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怪獣は笑う。

掲載日:2026/04/23

この物語を連載短編にするか迷う。

 

 チョークの粉が、粘り気のある西日に透けてひどくゆっくりと落下していく。


 午後六時十四分。


 この期に及んでまだ教室に居残っている春日一郎にとって、黒板のど真ん中に陣取った『転校生』という三文字は、ひどくたちの悪い冗談にしか見えなかった。


 右肩上がりの無駄に元気なその癖字は日焼けした黒板の表面でそこだけ白く浮き上がり、見る者の神経を逆撫でする。


 誰が書いたのかは知らない。

 だが、ここが朽葉村であることを考えれば、滑稽なまでの場違いだ。


 山と海に挟まれ、外界から物理的にも心理的にも隔絶されたこの集落に、新しい人間がやってくることなどまずない。よそ者はいつだってよそ者のままであり、村の強固な膜を内側から破ろうとする者には容赦のない無視という圧力がかかる。


 だから、転校生なんてものが仮にやってきたところで、それは水槽に落とされた異物として、ただ底の方で静かに苔むしていくのを待つだけなのだ。


 暑い。

 ただひたすらに、気が狂いそうなほど暑かった。

 昭和の夏の湿気は、古い油のように肌にまとわりついて離れない。窓枠の塗料が熱で溶け出し、ツンとした化学薬品の匂いが蚊取り線香の煙と混ざり合って肺の奥にへばりつく。


 一郎は自分の席——後ろから二番目、窓側から三列目という、何一つ波風を立てずにやり過ごすためだけに存在するような指定席——に深く腰掛け、机の上の傷跡をぼんやりと見つめていた。


 昼休み、前の席の佐伯が、貸していたラジカセ用のカセットテープを机に放り投げてきた。


『わりぃ、美咲のやつが勝手に引っ張り出してよ。テープ、ちょっと伸びちまった』


 日焼けして皮の剥けた鼻の頭を掻きながら、佐伯は笑っていた。

 その後ろで、いつも佐伯の背中に隠れるようにしている九歳の妹が、泥だらけの指を口にくわえたまま、一郎を上目遣いで見ていた。


 彼女のもう片方の手には神社の裏で見つけたという、ひどく青いシーグラスの欠片が握りしめられていた。


 弁償しろ、と言えるほどの関係ではない。

 佐伯はクラスの中心にいる人間で、一郎はその周囲で相槌を打つだけの衛星に過ぎないのだ。


 白シャツの背中は、もう一時間以上前からパイプ椅子にべったりと吸い付いている。動けば布地が皮膚を引き剥がすような嫌な音が鳴るのがわかっているから、一郎は石像のように固まっていた。


 帰る理由はなかった。


 家に帰ったところで、機嫌の悪い父親の舌打ちと、夕飯の準備に追われて息子の存在など視界に入っていない母親の背中があるだけだ。

 居間に鎮座する木目調のブラウン管テレビが垂れ流す無機質なニュースと、黒電話の受話器が油じみているあの息苦しい空間で愛想笑いを浮かべ続けるくらいなら、この茹で上がるような教室で時間をすり減らしている方がずっとマシだった。


 窓の外から、狂ったような油蟬の鳴き声が鼓膜を殴りつけてくる。


 ジーッ、ジーッ、という金属を削るようなその音は、もはや一つの巨大なうねりとなっていた。村全体が、巨大な耳鳴りに包まれているかのようだ。


 そのときだった。

 唐突に。

 本当に、録音テープを刃物で乱暴に引きちぎったかのように、一切のノイズが消えた。


 油蟬の叫びも、グラウンドの隅で風に揺れていた錆びたチェーンの音も、一郎自身の耳の奥で鳴っていた血流の音すらも。

 世界から「音」という概念が、根こそぎ抜き取られた。


 一郎は、息を止めた。

 張り詰めた無音の中、開け放たれた窓から生温かい風が這い込んできた。それは夏の風ではなかった。ひっくり返した腐葉土の底の匂い。雨の降る直前の、ひどく濃密な、濡れた土の匂い。


