ただ春の夜の夢のごとし
翌日。いつものように起き上がり、カーテンを開けた。
「えっ?」
セコイアの木が、無い。いつもカーテンを開けると十一時の方向、丘の上にあるはずの、あのセコイアの木が無い。いや、厳密には――倒れている。
「お――」
眠気が一瞬にして吹き飛んだ。僕は慌てて部屋を出る。
「お母さん!」
「あらおはよう。いつもより早いわね」
「セコイア、セコイアが折れちゃってる!」
僕は必死にお母さんに伝えた。でも、お母さんは全く表情を変えなかった。
「そうなのよ。立派な木だったのに、残念だよね」
「え――」
それだけ? おばあちゃんとの思い出がある、大事な木なのに? ヒデキとの友情の証なのに? 僕がこの進路を選んだ理由なのに?
「大事な木だったのに……」
「しょうがないよ。自然が決めることなんだから」
本当に、それだけ? お母さんだって、あの木にはいろいろな思い出があるはずなのに、どうして平然としていられるんだろう。僕は救われない気持ちのまま、朝ご飯を食べて、制服に着替え、家を出る。
「岸山くん」
「おはよう」
通学途中で岸山くんを見かけて、思わず話しかけてしまった。
「あそこのセコイア、昨日の雷で倒れちゃったみたいで……」
セコイアのあった場所を見上げると、そこにはぽっかりと空虚な空間が広がっている。その光景が、僕の心を締め付ける。
「ああ、背が高いからね。でもメタセコイアは挿し木で増えるからさ、分身がいっぱい居るから」
つまり一本くらい死んでもどうってことない。そう言いたいのだろう。でも、僕が言っているのはそういうことじゃない。あの場所にある、あのセコイアだけは、死んではいけなかったのだ。
「元気ないね、どうかした?」
「ううん、なんでもない」
僕はそれ以上、何も言えなかった。
「ヒデキ!」
「よお、どうした?」
登校してすぐ、今度はヒデキに話しかけた。
「秘密基地の、あのセコイアだけど」
「ああ、折れちゃったよな。でもそのうち慣れるだろ」
ヒデキですら、僕の悲しみを理解してくれなかった。そうしているうちにヒデキは佐藤くんに呼ばれ、いつものように教室を出ていった。周りを見ても、あんなに大事な木が倒れてしまったというのに、誰一人として話題にしていない。僕は一人、取り残されているみたいだ。
* * *
それからはあっという間だった。僕は心に大きな穴が開いているような気持ちのまま、学校に行き続けた。ヒデキとはほとんど会話をしなくなった。あれから一度だけセコイアのところへ行ったけど、セコイアはただの切り株になっていた。綺麗に切られたその断面が、死人の顔のように思えて、それきり行くことはなくなった。
「ショウタくんは、成績も伸び続けているし、特に心配はありませんね。むしろ、どこでも選んで入れるくらいですよ」
今日は三者面談だ。担任の先生は、僕の成績を見て笑顔を浮かべている。お母さんもどこか上機嫌だ。
「凄いじゃない。どうせならもっと上の学校を狙ってみたら? まあでも、自然保護官を目指すんだから、農高がいいよね」
「うん、農高にする」
「ショウタくんは自然が好きなのね。理科の成績もずば抜けてるし、そっちに進むのがいいかもね」
「はい……」
先生の言葉は、まるで他人事のように僕の耳を通り過ぎていった。心ここにあらずとは、まさにこのことだろう。
「大丈夫? 何か、悩み事でもある?」
先生が、少し心配そうな表情で聞いてきた。
「実は、何が正解なのか分からなくなってきちゃって……」
僕は先生とお母さんに、最近ヒデキと上手くいっていないことと、セコイアの木が倒れてショックだったことを打ち明けた。
「ショウタ、それは受験ブルーってやつだと思うよ。不安で沈んだ気持ちになってるから、そう感じやすくなってるんだよ」
「そうそう。それにね、ショウタくん。荒田くんは急に世界が広がって、ちょっと冒険したくなってるだけで、ショウタくんのことを嫌いになったわけじゃないよ」
