幼かったタカの思い出
空から降ってきた雨はな、あの山で分かれて京都を流れる川になるんや。
そういう川の流れを分ける山のことを、分水嶺っていうんやて。
タカは今日も西の山を見た。
その山を、タカは〈お山〉と呼んでいる。
お山を見るたび、記憶によみがえるその話を聞いたのは、いつ、誰からであったのか。
タカは長らく思い出せなかった。
ところが、九歳の秋の日に、とつぜん思い出した。
「うち、もうすぐ大人になるから、あんたとおままごとはもうせえへんね!」
それは、幼馴染みのミエが、ぴしゃんと玄関を閉めた瞬間だった。
幼馴染みでも、ミエはタカより五つ年上だ。でも、もっと前に、ミエが言ったのと同じ言葉を誰かから聞いたことがあった。
――もうすぐ大人になるんやから、ままごとはもうせえへんね……。
タカの母に似ていた人だ。でも母よりうんと若い顔だった。
「そうや、あれは、大きいねえちゃんや」
タカには姉が、いたのだ。
いまは家にはいない。歳は離れていたから、今頃はすっかり大人になったはずだ。
その姉が言ったのと同じ言葉を、ミエが言った。だから思い出した。
だが――……思い出したからって、どうなる?
ミエが遊んでくれなければ、タカはひとりぼっちだ。ほかにも友だちがいたような気がするけど、最近はひとりが多い。
きっとほかの子の家は、タカの家から離れているせいだ。それに、ミエほど親しい子はいない。
いや、――いたような気もするけど、思い出せない。
それにいまは季節が悪い。夏の終わりから秋にかけて、米の収穫が終わっても、この辺りの家はどこもお蚕さんの世話で忙しい。
だからタカは、ひとりで西の山々が見える道にいった。
ミエがいてくれたら、家の軒下でお手玉もできたけど、しかたない。
タカはここへひとりで来るのも好きだ。
もちろん、友だちがいっしょにいてくれたらもっと楽しいんだけど、それはあきらめた。
ここらの地面がいちばん平らに均されている。通行する人が来てもタカが踏まれないくらい広い。
それがタカにはとても都合がいいのだ。
道の端に隠しておいた木の棒で、地面へ絵を描いていく。
夏はセミ。露草。そこらへんにたくさん咲いている赤や青の朝顔。
タカが描く絵はぜんぶ地面の色だけど。
なんでも、描くものはまわりになんでも、たくさんある。
いまは真っ赤な彼岸花。まんじゅしゃげとも呼ばれるすごくきれいな花が、田んぼの端に数え切れないくらい咲き乱れている。
でも、今日は山だ。
いつも見ている西のお山を描く。
――そういえば、ねえちゃんがいたあの日もこうして、青い空の下、延々と連なる西の山々を眺めていた……。
タカの面倒を見てくれていた姉はどこへいったんだろう。
なんでタカは、姉がいたことを忘れていたんだろう。
あんなに世話してもらったのに。
姉はよくタカの手を引いて散歩した。こんなふうにお山を眺めながら、タカにいろんな話をしてくれた。それは昔話だったり、村のなかでいろいろあった出来事だったり……。
ここは村の出入り口だ。
村から出て行く人は必ず通る。
あの日も、大阪から来たという男が、村の子どもたちを伴って、帰っていくのを見た。男は大きな荷物を持っていて、子どもたちは皆、小さな風呂敷包みを抱えていた。
タカはハッとして立ち尽くした。
子どものうちの二人、あれは、ヒナちゃんとツミちゃんやないか。タカより年上だけど、遊んだことがあった。
「ねえちゃん、ヒナちゃんとツミちゃんは、どこにいかはるの?」
「ああ、あれか。京都やなかったら、大阪かもな」
姉がぼそりとつぶやくように言った。
「なんで?」
「家にお金がないからや」
