婚約破棄された子爵令嬢は公衆浴場に通い、王子様から「風呂上がりのミルクは最高だよ」と教えてもらう
「シャノン・ハーブル! お前との婚約を破棄させてもらう!」
天井に煌びやかなシャンデリアが輝く夜会の場にて、子爵家の令嬢シャノンは暗闇のどん底に突き落とされた。なんとも極端な光景だった。
シャノンはふわりとした質のキャラメルブロンドの長い髪を持ち、青いシルクのドレスを着た可愛らしい令嬢だったが、今はその顔が凍り付いている。
婚約相手――伯爵家令息ルーネス・ボイルは跳ねた前髪を指で触りつつ、理由を告げる。
「“元”婚約者のよしみで教えてやるが、実は我がボイル家に王家から『国家的事業に協力を願いたい』と打診があってね。今はとても大事な時期なんだ。俺にとっても、家にとっても。ここまで言えば分かるだろ?」
分かるだろと言われても、分かるはずもない。
「ようするに、お前及びお前の家じゃ、ビジネスパートナーとして力不足なわけだ。万一にもこのチャンスを取りこぼすわけにはいかないからな」
ルーネスが右腕を横に伸ばす。
それを合図に、一人の令嬢がその右腕を抱きしめるように絡みつく。
「その代わり、俺はこの令嬢ファミアをパートナーに選んだ。お前と同じ子爵家の令嬢だが、お前と違って目先を読む力に長けている。俺は彼女と婚約することにしたよ」
ファミア・メルクはローズピンクの髪を持ち、赤い瞳を持つ美しい令嬢だった。
だがその本性は――
「残念ねぇ、シャノンさん。あなたはもう必要ないのよ」
性悪かつ残忍だった。右手で追い払うような仕草をする。
「そういうことだ。俺にとってお前は“泥”……。赤いカーペットの敷かれたロードを歩くなら、泥は洗い流さなきゃいかん。そうだろう?」
シャノンは何も言い返すことができない。
自身の実家がルーネスに太刀打ちできるほど強くないこと、そして自分が目先の利かない世間知らずの令嬢だということを分かっているからだ。
「じゃあな、お前の幸運を祈ってるよ」
「さようなら、シャノンさん。お元気でね」
シャノンは無言のまま会場から立ち去る。
後日、ルーネスのボイル家から婚約破棄に対する慰謝料が送られた。
シャノンが受けた心の傷からすればはした金であり、しかも一通のメモが添えられていた。そこにはこう書かれていた。
『クリーニング代』と――
***
婚約破棄からおよそ半月、シャノンは王都をあてもなく歩いていた。
受けた心の傷は大きく、最初の三日間は部屋に引きこもり、七日間は食事が喉を通らず、そんな日々を経て、ようやく外出できるようになった。だが、その表情は暗いままだ。
慰謝料に添えられた『クリーニング代』とは、シャノンという“泥”を洗い流した代金ということだろう。
人間扱いすらされていないことが、ただただ悲しくて、悔しくて、やりきれなかった。
一方で、婚約を破棄され、満足に言い返すこともできず、立ち直ることすらままならない自分など、本当に泥みたいなものかもしれない。そんな自虐的な気持ちにもなる。
気づくと、シャノンはある場所の前に立っていた。
「公衆浴場……?」
バイエン王国の民ならば誰でも利用できる公共の浴場。
庶民で自宅に風呂を持っている人間などごくわずかなので、彼らにとっては汚れた体を洗い流せる貴重な憩いの場である。
貴族令嬢であるシャノンは自宅に風呂があるので、公衆浴場を利用したことはなかった。
おそらく一生入ることはないだろう。そう思っていた。
だが、今の彼女はどこかヤケになっている部分があった。
自分は終わっている人間。だったら今までにやったことのないことをやってみよう。決して前向きではない、後ろ向きなチャレンジ精神が芽生えていた。
入ってみよう。
勇気を振り絞って、というより、ギャンブルで無茶なチップの張り方をするような心持ちでシャノンは浴場の扉を開けた。
「いらっしゃいませー!」
元気のいい声が飛んできた。
見ると、受付のカウンターに青年が座っている。
金髪で透明感のある碧眼、高貴な雰囲気が漂っている。ただし格好は白のタンクトップというかなりラフな格好であるが。むき出しの腕は細身だが、かなり鍛え込まれている。
