1. 髪を結ってあげる。
「ああ、腰のリボンも髪も、めちゃくちゃじゃないか。もう一度ドレッサーの前に座って。僕がやってあげる」
「い、いえ、ヘンリ様にそのようなことをしていただくわけにはいきません!」
「いいんだ、僕がやってあげたいんだ。それに僕がやったほうが上手く出来る。そうだろう?」
返す言葉もない。実際、彼女自身が結ぶよりも、彼のほうが手先が器用なので上手くやってくれるだろう。
なぜエプロンのリボンと髪がぐちゃぐちゃか、その理由は今朝の出来事に遡る。
国の中心に位置するメレラ家の屋敷で、リーナ・アイロラは使用人として働いている。
両親に捨てられ、孤児になった三歳のときにメレラ家に迎え入れられた。屋敷は広いが、もうここに住んで十五年ほどが経っているので迷うことはない。
屋敷の大広間では、朝早くから皿の軽やかな音がしている。
皿の音を聞きながらリーナは、自室で制服のリボンと格闘していた。白いブラウスの上に黒いエプロンを着るのだが、腰元にあるリボンを蝶々結びしようとしても絡まってしまう。
「早く行かなきゃエリーゼさんに怒られるのに! あれ⁉︎ もう片方のリボンどこいっちゃった⁉︎」
使用人を束ねるエリーゼという女性の恐ろしい顔を思い出すと、なおさら手が震えて上手くいかない。
いつも苦戦するからと今日は早起きしたのに、ベッドから転げ落ち、洗面所前で滑って転び、化粧箱から化粧品をすべて落としている間にこんな時間になってしまった。
これから髪も結わなければならないのだが、そこでも苦戦することは目に見えている。
「リボンはとりあえず片結びでいいや。で、髪はとりあえずひとつ結びでいいや」
リボンも髪もぐちゃぐちゃに絡まったまま自室を飛び出した。
自室前の大理石でできた柱に、すらりと背の高い男性がひとり立っている。彼はリーナと目が合うと、困ったように眉を下げて笑う。
このような経緯で、冒頭に戻る。
抵抗するリーナに構わず、ヘンリは腰のリボンをするりと解いた。そしてあっという間に綺麗なリボン結びをして見せた。左右均等な美しいリボンだ。
リーナは後ろに手を回し、整ったリボンを指先でちょんと触る。
「わ、すごく綺麗」
「気に入ってもらえたなら嬉しいよ。じゃあ次は髪だね」
リーナがリボンを触っている間に髪留めを外してしまう。髪留めに髪が絡まっていたが、彼女が痛みを感じないように上手くほぐす。
ヘンリはリーナのこめかみあたりから髪に指を差し込み、後ろまで滑らせた。先ほど外したヘアゴムで髪をお団子に結ぶと、余った下のほうの髪をヘアゴムに巻き付けてゴムを隠す。
ポケットに挿した五本のヘアピンから一本を取り出して、お団子の結び目に挿した。
しっかり固定されたことを確認すると、
「はい、出来上がり。痛くないよね?」
と確認し、リーナが頷くと微笑んで頭にぽんと手を置いた。
「じゃあお仕事頑張ってね。今日も髪を僕に任せてくれてありがとう」
ヘンリは手をひらひら振りながら、長い廊下を行ってしまう。
彼のポケットにあったヘアピン。あれはたぶんわたしのために準備されたものだ。違ったら自惚れだと揶揄されそうなことをリーナは考えていた。
いち使用人のためにヘアピンまで用意してくれるなんて、王子はなんて優しいお方なのだろう、とすら考えていた。
「あ、ありがとうございました!」
慌てて放ったお礼の言葉が、広い屋敷に消える。ヘンリ様に言葉が届いたのだろうかと心配するリーナをよそに、ヘンリは角を曲がったところでしゃがみ込んでいた。
「あー……髪、ふわふわだったな……」
この日、リーナたちが配膳した朝食を食べ、ヘンリはいつものようにスクールへ向かった。
