因果 8 波乱
用意されていた馬にデュクリスを乗せ、小作人姿の男がその背後へとまたがり、走らせた。
先日出立した街の、小物屋の前に着くと、そこに紋章のない馬車が待っており、デュクリスは中へ入る事を促された。
そっと中へ入ると、そこにはモントルア侯爵が待っていた。
「無事で何より」
「いえ。侯爵様のおかげです」
笑顔を向けられ、デュクリスは力なく首を振った。
自分の力では、ここまで上手く出来たとは思えなかった。護衛の目は常にあり、馬がなければ移動だってままならない。
デュクリスがモントルア侯爵の左側へと座ると、向かいに座っていた執事が馬車の壁を叩き、馬車は走り出す。
「なぜ、こんな事に?」
「それは、命を狙われている事に対して?それとも逃げている事?」
不安気に問えば、モントルア侯爵は前を向いたまま答えた。その表情は初めて見るものであった。
母親と共にモントルア家に出向いた時、たまに顔を見せた彼は、いつもにこやかだったが、その時は何を考えているのか分からない、母親がよく浮かべている悠然とした笑みであった。
「両方です」
「父上からの手紙で書かれていないのなら、それは聞くべきではない」
「先程の言葉は忘れて下さい」
モントルア侯爵の指摘に、デュクリスは息を飲み頷いた。
会話が途切れたのを待っていたように、目の前の執事が脇に置いていた布袋を差し出してきた。
「着換えを用意させたんだ。次の街で何着か買おう。まさか手ぶらとは」
モントルア侯爵の苦笑に、デュクリスは身を小さくさせながら、布袋を受け取った。
寝る用意をした後の脱走だったので、寝間着姿のまま部屋から抜け出していたが、指摘されるまで寝間着であった事を忘れていたのだ。
「荷物は全てアストリア家の物ですから。そういう事なのかと」
「やはり頭が良い。もったいない。だが、着換えと少しのお金くらい、アストリアには痛くも痒くもないだろうに。それに、逃亡するにはお金は必要だ。少し軽率だね。そこは経験を積めば分かるかな」
「妹と弟は大丈夫なのですか?」
モントルア侯爵の言葉に、デュクリスは胸のうちの予想が当たらずとも遠からずだと確信し、膝の上で拳を握った。
今回のこの逃亡は、アストリア家のなにかが原因で、父親はそれに抗っていると。
では、王族の一人を頼るほどの相手は誰なのか?と疑問になるが、それが分からない。
アストリアの家督が狙われているなら、デュクリスが消えた今、一番危険なのはまだ1歳の弟だ。
だが、それが分からぬ父親ではないから、もしかしたら今頃手を打っているかも知れないが、今はモントルア侯爵からもたされる情報だけが頼りになる。
「その心配は無用だよ。狙われているのは君だけだからね。これ以上は言えないけどね」
「それさえ分かれば良いです。理由は分からない方が良い、て事ですね?」
デュクリスの問いに、モントルア侯爵は黙って頷き返した。
次の街でモントルア侯爵から次の同行者を紹介され、彼とはそこで別れる事になった。
街に着く度に同行者が入れ代わり、デュクリスは農夫の子供の格好だったり、はたまた女の子の服と帽子を被らされたりとされ、移動も馬や馬車、徒歩、一回だけ川下りもし、宿の記入は毎回違う名前。足跡を辿らせないようにしてるのは明らかであった。
2週間と2日掛けて辿り着いたのは国の東側にある街だった。
そこの娼館の前まで来て、デュクリスは顔を引き攣らせる。今日は頭に幅広で花柄のリボンが巻かれ茶色いカツラを押さえており、若草色のシンプルな長いワンピース、足元は新緑色のブーツで、同行者はモジャ髭の男で、服だけが小綺麗だ。
「ここだ」
モジャ髭の言葉に、やっぱりか、と溜め息を吐き、モジャ髭と一緒に中へと入る。
昼間とはいえ、娼館に入るのは当然初めてだ。ギクシャクしながら歩いていると、掃除している同じ年頃の少女とすれ違うだけで、あとは下男らしき男が布団を運んでいるだけで、妙齢な女性とは出逢わなかった。
ホッとしながら進み、一番奥の部屋の前でモジャ髭はノックした。
「着きました」
モジャ髭が言うと、ドアの向こうで鍵の開く音がし、モジャ髭はドアノブに手をかけ、外側へと開いた。
珍しい外開きのドアに、へぇ。と一瞬デュクリスは思ったが、中の人物を見て固まった。
赤みのある金髪は長く、赤い瞳は何かを見定めるかのように細められていた。集まりで、数回見た事があった。ミハエル・ヒリス・バン・エクレナール。当時の王太子の兄、その人が立っていた。
まさかこんな所での対面とは思わず固まっていると、モジャ髭にそっと肩を叩かれ、ゆっくりと中に入った。
「久しいな。ゆっくり話すのは初めてとなるが」
「ご無沙汰しております」
ミハエルに対して礼をとり、デュクリスは頭を下げた。
彼の圧倒的な存在感に、すっかり萎縮してしまっていた。
「こんな所ですまんな。人目がある場所だと後々面倒になる」
「いえ。お世話になります」
「何の因果だか。こうなったのも縁なのだろう」
独り言と共に、ミハエルが近寄った気配がした。
「いいかげん、顔をあげろ。話が進まん」
頭上から声が響き、デュクリスは礼をとき、頭を上げた。
そこには真剣な表情をしたミハエルが居た。
「今日で、アストリアは捨てろ。平民の騎士見習いがお前の身分となる」
「もう、戻れない。。。と?」
思ってもなかった言葉に、デュクリスは愕然した。
落ち着けば、家に戻れると思っていたのだ。それが何年先になるのか分からなかったが。父親、母親、妹、弟の顔を思い出さない日はなかった。
「戻れたとしても、随分先になる。俺が生きているかどうかも分からないくらいには」
「父上は、承知の上で?」
「命を守るには必要な事だ」
頭をガツンと殴られたような衝撃がデュクリスに走った。
そこまで執拗に命を狙われる理由が、自分にあるなんてと。
「名前はどうしましょう?」
控えていたモジャ髭がそっと質問をした。
アストリアを捨てる以上、今のデュクリスの名前も手放す必要がある事に気づかされ、デュクリスはめまいがし、床に座り込む。
「立たせたままで悪かった」
ミハエルが慌ててデュクリスを抱え、床にドカリと座り、自身の膝の上にデュクリスを座らせる。
「親にはなんて呼ばれてた?」
「父上にはクリスと。母上はデュクリスさんと」
「そうか。ならデューだな」
一瞬顔を顰めミハエルはそう言い、デュクリスの髪を乱暴に撫でる。
「生きろ。デュー」
父親の手紙の最後の言葉を言われ、デュクリスは声を殺して泣いた。そして、デュクリスはデューとなった。