夏の終わりの積乱雲
夏休みに入った。ヒデキは塾に通うことになったので、僕も自分の部屋で勉強をすることにした。宿題をやりながら受験勉強もしなければいけないので、結構忙しい。今日も学校見学へ行ったり、自由研究の調べものをしたりしていたら、あっという間に夕方になっていた。僕は慌てて今日の分の勉強を進める。
≪なあこの問題、この公式で解けなくね?≫
≪ああ、これは共通項って言って、この4をカッコの外に出してから――≫
一人で勉強をしているのに、隣にヒデキが居るような錯覚を覚える。でも、ヒデキに教えるつもりで考えると、不思議と勉強がはかどった。
≪半径だけって、どうやって測ってるんだよ! 直径で書けよ! そもそもπってなんだよ!≫
「ふふ」
いつかヒデキが真剣な顔でそう言っていたことを思い出して、つい笑ってしまう。ああ、ヒデキは今どこを勉強しているのかな。夏休みが終わる頃には、僕よりできるようになっていたりして。僕もヒデキに負けないように、あのセコイアのように、もっと伸びないといけないな。
「あっ、ショウタ、今日花火大会だって。行ってきたら?」
僕の部屋の前を通り過ぎようとしたお母さんが、思い出したように言った。
「今年はいいや。ヒデキも塾で頑張ってるし」
「へえ、二人とも偉いじゃない。でも目を休ませるくらいはしなさい。ちょうど窓から見えるしね」
どん。遠くから花火の音が聞こえる。もう始まっているんだ。言われるまで気付かなかった。お母さんに言われたとおり、目を休ませようと思ってカーテンを開け、窓の外を見る。
「はあ……」
遠くのほうで、鮮やかな光の粒子が、夜空という黒いキャンバスに広がっては消えてゆく。去年はまだヒデキとは親友ではなかったから、花火大会は別の友達と行ったんだっけ。でも今年は受験勉強。来年の夏は、ヒデキと一緒に見に行けるかな。
* * *
そして、夏休みが終わった。結局ほとんど宿題と勉強をしているだけで終わってしまった。何日かはお父さんが帰ってきたので、車で隣町のショッピングモールへ行ったり、久しぶりに家族揃って外食をしたりした。あとは、他の友達に誘われてプールに行ったりもしたけど……受験のことで頭がいっぱいで、あまり遊ぶ気分にはなれなかった。
「ショウタ、久しぶり!」
登校して席に着くと、早速声をかけられた。ヒデキだ。
「ヒデキ! 塾はどうだった?」
「まあまあ順調。先生が大学生でさ、なんか兄ちゃんが出来たみたいで面白いぜ」
ヒデキは目を輝かせて、塾での出来事を話してくれた。受験を控えているだけあって、うちの学校の人も多かったらしい。新しい友達も出来たというヒデキの表情は、子供のように無邪気に見えた。
「荒田、ちょっと来いよ!」
「おう、今行く!」
その時、隣のクラスの人がヒデキに声をかけてきた。塾で一緒になったという人だろう。
「ちょっと行ってくるわ」
「分かった。今日は秘密基地だね?」
「あ、いや、実はこれからも塾に行けるようになったんだ! だから秘密基地はもういいや、悪いな!」
そう言って、ヒデキは隣のクラスへ遊びに行った。
「あっ、そう、なんだ……」
僕の心の中に、積乱雲のようにモヤモヤとしたものが湧きあがるのを感じる。ヒデキが塾に行けるようになったのも、楽しそうにしているのも嬉しい。だけど、僕の心はどういうわけか晴れてはいない。
≪ショウタ! 俺……塾に行けることになった!≫
≪よかったじゃん! もう絶対全部うまくいくよ!≫
授業中も、夏休み前にしたヒデキとの会話を思い出してしまって、なんだか集中できなかった。
≪秘密基地はもういいや≫
気付けばもう下校時間だ。最後に聞いたヒデキの言葉が、ずっと頭から離れない。今日は一日中落ち着かなかった。早く帰って少し休もう。
「あっ、蒼井くん、だよね?」
靴箱のところで、隣のクラスの人が声をかけてきた。名前は確か、岸山くんだ。バスケットボールが似合う感じの人だけど、よく見ると意外と小柄だ。
「うん、そうだけど、どうしたの?」
「実は俺も、農高を受けるんだよね。だから今から仲良くできたらなーと思って」
「そうなんだ! じゃあ、ヒデキのことは知ってる?」
「うん。荒田ヒデキでしょ? 同じ塾だからたまに見かけるけど……」
岸山くんは少し、言いにくそうにした。
「けど?」
「なんか、うちのクラスの佐藤ってやつがさ……。その佐藤ってやつも同じ塾なんだけど、荒田くんと一緒に他校の人とか、高校生っぽい人たちと夜遊びしてるみたいなんだよね」
佐藤くんというのは、今日の朝、ヒデキに声をかけてきた隣のクラスの人だろう。
「ヒデキが?」
「まあ本人は楽しそうだから、いいんだろうけど、なんか、ね」
「うん……そうだね」
「なんか暗い感じの話しちゃってごめんね。でも荒田くんも農高を受けるって聞いたからさ、変な事件とか起きたら嫌だと思って」
ヒデキは確かにやんちゃそうな見た目はしているけど、決して悪いことをするような人ではない。でも、周りの人が悪いことをしてしまったら、ヒデキも悪者みたいに思われてしまうのかな……。
「そっか、僕もちょっと気にしてみるよ。途中まで一緒に帰ろうか」
「うん、よろしくね」
* * *
それからも、ヒデキは休み時間になるとすぐに隣のクラスへ遊びに行って、佐藤くんとつるむようになった。そういえば、人から給食を奪うこともなくなった。僕に対する態度は変わってはいないけど、まるで僕の知らない人物になってしまったかのような感じだ。
「岸山くん」
「おつかれ」
その代わり、僕は岸山くんとつるむようになった。彼は野菜を育てることが好きで、植物バイオテクノロジーや、食品加工の勉強がしたいそうだ。
「蒼井くんは何を目指してるの?」
「うーん、自然保護官とかがいいかなって」
僕は少しだけ濁すように言った。別に隠しているわけではないけど、なんだか詳しく話す気にはなれなかった。
「レンジャーか。公務員はいいよね、絶対安心だし」
「うん、そんな感じ」
胸の奥に小さなトゲが刺さっているような感じがする。夏休みが終わってから、ずっとこんな調子だ。今日の空もどんよりと曇っていて、すっきりしない風が吹いている。まるで僕の心を表しているかのようだ。
「蒼井くん、今度一緒に勉強しようよ。じゃあ、また明日!」
「うん、じゃあね」
その日の夜。夜中に、窓を叩くような音で目が覚める。台風だ。そう言えば、夜中のうちに通過するって言ってたな……。僕は机の引き出しから耳栓を取り出して、装着し、ベッドに戻る。キーン、という静寂の音の中に、またあの時のヒデキの言葉が蘇る。
≪秘密基地はもういいや≫
どん。かすかに雷の落ちる音が聞こえた――