由希子だという事を。でも、康三には確信が持てない。確かに流血し内臓に似た物体がソファの中から流れ出していた。それに由希子の顔が浮き出ていた。だけど、全ては荒唐無稽に片付けてしまうぐらいに非現実的な出来事。康三は己の正気を疑ったが、実際にスーツは血に汚れていた。異様な悪臭は今でも取れない。この場所へ来る最中でも、顔を歪める周囲の人々が康三の視界に入っていた。これは康三の狂気ではない。康三は巻き込まれた被害者である。無視すれば巻き込まれずに済んだ。それでも、康三は晋二に対する純粋な恩返しの気持ちを引き止めるまでの効果はなかっただけ。固い決意を胸に康三はまだ見ぬ家具職人がいる山中へと急いでいた。


 こんな山に登るのは小学校の遠足以来だった。基本的に康三はインドアな人間で、内向的な性格が災いして友達は片手で数えても余ってしまう。

 康三はこれまで冴えない自分の人生に光を齎してくれた親友の事を思っていた。それに白い皮革のソファ、家具職人の古泉純之助について。

 しかし、そんな思考を強引なまでに中断する出来事が工事を襲った。

 ありえないまでの悪臭。まるで生ゴミか、食品が腐ったような嫌悪感が募る腹の底から気分を悪くさせる強烈な臭いが鼻腔を突き抜けた。

 この悪臭――既に康三は味わっている。そう、それは晋二の家で嗅いだ異様な臭いに近い。ただ、この悪臭は晋二の家で嗅いだ臭いよりも強烈であった。もし康三が食事をした直後だったら、確実に吐いている。それぐらい気分が悪くなる。しかも段々と悪臭の濃度が強くなっている。それが康三の向かう場所。間違いなく、そこから悪臭が漂っている。

 それでも、康三はどうにか悪臭には慣れてきている。だけど、彼にはちょっとした違和感がある。

 周囲を見渡す。ここは田舎で人の姿はあまり見ない。それでも田んぼや畑で農作業をしている人を一人や二人を見掛ける。康三が見る限りじゃ彼らはまったく何も感じていないようだ。

(僕だけが感じ取っているの、か?)

 不思議に思う康三は自分だけが悪臭を感じ取っているかも知れない。それとも、自分が悪臭に慣れてきたように彼らは何も感じていないだろうか。

 納得――しようとしたが、すぐに康三は別の思考を導いた。

(いやっ、待てよ。地元の人間なら慣れているのは分かる。しかし、家具の予約をする為には顧客は直接訪れるはず。そうなれば、絶対に漂っている悪臭に反応する。もっと神経質な人が訪れたら、警察に通報する可能性だってある。でも、現実に誰も怪しまない。という事は、今漂っている悪臭は僕だけに伝わっている事なのか?)

 様々な思考が飛び交っても、どっちにしろ、答えは出ない。

 やはり、電話がないこの場所を訪れる客足が多い。そう思わせる案内板が迷わないように設置されている。とは言っても、それは古泉本人が作った訳ではなく、周りの住人が勝手に作ったのだろう。その証拠に作りが雑。いくらなんでも世間でブームになっている家具職人が作ったとは思えないのだ。

 そう、康三の求める答えがあるのは、視界に映るポツンと建っている平屋であった。

 外観は昔ながらの平屋で時代に取り残されているようなレトロな印象を与える。更にレトロな印象を与えるのは電線などがない事。完全に独立している。ただ、電気は通っているようで、それは自家用発電機だろうと康三は推測する。

 いつも営業で駆け回っているだけに康三は疲れを知らない。彼は今、営業用のスーツじゃないカジュアルな服装で足元にはウォーキングシューズを履いている。このシューズは晋二が目ネットショッピングで購入したが、それが失敗だったらしくサイズが合わなかったのだ。そこでサイズが合う康三に譲るはずだった。無論、それは由希子が蒸発する前の話である。

 ついに康三は古泉純之助の私有地に入った。

 すると、ここで康三は軽い眩暈を起こした。それは言うまでもなく、さっきまでとは次元の違う異様な悪臭が漂っていたせい。山道を歩いていると、常に嗅覚を刺激する悪臭があったが、この異様な悪臭は後頭部から額に渡って毛髪が抜けるぐらいの刺激臭。それに加え、皮膚が痺れ、軽い眩暈が襲っていたのだ。