面食らったシャノンがたじろいでいると、青年が声をかけてきた。
「君、ひょっとして公衆浴場は初めて?」
「は、はい……。私も王都住まいでよく見かけてはいましたが、入るのは初めてで……」
「やっぱりな。えーと、まずはここで料金を払ってもらう」
「は、はいっ!」
シャノンは慌てて財布から金貨を取り出す。
「いや……そんなにはいらないよ!」
青年が料金を説明すると、シャノンは「そんなに安いんですか!?」と驚いてしまった。
「ハハ、まあね。なにしろ、色んな人が使う場所だから」
シャノンの世間知らずを嘲笑することもなく、青年は朗らかに笑う。
言われた通りの料金を支払ったシャノンはきょろきょろしてしまう。
「あとは着替えて、女性用の風呂に入るだけだよ」
「は、はいっ!」
慌ててドレスを脱ぎ出そうとするシャノン。
「ちょちょちょ! ここじゃない! 向こうに着替えのスペースがあるよ!」
「あっ、す、すみません!」
「皆で入る大浴場から、蒸し風呂、薬湯の入った風呂と色々あるから楽しんでくるといいよ。くれぐれものぼせないようにね」
「ありがとうございます! えぇと……」
「ああ、僕はラフルっていうんだ」
「私はシャノンと申します。ありがとう、ラフルさん!」
「風呂を上がったら、またここへおいで。いいものあげるからさ」
「?」
きょとんとしつつ、シャノンは浴場へ向かった。
公衆浴場は、シャノンの予想に反して快適なものだった。
大勢の利用客でごった返していて満足に湯船に浸かることもできない。そんな光景を想像していたが、全くそんなことはなかった。
浴場は広く、清潔感があり、しっかりと体を洗い、湯を楽しむことができた。勝手な偏見を抱いていた自分を恥じる思いだった。
ほかほかになり浴場を出たシャノンは、ふとラフルの言葉を思い出す。
そういえば、いいものをあげると言われていた。なにかしら。行ってみよう。
受付に行ってみると、ラフルがいた。
「お、上がったかい。初めての公衆浴場はどうだった?」
「とても素晴らしかったです。広くて綺麗で、色んな種類のお風呂があって、にぎやかで……」
「それはよかった。貴族の人にそう言ってもらえると、従業員として自信つくよ」
「え? なぜ、私が貴族だと……」
「そりゃ分かるさ。王都民で公衆浴場が初めてって時点でだいぶ身分は絞られるし、まして立派な身なりをしてるんだから」
最初から自分が貴族令嬢だとバレバレだったのねとシャノンは少し恥じ入る思いだった。
「ごめん、別に詮索するつもりじゃなかったんだ。それより約束だったよね。いいものあげるって」
「はい」
「いいものは、ずばりこれさ」
ガラス瓶に入ったミルクだった。ラフルは得意げな表情をしている。
「……ミルクですか?」
「うん、氷で冷やしてあるやつ。ミルクが嫌いとか、体に合わないとかは大丈夫?」
「はい、平気です」
「じゃあ、騙されたと思って。飲んでみて」
シャノンはミルクを受け取る。
「いただきます」
一口、上品に飲む。シャノンは目を見開く。
「まあっ、とても美味しい!」
「だろう?」
ラフルがニヤリとする。
「だけどね、腰に手を当ててグイッと飲むともっと美味しいんだよ」
すぐに「なーんてね」と付け加えるつもりだったが、シャノンは言う通りの方法でミルクを飲んだ。
ラフルは目を丸くする。
「本当だ、美味しい! 1.5倍くらい美味しくなった気がします!」
唇にミルクをつけながらぱぁっと笑うシャノンを見て、ラフルはほのかに上気したが、風呂上がりのシャノンは気づかなかった。
「ええと、ミルクの代金はおいくら……」
「今日はいらないよ。初回サービス!」
「ホントですか! ありがとうございます!」
シャノンがラフルをちらりと見る。
「それにしても、ラフルさんってどこか気品が漂ってますよね」
ラフルは動揺する。
「そ、そうかい? 気のせいじゃないかな~、アハハ」
「うふふっ……」
時刻が日没近くになり、昼の仕事を終えた王都民たちがぞろぞろと入ってきた。