五年前。この王国は、王族の怠惰さに痺れを切らした国民が、あろうことか王族を国外追放した。その後任として王族の座を手にしたのが、メレラ家である。
新たな王はこの国を大きく発展させた。初めはずいぶん目についた反対意見も今ではほとんど見られない。
王の手腕が国外からも称賛されているが、メレラ家内部の者だけは知っている。
革新的な施策はすべて、王の息子であるヘンリが考案したものであることを。さらに当時、彼は十二歳の子供であったことを。
国の立て直しに一役買った彼も、普段は十七歳の青年である。国中の貴族が集まるスクールではいち生徒として勉学に励んでいる。
とは言っても先生や同級生からは特別扱いを受けることもしばしばだ。彼自身は叱られたり笑い合ったりする学園生活を望んでいるのだが、なかなかそういうわけにもいかない。
しかしなんの遠慮もなくヘンリと話す男子生徒がひとり。
今朝の出来事を話すと、その“彼”はあからさまに顔をしかめた。
「お前、本当に気持ち悪いな」
「いかにも柔らかそうな栗色の髪で、触ると本当に柔らかいんだ。たまらなくないか? ……はあ、マルコのその表情を毎日見ている気がするよ」
「ヘンリが毎日気持ち悪い話をするからだろ? 世話を焼くふりして髪に触りたいだけじゃないか」
「それは断じて違う! リーナは自分ひとりじゃなんにも上手く出来ないんだ。助けてあげたいと思うのは当然のことじゃないか」
マルコは「はいはい」と言わんばかりに適当に頷き、話を逸らす。
「そういえば隣のクラスにいるラシュ家のぼっちゃま、一ヶ月スクールに来てないらしいぜ。親父さんたちまで外で会っても挨拶ひとつ返さないらしい。おかしくなったんじゃないかって噂されてる」
「ふうん。その“ラシュ家のぼっちゃま”って、すれ違うたびに僕に決闘を挑んでくる彼か?」
「ああ。向こうはあんなにお前のこと意識してるのに覚えられてないなんて可哀想だな。……一応、気を付けろよ」
「なにを」
「ラシュ家はあと一歩で王族に選ばれなかったあの年から、メレラ家を恨んでる。それくらい分かってるだろ? ずいぶん呑気なものだな」
呆れ顔のマルコに、ヘンリはきょとんとした表情を向ける。そしてふっと軽く笑う。
「ラシュ家がどんな動きをしているかなんて、完璧に把握してるよ。それに万が一捕まっても、僕は大丈夫」
「逃げられると?」
「うん。監視の目を盗むのは造作もないことだ、今度マルコにも上手くやる方法を教えてやろうか」
ヘンリはこう言ってのけるほど、自らの器用さや強さに自信があった。
彼の全能感に呆れつつ、マルコはぶっきらぼうに答える。
「俺はお前ほど器用じゃないから遠慮しておくよ。そもそも俺を捕まえるやつに心当たりはないしな」
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
ヘンリが帰宅した頃、自室のほうでがしゃんと派手な音がした。
慌てて音のほうへ向かうと、ドアの前でうつ伏せになるリーナの姿が目に入った。彼女の前には粉々になった皿の破片が散らばっている。
「大丈夫⁉︎」
リーナはゆっくり起き上がり、照れ隠しのように笑った。そしてエプロンの裾を指で持ち上げて作った、ハンモックのようなスペースに、皿の破片を集めていく。
「おかえりなさいませ。お皿を割ってしまい申し訳ございません。帰宅早々、お手を煩わせたことも、申し訳ございません。わたしは大丈夫ですので、お部屋でごゆっくり休んでくださいませ」
ヘンリに余計な心配を掛けないよう、早口で謝罪を述べる。
焦っているため出る少し変な言葉遣いすら、可愛らしいと思ってしまう。
「リーナが困っているのに休めないよ。素手では危ない、僕が後片付けをするから君はもう行っていい」
