2. あなたを救ってあげる。
自分の身の振り方はあれで良かったのだろうか。ヘンリは物思いに耽ったまま階段を駆け上がる。
地上に着いて庭へ出ると、もうすっかり夜が更けていた。夕陽射し込む薬品室で、リーナに包帯を巻いたのが今日の夕方のこととは到底思えない。今日は密度の高い一日だった。
庭中に人影が見える。装備を整えた護衛たちは、玄関正面の噴水に膝まで浸かり、裏庭に通じる木の茂みに頭を突っ込み、轟音の原因を探っている。
特に装備もせず現れたヘンリの姿を視認し、全護衛兵が目を丸くした。リーダーを務める男性が慌てて駆け寄ってくる。
「ヘンリ様、どうなさったのですか! ここは危険です、避難してください!」
ヘンリは先ほど王に言ったのと同じような説明をした。
「ですからきっと皆さんで捜索を続けても、事態は前に進みません。僕もともに捜索します」
彼が危険な目に遭わないか、辺りを見ながら話をじっと聞いていたリーダーは、しばらくなにも言わなかった。正直なところ、リーダーも同じことを考えていたので、反論出来なかったのだ。
拳をぎゅっと握り締め、覚悟を決めたように、思いきり頭を下げる。
「私どもでは力及ばず、申し訳ございませんが、ご協力よろしくお願いします!」
「ええ、お互い無事に捜索を終えましょうね」
ヘンリの微笑みに、彼らのやり取りを遠くから見ていた護衛までもが元気付けられた。
リーダーが「よっしゃあ!」と大声を上げると、全員が「おう!」と応えた。
士気が高まった捜索隊だったが、しばらくなんの動きもなかった。
日付が変わる時刻を迎えようかという頃、疲労と安堵感で皆の気が緩み始めていた。リーダーが見かねて補佐隊に声を掛け、キッチンのほうから茶器を持って来させる。
もっと適当な器で良かったのに、補佐隊は王族用のティーカップを携えて戻ってきた。リーダーは苦笑しつつも、薔薇が描かれたカップに茶を淹れる。
「おうい、皆! 水分が必要だ。茶を飲もう」
喉がカラカラだった隊員たちは、目を輝かせてリーダーに駆け寄る。普段は使うことのない高級なカップに、皆の気持ちは少々高揚した。
「取っ手の部分がなんだかうねってるぞ。やっぱり高価な物は細部までこだわって作られているな」
「いつもの茶より美味く感じるんだが、俺だけだろうか?」
護衛らの会話を聞いていたヘンリは、護衛隊に高級なティーカップを支給しようと思った。幼い頃からこういうカップを使っていた彼は、カップひとつで皆がこんなに喜ぶとは知らなかった。
皆で茶を味わいながら、ある者は将来の野望のことを、ある物は先日産まれた娘のことを語り始めた。
時折茶化すような声が挟まれ、それを聞いて一斉に笑う。
和やかな空気が流れていた、そのとき。突然庭の外から一筋の光が、ヘンリ目がけて放たれた。
「ヘンリ様ッ!」
護衛たちが顔を青くしてヘンリのほうを振り返る。しかし足はついて来ず、彼が光に包まれるのを見ているしか出来なかった。
光が弱まって、ようやく目が利けるようになったときには、彼の姿はなかった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
両手首が圧迫され、擦り傷が出来るような痛みが走った。
脳を揺さぶられるような感覚に吐き気がする。ヘンリは気分の悪さに耐えかねてゆっくりと、「仕方ないな」とでも言うように目を開いた。
目の前に、大男ののっぺりした顔があった。大男は鋭い吊り目をぎょろりと動かして、ヘンリの顔を眺め回している。ヘンリは突然目を開いたのに、驚く素振りは一切ない。
「おい、こいつがぼっちゃまのおっしゃる“ヘンリ”か?」
大男はひしゃげた鼻を触りながらヘンリから離れ、後ろにいる武装した若い男たちに聞く。彼らは怯えた声色で「はい、確かです」と答える。
