あるメリーさんの電話
男は、もう暗くなった道を歩いていた。
タバコ屋の角を曲がり、何本もの街頭が並ぶ、住宅街の細い道を少し早歩きで歩いていた。
と、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
男はポケットから電話を取り出し、画面に映る番号を見て、怪訝な顔をしながら電話に出た。
「……もしもし」
「……」
受話器部分からは声が出てこない。
「あの……」
「…私」
男がしゃべろうとしたとき、声が発された。
「ええと……」
「私、メリーさん」
女の声、だがどこか無機質な声である。
「今、ゴミ捨て場にいるの」
ブチッ。
電話が切れた。
プー、プー、プー、……
しばらくその音を聞いた男は、怪訝に思いながらも、携帯電話をポケットにしまい再び歩き始めた。
男は家の前に着いた。
かばんから鍵を取り出そうとしたとき、また携帯電話が震えた。
男は電話を取り出し、先ほどと同じ番号を示す画面を見て、通話キーを押した。
「あの……」
「私、メリーさん」
先ほどよりも、少し大きくなった声が、受話器部分から漏れる。
「今、タバコ屋の角を曲がったわ」
ブチッ。
男に話す暇を与えず、また電話は切れた。
男は自宅のリビングでスーツを脱ぎ、携帯電話を手に、ソファに座っていた。
先ほどの電話について、考えていた。
その時、また電話が震えた。
液晶には、やはり先ほどの番号。
男はすぐに電話に出た。
「私、メリーさん」
男が口を開くより先に、女は話し始めた。
「今、あなたの」
「あのっ!」
だが、その女の声に覆いかぶさるようにして、男は喋った。
「家の」
「間違い電話じゃないでしょうか!」
女が喋るのを無視しながら、男は喋る。
「前に…」
「すいません、あなたの声は聞こえないんです」
「……」
女が喋るのをやめる。何を言っているのだこいつは、という様子である。
「お困りになるかもしれませんが、私は耳が不自由でして、あなたが何を喋ってらっしゃるかが、分からないのです」
男は、耳の補聴器に受話口を押し当て、話す。
「ただ、私の携帯は電話番号を一度も使っていません。一度、番号を確認なさってください。それでは失礼します」
「え……ちょっと」
女が発した声を男が聞くことは出来ず、男は、赤い終話キーを押した。
やっと伝えることが出来た。男は、少し達成感を抱いていた。
だが、そのときまた携帯電話が震えた。
見ると、今度はメールの着信であった。
液晶には、でたらめなメールアドレスが表示されている。
『私、メリーさん。今、あなたの家の前にいるの』
件名もなく、このようなことが書いてあった。
メリーさん、という名前が頭の片隅で引っかかった。
どこかで聞いたことがあるような気がした男は、立ち上がり、玄関へ向かった。
鍵を開け、ドアを開ける。
そこには、男と同年代程度の女が俯きながら立っていた。
髪は肩よりも少し長い金髪で、前髪が長く目を覆っていた。
服は白のワンピース。
こんな外国人が一体何の用だ、と思うと同時に、男はその女にどこか見覚えがあるような気がしていた。
「私、メリーさん」
女がほとんど口を動かさずに喋る。
「え?」
だが、男は聞こえなかったようである。
女は顔を少し上げ、今度は口を大きく動かし、声も威圧するように大きくなった。
「私、メリーさん」
「メリーさん……ですか?」
その口の動きを読み取り、男は彼女の言ったことを理解する。
メリーさん。やはりその名前は、どこかで聞いたことのある名前だ。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
「……あなたは、私を捨てた」
「え?」
男は狼狽する。
私が、捨てた?
男には思い当たる節が無く、そもそも捨てる捨てないの関係になったような女性はいない。
「私が……あなたを……ですか?」
「ええ、そうよ、あなたが捨てたのよ!」
女が顔を振り上げ、憎悪を込めた目で男を見た。
青い、ガラス玉のような瞳。
その瞳を見た途端、男の脳裏にある記憶がフラッシュバックした。
幼いころ、男は内気な少年だった。そのころはまだ耳は聞こえていたのだが、彼は家でずっと一人で遊ぶのが好きだった。いや、彼にとっては一人では無かった。彼は、お気に入りの人形とずっと遊んでいた。その女の子の人形は金色の髪で、白いワンピース、そして、吸い込まれそうなほど綺麗な、ガラスの瞳を持っていた。少年は、いつかこの青い瞳に吸い込まれたら、そしたら彼女とずっと遊べるのだろうなと、そんな夢を見ていたときもあった。
男は、今が吸い込まれるときなのか、と思った。彼女が復讐に来たことを理解した。
「そうか、君は、メリーちゃんか」
男は懐かしそうにその名を呼ぶ。
その人形の商品名はメリーちゃんというものではなかった。だが、彼はなぜかその人形をメリーちゃんと呼び続けていた。母親がその理由を尋ねると、彼はただ、だってこの子はメリーちゃんじゃないか、と言い張っていた。
「そうよ、私は、メリーちゃんよ。あなたが捨てた、メリーちゃん」
はっきりとした声で彼女は言う。その瞳は憎悪をたたえたまま、男の瞳を見続けていた。