「汗かいた~」
「ひとっ風呂浴びるかぁ!」
「蒸し風呂後のエールは最高!」
客が増え、ラフルも忙しくなると察したシャノン。
「じゃあ、私はこれで失礼します」
「また来てくれるかい?」
この問いに、シャノンは笑顔で答える。
「はい、また明日来ます!」
「楽しみにしてるよ」
シャノンは公衆浴場を立ち去り、ラフルは受付に座り業務に戻った。
その夜、邸宅にて父がシャノンに婚約破棄の件を改めて謝罪する。
「すまんな。私に力がないばかりに、お前の屈辱を晴らすこともできなくて……」
だが、シャノンは首を横に振った。
「ううん、お父様。私、もう気にしてないわ」
「え?」
「お風呂のおかげで、私の傷も洗い流せたみたい」
きょとんとする父を尻目に、シャノンは新たにできた“楽しみ”に胸を躍らせるのだった。
***
次の日の昼下がり、シャノンは公衆浴場を訪れる。
前回はドレスで訪れたが、明らかに浮いていることを察し、今日の服装は水色のワンピース。
入り口の扉を開けると、ラフルが通路をモップで掃除していた。
「いらっしゃい!」
「約束通り、また来ちゃいました」
「歓迎するよ。よし、僕も掃除を張り切っちゃおうかな」
あからさまにモップを加速させるラフルを見て、シャノンは笑った。
料金を支払い、女性用の浴室で湯船を堪能する。
風呂上がりにはもちろん――
「ミルクください!」シャノンが小銭を出す。
「はいよ!」
ラフルから手渡されたミルクを、シャノンは腰に手を当てて飲み干す。
「あ~、美味しい! 火照った体にききますねえ!」
シャノンは赤面する。
「……って、ちょっとはしゃぎすぎましたかね?」
ラフルは顔をほころばせる。
「美味しかったんだからいいじゃないか。変に気取るよりよっぽどいい」
「そうですよね!」
昨日公衆浴場を初体験したばかりだというのに、シャノンは早くも常連のような風格を醸し出していた。
シャノンはそれからも足しげく公衆浴場に通い、名実ともに常連になりつつあった。
休憩室などで他の客から話しかけられることも多くなる。
「おやシャノンちゃん、このところよく会うね」
「あら、おば様。私、すっかり浴場を気に入っちゃいまして」
「気に入ったのは浴場だけかい? ひょっとしてラフル君のことも……」
「んもう、おば様ったら!」
ラフルは清掃をしつつ、こうした会話にしっかり聞き耳を立てているのだった。
シャノンが自分をどう思っているか、つい気になってしまう……。
***
ラフルの休憩時間に、二人で会うことも多くなった。
公衆浴場の外にあるベンチで雑談する。
「シャノンもすっかり公衆浴場に慣れたね」
「ありがとうございます」
「初めて会った頃の君が懐かしいよ」
「懐かしいですね。公衆浴場に入ったはいいけどあたふたして、料金も知らなくて……」
ラフルの頭に素朴な疑問が生じる。
「だけど、どうして急に“公衆浴場に入ろう”なんて気になったの?」
シャノンの顔が憂いを帯びる。
「あっ、いや……変なこと聞いちゃったかな」
「いえ、いいんです。聞いて下さい。実は……」
シャノンは相手の名前は伏せつつ、自分が婚約破棄されたことを明かした。
屈辱を晴らすこともできず、半ば自棄になって公衆浴場に入ったことを。
「だけど、入ってみて大正解でした。おかげで心の傷はすっかり癒えましたから」
シャノンを見て、ラフルは目を細めて穏やかに笑う。
「そうだ。じゃあ僕も秘密を教えちゃおうかな」
「なんですか?」
「公衆浴場の従業員というのは、世を忍ぶ仮の姿。実はこの国の王子だったのだ!」
「えええええ!?」
シャノンは驚くが、ラフルは慌てて否定する。
「なーんて、冗談だよ冗談。君は素直だな。普通、信じないだろう」
「驚いちゃいましたよ~。だってラフルさん、王子様でも違和感ない雰囲気ですし」
「そ、そうかな?」
「でも私は……ラフルさんがたとえ王子でも、何者でも、私の想いは変わりませんけどね」
「それは……どういう意味?」
「私はラフルさんという個人が好きなんであって、そこにラフルさんの肩書きは関係ないですから」