「ここ、静かだね」


 声は、背後から聞こえた。


 いや、物理的な距離感すらなかった。頭蓋骨の内側に直接、冷たい水を一滴落とされたような響きだった。


 一郎は、背中に張り付いたシャツが不快な音を立てるのも構わず、勢いよく振り返った。


 教室の後ろの入り口に、それが立っていた。

 背丈は一郎と同じくらいか、少し高いくらい。


 着ているのは、この学校の指定ではない、どこか都会的な仕立ての制服だった。

 夏の夕暮れという、すべてが泥のように溶け出していく時間帯の中で、そのシルエットだけが剃刀で切り抜かれたように異常な輪郭を保っていた。


 中性的な顔立ちだった。

 だが、一郎の目を否応なく釘付けにしたのは、その瞳だった。


 黒。

 光を一切反射しない、底の抜けた井戸のような黒。


 そこに一郎の姿は映っていない。窓から差し込む夕日すら、その瞳の表面で吸収され、消滅しているように見えた。


 少年が、歩き出した。

 足音はない。


 ローファーが板張りの床を踏んでいるはずなのに、まるで数ミリ浮遊しているかのように、何の振動も伝わってこない。


 少年は、一郎のすぐ横——通路を挟んで隣の、ずっと空席だった机の横で立ち止まった。


「外はあんなにうるさいのに、君の周りだけ、ぽっかり穴が空いてる」


 少年の視線が、一郎の顔から、足元へと這い回る。


「……だれ、」


 やっとの思いで絞り出した声は、ひどくかすれていた。

 少年は、微かに首を傾げた。


五条夜兎ごじょうやと


 そして、顎の先で黒板を示した。


「あれ、僕のこと。……わざわざ選んで来た甲斐があったよ。ここは、随分と底にヘドロが溜まっていそうだ」


 夜兎、と名乗った少年は、一郎の隣の椅子を引いて腰を下ろした。

 彼が座った瞬間、一郎の周囲の気温が、確実に二度は下がった。濡れた土の匂いがさらに濃くなる。


「君は、どうして帰らないの?」


 夜兎が、机の上に両肘をつき、一郎を横目で見た。


「……別に。ただ、涼んでただけだ」

「嘘だね」


 即答だった。

 夜兎の口調には非難の色もない。ただ、目の前にある石の形を言い当てるような宣告。


「君は、帰りたくないんだ。あの家にも、あの村にも、君の居場所はないから。息を止めて、誰にも見つからないようにじっとしている」


 一郎は、立ち上がろうとして、足首に力が入らないことに気づいた。


「……何を知ったような口を」

「分かるよ」


 夜兎が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

 そして、机の上で強く握りしめられていた一郎の右手に、自分の指先を重ねた。

 ヒッ、と一郎の喉から短い悲鳴が漏れた。


 冷たい。

 それは、死体の冷たさだった。血が通っていない、ただの物質としての冷え切った温度。


 夜兎の指が、一郎の震える拳をゆっくりと解き、その手のひらを開かせる。


「君の中身は、とても柔らかくて、怯えている。……美味しそうだ」


 純粋な、無垢な、飢餓。

 その瞬間、再びノイズが世界に叩きつけられた。


 ジジッ、という不快なハウリング音と共に、村中の電柱に備え付けられた防災行政無線のスピーカーが一斉に鳴り出したのだ。


 窓ガラスがびりびりと震えるほどの音量だった。


『——朽葉村役場から、お知らせします』


 ノイズまじりの、ひどく事務的な女性の声。


『本日午後、村内におきまして、小学生の女児が行方不明となりました。名前は、佐伯美咲さん。九歳。……』


 一郎は、自分の指先が痙攣するのを止められなかった。


 佐伯美咲。

 昼休み、俺の机のすぐ横に立っていた。あの、泥だらけの指。

 スピーカーの放送が続く中、夜兎が一郎の手のひらをそっと撫でた。


「ああ」


 夜兎の口元が、わずかに歪んだ。

 人間の感情のメーターのどこにも当てはまらない、決定的にズレた、不気味な歓喜の表情。


「あれ、僕のせいかもしれない」


 夕日が完全に山の端に沈み、教室の中がドロリとした青黒い闇に沈んでいく。

 一郎は、自分の手が夜兎に握られたまま、微かな汗をかき始めていることに気がついていた。

 振り払うことは、できなかった。


 氷の塊に張り付いた皮膚を、力任せに剥ぎ取るような錯覚があった。

 一郎は、自分の右手を夜兎の指から乱暴に引き抜いた。


 椅子が床を擦るけたたましい音が鳴る。

 それを誤魔化すように、机の横のフックに掛かっていた学生鞄をひったくった。


「……親父が、うるさいから」


 一郎の口を突いて出たのは、みみっちい日常の延長線上の嘘だった。