視界を占拠していた大男が離れたことで、自分のいる場所の全貌が見えるようになった。
ヘンリは牢に入れられていた。先ほどの痛みは、両手首を縄で縛られたときのものだった。両手は後ろに回され、腰元で括られている。
小さな部屋を囲む壁は冷たい石で出来ていて、一面の格子はひどく錆び付いている。サビのツンとする臭いをうっすら感じる。
視線を部屋中に巡らせるヘンリに、大男は言い放った。
「逃げる手段なんてねえぞ。お前に出来るのは、大人しくしてぼっちゃまに気に入られることくらいだ」
行くぞ、と彼が声を掛けると、若い男たちもぞろぞろと牢を出て行く。
その後は一切物音が聞こえず、ここには自分ひとりだと分かった。
数時間後、若い男がひとりやってきた。
先ほどいた中のひとりかどうかは分からないが、彼は朝食のパン一切れが載った皿だけを持って来たため、こちらに危害を加える気がないことは一目瞭然だった。
彼はパンを口の前に差し出す。こちらを見ることなく、ぶっきらぼうな態度だ。
ささくれがひどい指先とパンを交互にじっと見ていると、ぐいと唇に押し付けられた。
「食事すら自分の手じゃ食べられないのかい? 僕は男にあーんされる趣味はないんだけど……」
「食ったほうがいいぜ、お前の今日の食事はこれだけなんだからな」
「一日でパン一切れだけ? 僕はまだ成長期なんだよ?」
「なんだお前。自分の置かれた状況が分かってないのか」
彼がちょうどこちらに怪訝な目を向けたとき、ヘンリはパンにかじり付いた。指先を歯がかすめ、彼はわずかに嫌そうな顔をする。
ひどいパンだ。口の中の水分がすべて持って行かれる。
「あとで水をコップ一杯だけ持ってくる。今日はぼっちゃまがお前と話をすると言っていた。水を飲んだらぼっちゃまがいらっしゃるのを待て」
「はあい」
わざと気の抜けた返事をする。
男は顔を顰めてそそくさと牢を出て行った。
再び牢がしんと静まり返る。その間にヘンリは、腕をわずかに動かして、縄がどれほどきつく肉に食い込んでいるかを確かめる。
次。次だ。チャンスは一度しかない。
遠くから足音が近付いてくる。底が擦り切れて薄くなった靴の音だ。
間違いない、若い男が水を持って来たのだ。
彼は牢の鍵を開け、じろじろとヘンリを見た。格子に腕を通して、外から鍵を掛け直す。
手首の縄をきっちり確認してから、手に持っていたコップを口元に近付ける。
ずっとにやにやと不気味な笑みを浮かべるヘンリの顔を見たくはなさそうだが、先ほどの食事のように指に噛みつかれるのも気持ちが悪い。恐る恐るといった様子で彼の口に視線をやって、変なことをしないかと見張っている。
男がヘンリの思惑通りに動いていた。わざとにやにや笑っていたのに、その笑みが本当に変わりそうだ。
……ヘンリに対する嫌悪感を抱かせることで、ヘンリに必要以上に視線を向けることがなくなる。一度指先を噛むという奇妙な行動に出ることで、噛むことばかり警戒するようになる。
想像以上に彼が未熟で助かった。今なら後ろでなにをしていても気付かれないだろう。
彼の意識が完全に口元に集中している間、ヘンリは痛みと不快感で顔を歪めてしまわぬよう耐えるのに必死だった。
……ボキッ。最後の最後で大きく鳴った音に、男はぎょっと目を見開く。
なにかがおかしいと気付いてコップを放り投げ、身構えたときにはもう遅かった。
ヘンリのタックルを真正面から食らい、硬い壁に頭を強く打つ。脳震盪でくらくらしつつも根性で体勢を整えたが、ヘンリは容赦なくタックルを繰り返す。
そして男のベルトに掛かった鍵を、ベルトごと外した。
いつの間にか自由になっている手を見て、男は顔を青くした。
「お、お前。手が変な方向に……」
「覚えておくといいですよ。縄があれだけ緩いと、手首の関節を外せばすぐに抜けられちゃうってこと」