「痛っ!」
「危ないと言ったでしょ⁉︎ ああ、血が出ているじゃないか」
リーナの白い人差し指の先には、真っ赤な血が滲んでいる。
このくらい包帯を巻いておけば平気だと言い張る彼女に構わず、ヘンリは彼女の手首を掴んで洗面所へと連れて行った。その頃には傷口が開いて、血が溢れていた。
「ちゃんと傷口を洗わないと」
「自分でやります! 血は汚いですから」
ヘンリは首を横に振るだけで、リーナの傷口に触れるのをやめない。彼が両指で丁寧に傷口をなぞってくれているので、傷の割には痛みを感じない。
同じやりとりを何度も繰り返したが、ヘンリが傷に触る手を止めることはなく、リーナも黙って自分の指を見ていた。
大理石の洗面所には、水の音だけが広がっている。
リーナは、ずっと肩同士が触れているのが気になって仕方ない。自分より彼の肩が骨っぽいことが衣服越しでも分かる。身長だってここ数年でぐんと伸び、こうして彼が屈んでやっと肩が並ぶ。
ついこの間まで二人とも等しく『子供』だったのに、今はすっかり『異性』だ。
「うん、洗うのはこれくらいでいいかな。ちょっと染みた?」
「いっ、いえ。ありがとうございます」
リーナはさっと自分の右手を引っ込める。不審に思われるのは分かっていたが、リーナの頭の中は、考えていることを悟られないようにしなきゃという思いでいっぱいだった。
『ヘンリ様を異性として意識しているなんて知られたら、わたしはもうこの屋敷にはいられないわ。ヘンリ様がわたしに心配りをしてくださるのは、わたしがメレラ家に雇われている使用人だからだもの』
隣にいる男が、内心ドキドキしていることなど露知らず、リーナはこう考えていた。
彼女が振り払うように手を引っ込めた瞬間、ヘンリの胸がぎゅっと痛んだ。
少し強引に触りすぎただろうかと反省するとともに、あまりの“脈のなさ”に落胆していた。
しかし下心を抜きにしても、彼女の指先が心配なのは事実だ。
彼女は不器用だから、一日に何度も転んだり身体をぶつけたりする。しっかり手当てしておかないと、傷口をさらに広げかねない。
お辞儀をして洗面所を出て行こうとするリーナの手首を、優しく掴む。
振り返ってぱっとヘンリのほうに向けられた碧色の瞳に、洗面所の煌々とした白色光が反射して輝いていた。その輝きが揺らめくのに同調するように、ヘンリの心の奥が波打った。
「だめ。ちゃんと手当てしよう」
屋敷の薬品室には、まるで実験室のように瓶が棚いっぱい並んでいる。棚の上のほうには危険な薬品や、なにに使うのかよく分からない薬品が置いてある。しかしそれらの瓶は、メレラ家が雇っている薬剤師しか手に取ることはない。
足元にそっと置かれた箱に、よく使う薬がまとめて入れてある。
薬品室に夕陽が射し込み、足元の箱を橙色に照らす。
その橙色も相まって、リーナもヘンリも、今起きていることが夢か現実か分からないというような、不思議な感覚に陥っていた。
箱から取り出した、傷全般に効くという塗り薬を、傷口にそっと塗り込む。
時折リーナは顔を顰め、ぎゅっと唇を噛んで痛みに耐えた。
塗り薬が乾いた頃、包帯を巻いた。
指をヘンリの手のひらの上に載せ、指の付け根から先へ向かってゆっくり這わされる包帯を目で追う。巻き終えると、包帯を押さえるため、ヘンリはするりと指の周りを螺旋状になぞる。
ぞくりとして、全身に鳥肌が立った。しかしこれは嫌悪感から来るものではない。
はい、終わり。
ヘンリの声を聞いて、少し淋しい気持ちになった。しかしそれは彼もまた同じだった。
「……ちゃんと巻けたかな」
そうつぶやいて、意味もなく指先から手のひら、そして袖の中に潜って手首まで、指を滑らせた。