 夜兎は、空になった自分の手のひらを、不思議そうなものを見るような目つきで見下ろしていた。そして、ゆっくりと顔を上げる。


「気をつけて。夜は、いろいろなものの輪郭が溶けるから」


 その言葉の意味を咀嚼するより早く、一郎は廊下を走り出していた。

 すり減ったスニーカーの裏が、ワックスの剥げたリノリウムを叩く。


 午後六時四十分。


 朽葉村は、すでに青黒いインクの底に沈んでいた。

 一郎は肩で息をしながら、村のメインストリートを足早に歩いた。


 奇妙だった。

 防災スピーカーであれほどの大音量で「子供の失踪」が告げられたというのに。

 道の両脇に並ぶ古びた木造家屋からは、カレーの匂いや、焼き魚の脂が焦げる匂いが、いつもと何一つ変わらずに漂ってきている。


 タバコ屋の店先で、農協の帽子を被った老人たちが数人、身を寄せ合って何かを囁き合っていた。だが、彼らの声はひどく低く、一郎の足音に気づくと、ピタリと口を閉ざし、地面のシミを熱心に観察し始めた。


 誰も、走っていない。名前を呼んでいない。懐中電灯を持って裏山へ向かおうとしていない。


 ガラガラガラ、ピシャッ。


 少し先の家で、雨戸が乱暴に閉められる音がした。

 まだ夜の七時前だというのに。隙間なく、厳重に。

 一郎は、自分の胃袋の中で、冷たい泥水がチャプチャプと音を立てて揺れるのを感じた。


 自宅の引き戸を開けると、強烈な線香の匂いと、微かなカビの匂いが鼻を突いた。

 狭い三和土で靴を脱ぎ、居間へ向かう。


 十四インチのブラウン管テレビが、ケバケバしい色のバラエティ番組を垂れ流している。その正面に陣取った父親は、ステテコ姿であぐらをかき、無言で缶ビールのプルタブを引いた。


 プシュッ、という炭酸の抜ける音が鳴る。

 台所では、母親が換気扇の轟音に負けじと、まな板を叩いていた。


「……ねえ」


 一郎は、テレビの画面を見つめる父親の横顔に向かって言った。


「さっき、放送、鳴ってたよね。佐伯の妹が……いなくなったって」


 まな板の音が、ピタリと止まった。

 父親は、ビールの缶を口に運んだまま、三秒ほど静止した。喉仏が動き、ぬるい液体を飲み下す音が一郎の耳にまで届いた。


「うるせぇな」


 父親はテレビのチャンネルをガチャガチャと回した。砂嵐が一瞬映り、次にプロ野球の中継画面が現れる。


「ナイターが聞こえねえだろうが。さっさと手ぇ洗ってこい」


 台所から、再びトントントンと、単調な包丁の音が響き始める。

 一郎は、ぬるくなった麦茶の入ったコップを両手で包み込み、ガチガチと鳴りそうになる奥歯を噛み締めた。右手のひらに、あの腐葉土の匂いがべったりとこびりついている気がした。



 ************



 黒板消しが立てる、パフ、という間の抜けた音が三時間目の教室に響いていた。

 宙を舞う黄色いチョークの粉が、窓から差し込む凶暴な夏の日差しに乱反射している。


 数学の老教師は、黒板に書いた二次方程式の解をぼソぼソとした声で読み上げ、生徒たちは機械的にノートにそれを写し取っていた。


 教室の右斜め前。

 佐伯の席が、空いている。


 いつもなら、一時間目が始まる前に、昨日のナイターの結果を大声で一郎に話し掛けてくるはずの背中が、そこにはない。


 数学の教師は、出席簿を読み上げる際、佐伯の名前のところで一秒たりとも立ち止まらなかった。完全に一定のリズムで次の生徒の名前を呼び、クラスの三十人も、ただノートに向かってシャーペンを走らせている。


 一郎は、ノートの端をシャーペンの先で真っ黒に塗りつぶしていた。

 シャーペンの芯が、ポキリと折れた。


 紙を突き破り、机の表面に黒い筋を残す。

 ふと、視線を感じた。


 通路を挟んだ隣の席。五条夜兎が、ノートも広げず、教科書も出さず、ただ頬杖をついて一郎を見ていた。


 いや、一郎を見ているのではない。夜兎の視線は、一郎の震える指先から、斜め前の「佐伯の空席」へと、不規則に行ったり来たりしている。


 その黒い瞳の奥が、小刻みに揺れていた。三十人が一斉に息を潜めるあの分厚い沈黙を、舌の上で転がして味わっているような、微かな飢餓感。


 放課後。


 一郎は家に帰る気になれず、すり減ったスニーカーを引きずるようにして、村の北側、海と山がぶつかるどん詰まりへと足を向けていた。


 そこには、トタン屋根のひしゃげた小さな待合所があった。

 錆び付いた丸い標識には、かすれてほとんど読めない字で『朽葉終点』と書かれている。トタン屋根の影に足を踏み入れた瞬間、一郎の足はコンクリートの地面に縫い付けられた。