穏やかな語り口でそう言いながら、ぶらぶらと力の入っていない手で鍵をいじる。指先でどうにか鍵を外の鍵穴に差し込み、身体ごと捻って解錠する。
扉を押し開け、ついにヘンリは牢から出た。
壁にもたれかかったままこちらを睨む男を振り向き、鍵を投げ返した。
「鍵、貸してくれてありがとうございました。では、お元気で」
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
ヘンリが背後から男に舌打ちをされている頃。
リーナは背丈ほどある一本の槍を両手で握り締め、ラシュ家……ヘンリを捕らえている家の屋敷の前に立っていた。
周りには誰もいない。
まだ太陽は顔を出していないが、夜明けを待ち侘びるような空気に満ちている。遠くから、跨ってきた馬のいななきが聞こえる。
「ヘンリ様が……っ!」
轟音の原因を調査していたはずの護衛たちが、リーナたちが身を潜める地下にやってきたのは、日付が変わってすぐだった。
彼らの顔色を見て、嫌な予感がした。その予感は的中し、最悪の事態が起こったことを護衛たちが早口で報告した。
王は立ち尽くし、狭い地下室を右往左往した。
「お前は決着をつけるだなんだと言っていたが、捕まっては意味がないではないか。そんな決着のつき方は誰も望んでいないぞ」
「落ち着いてください。わた、わたっ、わたくしどもが必ず見つけ出し、救出作戦を決行致しますゆえ……」
足元がおぼつかず、うなされたようにヘンリへの気持ちを口にする王。そんな彼を勇気付けようと言葉を掛けながらも、動揺が隠しきれていない護衛たち。
彼らの混乱した様子を見ているうち、決して前線で戦うことはないであろう給仕係たちでさえ顔を青くし始めている。
そんな中、使用人長のエリーゼは、一切の恐れを含まぬ、凛とした声を発した。
「それぞれが出来ることを、それぞれが的確に行うこと。緊急時にこそ重要なことです。皆、忘れてはなりません」
彼女の声はリーナの心を大きく動かした。
リーナはシェルターから飛び出して屋敷の武器庫へ急いだ。そこで大きな槍を手にし、金属で出来た鎧を身に纏う。
脇腹あたりについた紐を結ぶため、右手に巻いていた包帯を外す。ヘンリが巻いてくれたとき、包帯は夕陽を受けて暖かな橙色に染まっていた。しかし今は無機物らしいぎこちなさを含んだ白色にしか見えない。
ひどく悲しくなって、思わず包帯をぎゅっと抱き締め、鎧の胸元に忍ばせた。
鎧の紐を固く結びたかったのだが、不器用なリーナにはそれさえ難しい。仕方なく、彼女にとって最も馴染み深いリボン結びにしたせいで、少々可愛らしい装いになってしまった。
さらにずしりと重いヘルメットを被り、顎下の紐もどうにかリボン結びにして、シェルターへ戻る。
リーナの姿を見て絶句する皆の前で、彼女は声高らかに宣言した。
「私、ヘンリ様を助けに行ってきます」
「何を言い出しますか。ヘンリ様が『リーナをよろしく』とおっしゃったのですから、あなたはここにいるべきです。これ以上私たちに迷惑をかけないでちょうだい」
「私は私の出来ることをします。考えなしに無謀なことをするつもりはありません」
「彼があなたをどれだけ大事に思っているか、自覚がまったくないわけではないでしょう? 大人しくしていることが一番ヘンリ様のためになるってことも……」
「エリーゼさん。私、彼なしで生きていくなんてきっと出来ないんです。ヘンリ様にもしものことがあったら、私はある種の“死”を迎えてしまう。どうせ死の危険に晒されるのなら、私をメレラ家に迎え入れてくださった陛下と、心の傷を癒してくださったヘンリ様に恩返しがしたいんです」
彼女の熱い眼差しと強い言葉を受けて、エリーゼはそれ以上の言葉を返すことが出来なかった。
エリーゼになにを言われたわけでもないのに、リーナはひとりで話を続けた。ヘンリのことで頭がこんがらがって仕方がないのだ。