お母さんと先生の言うことは、確かに正しいんだと思う。でも同時に、それを疑ってしまう僕も居た。窓の外で木枯らしが吹き荒れ、落ち葉がカサカサと音を立てている。まるで、僕の心のざわめきをそのまま音にしたかのようだ。
「ショウタはまだ経験してないから信じがたいかもしれないけど、卒業してからまた仲良くなることだってあるし。思い出の場所だって、これからどんどん増えてくんだよ」
「ショウタくんが思ってる以上に、案外うまくいくから大丈夫。先生もお母さんも、そうやって大人になったんだから」
お母さんと先生は、そう言って微笑んだ。正直に話したことで、少しだけ気持ちが軽くなったような気がする。でも、それだけで僕の心の全てが救われたわけではなかった。
「それじゃ、頑張ってね」
「失礼します」
三者面談が終わり、お母さんと並んで廊下を歩いていると、ふとヒデキの声が聞こえた。ヒデキが靴箱のところで上履きに履き替えているところだった。
「声かけてきたら?」
「いや、いいよ。なんか気まずいし」
そうしているうちに、ヒデキたちは僕たちに気付かずに階段を上っていく。
「あんた、先生の前であたしをババアって呼ぶんじゃないよ?」
「分かってるって!」
ヒデキは、ヒデキのお母さんと一緒に笑っていた。その笑顔は、僕が知っているヒデキの笑顔とは、どこか違って見えた。
* * *
そして迎えた受験当日。冷たい風が吹き荒れ、既に街路樹は裸になっている。会場は張り詰めた緊張感に包まれていた。遠くのほうに岸山くんの姿が見える。まだ親友と呼べるほど仲良くはないけど、それでも同じ中学の人が居て、僕の心は少しだけ落ち着いた。
「では、開始です」
試験が始まる。鉛筆の走る音だけが、静かに、絶え間なく響いている。それと、問題用紙をめくる音と、時折聞こえる小さなため息。僕もみんなも必死に手を動かしている。あっという間に、ひとつ目の科目が終わった。
「蒼井くん、どう?」
休み時間、岸山くんが話しかけてきた。
「今のところ大丈夫そう。そっちは?」
「いくつか空欄で出しちゃった。やばいかも……」
「まあ、満点じゃなくてもいいんだし。得意なやつを頑張れば平気だよ」
幸いなことに、解き方の分からない問題はなかった。国語ではひとつだけ思い出せない漢字があって少し焦ったけど、文章問題のほうを見たら偶然にも『答え』があって助かった。
「これで全試験は終了です。お疲れさまでした」
あんなに長い間、必死に勉強をしてきたのに、試験は本当にあっという間だった。会場を出ると、予報通りの雪がちらついている。同じく会場を出てきた岸山くんが、僕に気付いて手を振ってきた。
「岸山くん、お疲れ」
「蒼井くんもね! あとは合格発表かぁ」
「そういえば、ヒデキのこと……見かけた?」
「いや、居なかったね。別の教室だったのかな?」
何人かは傘を持ってきていなくて困っているようだったが、僕たちは動揺せずに折り畳み傘を広げ、帰路につく。
「受かってるといいね」
「うん、岸山くんもね」
「じゃあまたね」
「またね」
冷たい空気が頬を刺し、吐く息が白く染まる。雪のせいか、帰り道は妙に静かに感じた。
「ただいま」
「おかえり、どうだった?」
「一応、解き方が分からない問題はなかったよ。解答も全部埋めたし」
「良かったじゃない。ずっと頑張ってたんだから、受かるに決まってるよ! 後はゆっくりしちゃいなさい」
「うん、そうする」
僕はすぐに自分の部屋に閉じこもった。やることは全部やった。手応えもあった。ただ、試験会場にヒデキの姿がなかったことだけが気がかりだった。
「ヒデキ……」
僕は呟いた。ヒデキは今どこで何をしているのだろう。僕たちの友情はもう終わってしまったのだろうか。なんとなく、窓の外を見る。雪は、まるで僕たちの思い出を塗りつぶすかのように、静かに積もり始めていた。