さよなら醜い私、元婚約者様。胸を張って生きてゆきます。
幼い頃から婚約を交わしていたバスチアン・ド・ヴィルシェーズ侯爵子息は、とにかく私の事を嫌っていた。
理由は単純だ。私が醜女だから。
細く小さな目に太い眉。
大きな鼻、薄く大きな口、濃いそばかす。
私の顔は女性が憧れ、男性から好まれるようなものとは程遠かった。
バスチアンは幼い頃から美しいものを好む質であったし、何よりプライドが高かった。
彼は醜い私を連れて公の場に出る事も、プライベートで私と顔を合わせる事すらも嫌がった。
とはいえ、生まれつきこの顔で生まれた私にはどうしようもない問題。
そう考えた当時の私は、せめて容姿以外は彼に認められる淑女であろうとした。
勉学も芸術もダンスも、全てに力を入れた。
バスチアンに恋心を抱いていたなどというロマンス小説のような展開はない。
ただ、長年赤字続きで傾きつつあった私の家門、クレージュ侯爵家は同じ爵位でありながらも比較的裕福であったヴィルシェーズ侯爵家の後ろ盾が欲しかった。
家の為の政略的婚約。これが破綻すればクレージュ家の財政状況は不透明となり、最悪爵位を返上しなければならなくなるかもしれない。
そんな家を守る為にも、私はこの婚約を維持させなければならなかった。
そんな背景から無我夢中で努力した甲斐あり、学園へ入学する頃には同年代の御令嬢の間でも優秀であると噂されたり、勉学の手伝いを求められる事が増え、友人は増え、必然的に人脈も広がった。
勿論私の容姿を笑う人もいたけれど、その声が気にならない程私に好意を向けてくれる人々に恵まれていた。
けれど……肝心なバスチアンはそれでも私を見てはくれなかった。
そしてある日の事だ。
「既に父さんと母さんには相談したのだが……婚約を破棄しよう」
「え……? そ、そんな急に……っ、一体何故です!」
「何故だと? そんな事、わかり切っているだろう?」
バスチアンは私を指してこう言い放った。
「お前はあまりに醜すぎる。俺の隣に立つのにふさわしくない!」
容姿については自覚していました。バスチアンがこの顔を嫌悪していた事も。
しかしそれを直接的な言葉で言われた事、そして私のこれまで積み重ねてきた努力全てが無駄であったと突き付けられた事。
それらは私の心に大きな傷を作った。
そしてバスチアンは、泣き崩れる私を置いてその場を立ち去った。
正式に婚約破棄の手続きを踏んだ数日後。
彼は別の女性と腕を組んで歩いていた。
私とは違って、大きな瞳とよくとおった鼻筋、小さく艶やかな唇を持つ、同性から見ても愛らしい容姿をしている女性だった。
婚約が破棄された事について、家族は私を責めなかった。
それでも私は泣きじゃくりながら家族へ謝罪を繰り返した。
幸い、家の財政は父の商売が上手くいった事で回復した。
お陰で私は財政的余裕のある独り身の方々の中から無理矢理婚約者を選ぶ必要もなくなり、普通の貴族令嬢らしい生活を送ることが出来るようになった。
そして婚約破棄から一年が経った頃。
一学年上であったエルミート辺境伯家のご令息、クロヴィスという学生と出会う。
図書館で出会った私達は何度か顔を合わせる内に友と呼べる間柄になり、やがて彼の人柄に惹かれていく。
クロヴィスは貴族の中でも高貴な血筋を引く家柄でありながら、謙虚さと誠実さを兼ね備えていた。それに加えて学園での成績も優秀。
しかし、彼には婚約者がいなかった。
彼曰く、パーティーやお見合いの場などで見知らぬ異性と接する時、下手に緊張してしまい上手く話せなくなってしまう。相手は気にせず婚約の話を持ち掛けてくれるが、この先打ち解けられるかもわからない相手の時間を無責任に拘束する事は出来ないと断り続けていたらしい。
男性は女性よりも婚姻を急ぐ理由が少ない。またエルミート辺境伯家は国でも有数の、高い地位を確立した家であった為、余計に焦る必要はなかったようだ。
私達はいつからか、時間を決めて図書館で待ち合わせる事が習慣となって行った。
好きな本や、新しく出た本の布教や感想の共有に、時折混ざる世間話。
穏やかで心躍る時間はあっという間に私達を虜にした。
それから、クロヴィスは私を図書館以外の場所へも誘うようになった。
彼はとても奥手で慎重な人物だったから、最初の何回かのデートの誘いは、本当に緊張して、きっと何度も頭の中で計画を立て直したりなんかしつつも、勇気を出してくれていたのだと思う。
