反比例する僕たち
給食の時間。またいつもの『紛争』が始まる。
「こら、荒田くん、ちゃんとジャンケンで決めなさい!」
「駄目だね! これは俺のだ、全部よこしな!」
「全く、もう……」
僕のクラスでは、給食を配膳した後に余ったものは、欲しい人がジャンケンで取り合うルールだ。だが、二年生から同じクラスになった問題児――荒田くんは、いつもルールを無視してそれを独り占めしようとする。まだ塩素の匂いが残る教室内に、暑さがぶり返してくる。
「おい、そこのお前! お前デブなんだから痩せなきゃ駄目だろ? 貰ってやるよ!」
「ちょっと、やめてよ!」
「ほら、お前たちのゼリーもよこしな」
今日のターゲットはデザートのゼリーか。荒田くんは余ったものだけじゃなく、人からも奪ったりする。特に女子は狙われやすい。でも、先生はそんな彼をあまり強く止めようとはしない。僕はいつも、それを不満に感じている。
「ショウタ、一個いるか?」
「いいよ、僕はひとつで十分だから」
「あっそ」
だけど不思議なことに、僕はその問題児に気に入られている。そしてこうやって僕を共犯者にしようとしてくるのだ。
「そうだ、ショウタ、今日俺んち遊びに来いよ!」
「え、まあ、いいけど……」
突然の誘い。荒田くんと仲がいいと思われると、僕まで変な目で見られそうで嫌なんだけどな……。でも、あまり刺激を与えて彼が敵になったら面倒だ。本当は行きたくなんてないけど、しょうがないと思おう。
「それでさ――」
「へえ、そうなんだ」
学校が終わった。下校途中、荒田くんが他愛もないことを話してくるが、正直、ほとんど聞いていない。荒田くんは僕の家まで寄り道し、僕は一度家に上がって制服から着替え、カバンを置いて出ていく。
「お待たせ」
「おう、行こうぜ」
少し先を歩く荒田くんの足取りは、どこか軽そうに見える。僕の足取りは、それに反比例している。
「着いたぞ」
思ったより早く着いた。荒田くんの家は、ずいぶん古い感じのアパートだ。もしかしたら、僕のおじいちゃんの家と同じくらい古いんじゃないかな、と思った。
「あれ、姉ちゃん居るみたいだ」
ドアの鍵が開いていたらしい。荒田くんの声は、少しだけ緊張しているようだ。ぎい。ドアがきしみながら開く。
「ただいまー」
「おじゃまします」
家に上がると、一瞬、おじいちゃんの家みたいな古臭い臭いがした。案の定、というやつだ。部屋に入ると僕たちより少し背の高い女の人が、畳の上で寝っ転がっている。部屋は思ったより綺麗だ。
「友達連れてきた」
「へえ、珍しいね」
お姉さんはアヤカさんと言うらしい。アヤカさんは気だるそうに、ぼーっと天井を眺めている。
「姉ちゃん、学校は?」
「サボった」
「やっぱり」
サボった? なんでそんな当たり前のように言えるんだろう。親に怒られたりしないのかな……。僕がそう思っている間にも、荒田くんはその辺にカバンを置いて、アヤカさんと同じように寝っ転がった。
「ショウタもその辺、座っていいぞ」
「あ、うん」
そう言われて、僕はとりあえず荒田くんの近くに座った。そこで気付いたのだ――この家には、物がない。ふすまが外れた押し入れには、洗ってない雑巾みたいな布団が一枚、捨てるように置かれてるだけだ。よく見たら、エアコンも、扇風機もない。一体、どうやって暮らしているんだろう。けど、僕にそれを聞く勇気はない。
「あんたたち、テレビでも見たら?」
そんな僕の戸惑いを察してくれたのか、アヤカさんが言った。
「そうだな。見ようぜ、ショウタ」
「うん」
勢いよく起き上がり、テレビをつける荒田くん。
「あ、そういえば今日火曜日か」
荒田くんがテレビでやってるアニメを見て言う。荒田くんはこういうアニメを見るんだ……。そう思うと、なんだか人の秘密を覗いてしまったかのような、少し恥ずかしい気持ちになった。
* * *
――それから何時間経っただろう。僕たちは何も言わず、ただ座ってテレビを見ていた。部屋の暑さは、意外と耐えられないほどではなかった。日が傾きかけている。お腹がすいてきたな。
「ああ、腹減ったな」
荒田くんが僕の心を読んだかのように言う。
「あ、そういえば今日は来てたよ」
「まじ? よっしゃ!」
アヤカさんの『来てたよ』という言葉に目の色を変え、台所へ走っていく荒田くん。見ると、流しのところにシチューの素が一箱だけ置いてある。よくある、お湯で溶かすブロック状になっているあれだ。