ラフルの顔が茹で上がる。
「え、僕のことが……好き?」
自分の発言に気づき、瞬時にシャノンの顔も茹で上がる。
「あ、いえいえいえ違います! そうじゃなくて……そういう意味じゃなくて……ただ、ラフルさんとずっと一緒にいたいなーって思ってるってだけで……」
訂正したことでかえって大胆な吐露になってしまっているが、ラフルは微笑む。
「ありがとう、シャノン。僕も同じ気持ちだよ」
「ラフルさん……」
お互いの気持ちが高まり、鼓動が速まり、二人はそっと口づけを交わした。
***
シャノンとラフルの距離が急速に近づき、また別の日。二人はラフルの休憩時間を利用して、屋外のベンチで談笑していた。
「浴槽を掃除してたら滑っちゃって。危うく頭を打つところだったよ」
「あらま、気をつけて下さいね」
そこにシャノンにとっては聞き覚えのある声が飛んできた。
「おやぁ? そこにいるのはシャノンじゃないか」
シャノンが振り向くと、ルーネスが立っていた。ファミアも一緒だ。
「あ、ルーネス様……」
「お前、こんなとこで何やってんだ?」
ルーネスは前髪を指でいじりつつ、シャノンたちに高圧的な眼差しを向ける。
「ええと……公衆浴場に来ていました」
「公衆浴場? プーッ、アッハッハッハッハ! お前もとうとうそこまで落ちぶれたか!」
「どういう意味ですか?」シャノンは冷静に聞き返す。
「公衆浴場なんてのはようするに庶民どもの垢が浮きまくったきったねえ風呂のことだろ? よくそんなとこ入れるよな! まあ、お前にゃお似合いかもしれねえがさ」
ファミアも追随する。
「庶民と一緒にお風呂だなんて、考えただけでも不潔ですわ……」
鼻をつまむ仕草まで加えて。
かつてのシャノンだったらここで何も言えなくなっただろう。
しかし、さすがに黙ってはいられなかった。
「そんなことありません! 公衆浴場は掃除が行き届いていて、とても清潔で、従業員や利用者の皆さんもいい人ばかりで……。お風呂上がりのミルクなんて最高ですし……」
ルーネスは呆れたような表情をしつつ、ベンチに座るラフルに目をやる。
「従業員ってのはそっちの金髪野郎か。俺に捨てられたからって、今度はその男に乗り換えたわけだ。世間知らずのふりして気が多い女だなぁ、お前も」
「そんなことは……」
「で、金髪野郎にご奉仕でもしてそっちのミルクも美味しいですってか!?」
およそ貴族とは思えない下卑た発言まで飛び出す。
「いい加減にしろ!!!」
稲妻のような怒号。ラフルだった。
「シャノンを侮辱することは許さない。とっとと立ち去れ!」
あまりの迫力に、ルーネスとファミアはたじろぐ。
だが、たかが公衆浴場の従業員如きに怖気づいたことを悟られたくないのか、ルーネスは地面に唾を吐き捨てる。精一杯の威嚇行為だった。
「ふん……。まあいいさ、シャノン、俺はこれからファミアとともに高みに上る。お前はせいぜい薄汚い垢まみれの浴場を楽しむんだな」
捨て台詞を残し、そのまま立ち去っていった。
ラフルが珍しく顔をしかめている。
「なんなんだ、あいつは……。身なりからして貴族なようだが、精神面はそこらのチンピラにも劣るぞ」
シャノンは恥ずかしそうにうつむいている。
「ん? まさか……さっきのあいつが……」
「はい、私の婚約相手だった人です」
「そうか……。あそこまで言われたら庇う必要もないだろう。奴の名前は?」
「ルーネス・ボイル様……です」
ラフルの眉が動く。
「……! そうか……まさしく“奇縁”というやつかもしれないな」
「ラフルさん?」
シャノンにはこの時のラフルの発言の真意がまだ分からなかった。
***
三日後、ルーネスとファミアは王城に来ていた。
ボイル家の代表と、その婚約者として。
いつも以上に着飾ったルーネスが嬉しそうにファミアに語りかける。
「ようやくだ、ファミア。今日の謁見が上手くいけば、我がボイル家が王国の国家プロジェクトの中核に入り込むことができる」
「ええ、新設される公衆浴場の運営という大事業に……」
ファミアの口調もすっかり浮かれている。