そして言葉の最後を、
「ヘンリ様は私が生きることを望んでくださいましたから、ヘンリ様の望みを叶えるためにも、ヘンリ様にはお変わりなくいて頂かなくてはならないんです」
という彼への想いで締め括った。
エリーゼだけでなく、周りにいた使用人や王でさえも、彼女の言葉をじっと聞いていた。そして皆がこう思った。
ああ、あの子はヘンリのことを深く愛しているのだな、と。
ゆえに彼女が背を向けてシェルターを出て行こうとしても、誰も止めなかった。その制止は意味を為さないことを皆知っていたからだった。
シェルターの出口で槍が引っ掛かり、しばし悪戦苦闘したのち、ようやく地上に出る。
真っ暗な空には呑気に星々が瞬いている。
城の裏手にある厩舎に向かい、ある一頭の馬を繋いでいる綱を外した。
その馬はヘンリが五歳のときに与えられた馬だった。そのときには仔馬だったが、今ではすっかり筋肉が発達して立派になっている。
リーナ自身は馬を所有していない。他にいくらでもお利口な馬はいるのだが、今日はご主人の危機ということで、一肌脱いでもらおうと思って借りたのだ。
リーナは馬を撫でながら乗る準備をし、
「一緒に頑張ろうね。私たちがどうにかしなくては、私もあなたも、大切な方を失ってしまうから」
と小さく語りかける。
乗馬は元々得意ではないし、不向きな格好をしている。それに馬は賢い生き物だから、主人ではない私を乗せることを嫌がるかもしれない。
そんな不安は杞憂に終わった。馬はリーナの技術不足を補うように丁寧に、かつ速く走ってくれた。
門を出て目的地のほうへと方向転換したとき、道の先に人が立っているのに気が付いた。あまりに順調に門を出られたので、門を出たところを狙った敵ではないかと槍を構える。
「ちょっと、そんな物騒なものを向けないで! 僕ですよ、僕! マルコです」
「マルコ様……あっ、ヘンリ様のご学友の! どうしてこちらに?」
以前ヘンリに紹介され、簡単な挨拶をした程度なので、顔を見ただけでは彼の名前を思い出せなかった。
ヘンリが『マルコが近くに住んでいれば気軽に招待出来たのにな』とよく話していたほど、マルコの家は屋敷から遠く離れた場所にある。庶民ゆえ馬の一頭も所有していない彼が歩いてここまで来るのには、相当の理由があるはずだ。
「俺、ヘンリの身になにかあるかもって前から思ってたから、探偵の真似事が好きな弟に張り込みさせてたんだ」
彼は初めに、衝撃的なことを言った。屋敷のセキュリティを見直す必要があるかもしれない。
そういえば屋敷を出るたびに、やたら同じ子供を見掛けていた気がする。
「さっき弟から聞いたよ、あいつが変な集団に連れられて行ったって。逃げ出したいのを堪えて物陰から見ていたけど、集団は顔を布で覆っていて誰かは分からなかったらしい。……その情報を聞いて、俺、そいつらがラシュ家だって確信したんだよね」
「ラシュ家? メレラ家と王座を争って敗北した、あのラシュ家ですか?」
「うん。あの家の兵は少数精鋭。だから一般家庭の俺でさえ、全員の兵の顔をなんとなく把握してる」
「顔を知られてしまっているから、徹底的に隠していたということですか!」
マルコは頷き、
「そうそう。こんな風に手荒な真似をするところもラシュ家のぼっちゃまらしいよ」
と吐き捨てるように言った。
その後もひとりぼそぼそと“ラシュ家のぼっちゃま”の悪口を言っていたが、リーナが握る大槍を見て目を丸くする。
「え? メレラ家って使用人にも武器が配られるとかあったっけ?」
「いえ、これは私が武器庫から取ってきたものです。マルコ様にヘンリ様の居場所をお教えいただいたので、私はこれからラシュ家のお屋敷に向かいます」
慇懃な礼をして馬を再び走らせようとする。マルコはそんな彼女の腕をぐっと掴み、引き止めた。