(――今の時間、古泉純之助は黙々と家具作りに励んでいるはず。今にもトンカチか何かの音が聞こえてきそうだ。古泉純之助が人嫌いである事も知っているんだ)

 康三が古泉氏のブームを知ったのは晋二の口から。婚約者の由希子が古泉氏のファンであると語っていた。そこから古泉氏はどんな人間なのかを聞かされていた。

 慎重に康三は歩を重ねる。

(それにしも異様な雰囲気だ)

 確かに悪臭は変わらない。いやっ、それよりも康三が気になるのは何かに見られているような感覚だった。

(そうだ。僕は何者かの視線を感じている)

 だが、ここ一帯は静寂を保っている。まるで廃屋のような印象さえ与える。平屋からは不気味さが漂い、康三の両足は自然と小刻みに震え出している。

 恐怖が走る。康三は恐怖を脳内で拡大する。この先にはただの家具職人しかいない。まさか殺人鬼が潜んでいるはずがない。そう自分を説得し康三は震える足を前に出した。


 足が竦む康三はそれでも平屋を目指していた。

 不気味さと悪臭が漂う古泉氏が職場と住居を兼ねた平屋。普通なら古泉氏の平屋から伝わる異様な雰囲気が注目される。周囲の住民はどこまでも広がる悪臭に対して苦情が殺到するだろう。しかし、今まで古泉氏の住む場所から漂う悪臭に対する苦情は一切ない。

 それは周辺の住民が暗黙の了解で苦情を呈するという事ではない。古泉氏の家具を予約する時には見ず知らずの人間が訪れる。その時に悪臭を知るはずである。だけど、悪臭に気付く者はいない。それは一人だけを除く。

 副田康三その人である。

 人見知りで出不精な男。いじめられる学生時代を送り、社会人となっても同じ人生を歩んでいた小市民。そんな救われない男を救った対照的な恵まれた人生を送った阿部晋二という男。

 康三は恐怖で小刻みに震える体を必死に抑えている。その胸には強い目的意識が宿り、康三を突き動かす感情は古泉氏住む平屋が隠す本当の姿を見抜く効力を発揮させている。

 一歩、一歩と進む康三の表情は険しい。本人は気付いていないが、その口は自然と情けなく開いている。悪臭によって開いているのではない。一歩進む度に周囲の様子を窺っている。確かに誰かの視線を感じるが、康三には姿が見えない。不安が募って緊張が最大まで高まっていると、息を潜めて忍び足で歩く康三の口は自然と開いてしまう。全身に力が入っているのに口元だけが緩んでいる。これはどうしようもない生理現象なのだ。

 風通しの良い平屋。これは昔ながらの造りだろう。吹き抜ける風に乗って悪臭がどこからともなく康三の鼻腔を刺激する。もう康三の嗅覚は破壊され、悪臭の区別がつかない状態になっていた。

 今の康三には嗅覚以外の感覚しかない。でも、触覚と味覚は必要ない。康三が特に集中させているのは視覚と聴覚の二つ。まるで肉食動物に狙われている草食動物の如く周囲を見渡している。少しでも音があれば鋭い視線を向ける。だからと言って、何かを発見しても康三はどうする事も出来ない。体力に自信がない。もし体力があればいじめられ人生を送っていないはずだから。それでも警戒はする。

 古泉氏の平屋は見通しも良い。部屋を仕切る障子は全て開放されている。やはり、部屋ごとには古泉氏の手作り家具が並んでいる。どれもが懐かしさを漂わせる雰囲気を出している。思わず康三もそれらの家具に懐かしさを感じていた。だけど、阿部宅で見た白い皮革のソファとは雰囲気が違う。魔性の魅力というのがないと康三は気付く。疑問が康三を支配するが、すぐにどうでも良くなる。

 再び康三は全体を見渡す。

 土間があって床の間があって茶の間がある。全て一見で確認できる。康三は未だ誰かに見られているような感覚を持ちながらも、慎重な足取りで平屋を細部まで確認する。

 そこで康三の視線を釘付けにしたのは茶の間にポツンと置いてあるコタツ。かなり年季が入っているようで所々の塗装も剥げてしまっている。季節じゃないが布団はそのままになっている。