リーナの肌を擦る音が、やけに大きく聞こえる。物音ひとつしない薬品室に、変な緊張感が張り詰めている。
ヘンリの指先がどんどん袖の中を進み、肘あたりの血管が透けた部分までなぞったとき、がちゃんと派手にガラスが割れた音がした。
頻繁に皿を割ったり花瓶を割ったりしてこの音を聞いているリーナは、反射的に「申し訳ございませんっ!」と叫んだ。ヘンリはガラスの音よりむしろ彼女の謝罪の声に驚いて、ぱっと手を離す。
二人が音のほうを見ると、薬品瓶が棚から落ちて粉々に砕け散り、無色透明の液体が絨毯にシミを広げていた。棚を見上げると、真ん中あたりの棚に空間があった。
あの場所から落ちたのだろうということは疑いようがないが、なぜ落ちたのかは分からなかった。
瓶が狭狭と並んでいたようでもないし、揺れや風のせいならあのひとつだけが落ちたのは不思議だ。
「な、なんだか嫌な予感がいたしますね……」
怯えたリーナを励ますように、ヘンリは笑った。
「きっと適当に瓶を置いていたんだろう。薬剤師に言っておかなくてはいけないね」
零れた薬品がなにか分からないので、彼はすぐに薬品室を出ようと促した。
使用人のリーダーであるエリーゼに薬品のことを伝えようと、二階の端にある薬品室から、三階のもう一方の端にある使用人室へ歩いていく。
その間、ヘンリはずっと笑っていた。
「あはは、リーナはガラスの音を聞くと謝っちゃうんだね?」
「もう忘れてください! わたしも恥ずかしいんです」
「あのはきはきした声……ふふ、あはは」
ヘンリは堪えきれないように笑い続け、リーナは頬を膨らませて怒った。はたから見れば、今の僕たちは恋人と思われるだろうか。くすぐったくなる会話を交わしながら、ヘンリはそんなことを考えていた。
薬品室でのことを話すと、エリーゼは顔を真っ赤にした。
初めは薬品室を管理する薬剤師に対して怒っていたのに、次第にその矛先はリーナへ向く。
「そもそもあなたが皿を割らなければ良かったでしょう? はあ、今年何枚目? 皿を運ぶなんて賢い犬なら完璧に出来るわよ。さらに手当てをヘンリ様に頼むなんて何様のつもり? ヘンリ様と長くお知り合いだということは知っているけれど、あくまであなたたちは主従関係なのよ。ヘンリ様もヘンリ様だわ」
ついに矛先はヘンリにまで向いてしまう。
「あなたがいつまでも世話を焼くからこの子がなにも出来ないままなんですよ。ヘンリ様はお優しいので、こういうなにも出来ないのを放っておけないのは分かりますが、しつけは私どもにお任せください」
「しつけをしようと思っているわけでは……」
「はい?」
銀縁のメガネ越しに覗く目には、鋭い光が見える。ヘンリはすぐに口をつぐみ、俯いた。
「すみませんでした」
「よろしい」
勢い余って、エリーゼはヘンリにこんな風な口を利いた。普段の彼女ではあり得ない。そのことに今もなお気付いていないようだ。
彼女が説教を続けようとしたとき、庭のほうから轟音がした。音はびりびりと肌を刺すように残響する。
リーナとエリーゼはとっさにしゃがみ込んで、頭を腹で包むように丸くなった。
訳ありの王族であるメレラ家には敵が多く、月一回、襲撃に備えた訓練をしていた。その訓練の成果が存分に発揮され、二人とも怪我ひとつない。
ヘンリは音が聞こえるとすぐに二人に覆い被さった。本来守られる立場であるはずの彼だが、彼の性格が自然とこういう行動を取らせてしまう。
「ここでは危ない。地下のシェルターへ避難しよう」
ヘンリが先陣を切って部屋を飛び出し、地下へ続く階段を降りる。後ろを二人が、スカートの裾を摘み上げながらついていく。
「きゃっ」