「姉ちゃん、さっそく食おうぜ」
「そうだね。何か具あったかな?」
そう言って台所へ行くアヤカさん。僕も気になってついて行く。流し台の反対側には冷蔵庫がある。この家にしては大きな冷蔵庫だ。
「あぁ、なんもないな」
ばたっ、ばたっ。冷蔵庫の扉を開け、中を見る荒田くん。僕の立っている位置からは中は見えなかったけど、見なくても分かる。きっと本当に何も入ってないんだ。普通、扉を開けたら明かりがつくはずなのに、この冷蔵庫は明かりが付かない。それに、妙に静かだ。
「あ」
がらっ。野菜室の段を引き出したアヤカさんが声を漏らす。
「食べれるかな」
「いや、無理じゃね……?」
二人が見ているのは一本のニンジン。それは病気の人の顔色みたいな色をしていて、明らかに危険だと、僕にでも分かる。ぐにゃ。ニンジンが見たこともないような曲がり方をした。
「じゃあ、今日も具なしだね」
また、当たり前のような言い方をするアヤカさん。アヤカさんは思っていたよりもテキパキと動く。
「はい、できた」
丸くて背の低いテーブルの上に、お椀が二つ並ぶ。狭いテーブルに、二人はくっつくようにして座った。
「おお、うまいな、うまい」
「うん。おいしいね」
二人は何かのおまじないのように、そう言いながら飲んでいる。それは、僕の知っているシチューとは全然違うものだった。
「ショウタも一口食うか?」
「いいよ、まだお腹空いてないし」
「あっそ」
僕は反射的に嘘をついた。と、同時に、なんだか不思議な気持ちになった。今、荒田くんが飲んでいるものは、独り占めしたものでも、誰かから奪ったものでもない。荒田くんは僕を『共犯者』にしたいわけじゃなかったんだ。
「うちさ、親が離婚してて。ババアもずっとどっか行ってて、帰ってこないんだよね」
何も聞いていないのに、荒田くんが話し始める。どうやら、荒田くんの両親は小学校に入るくらいの頃に離婚していて、二人はお母さんに引き取られたらしい。そしてそのお母さんは週に一度くらい、こうして食べ物を置いていく。これ一箱で一週間も耐えろということなのか。一瞬、全身の汗が引っ込むような感じがした。
「でも近所のおばさんが、たまに食べさせてくれるから。案外なんとかなってる。それに……給食もあるし」
荒田くんは少しだけ、後ろめたそうな顔をした。
「そう、なんだ」
僕はそれ以上、何も言えなかった。二人が真剣な顔で、具のない白いスープを『食べて』いる。荒田くんはいつも人の給食を奪ってまで食べているのに、なぜその割には痩せているのか、不思議に思っていた。でも、その答えが今、目の前にある。想像もしていなかった状況を前に、僕は何を言えばいいか分からなかった。
「あ、そろそろ帰らないと」
「そうだな。暗くなってる」
すっかり時間のことを忘れていた。僕は慌てて立ち上がる。
「おじゃましました」
「じゃあまた明日な!」
ドアを閉める時、またねー、というアヤカさんの声が聞こえた。近くの公園に立っている時計を見ると、もう十九時になろうとしている。すっかり薄暗くなった道を歩いて帰る。縁起でもないけど、その暗さは荒田くんの将来を表しているみたいで、少し不安になった。
「ただいま」
「おかえり。夕飯できてるよ」
家に帰ると、お母さんが台所に立っている。当たり前のことだけど、今日はなんだか特別な感じがした。すぐに手を洗い、テーブルの椅子に座る。夕飯は――シチューだ。
「いただきます」
僕はブロッコリーや玉ねぎ、そしてニンジンの沢山入ったシチューを食べる。スープのようにサラサラではない、濃厚なシチューだ。ブイヨンの香りと共に立ち上がった湯気が、僕の眼鏡を少しだけ曇らせる。
「今日は誰と遊んでたの?」
お母さんが言う。
「荒田くん」
「荒田くん? って、大丈夫なの? あの子、問題児だって――」
「荒田くんは問題児じゃないよ。問題なのは……あの家だよ」
「……あ、そうなのね」
それっきり、お母さんは何も言わなかった。荒田くんが問題児じゃない、っていうのは嘘かもしれないけど……不思議と、その嘘をつくことに罪悪感はなかった。
* * *
翌日。
「こら、荒田くん、ちゃんとジャンケンで決めなさい!」
「駄目だね! これは俺のだ、全部よこしな!」
給食の時間、またいつもの『紛争』が始まった。相変わらず、強く止めようとはしない先生。でも、僕はもう、それを不満には思わなかった。いや、思えなかった。