緊張しすぎて噛んでしまう彼の様子が、私を意識してくれている証拠のように思えて、私は本当に嬉しかった。
それから程なくして、クロヴィスから婚約の申し出があった。
私は勿論それを受け、私達は晴れて正式な恋人同士となった。
クロヴィスは私の容姿を嫌がることはなかったし、寧ろ余所行きの格好をした時なんかは良く褒めてくれていた。
それも心からだ。
素直な彼の反応からそれがよく伝わって来た。
アクセサリーを選んでくれた時だってある。
「君に似合うと思う」なんて言って。
バスチアンの婚約者だった時には「似合うものなど何もない」と鼻で笑われていた私に、そんな言葉をくれるのだ。
幸せだった、とても。
しかし、クロヴィスの婚約者の座を狙っていた一部の令嬢は私の陰口を囁くようになった。
その殆どが容姿の話だった。
私が何か言われるだけならば気には留めなかっただろう。
けれど、裏で囁く人たちの悪意の矛先はやがてクロヴィスへも向けられた。
あのような醜女をわざわざ選ぶなど、趣味が悪い。
特殊な性癖でも持っているのかもしれない。
そんな事が噂されるようになった。
それが私はとても悲しかった。
クロヴィスは本当に素敵な人で、誰かに悪く言われていいような人ではなかったから。
私の容姿のせいで、クロヴィスまで悪く言われてしまう。
その現実が、私にとっては本当に心苦しかった。
例えクロヴィス本人が気にしないとしても、私が許せなかった。
だから私は――ある日を境に、且つてバスチアンの婚約者であった頃に培った努力の底力を再び目覚めさせることにしたのだ。
学園を卒業した私は晴れてクロヴィスと結婚することになった。
エルミート夫妻――クロヴィスのご両親のご厚意で、式を挙げる前から私はエルミート邸に仮住まいをさせていただき、エルミート辺境伯の仕事を引き継ぎ始めたクロヴィスを支える日々を送っていた。
そして式の一ヶ月前。
王宮で開かれる大きな舞踏会へ私とクロヴィスは招待される。
結婚の報告も兼ねた挨拶回りもある為、私達は舞踏会へ参加する事となった。
私達を乗せた馬車が王宮のロータリーで停まる。
上質なタキシードを身に纏ったクロヴィスは先に馬車を降りると、エスコートの為に私へ手を差しだす。
彼の手に自分の手を重ね、私は地面に降り立った。
ドレス姿の私の姿を瞳に捉えるクロヴィスは困った様にはにかむ。
「綺麗だよ、アナベル」
「そうでしょう。沢山練習したんだもの。――お化粧」
王宮へ訪れた私の姿は且つて笑い者にされた醜女とは全く異なっていた。
目の錯覚を遣い、化粧品で陰影をつけた顔。
瞳は大きく丸く見えるように、そして鼻筋は通り、唇も女性らしい赤みと艶が乗せられている。
知人であっても、私が醜女の侯爵令嬢アナベル・ド・クレージュである事に気付けない程、私は自身の顔立ちを変えていた。
「見慣れていないから、何だか落ち着かないな」
クロヴィスは柔く微笑み、私の頬を撫でる。
「今の君も、普段の君も僕は本当に愛してるよ」
彼は私が容姿を批判され続けた過去を知っている。
無理に着飾ろうとしなくていいと気遣ってくれる彼の気持ちはとても嬉しい。
私は触れた手に擦り寄りながら笑った。
「ありがとう、クロヴィス。私もよ。……これは、私の為にしている事だから、どうか心配しないでね」
私がそういえば、クロヴィスはそれ以上何かを言うことはしなかった。
ただ頷いて、私の腕を引きながら舞踏会の会場へと誘導するのだった。
パーティー会場へ足を踏み入れた私たちは知人への挨拶回りを粗方終え、一曲を踊り終える。
その時だ。
「そちらの美しい御令嬢。どうか次は私と踊って頂けませんか」
一人の男性が私へ手を差しだす。
ダンスパーティーでは、婚約者や夫婦以外の相手と踊ることも多い。
女性は異性にダンスを誘われればそれを受け、一曲は付き合ってあげるべきというのが、社交界のマナーであった。
「また後で。ね?」
「うん。また後で」
マナーであるとわかっているからこそ何も言わないクロヴィスが顔を曇らせていることに気付いた私は思わず笑ってしまう。
私の言葉に頷いたクロヴィスは、ダンスの邪魔にならないようにと離れていった。
それを見送ってから私はダンスを踊る。
それからも踊り終える度に別の男性が現れ、私はすっかり引っ張りだこになってしまった。
