セコイアとあの日の約束
僕がまだ幼稚園児の頃。おばあちゃんは僕をおんぶして、せっせと歩いている。空はすっかり暗くなっていた。僕がわがままを言って遅くまで公園で遊んだせいだ。
「おばあちゃん! もっと早く帰って!」
僕はおばあちゃんの背中にしがみつきながら、おばあちゃんを急かす。
「はいはい、すぐに帰るからね」
その日は満月だった。不気味なほど大きく、黄色く輝いているその丸いものが、まるで僕を見張っている目のように見えて、怖かったのだ。
「大丈夫、何かあっても、あのセコイアが助けてくれるからね」
おばあちゃんは丘の上に見える、セコイアの木を指さす。セコイアは夜空の中に立つ、真っ黒な塔のように見えた。
「そうなの?」
「そうだよ、おばあちゃんもね、あのセコイアに助けられたことがあるんだよ」
今思えば、ずいぶん分かりやすい嘘だったけど、当時の僕を信じさせるには十分だった。
「あの木はおばあちゃんが生まれるずっと前から、ずっとあそこに生えてるんだよ」
「なんで?」
「なんでだろうね。誰かが種をまいて育てたのかもね」
おばあちゃんの話では、昔はもっと背が低かったけど、どんどん背が伸びて、今も伸び続けているらしい。
「おばあちゃんも、いつか死んじゃったら、あのセコイアに生まれ変わって、ショウちゃんを助けてあげるからね」
「やだよ、死なないでよ!」
僕はおばあちゃんの背中で、少し暴れた。
「大丈夫。大人になったショウちゃんを見るまで、おばあちゃんは死なないからね」
「じゃあ僕、大人になんかならない! おばあちゃん、ずっと生きてて!」
「ショウちゃんは優しいねえ」
当時の僕はまだ『死ぬこと』の本当の意味を分かっていなかった。でも、その言葉を聞くだけで、夜の暗闇が一斉に僕を押しつぶそうとしているような、得体の知れない恐怖を感じた。おばあちゃんの背中の温もりだけが、僕の全てを守ってくれているようだった。
「約束だよ!」
「はいはい、約束だよ」
それから数か月もしないうちに、おばあちゃんは病気になり、会えなくなった。そんなある日。
「やっぱり寝たきりになると、後は早いよね」
「ああ。でも、やりたいって言ってたことは、全部やり切れたんだ。ずいぶん頑張ったよ」
「そうだね。大往生だよ」
大人たちがみんな真っ黒い服を着て、細長い箱の周りで喋っている。遠くで働いていてなかなか帰ってこない、僕のお父さんも帰ってきた。奥のほうにはなぜか、おばあちゃんの写真が飾ってあった。そこには、いつもの優しい笑顔を浮かべたおばあちゃんが写っていた。
「ねえみんな。この箱の中には何が入っているの?」
「だめ!」
その箱の中を見ようとした僕を、お母さんが止める。
「見ちゃだめ。この中には、怖いものが入ってるの」
「どうしてみんないるのに、おばあちゃんはいないの?」
みんなが一瞬静かになった。どう答えればいいのか、迷っている様子だった。
「おばあちゃんはね……死んじゃったんだよ」
その言葉の意味が理解できたわけではないけど、僕はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、おばあちゃんにはもう会えないということだけは、幼いながらも理解した。
「おばあちゃん、聞こえる?」
それからしばらくの間、僕は毎日あのセコイアの木のところへ通った。でも、どれだけ話しかけても、それはただ静かに立っているだけで、何も語りかけてはくれなかった。結局、おばあちゃんがセコイアの木になることはなかった。
* * *
「進路希望の紙もらっただろ? あれ、なんて書いた?」
そんな思い出のあるセコイアの木は、今では僕とヒデキの秘密基地になっている。感慨深いっていうのは、こういうことかな。
「ああ、まだ書いてないけど、大体決まったかな」
「へえ! ショウタは何を目指してんの?」
今日もいつものようにセコイアの木の下に座り、ヒデキと話している。こうしていると、変わらない風景がなぜか変わって感じられる。
「自然保護官になろうかなって」
「何それ?」
「公務員だよ。それになって、このセコイアの木を守りたいんだ」
正直に言うと、将来の夢なんて聞かれても分からない。けど、この木が無くなってほしくないというのは事実だ。
「公務員じゃ、超勉強しないとダメじゃん!」
「うん。でも一応、高校ならあそこの農業高校でいいみたい。その後は専門学校があるんだって」
この前、僕が家でそのことを話したら、お母さんはすぐに調べてくれた。僕の学力ならまあまあ心配なく行けるらしい。叶えられない夢ではないということで、この進路を選んだ。
「へえ」
「ヒデキは何になりたいの?」
「俺は農家! 野菜とか自分で作ればさ、自分で食いたいだけ食えるだろ?」
ヒデキは目を輝かせて、そう言った。
「あはは、いいじゃん。そしたら僕と同じ高校ってこと?」
「うん、その予定。でも……あの高校ってさ、意外とレベル高いんだよね。俺、勉強できねえからさ。結構頑張らないと行けないかも」
ヒデキは少しだけうつむいた。
「最近ババアが帰って来ることが増えてさ、その時に言ったら、賛成してくれたんだよ。だから今度帰ってきたら、塾とか通えないか聞いてみる」
「そうだね」
きっと行けるよ。僕はそう言いたかったけど、胸の奥に言いようのない不安が広がって、言えなかった。ふと空を見上げると、夕焼け空に一番星が輝いていた。なんとなく、おばあちゃんとの思い出が頭に浮かぶ。
≪おばあちゃん、僕たちはちゃんと大人になるよ。そして、このセコイアの木を、ずっと守っていくよ≫
心の中でそう呟くと、一瞬、胸の奥に温かいものが広がった。セコイアの葉が、風に揺れてサラサラと音を立てる。その音はまるで、僕たちの進路を応援してくれているかのようだ。
「そろそろ帰るか」
「うん」
僕たちは秘密基地を後にし、夕焼け空の下を並んで歩く。僕たちの間には強い絆が生まれている。これはきっと、セコイアの木が僕たちにくれた贈り物だ。