「ひとりで行くの⁉︎ そんな格好で?」
彼が指差したのは、固く結べていない鎧の紐。ヘンリがよく『リーナは不器用なんだ』と言ってはいたが、まさかここまでとは思っていなかった。
リーナは顔を顰めて紐を指で弄りながら、ヘンリを救いたい一心で来たことを話す。彼がいないとだめなの、でも国の皆を危険に晒すわけにはいかないからひとりなの、と何度か繰り返して。
話しながら解いたり結んだりしていた紐は、結局言葉の最後まで上手く結べないままだった。
話し終わる頃、マルコはリーナの腕を掴んでいた手を離した。彼はもう彼女を引き止めるのは諦めていた。
自由になった腕を見て、リーナはすぐにラシュ家の屋敷へ向かおうとしたが、マルコはこう言った。
「待って! ねえ、俺も屋敷へ乗せて行ってくれない?」
マルコの真っ直ぐな視線を受け、リーナは『いえ、ひとりで行きます』とすぐには言えなかった。
「ひとりで屋敷に突入するのは止めない。でも万が一のとき、状況を誰も何も知らないのは得策とは言えないと思うんだ。だから俺、屋敷の外で様子を窺っているよ。俺は馬を操れないから後ろに乗せてもらう形になっちゃうけど」
返答に困るリーナに、彼は強い口調で言う。
「無茶をするなら、なにかがあったときに周りの人に迷惑を掛けないようにするべきだ。無謀を勇敢に変えるのはそういう心構えだよ」
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
出口の見えない森の中、狭く舗装されていない木々の隙間を馬で駆けて行く。
しっかり鞍に跨って馬を導くリーナと、後脚の真上あたりに足を揃えて横座りするマルコ。リーナは内心、幼い頃に読んだ絵本とは構図が逆だなと思っていた。
マルコは必死に、リーナが握る綱の一部分を掴んでいる。
リーナには『私の腰に手を回してしっかり掴まっていてください』と言われたのだが、そんなハグのようなことをしたことが知られたら、ヘンリにどんな目を向けられるか分からない。頑なに遠慮しておいた。
馬が自然と足取りを緩める。リーナたちの眼前に煌びやかな屋敷が現れた。
現在の王位に就くメレラ家の屋敷よりも豪華で飾られた屋敷は、マルコ曰く『ラシュ家らしい外面の良さだ』という。
茂みで馬を止める。
重たい槍を持って飛び降りるようにして地面に立ったリーナに、馬が鼻先を押し付けようとする。主人を頼むと言っているようだ。
「うん、きっと助けてくるからね。……ではマルコ様、何かあったときはよろしくお願いします」
「何もないように、よろしくね。あいつはなんだかんだ賢いししぶとい。信じてやってよ」
リーナは大きく頷き、屋敷のほうへ茂みをゆっくりと歩き始めた。
屋敷の入り口を見ても、護衛らしき人の姿はない。マルコの言うように、少数精鋭の兵は今、皆ヘンリのことで精一杯だからなのか。
事実がどうであれ、用心して近付く他ない。
敵地に乗り込むなら素直に入り口を通ってはいけない。それくらいはリーナにもわかる。
屋敷を囲む花壇に沿って眺め回す。
ちょうど良く通れそうな大きさの窓が開いていたので、壁につま先を引っ掛けて登り、どうにか頭を突っ込んだ。それから虫みたいに身体を捩って徐々に進む。
「あだっ」
ずるりと滑って頭から地面に落ちる。思わず大きな声が出たけれど、特に護衛が近付いてくる気配はない。
とりあえず屋敷の中に入ることが出来た。
ラシュ家の屋敷についてなんの知識も持ち合わせていないが、以前ヘンリはこう言っていた。
『身代金を要求するような場合は例外だけど、捕らえた人が死んでも良い場合、閉じ込めるための牢は上層階にある。万が一逃げられても行き場がなくて、発狂して飛び降りたらそれこそ捕らえた側の笑いものなんだよ』
人を捕らえるとは、それほど人のことを嫌うことなのかと、話を聞いた当時は思ったのを覚えている。