実は、私をダンスに誘った男性の半数以上は既に私と面識がある人物であった。
にも拘らず、彼らは揃って「初めまして」だとか、「あまり公の場には出られないのですか?」だとか、初めてであったかのような反応を示したのだ。
私が数年にかけて磨き上げたおめかしの技術は相当なものであるようだった。
さて。踊り過ぎて疲れてしまった私は、そろそろクロヴィスの元へ戻ろうと考える。
その時だった。
「失礼」
聞き覚えのある声が後ろからする。
私は驚いて振り返った。
バスチアンだ。
彼が、優しい微笑みを浮かべて私へ手を差しだしていた。
醜かった私には一度だって向けてくれなかった、甘い顔だ。
「よろしければ、私とも躍って頂けませんか」
学園にいた頃の私であれば、遠目に彼の姿を見るだけでも動悸に見舞われて冷静さを欠いてしまっていただろう。
しかし今は違う。
私は背を伸ばし、優雅に頭を下げた。
「喜んで」
バスチアンの手に自分の手を重ねる。
少し躍り始めてから、私は昔の事を思い出していた。
彼は、ダンスがあまり得意ではなかった。
それでも容姿が整っている方なので、女性からはその欠点すら長所として評価されていた訳だが。
私は婚約者として彼と踊る時、いつだって周囲には気付かれないように彼の動きを誘導していた。
そして今も……彼が踏むステップは聊かぎこちない。
私は昔を思い出しながら、彼が躍りやすい体勢を取れるように自分の動きを調整した。
(あれだけの事があったのに……懐かしさを覚えたりするものなのね)
私の心は随分と穏やかだった。
バスチアンの事は許せないし、苦い思いばかりが過るが、それを乗り越えるだけの幸せが今の私にはあった。
「初めてお見掛けしますが、どこか遠方からいらっしゃったのですか?」
「いいえ」
「ではこれまで偶然すれ違っていたのでしょうか。今日までお会いできなかった事が口惜しくてたまりません」
記憶の中のバスチアンのいつだって私に対して乱暴な口調だった。
彼もまた、気付いていないのだ。
私が醜女のアナベルである事に。
「どちらの家柄か、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「姓は、クレージュと申します」
「……っ! クレージュ……クレージュ、侯爵家ですか?」
「ええ」
彼にとってその名は良い思い出がないものだろう。または後ろめたさを感じていたのかもしれない。
バスチアンは顔を強張らせた。
「もしかして、次女のクロエ様ですか? 病弱で最近まで臥せていらっしゃったという噂を小耳に挟みまして」
彼の言う通り、妹のクロエは幼い頃から病弱で引きこもりがちであった。
だが最近になって体調が安定し始め、社交界へ姿を見せる機会を少しずつ増やしている最中だ。
バスチアンは私と婚約関係にあった時、数度だけクロエに会った事がある。
だが随分昔の話であるし、クロエの顔までは覚えていなかったのだろう。
彼は自然と、目の前のクレージュを名乗る令嬢が私である可能性を頭の外へ弾き出していた。
「いいえ? けれど、お会いした事はありますよ。――バスチアン」
彼を敬称なしで呼ぶ令嬢は少ない。
家族を抜けば親しい間柄――友人や婚約者くらいしか、砕けた呼び方はしないものだ。
少なくとも、クロエは彼をそんな風に呼ばない。
そしてクレージュ侯爵家に令嬢は二人しかいない。
その考えに――目の前の令嬢の正体に、彼は漸く思い至ったのだろう。
刹那、動揺からかバスチアンがステップを踏み外す。
彼の体が傾いた。
私は私の背に回されていた彼の腕を掴んで引き上げ、体勢を立て直してやった。
傍から見れば、失敗ではなく粋なアレンジのように見えるよう――彼が恥を掻かなくて済むように。
昔、彼の為に培ってきたダンスの技術をふんだんに使って。
そして丁度、曲が終わりを迎える。
私に支えられながら愕然とするバスチアンの耳元に私は口を寄せる。
「お久しぶりです。バスチアン・ド・ヴィルシェーズ様?」
今の私とバスチアンは他人に近しい。
先程は彼を脅かす為の下心も入っていたが、本来ならば勿論、彼には敬称を付けるべきだ。
「あ……アナ、ベル」
「ええ」
私はバスチアンから離れると恭しくお辞儀をする。
「アナベル・ド・クレージュです」
バスチアンは私を見つめたまま立ち尽くす。