一階に降りる最後の段を、リーナが踏み外し、前に倒れるような格好になった。
彼女の悲鳴を聞くとすぐに、ヘンリは背後を振り返って走った。
顔を思いきり打つかと思ったが、ふわりと抱き上げられた。
腹に腕を回し、脇腹あたりを抱えている。
「……はあ、危なかった」
「も、申し訳ございません。ありがとうございます」
「リーナを歩かせるのは得策じゃないな。ちょっと失礼」
一度彼女を真っ直ぐ立たせると、彼は身体の横に移動した。そしてぽかんとしたリーナの背中と膝の裏に手を回し、ひょいと持ち上げてしまった。
いわゆる“お姫様抱っこ”の状態に、リーナはうろたえる。
「わ、ちょ、下ろしてください!」
「ではエリーゼさん、地下へ向かいましょう。ちゃんと僕に掴まっててね」
そう言うと彼は、再び階段を降り始めた。急いでいるため揺れがひどく、リーナはヘンリの首にしがみつく。
地下に着くと、そこにはすでに王や屋敷で働く使用人たちが待っていた。
皆の視線がお姫様抱っこされているリーナに注がれている。顔を真っ赤にしてヘンリの胸を優しく叩き、
「ありがとうございました。もう大丈夫ですので……」
と言っても、彼は下ろそうとしない。
「父さん、さっきの音はなに?」
「分からん。今、護衛の者たちに外で原因究明をさせている。報告があるまでは私たちはここで身を隠していよう」
「いや、僕は外に出ようと思う。あの“本気”の感じ、きっと僕たちを殺すことが相手の目的だ。僕たちがいないと意味がない」
「お前がそんな囮のような真似をする必要はない! お前の言う通り私たちが目的だったとしても、今日のところは何もなければそれはそれで良いだろう」
「父さんはいつまでもリーナたちを危険と隣り合わせにする気? 僕は父さんと違って、はっきり決着をつけたいタイプなんだ」
ゆっくりリーナを下ろし、周囲の使用人たちに「リーナをよろしくお願いします」と言った。肩に添えられた手が不思議なほど重く感ぜられ、リーナははっと彼のほうを振り返ったが、そのときにはもう彼の後ろ姿しか見えなかった。
国を上手くまとめたヘンリは、実際には王以上の権力を持つと屋敷中で噂されている。王は息子に頭が上がらない、ともたびたび揶揄されている。
その噂を裏付けるように、王はヘンリに反論された途端、うろたえ始めた。やっぱり私もとかなんとか言って彼についていこうとしたのを、
「父さんまでわざわざ行く必要はないよ。大事なのは、王族がいるかいないかだ。何人いるかじゃない」
と冷たく止められる。
「行ってきます」
彼の涼やかな声を聞いて、皆が動けなくなってしまったように静まった。
王がなにかを言う前に、他の皆が引き留める前に、ヘンリは地上へ出て行ってしまった。
リーナはヘンリの足音を聞きながら、先ほどまでの会話を反芻していた。
王に向けた冷たい声、淡々と告げられる言葉、そして奥にすっと吸い込まれるような、穴のような瞳。あんな彼は見たことがなかった。
近くの使用人たちが、声をひそめて会話する。
「ヘンリ様は陛下にああいう態度を取られるのね。他愛もない会話をしている場面しか見たことがなかったから驚いちゃった」
「俺も初めて見ましたよ。やっぱりヘンリ様が実権を握っているからって威張ってるんですね。なんていうかちょっと幻滅しました」
あからさまに『陰口をたたく』口ぶりを聞いていると、リーナまで悲しい気持ちになった。ヘンリはそんな人じゃないのに……そう反論したい気持ちがありつつも、言い出せなかった。
たしかに先ほどのヘンリは冷たかった。
リーナが俯いたのと同時に、そばに立っていたエリーゼが彼らに近付いた。二人はびくりと怯えたようにエリーゼのほうに視線を向ける。