「遅かったね」


 錆びて赤茶色になったベンチ。そこに、夜兎が座っていた。

 両足を投げ出し、海の方を見つめている。手には、ひからびた蟹の死骸が握られていた。


「……なんで、お前がここにいるんだよ」

「静かだから」


 夜兎は指先で蟹の甲羅をパキリ、と真っ二つに割った。乾燥した肉の欠片が、パラパラと足元にこぼれ落ちる。


「村の中は、みんなが何かを隠そうとしていて、ひどくノイズが多い。ここは、何もないからね。……三十年前の図書館の新聞にも、似たような空白があったよ。神隠し。この村は、昔からいい餌場だったみたいだ」


 夜兎から、三十センチほどの距離。


 錆びたベンチの端に、一郎はゆっくりと腰を下ろした。

 ギシ、と嫌な音が鳴った。

 二人は、横に並んだまま、目の前に広がる灰色の海をぼんやりと視界に入れていた。


「……佐伯、今日学校休んでた」


 一郎の口から、ポツリと言葉がこぼれ落ちた。


「誰も、あいつの話をしなかった。先生も、クラスの奴らも。美咲のことも。みんな、はじめから何も無かったみたいに。……俺もだ。俺も、何も言えなかった」


 ピーゥウウウウン。


 不意に、遠くの方からサイレンの音が聞こえてきた。山の向こうの国道を走っているのだろうか。空気を切り裂くような、けたたましい警告音。


「あれ、泣いているみたいだね」


 夜兎が、サイレンの鳴る方角へ視線を移しながら言った。


「でも、少しも悲しそうじゃない。ただ、空気を震わせているだけ」


 夜兎が、ベンチの上でゆっくりと身体の向きを変えた。一郎の方へ。

 錆びた鉄骨が、悲鳴のような音を立てる。


 一郎は、逃げなかった。


「一郎。君の中の、そのぐちゃぐちゃに混ざった黒いもの」


 夜兎の指先が、一郎の胸元――心臓の少し上あたり――のシャツの生地に、そっと触れた。


 今度は、冷たさではなかった。

 触れられた部分から重力がすっぽりと抜け落ちたような、ひどく不安定な眩暈。


「ひどく濃くて、渋い味がしそうだ。……もっと、見せてよ」


 遠ざかっていくサイレンの音。トタン屋根を叩く乾いた風の音。

 一郎は、胸元に置かれたその手を振り払うことができないまま、ただ、自分の呼吸が深いため息へと変わっていくのを聞いていた。

 懐中電灯の黄ばんだ光の束が、無遠慮に夜の闇を切り刻んでいた。



 午後九時四十分。


 朽葉村の裏山に、消防団の法被を着た大人たちが数十人、ぞろぞろと群れをなして歩いている。彼らが手にしているのは、太い竹の棒や、農具の柄だ。


 草むらを叩くバサッ、バサッというくぐもった音と、安物の蚊取り線香の煙が、むせ返るような夜の湿気に混ざり合っている。


「……たく、こんな時間に。明日も朝えれえ早いってのによ」


 数メートル前を歩く父親が、首に巻いたタオルで汗を拭いながら、これ見よがしな舌打ちをした。隣を歩く農協の男が、愛想笑いを浮かべて同調する。