まさかヘンリがその“嫌われる人”になって、リーナが彼の言っていた“牢のある上層階”へ向かうことになるとは。
彼が逃げられていますように、そして飛び降りていませんように。切なる願いが胸を占める。
屋敷中央の大階段ではなく、端にある非常階段ちっくな階段を静かに上っていく。ラシュ家の人と出会したら迷う時間はなく、この手の槍で急所を突かねばならない。
……そんなこと、したくない。したくないけれど、どちらが“そんなこと”を先にするかの勝負なのだ。
階段には誰もいなかった。しかし最上階に着いたときその理由を悟った。
「くそっ、あいつが逃げたとは聞いたが、一体どこにいるんだ!」
「手分けして探すぞ! オレは下の階から見てくるからお前はまず屋上へ行け!」
若い男が、ボスらしき大男に指示されて、屋上へ繋がる階段へ向かう。階段を上りきったばかりのリーナは慌てて階段脇の棚の裏に隠れた。
棚の後ろには狭い隙間しかなく、屈強な護衛たちでは入るなど考えつかないだろう。
彼女の予想は大当たりし、男たちは棚の裏など見ることもなく離れていく。
ほっと息をついたとき、棚の背板を挟んだ向こう側からコンコンと叩く音が聞こえてきて、リーナはびくりと肩を震わせた。必死に気配を消していると、向こう側から声が聞こえてきた。
「……もしかして、リーナ?」
聞き慣れた声。そして願っていた、元気そうで変わらない声。
リーナはぶわりと溢れ出した涙に抗って瞬きを繰り返しながら、
「ヘンリ様、ご無事だったのですね……!」
と棚の裏側に呼び掛けた。
ヘンリががさごそと動く音がして、リーナのいる棚の後ろに顔を覗かせる。彼女が纏う鎧、携える槍へと視線を移し、最後に潤んだ瞳に目が止まる。
「なんて格好をして、なんてものを持って、なんて表情をしているの……」
先ほどまで捕らわれていたと思えないほど綺麗な手が、リーナの頬を包む。親指が、目の下の柔らかい皮膚を撫でる。
堪らなくなってわんわんと泣き出したくなったが我慢し、気丈に振る舞う。
「さて、ヘンリ様、お屋敷へ帰りましょう! 外ではマルコ様とお馬さんがお待ちです」
「マルコ? どうしてあいつがここに?」
「ヘンリ様を心配して、ともに来るとおっしゃったのです。素敵なご学友と学生生活を送られているようで、私、安心致しました」
ヘンリは、彼女の話と、記憶の中のマルコとを照らし合わせた。
普段はうんざりした表情や引いたような表情ばかり見せるが、内心ではそんなに気に掛けてくれているのかと少し嬉しくなる。マルコが、敵地に乗り込むリーナへの心配と、少しの野次馬精神でここに来たことなど、彼が知る由もない。
彼はここがラシュ家の屋敷だと知ると、へらりと笑った。彼も当然、ラシュ家の護衛の特徴は知っている。
「少数精鋭って言っても結局は少数だ。あいにく僕だって目は二つだし手足もそれぞれ二本ずつだから、四人に囲まれたら苦しい。でも一対一、いや一対二くらいまでなら僕は勝てるよ」
自信過剰な発言に思えなくもないが、この言葉には不思議と、彼ならきっとそうなのだろうと思わせる力があった。
とはいえ敵に会わないに越したことはなくて、と前置きした上で、ヘンリが話し始めた。
捕らえていた人物を牢から逃した直後、牢がある階を重点的に、かつ集中して探す。くまなく探して見つからなかった場合、各々が下の階や外を探す。このとき“見つからない”と思わされる時間が長ければ長いほど、集中力は削がれていく。だからこそ牢のある階を長時間やり過ごせればあとはもう簡単だ。
彼の見解はこんな風だった。
牢がある階を重点的に見ているのなら、下の階へ下りたほうが良いのではないかとリーナは思ったが、