 康三はコタツに視線を集中させていると、突然、獣のような臭いが一瞬だけ感知する。もう麻痺してしまったと思われていた嗅覚が働いた事で康三は警戒する。周囲に警戒の視線を送る。何度も生唾を飲み込んでは深い息を吐く。

 結局、康三はこの平屋には古泉氏がいない事を知った。

 古泉氏がいないと知ると、康三は長い吐息からコタツに視線を戻す。だが、さっきまで康三が抱えていた疑問はなくなっていた。むしろ、康三斉藤にとってコタツという存在はどうでも良くなっていた。

 そう結論を出した康三は少しで安堵に浸る。まさに束の間だが、康三は音を立てないように浅い呼吸から深呼吸をする。口がずっと開いていたせいでカラカラになっていると気付く。今、康三がいるのはテレビで放映される時代劇で見た土間。さすがに土の釜はないが、独特の雰囲気を放っている。視線を散らせると、運良く康三の視界に水が入った桶を発見する。

 水が澄んでいる。特に汚れているとは思えない。そこで康三はカラカラとなった口内に潤いを与える為に両手で水を掬った。口に含ませると、無味無臭の常温に晒された水が渇きを潤した。

 手の甲で口を拭く。

 そこへ妙な音を耳にする。遠くで何かを打ち付ける微かな音が響いている。

 近い。

 康三が音の聞こえる方向へと視線を向けた。土間を抜ける山林の中から音が聞こえていると確認する。古泉氏がいるのはここじゃないと知る。一瞬にして康三は葛藤に苛まれる。一度は抜けた緊張。また緊張を取り戻すには相当の精神力を必要とする。このまま引き返すのは簡単だ。楽な方へ意識が流れようとする。

 だが。

 康三は覚悟を決めて眉間に皴を寄せる。康三は逃げるつもりはない。晋二が自分の助けを待っている。ただならぬ決意に変わる康三の目は一つの物体を捉えた。錆び付いて茶褐色に酸化した出刃包丁が見える。この先、何が起きるか分からない。護身の為と思えばいい。康三は自分を説得させる言葉を何度も心中で繰り返した。

 錆びた出刃包丁を右手に持って音が微かに聞こえる山中の方へと歩き出す。今までの苦労を思えば、ここからの道のりは恐れる事がない。

 へっぴり腰でオドオドした姿勢。頼りない印象を受けるが、康三にはこれが一番しっくりくる強気な態度であると自己暗示している。何があろうと対応が出来るはず。そう思わないと泣き出すかも知れない。ここまで来たら最後までやる。

 段々と小さな音が大きくなっている。これは会社休みの父親が張り切って日曜大工をする音と似ている。そう思った康三。彼の右手にある出刃包丁に力が入る。

 腐葉土を踏み込む一歩が重い。

 息は無意識に荒くなっている。

 緊張は最高潮に達している。

 呼吸と鼓動が激しさを増し、康三の視覚と聴覚の集中力も最大限まで高まった。

 すると、それまで機能が失われていた遮断していた康三の嗅覚が反応した。それは平屋の周辺全体を包み込んでいた悪臭とは違う臭いが康三の嗅覚を刺激したからである。

 新鮮な肉の臭い。肉屋を通り過ぎると必ず嗅ぐ臭いだ。

 それと皮革の臭い。靴屋、特に紳士用の靴屋で嗅ぐ臭い。

 この二つの臭いが混ざった臭いが康三の嗅覚を刺激している。悪臭で麻痺した嗅覚を復活させるには充分な真新しい臭い。

 更に聞こえていた日曜大工の音が規則正しくリズムを奏でている。これは素人が奏でるような音じゃない。すぐに分かった康三は、この先には古泉純之助がいると悟る。出刃包丁を握る右手にも力が入る。

 進む康三の眼前には地下へ繋がるドアを発見する。それはあまりにも不自然な光景だった。まるで社会とは隔絶した空間のようにも見えてしまう。康三は固唾を飲んでゆっくりとした足取りで地下へ続くドアに近寄った。

 ドアの入り口付近に立った。その中から微風に乗って肉と皮革の臭いが漂う。

 またしても康三の口は開く。今度は半開き。地下の中は薄暗く、白熱電球のぼんやりとした光源が見える。地下へ続く階段を下る康三の体は小刻みに震え出す。こればかりは仕方がない。康三はそう思いながらも出刃包丁を前に突き出して進んで行く。