「全くだ。どうせ神隠しだろ。こんな山ん中、素人が夜に探したって見つかりっこねえのに、形だけはやらねえと駐在がうるせえからな」


 狂騒のふりをした、ただのアリバイ作り。


 佐伯美咲が消えてから三日目の夜、村はようやく「捜索隊」を組織した。

 だが、大人たちの視線は暗がりを真剣に探ってなどおらず、ただ時間潰しのために、明日の天気やパチンコの話をぼソぼソと交換しているだけだった。


 春日一郎は、その群れの後方を、足を引きずるようにして歩いていた。

 懐中電灯の光が届かない足元は、木の根や腐った落ち葉に覆われていて、何度も足首を捻りそうになる。


 ふと、前を歩く父親の足が止まった。


 父親が照らした懐中電灯の先に、ツタに覆われた古い祠があった。大人たちの話し声が、不自然に途切れる。


「おい……ここ、三十年前にも……」


 誰かが呟いた声を、父親が「しっ」と短く遮った。

 父親の背中が、わずかにこわばっていた。彼は祠の奥の暗がりを、まるでそこから何かが出てくるのを恐れるように、数秒間だけ食い入るように見つめた。


 その横顔には、面倒くさそうな態度の裏に隠れていた、一瞬の「父親らしさ」——あるいは、誰かを探し出そうとする微かな良心の片鱗が浮かんでいるように見えた。

 だが。


「……行くぞ。こんなとこにいるわけねえ」


 父親は懐中電灯の光を強引に逸らし、祠から遠ざかるように斜面を登り始めた。

 大人たちが、それに続く。誰も祠の裏を確かめようとはしなかった。


 一郎の胃の奥で、冷たい泥水が揺れた。


 気がつくと、一郎の足は列の軌道から外れていた。大人たちのタバコの煙から逃れるように、数歩、獣道のような斜面を下る。


 それだけで、大人たちの足音も、話し声も、分厚いシダの葉と黒い木立に吸い込まれ、一気に遠ざかった。


 闇と、圧倒的な静寂。


 一郎は立ち止まり、荒い呼吸を整えようとした。


 ——ズズッ……。

 ——ジュル……。


 音がした。三十メートルほど奥の、ひらけた場所から。

 水に浸した角砂糖が限界を超えてどろどろに崩れ落ちるような、あるいは、巨大なスポンジから水分を無理やり絞り出しているような、粘り気のある音。


 ひっくり返した腐葉土の底の匂いが、鼻腔を突く。

 一郎は、太い杉の木の陰に身を隠し、その「ひらけた場所」を覗き込んだ。


 月明かりのスポットライトが落ちる中央に、二つの影があった。


 一つは、佐伯美咲だった。

 ピンク色のTシャツに、泥だらけの短パン。いつも神社の境内で見ていた姿。だが、彼女は立っているのに、全く動いていない。両腕はだらりと下がり、顔は真上——夜空の方向を向いている。その瞳は大きく見開かれているが、ガラス玉のように虚ろだった。


 そして、その美咲の顔を両手で包み込むようにして、五条夜兎が立っていた。

 血は、一滴も流れていない。


 夜兎の口は、美咲の口と数センチの距離まで近づいている。美咲の開いた口から、陽炎のような、あるいは細かいノイズのような「何か」が、糸を引いて夜兎の口へと吸い込まれていく。