「牢から出てすぐに下の階を見てきたんだけど、あまりに隠れる場所がなかったんだよね。この屋敷、ちょっとおかしい。もしかしたらここにはラシュ家の人たちは誰も住んでいなくて、ここは牢屋として使っているのかも」
とヘンリは冷静に言った。
さすがに屋敷を出るには早く、屋敷内に留まっていたほうが良いと判断したことから、ずっと棚の中にいたらしい。
そろそろ出ることを考えよう。
彼のその一言で、リーナの槍を握る手に一層力が入る。
廊下をずっと進んだ先、すなわち反対側の端に、伝って降りられるちょうど良い綱があったという。それを取り、近くの窓から垂らす。
多少危険を伴うが、リーナもその計画に賛同した。
声を掛け合って棚の裏側から飛び出す。ところどころにいる護衛に見つからないよう、観葉植物の鉢に隠れる。
長い廊下を半分くらい来たところで、ヘンリが言う綱が見えた。
確かにきつく編まれた綱は、窓から垂らしてリーナとヘンリがぶら下がってもびくともしなそうだ。しかし実際に綱を見たことで、“綱を伝って高い場所から地上へ降りること”が突然現実味を帯び、冷や汗が額に浮かび始めた。
リーナは重い鎧を纏っているせいで元々歩くのが遅く、ヘンリは彼女の異変に気が付かなかった。
周囲を警戒しつつも歩みを止めずにいたヘンリが、ぴたりと足を止める。気付かず背中にぶつかったリーナに「あ、ごめんね」と謝りながらも、
「あいつはきっとラシュ家の護衛イチのやり手だ。注意して進もう」
とひとりの大男を指差した。
のっぺりとした、体格の良い男。ヘンリがラシュ家に連れて来られて一番初めに見た顔だ。
ヘンリは軽い身のこなしで、大男への注意を促しつつも牢の死角へと隠れる。
リーナも彼に続いて隠れようとしたとき。綱を見てから心の奥に残る恐怖感と、早く隠れなければという焦りとが、彼女の手の力を奪った。
ガタン!
握っていた槍が、大きな音を立てて床に転がる。即座に二人は心臓が痛いほど絶望を感じているというのに、槍は呑気にがらんがらんと余韻を残している。
こんな場面で生来の不器用とドジが顕現しようとは。“不器用さ”に命を奪われかけている。
大男がもはや反射でこちらへ走ってきた。彼の重さに耐えきれないかのように床が揺れる。
「僕がどうにかする! リーナは先に窓へ!」
ヘンリはそう叫んだが、リーナは彼の命令に従わなかった。
大男は真っ先にヘンリを殴ろうと振りかぶってきた。ヘンリは、走り出そうとしないリーナのほうに気を取られつつも、大男の重い拳をなんとか受け止める。
ヘンリが大男の腕を捻って絞め技に持ち込もうとし、大男は上手くかわしてからゴツゴツした拳を彼の顔にめり込ませようとする。
そんな応酬を止めたのは、気配を消していた少女だった。
ヘンリの視界の端に、リーナが持っていた槍の柄が映る。彼女はなるべく姿勢を低くしたまま大男に近付き、下のほうから足をすくうように槍を振り上げた。
「女の騙し討ちなんかに引っ掛かると思うなよ!」
大男はリーナを睨みつけ、その大きな足を槍に向かって落とした。しかしリーナは踏まれる直前で槍を引っ込め、
「女の騙し討ちなどと軽視しているから、こんな隙が生まれるのです!」
と叫び、槍の刃を地面に垂直に刺した。
彼女がなにをするつもりなのか、ヘンリも大男も見当が付かず、間抜けにも口を少し開けていた。
槍を刺した反動で、リーナの身体はぴょんと跳び上がる。その勢いのまま槍を思い切り下に押し、大男の顔のあたりまで跳んでみせた。
予想外の動きに、大男は反応が遅れた。なにも出来ない間に、彼の顔をリーナの鎧を纏った膝が打つ。
あまりの衝撃でくらりとした瞬間、ヘンリが大きな身体を的確に羽交い締めにした。
「今のうちだ! 逃げよう!」
綱のある窓へ走り出そうとしたが、大男との格闘の物音を聞いてか、下の階から護衛たちが集まって道を塞いだ。
ヘンリはチッと舌打ちをし、大男を護衛たちに向かって投げた。