浴場の需要増大を受け、王国では公衆浴場の新設を計画していた。その運営の責任者として話を持ちかけられたのがボイル家というわけである。
「公衆浴場なんてのは自分で使うのはゴメンだが、莫大な利益を生む。それの運営を任せてもらえるなんて、今から笑いが止まらねえぜ」
「まったくですわね」
これはその通りで、公衆浴場運営に携わることができれば、ボイル家には計り知れないほどの利益が流れ込むこととなる。爵位の格上げも夢ではない。
「あとは王子との謁見をつつがなく終わらせればいい……楽勝だな」
バイエン王国には極めて優秀な三人の王子がおり、それぞれが若くしてすでに国家の基幹部分を担っている。
第一王子は王太子として政務全般を統括、第二王子は軍事を統括、そして彼らが今日謁見する第三王子は国営の公共施設全般を統括している。
王子と会うのは初めてだが、よほどのことがない限り、ボイル家が新設公衆浴場を任されるのは確定しており、謁見は形式上のものといっていい。
第三王子の使者が彼らの元にやってきて、謁見を行う応接室まで案内される。
ドアを開くと、そこにはすでに第三王子が座っていた。
金髪で、白い礼服を身につけた品のある若者だった。
ルーネスとファミアは露骨に媚びるような顔と姿勢になって挨拶をする。
「これはこれは殿下、お目にかかれて光栄です。ルーネス・ボイルと申します」
「その婚約者ファミア・メルクと申します」
「バイエン王国第三王子のラフル・ヴァッシェンだ」
「お初にお目にかかります。それにしても気品溢れるそのお姿、私などまるで足元にも及ばない……」
ラフルがルーネスの世辞を遮る。
「私と君が会うのは初めてだろうか?」
「……はい?」
予期せぬ言葉が飛んできたので、ルーネスは首を傾げる。
「私は君のことをよく知ってるのだが……」
「な、なにをおっしゃって……」
改めて第三王子の顔を見る。この瞬間、気づいた。
「あ」
気づいたとたん、極寒の吹雪の中に放り込まれたように震え始める。
「あ、ああ、ああ……!」
「これで会うのは二度目かな。私はあの“金髪野郎”だ」
ルーネスとファミアの顔がみるみる青ざめていく。自分たちが王子に発した言動の数々を思い出しているのだろう。
「国家の業務に私情を挟むことはしない。だから私に対する暴言は気にしないし、シャノンへの侮辱も、こちらは極めて許しがたいが……国家事業とは分けて考える」
聞いている二人は脂汗を流し、歯をガチガチ鳴らす。
「だが、公衆浴場を“汚い場所”“不潔な場所”と考えているような輩に、この事業を任せることはできない」
ラフルの冷徹な瞳が二人を射抜く。
「そういうわけだ。今日はお引き取り願おう。正式な通達は後日行う」
そのまま立ち上がる。
“正式な通達”が「クビは後で言い渡す」という意味であることは間違いあるまい。
だが、我に返ったルーネスが慌てて引き留めようとする。
自分の所業で国家事業に携わるチャンスを失ったとなれば、彼はもはやボイル家の人間でいられなくなる。
今後数十年は享受できるはずだった莫大な利益を全てパーにしてしまうということなのだから。
「お、お待ち下さい、殿下!」
「ん?」
「あの時の俺……いや、私はどうかしていたんです! そうだ、酒で酔っ払っていて……!」
「酔っているようには見えなかったけどね」
「飲んでも、顔には……顔には出ないタイプでして……アハハ……!」
引きつった笑みを浮かべるルーネスを心底軽蔑したような目で見ると、ラフルは背を向けた。
すると――
「お前のせいだぞ!」
「なんで私のせいなのよ!」
「お前があの時、俺を止めてれば……!」
「人のせいにしないでよ!」
背後から醜く口で争う声が聞こえてくる。
ラフルは目を細め、呆れたような、あれに事業を任せることにならずに済んでホッとしたような、そんなため息をついた。
***
後日、ラフルは第三王子ラフル・ヴァッシェンとして、正装でハーブル家を訪れる。
用件はボイル家の後釜として、新設する公衆浴場の運営を任せたいというものだった。
シャノンの父は恐縮する。