「……あ」


 一郎の喉から、間の抜けた音が漏れた。

 乾いた落ち葉を踏み砕く音より先に、その声が静寂を破っていた。

 音が、止んだ。


 夜兎がゆっくりと顔を上げる。美咲の顔から手を離すと、彼女の身体は糸の切れた操り人形のように、ぐにゃりと地面に崩れ落ちた。


 ピクリとも動かない。

 振り返った夜兎の顔を見て、一郎は息を呑んだ。


 いつも無表情だったその顔が、熱を出した子供のように赤く火照っていた。濡れた唇の端が、だらしなく吊り上がっている。


 人間の感情を喰い散らかしたバケモノの、醜悪で、美しい笑み。


「見ちゃったんだ」


 夜兎の声が、一郎の頭蓋骨の中で反響した。


 夜兎が、一歩こちらへ歩み寄ってくる。


 逃げろ。大声を上げろ。数分走れば父親たちがいる。

 だが、一郎の筋肉は動かなかった。あの大人たちを呼んで、どうなる? 父親たちは一瞬の良心すら見捨てて逃げたのだ。彼らがこの異常に立ち向かうはずがない。


 夜兎が、一郎の目の前で立ち止まった。


 火照った顔のまま、一郎の首筋に冷たい指先を這わせる。

 ビクン、と一郎の身体が跳ねた。


「叫ばないの?」


 夜兎の黒い瞳が、一郎を覗き込む。


「大人を呼べば、僕は終わるよ。君が、終わらせることができる」


 一郎の奥歯が、ギリギリと鳴った。

 視界の端で、地面に転がる美咲の手が見えた。泥遊びをしていた、あの小さな手。

 一郎は、自分の意志で、美咲から視線を外した。そして、夜兎の黒い瞳だけを見つり返した。


「……黙っててやる」


 かすれた、震える声だった。


「だから……俺のことは」


 一郎の途切れた言葉を、夜兎の静かな笑い声が塗り潰していった。

 木々の向こうから、大人たちの「おーい、どこ行ったー」という声が、ひどく間の抜けた響きで近づいてきていた。



 ************



 水道の蛇口から吐き出される水が、ひどく生温かかった。


 午前七時十二分。

 一郎は、洗面台の鏡に映る自分の顔をぼんやりと見つめていた。

 目の下にうっすらと落ちた隈。皮膚の内側に別の生き物が入り込んで、自分の筋肉を勝手に動かしているような感覚があった。


「……見つかったとよ」


 背後で、父親のくぐもった声がした。

 ステテコ姿で歯ブラシをくわえた父親が、洗面所の入り口に寄りかかっている。


「美咲ちゃん。明け方に消防団の連中が見つけたらしい」

「……死んでたの?」

「いや。息はある。ただ、えらく衰弱してて、目も開けたままでピクリとも動かねえらしい。駐在のオッサンが言うには、まるで魂が抜けちまったみたいだってよ」


 父親はぺっ、と洗面台に唾を吐き、一郎を横目で見た。


「お前、昨日の夜、あっちの方で何か変わったこと見なかったか」


 心臓が、微かに跳ねた。


「……ううん。何も。暗くて怖かったから、途中で道引き返しただけ」


 息を吐くように、完璧な嘘が成立した。

 父親は「ふん」と鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も聞いてこなかった。


 一郎の足は学校へは向かわなかった。

 通学用の鞄を裏口のゴミ箱の裏に隠し、狂ったような油蟬の鳴き声の中を足早に歩いていた。


 向かったのは、昨夜のあの場所だ。

 大人たちが美咲を発見し、ひとしきり踏み荒らして去っていった後の裏山の斜面。


 ひしゃげたシダの葉と、無数に乱れた大人たちの長靴の足跡。その中に、美咲が倒れていたであろうくぼみがある。

 一郎は、そのくぼみの周囲を這いつくばるようにして凝視した。


 あった。

 大人たちの長靴とは明らかに違う、滑らかな靴底の跡。ローファーの足跡。

 一郎は、両膝を土についた。


 やめろ。見なかったことにして、さっさと帰ればいい。

 頭の片隅で誰かが叫んでいる。しかし、一郎の両手はすでに泥の上にあった。

 十本の指を、その足跡の上の、濡れた泥の中へと突き入れる。


 ひんやりとした、ミミズの死骸と腐葉土の匂いが鼻腔を殴りつける。

 指先で、泥を捏ねる。


 ぐちゃ、ぐちゃ。

 ローファーの輪郭をすり潰し、周囲の土と混ぜ合わせていく。爪の間に、真っ黒な土が容赦なく入り込んでいく。


 鼓動が早くなる。息が荒くなる。