「すまなかった」
男は、うなだれた。
「すまなかった」
ただ、そう言った。命乞いではなく、ただ謝罪していた。
「……どうして」
メリーさんは問いかけた。だが、男はうなだれたまま返事をしない。
彼女は男の肩に手をかけ、彼女のほうを向かせた。
「どうして、私を捨てたの?」
男は、彼女の唇の動きを読み取る。そして瞳を見る。憎悪が込められた瞳、その奥が少し揺らいでいる気がした。
「どうして……君を捨てたんだ……」
男は呆然とした表情でつぶやく。
記憶の底に埋もれている……いや違う、埋めた出来事。男はそこを探った。
「そうだ……あの日、あの日だ」
忘れていた記憶を、引っ張り出す。彼女は、黙って彼の瞳を見ていた。
「あの日……君を捨てた日、私は耳が聞こえなくなった。……頭を打ったんだ」
男は、自らに語りかけるように話していた。自分に、思い出させるように。
「誰の声も聞こえなくなった……友達も、先生も、父も、母も……」
思い出したくも無い記憶だ。男にとってその記憶は、大きな古傷であった。
「でも……君だけは。君の声だけは、聞こえると思ったんだ」
男は彼女の瞳を見る。泣きそうな顔で見る。
「でも……聞こえなかった。何も。君は、何も喋ってはいなかったんだ」
「喋ったわ」
彼女は、鋭い声で言った。
「私は、何度も喋った。ねぇ、どうしたのって。何があったのって。どうして泣いてるの、って」
彼女の瞳の奥の揺らぎが、少し大きくなったような気がした。
「どうして答えてくれないの、って……どうして、どうして、私をゴミ捨て場に持っていくのって……」
彼女の憎悪のこもった瞳、その奥の揺らぎが、涙となって溢れ出た。
「どうして、どうして……」
「……ああ、そうか、君は語りかけてくれていたのか……」
男は、彼女の涙に指で触れた。
「私は、君の声に…耳を閉ざしてしまったのか…」
耳が聞こえなくなった少年は、だからこそ愛しい少女の声に耳を傾けるべきだったのか。
それができず、絶望した少年はもう少女の声に耳を貸さず、人形を絶望の象徴として、ゴミ捨て場に持っていったのだ。
男も、涙を流した。
「すまない……すまない、メリーちゃん」
「……」
二人はお互いの瞳を見ながら、涙を流していた。
メリーさんの瞳からは、もう憎悪の色は無かった。涙が洗い流したかのように。
「ごめんよ…ごめんよ」
「もう、いいわ」
彼女は、そっと男の肩を押し、離れた。
呆然としている男に、彼女は語りかける。
「あなたは傷を負ったのね。だから私も傷を負った。二人で、一緒に傷を負ったの。もう、それでいいわ」
メリーさんは、涙を流しながら微笑んだ。
とても切なく、けれどひどく綺麗な笑顔だと、男は思った。
「やっと、またあなたと話せた。もう、それでいいわ」
彼女は一呼吸置き、しっかり彼を見た。
「今日のことは……いえ、あの日のことは、もう忘れて。もうその傷は見なくていいから」
そうして、彼女は彼に背を向け、歩き出した。
「待ってくれ!」
その背中に、男は言った。
「行かないでくれ!」
その声にメリーさんの足が止まる。
男が駆け寄る。
「頼む、待ってくれないか」
男が言う。
二人とも立ち尽くし、沈黙が流れる。
男は言葉を探しているようだった。
「……聞いてほしい」
「……」
メリーさんは、黙っている。
「私はこんな耳だ。私に話しかけてくる人は、この補聴器を見て、皆少し距離を置く。あからさまじゃなくても、関わりを減らそうとする人は多くいる」
「……」
「でも、君は違った。電話が出来ないとわかったら、メールをしてくれた。私に、口の動きをはっきり見せてくれた。君を裏切った私に、わざわざ会いに来てくれた」
「……」
「憎むなら憎んでくれ。殺すなら殺してくれ。でも頼む。どうか、行かないでくれ」
「……あなたの傷を、思い出すことになるのよ」
彼女は、男に背を向けたまま、ぼそりと呟いた。
「じゃあ、君の傷はどうなる!」
男はその呟きに問うた。
「君は傷ついたまま、どこに行くつもりだ!」
「……」
「頼む、もう君を一人にさせないでくれ」
男は、後ろから彼女を抱きしめた。
「一緒に傷を持とう。君の傷と私の傷は、同じだから」
「……」
「頼むから……」
「……どうして」
抱きしめられたまま、彼女が言う。
「どうして、私の言ってることが分かるの。口、見てないのに」
「君の言うことなら、もう聞こえるから」
「……」
「もう、君に耳を閉じたりしないから。君の声だけは、ずっと聞き続けるから」
「…本当に?」
「本当だ」
「……やっと……やっとだよ」
彼女の嗚咽交じりの声を聞きながら、男は彼女を抱く腕に、更に力を込めた。
ある町で、あるカップルが目撃された。
男は耳に補聴器をつけ、女はワンピースの良く似合う、綺麗な金髪の外国人らしい。
女はずっと男の顔を見ながら笑顔で喋り、男は微笑みながらその話をずっと聞いていたそうだ。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ある方の短編を読み、そこから思いついた話です。
よく見かけるような話ですかね……
もしよければ、感想、批評、よろしくおねがいします。