 人が一人通れる狭い空間を歩く。慎重に慎重な足運びに、暇を持て余していた左手が思わず壁に触った。すると、妙な感触があった。ドロドロとして液体が指に絡み、表情を歪めるぐらいの嫌悪感を齎していた。薄暗い空間では目で確認できず、康三は復活した嗅覚を頼りにドロドロの液体を鼻に近付けた。

 無臭。

 もう康三自身、自分の嗅覚は頼りにならないと悟る。嗅覚が復活したのは錯覚。そう思いながら指に付着した液体をズボンの表面で拭き取った。

 再び康三の視線は前方に向ける。そう言えば、規則正しく奏でていた日曜大工の音がいつの間に消えていた。その事実に気付いた康三の背筋から寒気が後頭部まで走った。

 引き返すなら今の内。

 そんな弱気な言葉が脳内を過ぎったが、康三は頭を振って静かに深呼吸をした。

 出刃包丁を前にして進む康三の瞳孔は開こうかと思うぐらい、大きく見開いていた。何も逃さないような慎重さ。一歩、階段を下る足にも無駄な力が入る。

 十段にも満たない地下への階段だが、康三にとっては果てしなく長く感じられた。それに加え、外界とは違った地下独特の静けさと涼しさが異様な空間の不気味さを倍化させている。半開きだった口内と唇が乾く。無意識に舌で唇を湿らせる。

 康三の視界には広そうな空間が微かに見える。白熱電球が照らす範囲は狭い。空間の隅から隅まで肉眼では確認出来ない。それでも康三の視界には衝撃的な光景が映り込んでいたのは言うまでもなかった。

 白熱電球の真下にはテーブルがある。その上に乗っているのは明らかに家具職人が扱う工具ではない。どっちかと言えば、外科医が扱うような医療器具に見えたからだ。その間には不自然にも鋸や鉈などの刃物が並べられている。しかも、その道具には赤黒い何かが付着している。もう康三には分かっていた。その赤黒い付着物が血である事を。

 更に視線を流すと大きな塊のような物体がある。夥しい液体が流れ出している。そう、それこそが肉の臭いを漂わせている。

 肉塊。

 こみ上げる嘔吐感を我慢する康三が思わず視線を逸らして後退りをする。左手で口元を抑えて必死に胃からこみ上げる液体を我慢していると、踵が何かにぶつかる。反射的に斉藤がぶつかった物体に視線を落とした時、そこには見慣れた物体があった。

(し、晋二!?)

 心の中で康三は呟いた。

 彼が見ているのは確かに阿部晋二だった。だが、正確には康三が見ているのは阿部晋二の頭部。白熱電球の微かな光に晒される晋二の虚ろな瞳、それと口から顎に掛けて赤黒く変色した吐血の痕跡が飛び込んできた。

 ここで堪らず康三は悲鳴を上げようとする。しかし、思ったように口が開かない。とっくに心の中では恐怖の叫びを轟かせている。それなのに、実際は声も出ない。むしろ、康三は冷静になっていた。とにかく、一刻も早くこの場から逃げないといけない。このままでは自分の身が危険だと察知したのだ。

 視線を虚ろな晋二の瞳に向けたまま地下から脱出しようと体を反転させた時だった。康三が視線を出口の方に向けたと同時に、男の顔が突然視界の中へ侵入していた。

「――勝手に私の作業場に侵入されるのは非常に困ります」

 脂か何かで汚れた丸い眼鏡と無精ひげに坊主頭の恰幅の良い初老の男。

 それが康三の目に焼きついた強烈な印象だった。

 あまりにも突然の出来事に康三の腰が抜けてしまう。その場で尻もちになり、すぐ右側には晋二の頭部がある。だけど、今の康三には周囲の状況はどうでも良かった。何よりも見上げている男の姿に全身の力を奪われていたのだ。