 泥を弄っている間だけは、一郎は夜兎という絶対的な異常と「対等」になれた気がした。俺の沈黙と、この汚れた手がなければ、お前はこの村で生きていけない。


 十分に泥をこすりつけ、足跡が完全に消滅したのを確認してから、一郎は立ち上がった。

 両手は、手首まで真っ黒に汚れていた。



 村の小さな公園の、錆びた水飲み場まで歩いた。


 蛇口をひねり、赤茶色の錆が混じった水に両手を突っ込んで、狂ったように擦り合わせた。


 冷たい水が土を洗い流していく。だが、落ちない。

 爪の間に入り込んだ黒い土が、どす黒い染みを残している。皮膚が赤く擦り剥けるほど洗っても、あの腐葉土の匂いは消えようとしなかった。


「もう、綺麗になったよ」


 水音に混じって、頭の上から声が降ってきた。

 一郎の肩が大きく跳ねる。

 ゆっくりと顔を上げると、蛇口の向こう側、ブランコの支柱の横に五条夜兎が立っていた。


 制服にはシワ一つない。底知れない黒い瞳が、赤く腫れ上がった一郎の両手を見下ろしている。


「……何が」


 一郎は、濡れた手をズボンで乱暴に拭いながら低く唸った。


「足跡のことだよ」


 夜兎は、ゆっくりと瞬きをした。


「あの場所、綺麗になってたね。君が、自分の手を汚して、全部消してくれたんだ」


 一郎の呼吸が浅くなった。

 自分が無様に泥を這いずり回り、痕跡を消し去るあの滑稽な姿を、この怪獣はずっとどこかから観察していたのだ。


 夜兎が歩み寄ってくる。一郎は、汚れた両手をだらりと下げたまま、彼を見据えていた。


「君は、不思議だ」


 夜兎が、一郎の濡れた前髪にそっと指先を伸ばした。

 氷のような冷たさが、額を突き抜ける。


「壊れたくないから黙っているのに、自分から泥を被りに来る。僕に食べられたいの? それとも、僕を飼い慣らしたつもりなの?」


 夜兎の顔が近づく。


「……ふざけんな。俺はただ、波風を立てたくないだけだ」

「嘘だ」


 夜兎の唇の端が、三日月のような形に吊り上がった。


「君のその手は、ひどく重くて、ざらついた質感がする。……君は、もうこちら側だ」


 夜兎が、一郎の耳元で小さく息を吸い込んだ。

 一郎は目を閉じた。だが、夜兎は何も奪わず、一郎の耳に言葉を落としただけだった。


「ごちそうさま、共犯者」


 目を開けた時、夜兎の姿はもうそこにはなかった。

 ただ、狂ったような蝉の鳴き声と、蛇口から流れ続ける水音だけが残されていた。

 一郎は、自分の両手を見下ろした。洗っても落ちない汚れが、脈打っているように見えた。


 警察犬の低く湿った吠え声が、村を囲む山の斜面にべったりと張り付いていた。




 八月三十一日。午後五時十五分。


 朽葉村の結界は、とうとう外からの圧力に耐えきれず、ひび割れ始めていた。県警から派遣されたという物々しい制服の群れが、村のメインストリートを我が物顔で歩き回っている。


 佐伯美咲が抜け殻の状態で発見されてから二週間。村ではさらに二人、老人が姿を消していた。


 もはや、ただの神隠しで押し通せる限界を超えていた。

 生ぬるい風が、腐りかけたシダの葉と、車の排気ガスの匂いを運んでくる。


 春日一郎は、村外れの「朽葉終点」のトタン屋根の下で、サビだらけのベンチの端に座っていた。


 目の前には、五条夜兎が立っている。

 今日で夏休みが終わるというのに、彼は相変わらず、初めてこの村に現れた時と同じ、シワ一つない整った制服姿だった。ただ、その足元のローファーだけが、うっすらと土埃で汚れている。


「……もう、逃げられないぞ」


 一郎の声は、遠くで鳴るパトカーのサイレンにかき消されそうなくらい、ひどくかすれていた。


「犬まで来た。お前のことなんか、すぐに辿り着く」

「犬」


 夜兎は、自分の手首を眺め、不思議そうに首を傾げた。


「彼らが追っているのは、三十年前にこの村に落ちた『空白』の残響だよ。僕の輪郭は、君の指の間にしか残っていないはずだけれど」


 一郎は、無意識に右手をズボンの布地にこすりつけた。

 あれから毎日、風呂場で皮膚が剥けるほど石鹸で洗っているのに、ふとした瞬間にあの腐葉土の匂いが鼻腔の奥から湧き上がってくる。幻臭だと頭では分かっているのに、細胞がその汚れを記憶してしまっているのだ。


