タカの半生、女中、友禅、職人と絵描き
「まあ、きれいな空やこと。タカちゃん、早よう、いこ!」
「ミエちゃん、そない走らんでもええがな! お墓は逃げへんで」
もうすぐタカの生まれた村に着く。
父母は他界して久しいが、幼馴染みの幾人かはまだ存命だ。
子どものタカが紙の絵を見知らぬおかみさんへ渡した数日後、そのおかみさんが、タカを迎えに来た。
おかみさんは、京都でも五指に入る呉服屋の女主人だった。
タカは女中奉公のかたわら、小学校へ通わせてもらい、最低限の教育は身に付けられた。
そこからは自分しだいやで。と、おかみさんは言った。
タカは絵を描くのをやめなかった。というより、やめられなかった。女中奉公の給料から家への仕送りもしたが、自分の自由になる小遣いのほとんどは画材につぎ込み、絵を描き続けた。
そうやって描き散らした習作を、おかみさんが昔からの京友禅の職人へ見せた。すると、その弟子にしてもらえた。
友禅作家の師匠は、親切なご夫婦だった。そこで修行するうち、絵画の勉強もさせてもらえた。
そんなふうに夢中で職人の修行をしながら、絵の勉強をしている過程で、タカ自身が洋行帰りの画廊の若旦那の目に留まるなんて、誰が想像しただろう。
フランスへ絵画の買い付けにいっていた若旦那は、タカの描いた友禅の絵をいたく気に入り、タカに会いに来た。
それから、長くもなく短くもない付き合いを経て、求婚された。
タカは若旦那と結婚した。一緒に外国へ旅行もした。
その後、子どもの頃にタカの絵を見ておかみさんが期待したような、新しい絵も描くようになった。
それは目も覚めるような美しい京友禅の着物になり、流行の本の表紙にもなり、壁に飾られる絵画にもなった。それらで得た報酬は、タカが自分のための新しい立派な工房を建てられるほどだった。
忙しい毎日を過ごしながら、タカは子どもを産んだ。子育てはたいへんだったけど、絵は描き続けた。
ちなみにミエは、タカと同じ年に女中奉公を始めてから数年後、呉服屋に出入りの商人の目に留まり、結婚していた。
でもずっと近所に住んでいて、二人の子どもも、昔の二人のように仲良しの幼馴染みになって、おままごとをして遊んでいた。
もしもあの日、この村の辻で、いまと同じように西山連峰を眺めていた幼い頃のタカへ「あんたは将来、絵を描いてお金をもらう絵描きになって、画廊のオーナーの女房になっているんやで」なんて言っても、自分だって信じないだろう。
いやな戦争が始まって、終わって、タカは四十路になった。タカの家族は戦後まで皆無事に生きていた。五十歳を目前に、子どもたちも手を離れた。
きっと、いまのタカは、子どもの自分がいちばん想像できなかった未来を歩んでいる。
あのとき、呉服屋のおかみさんが、タカに声を掛けてくれなかったら。
タカは嫁に行くとき、どうして地面に絵を描いていた子どものタカに声を掛けてくれたのか、おかみさんに訊ねてみた。
「はじめはね、地面の水溜まりに、山の景色が映っていると思たんや。でもすぐ錯覚だとわかってな。あんまりびっくりしたもんで、声を掛けずにはいられなかったんや」
おかみさんは笑いながら教えてくれた。
「あの帳面に描いてもらった絵な。じつは帰ってすぐに、うちのお抱えの絵師の先生へ見せたんやわ。そうしたら『どこの友禅作家に描かせたんですか』と目え剥いて言わはってな。ええ職人の卵を見つけたと、いそいで確保しに村へ戻ったというわけや!」
西陣にはさまざまな着物の工程に関わる職人がいる。
着物に関わる仕事で絵が描ける絵師、絵心が必要な職人は、さまざまな工程で必要とされる。
着物の絵柄の企画考案、布へ露草の汁で下絵を描く職人、図柄の線に沿って糊置きをする職人、染めに加えて繊細な色つけをする挿友禅の工程。そのすべてが絵心と切り離せない。
友禅に関わる職人になるには、美術学校や専門学校へ行くにしろ、そのあとはその仕事をしている専門職人の元へ弟子入りするのがならいだ。師の仕事を手伝いつつ仕事を教わり、一人前の職人になるまで育ててもらう。
むかしは弟子というと、仕事はきつく、給料は駄賃程度であったそうだが、今はちがう。
昔から続いていた職人の徒弟制度は組合や市が管理するものとなり、丁稚奉公は、公的には存在しなくなった。
時代は変わったのだ。
日本が戦争に負けると、当たり前だと思っていたいろんなことが、ガラリと変わった。
1946年にGHQによる公娼廃止指令が出された。
人身売買は法律によって禁止され、女性が商品として売り買いされるのは違法とされた。
ある日突然、近所の友だちが困窮した親に売られていなくなることは、もうなくなったのだ。
大人になったタカが、ヒロちゃんたちの運命を理解したとき、遊郭などこの世から消えてしまえと呪ったものだった。
その願い通りに、赤線地帯は無くなったのだが……。
――ほんまにそうなんやろか……?
運良くタカは、そういう目には遭わずにすんだけれど。
戦争が終わり、GHQがいなくなった後の時代になっても、花街という言葉が無くなることは無かった。京都や大阪のみならず、むかし赤線地帯であったという各地に、その名残を継ぐ繁華街は残っているのだ。
それらは特殊な飲食店業などの看板に姿を変え、大勢の女性がいまもってさまざまな形態で働いている。
昔の法律が改正されたのと前後して、雇用法も変わった。
女中奉公という仕事も、赤線地帯が消滅したあと、何年か経つうちに聞かなくなった。