「――なんだ。客人ですか。それなら、もう少し待って下さい」

 至極落ち着いた口調の男。それこそが世間で一大ムーブメントを巻き起こしている家具職人、古泉純之助という男であった。

 くすんだ紺色のエプロンと同色の長靴。チェック柄の長袖シャツは腕捲りをし、ベージュのカーゴパンツを履いている。

 恐怖に戦く康三だが、何故か冷静に自分を見下げている男の服装を一瞬で理解した。

 そこで康三は思い出す。右手に握られている錆びた出刃包丁。康三はそれを盾にしようと突き出した。

 一瞬呆れた表情を浮かべた古泉は、出刃包丁を突き出す康三の存在を無視してテーブルの方へと体を向ける。

 未だに出刃包丁を突き出す康三は古泉の行動を静観している。腰が抜けた彼には黙って見守だけだった。ただ、古泉の行動を見るしか出来なかった。

 古泉はそれを知ってか知らずか、マイペースに作業を始めた。

 左手で先ほど康三が目視した肉塊を触って確認。続けて右手に持った鉈を肉塊に当てると、古泉はそのまま振り上げて一気に叩き付けた。切断される肉塊からは夥しい鮮血が周囲に飛び散る。無論、腰の抜けた康三の顔面にも血が付着する。

 古泉は表情を変える事なく、無心に鉈を振り下ろし続けていた。丸い眼鏡に血が付着しても一向に構わなかった。

 異様な光景を見る康三は出刃包丁を突き出したまま固まっている。この状況にすっかりと呑み込まれてしまったようだ。逃げるという概念すら消失してしまっている。と、ここで康三の視線が地面の方に落ちた。古泉が振り下ろす鉈に同調して何かが反応しているのを見たからである。

 康三は驚愕する。

 虚ろな瞳だった晋二の頭部が反応していたのだ。古泉が持つ鉈が肉塊を叩き付けると同時に晋二の虚ろな表情は恍惚な表情へと変わっている。確かに晋二は死んでいる。いやっ、死んでいないと辻褄が合わない。晋二の頭部は胴体から切り離されている。それは康三でも分かる。それなのに、まるで生きているかのような反応を示している。

 もう康三には分からなかった。何がどうなっているのか。右手にあった錆びた出刃包丁が力なく地面に転がる。

 康三は笑った。鼻で笑った。

 何度も叩き付けられる鉈を背景に康三は晋二の頭部と視線を合わせる。そこで見たのは晋二の安らかな表情だった。その表情を見た康三が保っていた緊張の糸は小さな音とともに切れようとしていた。

「――太郎が吠えなかったのか。いつもなら、余所者が来ると太郎は吠えるのだが」

 鉈を振り下ろしていた古泉が固まっている康三を見る。古泉は至って無表情を浮かべている。それに対し、康三は時間が止まったように表情が強張っている。こんな状況で古泉の口から言った言葉の意味は斉藤には分からなかった。

 そう、古泉が言う太郎。それはまさしく、死んでしまった愛犬の太郎である。その太郎は死んでいるのに、古泉はまるで今でも生きているような口調。

 その理由は簡単だった。

 康三が平屋で何かに見られている。それが答え。古泉は愛犬の太郎を平屋の一部として加工した。それだけの事。どのような手法を用いたのか分からない。だが、太郎の鳴き声は古泉だけにしか聞こえないモノだったのだ。

「――阿部、阿部晋二の親友、副田こうじ。君の望む家具はなんだ?」

 抑揚のない落ち着いた口調で康三に質問をする古泉。

 その問いにもはや、康三は答えるような精神状態ではなかった。手に持っていた錆びた出刃包丁は地面に落ちていて、その視線はじっと親友の晋二に向けられていた。



 阿部晋二は消息を経ってから一ヶ月が過ぎていた。

 副田康三も消息を絶ってから一ヶ月が過ぎていた。

 二人の上司である部長は同時に二人の部下を失って意気消沈していた。このような事態になったのは何故だろうと答えの出ない質問を繰り返した。

 しかし。

 晋二は満足していた。

 康三も満足していた。

 一ヵ月後には古泉純之助の最高傑作とも呼ばれる二つの作品が完成していた。

 『絶望』と題した食卓が48万円。

 独特の暗さを醸し出す雰囲気が明るい食事の場とのアンバランスが好評となり、世間では古泉純之助の名前を絶対的な地位を確立させた。

 『友情』と題した椅子が50万円。

 古泉純之助が自分でも認める商業用として作った家具の中で最高作品。これが話題となって破格の値段が世間を賑わせた。

 魅惑の家具職人として、今でも古泉純之助は日々、家具作りに没頭している。

 平屋では愛犬の太郎が今日も主人の帰りを茶の間で待っている。

登場人物の名前から分かるように某政治家から。

特に深い理由はありません。あしからず。

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