そして廊下の途中にひとつだけある窓、当然綱もなにもない窓に駆け寄る。窓を開けて吹き込む風が冷たいほどここは高い。
ちょうど良くベランダなんてあったりしないだろうかとわずかな期待を込めて下を覗く。
「あれは……」
小さくつぶやいて、にやりと笑った。
大男を退かして追いかけてきた護衛たちには目もくれず、不安げな顔で後ろをついてきたリーナを軽々と抱え上げ、窓から飛び降りてみせた。
護衛たちは届かないことが分かっていながら窓に向かって手を伸ばし、リーナはなにがなにやら分からず、叫ぶことすら出来なかった。
ヘンリは目を見開いて、心底楽しそうな表情だった。どばっと溢れたアドレナリンが彼を異常なまでの興奮状態にしていた。
飛び降りた彼らを、ぴんと張った布が受け止める。
派手なペイズリー柄のその布は、片端が換気扇の管に括りつけられ、もう片端はマルコが必死の形相で持っている。彼は歯を食い縛っていたが、飛び降りた二人が最大限に沈み込んだあたりで手が布から離れてしまった。
「あっぶな……」
「とりあえず二人とも怪我なかったんだから感謝しろよな! 普通、一人ずつ降りるとか、そういう気遣いくらいするだろ」
マルコはぶつくさ言いながらも、尻餅をついた二人に手を差し伸べる。
「結構時間掛かってたから、一応こういう用意しておくかーと思ったんだけどさ、まさか本当に飛び降りて来るとは……ヘンリならもっとスマートに出て来られると思ってた」
「そ、それは私のドジのせいで!」
「違うよ、僕だってこんな風にひとりで捕らわれた経験なんてなかったから手間取って」
「あーもー帰るよ! 俺は歩いて帰るから、二人で馬乗りなよ」
マルコについていき、森の茂みへ入る。
ちょうどリーナが降りた位置そのままに馬が一頭立っている。初め凛とした出で立ちだったが、笑顔で手を振るヘンリを視認した途端、ちぎれそうなくらい尻尾を振って彼のほうへ駆け寄ってきた。
すりすりと鼻先を彼の胸あたりに押し付け、ヘンリに「お前がここまで連れてきてくれたのかい? ありがとうな」と言われ撫でられると、馬はうっとり目を瞑った。
その安心したような朗らかな表情を見て、リーナやマルコも、ヘンリが無事に出て来られたことへの安堵感を噛み締める。
ヘンリが手綱を握り、後ろに抱きつくようにリーナが乗る。
二人で強く促したが、マルコは頑なに馬に乗らなかった。
「ここから家のほうまでは相当遠いけど」
「いい、いい。俺が無事かどうかなんて母親と弟くらいしか気にしてないが、ヘンリの安否は国が気にしてる」
「では私が降りますからマルコ様が乗られては」
「俺とヘンリがくっついて馬に乗って、今日の功労者の君が徒歩で帰るほうがおかしいでしょ。と言うかそんなのヘンリが許さないよ」
ヘンリが大きく頷く。
「当たり前でしょ。リーナが歩くって言うなら、マルコをとりあえず馬に乗せて、僕も歩いて帰る」
「ね? そんなの一番意味分からないでしょ」
顔を見合わせて笑い合う二人を見て、リーナも思わず笑顔になった。
使用人として生きてきたリーナにはほとんどいない“友人”というものを、なんとなく分かった気にすらなった。
マルコをラシュ家に残し、馬をメレラ家の屋敷へと走らせる。
ほんのり温かい風、上りきって燦々と輝く朝日。
反対方向へ馬を走らせていたときとは全然違う、あたたかくきらめく気持ち。
前で器用に馬を操るヘンリが愛おしくて堪らなくて、リーナは彼にきゅっと抱きついた。揺れるから仕方ないという風に装って。
ヘンリは当然胸を高鳴らせたが、彼もまた、揺れるから仕方なく自分にくっついてきたのだと自らを言い聞かせた。
マルコが見ていたらきっと、
『お互いにそんなようだから進展しないんだ!』
と騒ぎ始めたであろう。
結局、心臓が縛り付けられたようなある種の苦しさを味わいつつも、二人は無事帰還した。