「行くの?」


 一郎の口から、懇願に似た響きが漏れた。


 自分でも驚くほど、未練がましい声だった。このバケモノがいなくなれば、自分はまた退屈で息苦しい、普通の子供に戻れるはずなのに。

 泥をこすりつけたこの手で、どうやってやり過ごせというのか。


「ここは、少しノイズが大きくなりすぎた」


 夜兎は、海の方へ視線を向けた。波は鉛色に重く、空の暗さを吸い込んでどす黒く変色している。


「それに、お腹もいっぱいになった。……君以外のものはね」


 夜兎が、一歩、一郎の方へ踏み出した。


 ベンチの鉄骨が軋む。一郎は、周囲の空気が急速に薄まり、呼吸の仕方を忘れてしまったような錯覚に陥った。


 喰われる。


 とうとう、この怪獣は俺の中身を吸い尽くして、あの抜け殻のようにして去っていくのだ。


 だが、一郎は逃げなかった。

 目を閉じることすら放棄し、ただ、目の前に迫る底知れない黒い瞳を見つめ返していた。


 夜兎の指先が、一郎の頬に触れた。


 体温という概念がすっぽりと抜け落ちたような、絶対的な虚無の感触。

 しかし、夜兎の顔は近づいてこなかった。代わりに、彼の親指が、一郎の目の下にできた濃い隈を、撫でるように優しくなぞった。


「君の中の、そのぐちゃぐちゃに混ざった黒い泥。今すぐ開けて、啜ってしまいたいくらいに……ひどく喉が渇く」


 夜兎の声が、一郎の頭蓋骨を直接震わせる。


「でも、やめておくよ。君はまだ、未完成だから」

「……未、完成」

「そう。ここで僕が食べてしまったら、君はただの壊れたおもちゃになってしまう」


 夜兎が、一郎の顔から手を離した。

 その瞬間、夜兎の顔の筋肉が、不規則に歪んだ。


 唇の端が、耳のあたりまで不自然に吊り上がる。目は細められ、黒い瞳の奥に、得体の知れない熱が灯る。

 それは、笑いだった。


 人間の感情を模倣しようとして、決定的に何かの配線を間違えてしまったような、グロテスクな表情。


 だが、一郎にはそれが、ただの威嚇や嘲笑には見えなかった。

 その狂った笑顔の奥に、ほんの一滴だけ、純粋な「親愛」のようなものが混ざっているように見えてしまったのだ。


 人間の感情を喰いすぎた怪獣が、うっかり獲得してしまった人間らしさの残滓。


 それが、何よりも恐ろしかった。


「君を、壊したくない」


 夜兎はそう言い残し、背を向けた。

 足音は、全くしなかった。ただ、トタン屋根の影に溶け込むようにして、その整ったシルエットは一瞬でかき消えた。


 あとには、鉛色の波の音と、狂ったような油蟬の鳴き声だけが残された。

 一郎は、ベンチに座ったまま、自分の両手で顔を覆った。


 指の隙間から、ひゅう、ひゅうという、壊れた笛のような自分の呼吸音が漏れ出していく。



 ************





 安物の冷蔵庫が、ブゥン、と低い唸り声を上げている。


 午後十一時五十八分。


 春日一郎は、東京の郊外にある、壁の薄いワンルームマンションのフローリングに胡座をかいていた。


 二十二歳。


 テーブルの上には、結露でびしょ濡れになった缶チューハイと、半分ほど食べた乾き物のイカ。


 その横に、画面が少し割れたままのガラケーが裏返しに置かれている。

 着信履歴も、未読のメッセージも、もう三ヶ月以上表示されていない。


 大学のサークルで顔を合わせていた連中とは、とうの昔に疎遠になった。「お前って、いつもどこか薄気味悪いよな」と、飲み会の席で笑いながら言われたあの日から、自分から連絡を絶った。


 実家からの仕送りを断り、夜勤のアルバイトだけで食いつないでいる。

 朽葉村から逃げるように上京したはずなのに、気づけばこの四畳半の部屋に、あの村と同じ分厚い「沈黙のバリケード」を築き上げていた。


 窓を開けても、アスファルトの熱気と排気ガスの匂いが入り込んでくるだけで、ちっとも涼しくはない。


 テレビの画面だけが、暗い部屋の中で青白く発光し、一郎の無精髭の伸びた輪郭を照らし出していた。


『——続いてのニュースです。昨日未明、K県北部の山間部にある集落で、一家四人が行方不明となる事件が発生しました。家の中には争った形跡はなく、夕食がテーブルに並べられたままで……』


 女性アナウンサーの無機質な声が、部屋の空気を震わせる。


 一郎は、缶チューハイを手に取ろうとした動きをピタリと止めた。

 画面には、上空のヘリから撮影された、山深い田舎町の風景が映し出されている。緑の木々に囲まれた、錆びたトタン屋根の家々。そこが朽葉村ではないことは、一目で分かった。全く違う場所だ。


「……ああ、またか」


 一郎の口から、ため息のような呟きが漏れた。

 テレビのコメンテーターたちは、事件性を疑い、警察の初動の遅れをしたり顔で非難している。彼らは何も分かっていない。


 そこには悪意を持った人間など存在しない。ただ、圧倒的な「空腹」が通り過ぎただけなのだ。


 一郎は、自分の右手を見下ろした。

 指先をこすり合わせる。


 九年前のあの夏、泥を捏ねて足跡を消した時の、ミミズの死骸と腐葉土の匂いが、今でも鮮明に蘇ってくる。


 今、一郎の手は清潔だった。爪も短く切り揃えられている。だが、皮膚の内側には、あのバケモノが残していった虚無が、確実に巣食っている。

 一郎は、ガラケーを一瞥し、そして再びテレビの画面に目を戻した。


「……早く、壊しに来いよ」


 誰もいない暗い部屋の天井に向かって、一郎は呟いた。


 一郎はテレビの画面を見つめたまま、動かなかった。


 自分という未完成の泥が、綺麗に啜り尽くされるその時を。


 冷蔵庫のモーター音が、唐突に鳴り止んだ。

 部屋を、完全な静寂が支配する。


 どこか遠くで、パトカーのサイレンが、空気を震わせながら微かに鳴っていた。



 怪獣は笑う 了

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