姉は、おかあちゃんたちが井戸端で喋っていた話を聞いていたそうだ。ヒナちゃんとツミちゃんの家は、今年の村でいちばん作物の出来が悪かったと噂されていた家の子だと。
そういえば、タカがヒナと最後に遊んだときに、ヒナはこんなことを言っていた。
「タカちゃん、あのね、うちね。おねえちゃんが二人いたらしいんよ」
ヒナちゃんはうつむいて地面を見ていた。
「そうなん?」
タカは、ヒナちゃんがなんでそんなふうに暗い声で語るのか、よくわからなかった。
「うん。でも、みんな出ていったって。そんでな、つぎはわたしの番みたいやね……」
ヒナちゃんの家は、半年ほど前に母親がヒナちゃんの弟を産んだ。
小さな赤ん坊を育てるためにはお金がいると、どこの大人も口を揃えて同じことを言う。
ヒナちゃんがいなくなって数ヶ月したら、ヒナちゃんのおかあさんが赤ちゃんを抱っこしながら、近所の人と楽しそうに喋っているのを聞いた。
「ヒナはちゃんとご飯が食べられる場所にやってあげた。これでみんなが安心できる」
ヒナちゃんちにはあと二人、妹がいる。きっとその妹が、ヒナちゃんの代わりに赤ん坊の子守りをするんだろう。
タカの母も、去年、待望の男の子を生んだ。
母はもちろん喜んだし、父もものすごく喜んだ。タカの祖父母も「めでたい。これで我が家の跡継ぎができた!」と大喜びしていた。
そんな中で、姉だけが、正座していた。
この日、タカの家では、タカのことを気に掛けて見てくれる人はいなかった。
姉も面倒を見てくれないので、タカは静かにひとりで過ごしていた。
そして月日が経って。
気がつくと、姉はいなかった。
その年は、「今年は我が家もお金が無いんや」と、おかあちゃんとおとうちゃんが、夜にこっそり話していた。タカの方を見ながら「この子はどうやろ?」とか、長く話しこんでいたけど、タカにはよくわからなかった。
それから何日か、タカは小学校へも行かずに、畑仕事を手伝った。
もしも、タカの家の畑も不作続きになれば、タカも風呂敷に包んだ荷物を手に持って、あの道から村を出て行くことになるんだろうか、と漠然と不安に思いながら。
いろんなことを考えながら、無心に絵を描いていた。
地面に描いた絵は残らない。
どんなに上手に描けても、あしたまで残っていればいい方だ。
でも、絵を描いているときは、心穏やかでいられた。
ミエちゃんが遊んでくれなくても、楽しく過ごせた。
最後に会ったとき、いつも明るくて優しかったミエが泣いていた。
「今年はねえ、女中奉公の子はもう決まってて、うちは取られへんねて」
タカと遊んでくれる人がどんどん少なくなる。
今日のタカは常より暗い気分だったけど、それでもいつものように、地面に絵を描くことはできた。
「ちょっとあんた」
ん? と顔を上げたら、通りすがりらしい女性がタカの顔を覗き込んでいた。姉ほど若くはないが、母よりは少し若い。
「絵が上手やな。それ、あの山やろ?」
「はい、そうです」
誰やろ?
見たこと無い人や。
きれいな着物。上品なお香の匂いがする。かんざしもきれいで上品や。どっかのお金持ちの奥さんみたい。
「いつも絵を描いてるんか?」
そういえば、ミエちゃんも優しかったときは、よくタカの絵を上手やとほめてくれたものだ。
「はい」
返事はきちんとすること。姉がよくいっていた。
あの日、あの時に、あの道で地面に絵を描いていた。
きちんと返事もできた。
だからきっと、タカは、大人になっても、絵を描いていられることになったのだ。
姉もミエも、ほかの子どもも、何人かはいなくなったけれど。
子どもの頃、彼女たちがいなくなった理由はよくわからなかった。
けれど、タカが大人になったとき、その理由は少しだけ、わかったのだ。