「ありがたい話ですが、そんな大役がハーブル家で務まるかどうか……」
「もちろん、我々も丸投げするのではなく、国を挙げてサポートします。それに各種財務書類を拝見させて頂きましたが、ハーブル家の事業経営は堅実で、国家事業を任せるに値する実力は十分あると判断しました。どうか、お力添えを」
「分かりました……。力の限り、やらせて頂きます」シャノンの父は了承する。
「ありがたい。どうかよろしくお願いします」
帰り際、ラフルと見送りのシャノンの目が合う。
ラフルがうっすら微笑むと、シャノンもニッコリ笑い、二人だけの静かなやり取りを終えた。
***
ハーブル家が正式に新設公衆浴場の運営を引き受け、シャノンとラフルは公衆浴場で会っていた。
夕暮れの赤い灯の中、二人でいつものベンチに座る。
「……とまぁ、そういうわけで、僕は王子だったんだ」
「ご冗談ではなかったのですね」
「まあね。あの時、本当にバラしてしまってもよかったんだけど、やっぱり躊躇してしまった。すまない」
「いえ、いいんです。ラフル様」
身分を明かしたのだから当然だが、シャノンも敬称を変える。
ラフルにはそれが少し寂しくもあった。
「でもなぜ、ラフル様は公衆浴場の従業員を?」
「新しい浴場を作ろうというのだから、自分でも働いてみないとね。おかげで、浴場勤務の何が大変か、どういう問題点があるか、だいたい分かってきた」
「なるほど……」
しばしの沈黙。
お互いに「もっとしなければならない話題があるだろうに」と牽制し合うかのように。
やがて、シャノンから口火を切る。
「ラフル様、前にも申し上げた通り、あなたはあなたです。たとえラフル“さん”であろうと、ラフル“様”であろうと」
敬称を変えても距離は変わらない。シャノンはそう言いたかった。聡明なラフルも察する。
「あなたが何者であろうと……私はあなたが好きです」
ラフルが応じる。
「僕もだ。気づいたら、君のことが好きになっていた。公衆浴場で働きながら、君が来るのが楽しみになっていた。元々国家事業のために始めたお忍びの浴場勤務だったのに、いつしか君が待ち遠しくてたまらなくなっていた。たまに来ない日など、もしかしたらもう来ないんじゃないかと不安になるほどに」
「ラフル様……」
「僕はもう、君と離れたくない。それでもかまわないかい?」
「はい……もちろんです」
ラフルはそのままシャノンの体をぎゅっと抱き締めた。
そしてそのまま、どんな熱湯でも敵わないほどに熱いキスを交わした。
***
程なくして二人は婚約する。
新しい浴場建設も滞りなく進み、まもなくハーブル家はその運営を任されることになるだろう。
そうなれば、社交界においても大きく躍進することは間違いない。
そして、結婚式が行われる。
ウェディングドレスを着たシャノン。白い礼服を身にまとったラフル。
どちらも対等に美しく、凛々しく、身分差はあるがそれを感じさせない佇まいであった。
彼らを目にした誰もが「お似合いだ」と思ってしまうほどに。
式は粛々と進められ、神父の前で、二人は永遠の愛を誓い合う。
「私はシャノンを生涯妻として愛することを誓います」
「私もラフルを生涯夫として愛することを誓います」
盛大な拍手が送られる。
誓いが終わると一転、式も和やかなムードとなる。
その雰囲気も手伝い、一人の紳士がこんな質問をする。
「公衆浴場で出会ったお二人の結婚式、大変素晴らしいものでした。シャノン様は結婚後、ラフル様に何か望むことはありますか?」
シャノンはあまり深く考えず、ニッコリ笑って答える。
「新しい公衆浴場ができたら、ぜひそこでラフル様と一緒に風呂上がりのミルクを飲みたいです!」
これを聞いたラフルも、柔らかく顔をほころばせる。
「私も同じ気持ちです。腰にしっかり手を当てて、グイッと」
この王子と王子妃らしからぬ――しかし実に二人らしい回答に、式場は末永くお幸せに、という温かな笑いで包まれた。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。