まさか、こんな再会を果たすとは思っていなかったのだろう。
「ドゥニーズ・ポワンカレ伯爵令嬢はお元気ですか?」
「あ、ああ……」
「まだご関係が続いているようで、安心いたしました」
私が挙げたのは、婚約破棄直後にバスチアンが新たな婚約を結んだ女性の名前だった。
バスチアンはあからさまに居心地が悪そうに肩を縮こまらせた。
「……ダンスは、丁寧な方がお相手の女性を立ててあげられるかと思われます。踊れるようになるまでは大変でしょうが、検討してみてくださいね」
視線を落とし、黙りこくったバスチアン。
彼はこのままやり過ごすつもりなのだろう。
私とて、彼に長い時間を割くつもりはなかった。
「でも、お会いできてよかったです」
「え?」
「……こんな言い方をしてしまってはいけないのかもしれませんが。あの時バスチアン様が私を突き放してくださったからこそ、本当の幸せを見つける事が出来ました。私を心から愛し……そして私が心から愛せる方と出会えました」
この言葉に偽りはない。本心だ。
視界の隅、クロヴィスが私へ近づこうとしているのが見えた。
バスチアンの事も知っているから、きっと私を心配して迎えに来てくれているのだろう。
「今日はありがとうございました、バスチアン様。お陰で私は――胸を張って歩んで行けそうです」
彼と対峙しても怯えたり、傷付いたりする私はもういない。
代わりに残ったのは、自分は愛されているという自覚を持った私だ。
私が礼を述べた時。
「アナベル」
クロヴィスが辿り着き、私の腰に手を回した。
「ご機嫌よう。ヴィルシェーズ侯爵令息」
「あ、ああ、はい。ご機嫌よう……エルミート辺境伯令息」
「ご歓談中申し訳ないのですが、私達はそろそろこの場を離れなければならず。失礼させていただきます」
後日、どこかの機会に改めてご挨拶をと続けると、クロヴィスは私の手を取ってその場を離れようとする。
それに従って私が歩きだした、その時。
「あ、アナベル……ッ」
バスチアンが私を呼び止めた。
私は知っている。
……彼は、綺麗なものが好きなのだ。そして気に入ったものは手に入れなければ気が済まないのだ。
そんな性格から先行した衝動が、溢れてしまったのだろう。
私は振り返って笑みを返す。
「私、結婚するんです」
「……え、け……っ」
「ええ。一か月後に」
私はクロヴィスの腕を抱いて、満面の笑みを浮かべる。
彼の温もりを感じるだけで、自然と笑みが溢れてしまうのだから、重症かもしれない。
「是非、式にいらしてください。招待させていただきますから」
バスチアンは何も言わなかった。
私の婚約の話を知らない訳ではなかっただろうが、それでも心のどこかで私を見下していたのだろう。
「あいつを好きになるような奴なんていない」、「どうせまた破綻する」……そんな風に考えていたのだろう事が見て取れた。
だから見せつけてやるのだ。
「貴方が見下した醜女は、貴方よりもうんと幸せになりましたよ」と。
***
アナベルとクロヴィスが去って行った方角をバスチアンは呆然と見つめ続ける。
すると別行動をしていたドゥニーズが背後から彼に抱きついた。
「バスチアン!」
普段ならば笑ってドゥニーズの名を呼ぶところだが、この時のバスチアンはそうではなかった。
「……どうしたの?」
不思議そうにしているドゥニーズを見ながらも、バスチアンの脳裏に過るのは美しい令嬢――アナベルの華のような笑顔と言葉だ。
――本当の幸せを見つける事が出来ました。
――私を心から愛し……そして私が心から愛せる方と出会えました。
自分は、目の前の女性の何を好きになったんだったか。
何の疑いもなく、彼女と同じ言葉を言えるだろうか。
バスチアンは暫くの間、その場に立ち尽くす事しかできなかった。
***
一か月後、結婚式。
互いの愛を誓いあって唇を重ねた私は、幸せの余り泣きそうになってしまった。
それを見てクロヴィスは笑ったが、彼の瞳も潤んでいた。
私達は腕を取って、バージンロードを歩いて行く。
雨のように降る大きな拍手の中、私は参列者に紛れたバスチアンの姿を見つける。
どこか物悲しそうな顔でこちらをみる彼へ、 私は心の底から湧き上がる笑顔を向けてみせた。
さよなら、元婚約者様。
そして、泣いていた醜い私。
私は今隣にいるこの人と共に、胸を張って生きてゆきます。




