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28・至福のため息

「だって恐ろしいと噂の魔帝のおかげで、争いごとの話をまったく聞かないもの。実際に細かなもめごとがあれば、あなたが非公式も含めて出向きながら消しているんでしょう? だから帝国では内密に、魔帝の不在に対応できるような仕組みが充実していた。その目的はあなたの不調を補うためだけでなくて、周辺国と帝国の均衡を保ち、争いを生まないため……だよね?」


「出会ってからずっと、レナには驚かされてばかりだな」


 ディルは笑みを深めると、私の背中を撫でる。


「だが近年の平穏は別に俺の手柄ではない。言っただろう、優秀な仲間たちがいると」


「もちろん、ハーロルトさんと会ってわかったよ。巨大帝国を支える素晴らしい人たちから、魔帝ディルベルトが必要とされていること。それにほら、見て」


 私は沈む夕日に彩られ、平穏に一日を終えようとする帝都と向き合う。


「この豊かに成長し続けている街並みは、決して冷酷で利己的な独裁者によって搾取される景色ではないよ」


 ディルは帝都を見下ろしたまま黙っている。


 なにを考えているんだろう。


 白猫の私はディルの腕の中で二本足で立ち、彼と向き合った。


 カイと同じ青い瞳を覗き込むと、今でもあのころに戻ってしまったかのような気持ちになってくる。


 悪役令嬢だったころの私が屋敷に帰るとき、カイはいつも見送ってくれた。


 夕暮れに照らされる黒猫のシルエットが小さくなっていくのは、振り返るたびにさみしかった。


 でもその姿は、また会いに行きたいって決意してしまうくらい、かわいくてかわいくてかわいくて……!!


「……またあいつのことを考えているだろう」


「に、にゃーん」


「本当にそいつが愛おしくて仕方ないんだな」


 ディルが顔を背けてため息をつくので、私ははっとする。


「待って、ディルも負けないくらいかわいいのは本当だから!」


「そういう不満ではないが」


「それにいくらあの子がかわいいくても、私に魂がくっついていたらディルが困るからね。魂剥離を治す決意は変わってないよ」


「そういう心配もしていない。でもそうだな、魂剥離が治れば、猫になったレナをこうして撫でることはできなくなるのか」


「ふふ。ディルも、猫をかわいがりたい気持ちがわかってきた?」


 会話に妙な間が開いた。


 ディルは悩ましそうに顔をそらしたまま、視線だけを私に向ける。


「念のため言っておくが……レナ。人の姿のときは、こんなに顔を近づけるなよ」


「つまり、猫だったらいいってこと?」


「人の姿のときは控えてくれ」


「……どうして?」


「俺なりに、お前を大切にしているつもりだ」


「? うん、もう十分すぎるくらい大切にしてもらっているけれど……」


 ディルはなぜか、それ以上のことは頑なに答えようとしなかった。


 だけど猫好きになりつつあること、そろそろ認めてもいいと思う。





 *


 それから私たちは、皇帝専用の湯殿を交代で利用した。


 広々とした大理石の洗い場で身体を清めると、香り高い花々をまとっているようで気分まで浮き立ってくる。


 それから奥に続く扉を開くと、満天の星空の下に岩風呂の露天が現れた。


 秘湯は淡く光る実を宿す樹木に囲まれているので、夜でも視界は保たれている。


「わぁ、きれい」


 それだけではなく、目では捉えらえないけれど強力な魔術防壁が張り巡らされていて、外部からは干渉できないように保護されているとわかる。


 私は安心して乳白色のお湯に身を沈めた。


 はじめは少しだけ熱く感じたけれど、神秘的な景色を見上げているうちに、じんわりと身体の芯から温まっていく。


「信じられないくらい、贅沢だなぁ……」


 幻想的に立ち昇っては溶けていく湯気に包まれながら、ぼんやり思う。


 悪役令嬢のときは、私を嫌っている侍女たちに嫌がらせを受けつつ、入浴のお世話をされていた。


 聖女のときは香で感覚が麻痺していたし、ゆっくりお湯につかることは怠惰だと許されなかった。


 でもこれからは、これが日常ということだよね?


 心もほぐれる自然の中で、私は至福のため息をつく。


「ラグガレド帝国の秘湯、最高すぎる……」


 魔帝の湯殿は定期的に場所が変化する転移陣が施されていて、今度来るときは別の湯へ案内されるらしい。


 すでに次回が楽しみな私は、心身、そして魔力まで癒されてほかほかになった。


 幸せな心地のまま、隠し扉のある部屋に戻る。


 そして私の場所となった窓の縁に寄りかかりながら、帝都のきらめく夜景をのんびり眺めた。


 悪役令嬢のときは、私がミスをすれば他者の悲惨な結末が決まる可能性もあって、悪事を行うペース配分やフラグ管理で常に気を張っていた。


 聖女のときは香で思考も感覚も鈍り、司教たちに管理される日々だった。


 だけどこれからは、日替わり温泉に入り放題。


 食欲のままごちそうを食べても叱られない。


 魂剥離の治療としてかわいいディルと一緒に過ごしたり、空いている時間は自由にしてもいい。

 

 ここは、なんて素晴らしい場所だろう。


「レナ、俺のことは気にせず、先に休んでいても構わなかったが」


 湯あみから戻った魔帝は、寝衣ですらスマートに着こなしていた。


 そんなディルは振り返った私を見て、なぜか一瞬固まる。





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