彼女の靴のコツコツという音が彼らを刺すように高らかにシェルターに響く。
二人のすぐ近くまで行って立ち止まると、腕を組んだ。
「まさか、ヘンリ様のお考えをこれっぽっちも理解出来ないのが屋敷内で二人もいるなんて、恥ずかしいです。ヘンリ様がただ威張っているからあのような態度を陛下に対して取られたと、本気でお思い?」
二人は黙って俯く。袖口を指で弄っている様子からして、『無言の肯定』だとわかる。
エリーゼはこれ見よがしにため息をついた。
「ヘンリ様の優しさに甘えすぎです、もう少し自分の頭で考えなさい。ヘンリ様はお父上である陛下以上に“王”であろうと努めていらっしゃるのですよ。実権を握っているのがヘンリ様であることは屋敷の者ならば知っていることですが、あなた方が見落としている事実がある」
「見落としている……?」
「ええ。それは、『陛下でさえヘンリ様を崇めていること』。ヘンリ様は陛下のためにも、この国の王でなければならないのです」
「ではヘンリ様は陛下のために、陛下に強い態度を取っているということですか?」
今度はエリーゼが無言の肯定をした。
リーナはとある日のことを思い出した。
あれはおやつどきに淹れたての紅茶とクッキーを届けるため、ヘンリの部屋に行ったときのことだ。確か二年ほど前だった。
ドアをノックしようとしたが、ドアには隙間があった。声を掛けようと、彼の姿を探して、思わず隙間を覗き込む。ドアに寄り添うような格好になったところで、真っ直ぐ立つ彼の後ろ姿を見つけたのだった。
彼は窓の前で立ち尽くし、外をじっと見ているようだった。窓から降り注ぐ太陽の光が、彼の金髪に煌めいていて、リーナは光を反射して揺らめく海を想起した。
あまりの美しさに声を掛けられずにいると、彼は悲しみを含んだ声でこう言った。
「僕は王になりたいわけじゃない。この国の王は父さんだよ、父さんに決めさせればいい」
「しかしヘンリ様、陛下はヘンリ様のご意見によって決断したいとおっしゃっていますから」
彼は部屋にひとりではなかったらしい。作法から勉強まで、すべてをヘンリに教えた、教育係の男性のしゃがれ声が聞こえた。
「ヘンリ様が迷われては、この国が崩れてしまいます。陛下は対外的な王ですが、そんな陛下でさえ慕っているのが実質的な王であるヘンリ様なのですから、あなたがそんな弱気では困るのです」
「冷静に考えたら、おかしいだろう? 実質的な王だなんて……」
「ヘンリ様」
教育係の男性は、叱るような宥めるような調子で、彼の言葉を遮る。
「冷静に考えずともおかしいことです。それは私だけでなく、屋敷中の皆がわかっていることです。しかし……諦めていただく他ないのです。申し上げにくいことですが、陛下ではこの国をここまで発展させることは叶わなかったでしょうから」
男性が率直に物を言ったことに驚き、ヘンリだけでなくリーナでさえ小さく息を呑んだ。王には国を統べる才がない。そう言ったようなものだ。
ヘンリは悲しそうに答えた。
「……わかった。僕は、王をやってみせるよ。ただ覚えておいてね、僕自身が望んだ地位ではないってこと」
「もちろん、理解しております。理解しているからこそ苦しいのですが」
尻すぼみに小さくなる男性の言葉を受け、ヘンリは乾いた笑いを放ったのだった。
リーナは、彼の王に対する強気な態度を、この日の彼の様子と照らし合わせて考えた。そして合点する。
先ほどの態度は、“諦めて”、“王をやってみせた”結果だったのかと。
エリーゼが説いた通りだったのだ。
一万字程度でさらっと書くつもりが三万字程度まで膨れてしまいました。
三話構成で連載を終える予定です。
純粋に恋愛ものが書きたかったので、楽しんでいただけたら幸いです。